最上義光歴史館

 俳優の西田敏行さんが先日、お亡くなりになりました。西田さんというと、猪八戒だったりカメラマンだったり釣り人だったり、そうそう、タブチくんもやっていましたが、あの大河ドラマでは家康や秀忠、吉宗役などを務め、秀吉にも扮していました。
 大河ドラマと言えば最近、最上義光が主役の大河ドラマをという活動をされている団体の方々がお見えになり、短い時間でしたがお話をしました。
 主に「山形市史」にあることを話題としたのですが、そもそも最上家は、地方の豪族から発したものではなく、清和天皇や足利一族につながる血筋ゆえ、義光は良くも悪くも中央志向がありました。ゆえにその文化などに憧憬をもち、また京都などにいることも多かったことから、連歌師や僧などと連歌などを嗜むなどしていました。
 また、領土安寧のために信長・秀吉・家康などへの接近をはかりました。当館の重要展示品である鉄砲痕のある兜は信長より賜ったものであり、秀吉には奥州仕置きの際にみずから妻子を人質として渡し、秀次には駒姫を側室として嫁がせ、家康には次男の家親が10歳のとき徳川家康の家臣として仕えさせます。当時の戦国武将としては特別なことでないかもしれませんが、東北の大名としては中央政権との接触が著しいのです。特に義光(1546-1614)と家康(1543-1616)とは全く同時代であり、義光は亡くなる3カ月前にも病を押して駿府城に家康を訪ね、家康から薬や見舞いを賜るなどしています。
 ここからもわかるとおり、義光や山形だけをクローズアップするのではなく、信長・秀吉・家康との関わりや都での過ごし方、伊達や上杉といった大名との関係を描くことがドラマの鍵になるということです。
 また、義光の生涯を物語るにあっては、2歳下の妹の義姫が不可欠な登場人物となります。伊達正宗の母でもあり、また戦などでも重要な役割を担う人物で、そのエピソードは義光以上に興味をそそられます。ドラマ化においては、むしろ彼女を中心にして物語を進めた方が面白く、そしてまた、狂言回し的な役やナレーション役も担えそうです。などという話となりました。また、さまざまな武家に出入りできる連歌師は情報屋でもあり、妙味のある役どころではという話も。
 実はここだけの話ですが、館内展示の案内をするとき、義光だけの話では上の空でも、伊達や上杉(直江兼続も)の名前を出したとたん、話の食いつきが違います。また、地方を舞台にしたとき、お国自慢的なドラマになってしまうと、ほとんどの場合失敗します。話の流れが分断したり、鼻についたりするためです。地方が舞台のドラマ場合これが重要で、聖地だとかなんだとかは結果としてついてくるものです。
 さて、大河ドラマで最高の視聴率を誇ったのが「独眼竜政宗」です。「独眼竜」というのは、唐の猛将で隻眼の李克用が「独眼竜」と言われていたことに由来する呼称です。一方、義光は「虎将」と呼ばれています。これは義光が慶長十六(1611)年3月に従四位上左近衛少将に叙任され、その中国の官称である「虎賁郎将」に由来します。
 ここで勘のいい皆様はお気づきのこと思われますが、この二人を合わせると、なんと「タイガー&ドラゴン」となります。つまりはあのドラマか、ということで、なんとなく西田敏行さんにもつながります。とは言え、大河ドラマのタイトルとしてさすがに、このままこの「タイガー&ドラゴン」とするわけにもいかず、例えば「みちのくタイガー&ドラゴン」というのではどうでしょう。う〜む、やはりこれでは、一気に力が抜けてしまう感じですが、福島出身の西田さんはどう思われるでしょう。
 ところで時代劇というと、最近はどうも下火とのことですが、そんな中、最近話題になっているのが「タイムスリッパ−侍」という映画です。幕末の会津藩の侍が、長州藩の侍と刃を交えたとき雷に打たれ、現代の時代劇撮影所にタイムスリップしてくるという話です。低予算でスタッフが出演者も兼ね、撮影所の場所も人もその面白さに商売抜きで協力した作品とのこと。
 おっと、ここで閃きました。ならば、「タイムスリッパ− タイガー&ドラゴン」というのはどうでしょう。義光と政宗が雷に打たれて現代に。その、大河ドラマとしては絶対に無理とは思いますが。せめてテーマ曲でも一節。〽トンネル抜ければ〜ぁ、山が見えるから〜ぁ、そのままドン突きの〜ぉ、長谷堂城址で〜ぇ。ダメですよね、やっぱり、スミマセン。

(館長裏日誌)
 当館では、来月から開催する企画展「シン・市民の宝モノ2025」にむけて、山形市民の方から「宝モノ」とする品々を募集しています。今回は陶磁器を対象とし、古今東西、文化的評価にかかわらず出品いただけます。ただ陶磁器限定ということで、最近、流行している土偶や埴輪などの土器は、対象外となるので、また別の機会にでも。
 この「市民の宝モノ」展は以前、10年間程毎年開催していたのですが、一時中断となり6年ぶりに再開するため、「シン」という言葉をつけました。流行に遅ればせながら乗ってみただけなのですがお許しください。
 さて、陶磁器といえば、壺や皿から人形や貯金箱までいろいろあろうかと思いますが、まずは茶碗あたりのお話から。茶碗と言えば「一楽、二萩、三唐津」などと言われており、まあ、その上には唐物とか高麗の茶碗があるのですが、まずは楽焼のことを少々。
 この「楽焼」という名称ですが、「楽しい焼物」とか「楽ちんな焼物」とかいうことではなくて、まあ、そんなところもあるかもしれませんが、千利休が瓦職人であった長次郎に作らせたのが始まりです。長次郎が聚楽第の瓦を製造したことで豊臣秀吉から楽の印判を賜り、聚楽焼と称したといいます。また、聚楽第建造時に掘り出された土(聚楽土)で茶碗をつくったからともいいます。千利休と聚楽第のいずれも豊臣秀吉とは切っても切れない関係であり、つまり楽焼の発生は、戦国時代の最中にあります。
 楽茶碗は、轆轤(ろくろ)を用いない手捏(づく)ね、つまりは手の中で茶碗の形をつくり、箆(へら)で形を削り上げます。掌にしっくりと納まり、やや肉厚であるため、熱の伝導を抑えられ飲み口の触感もいいのです。素焼きの後、釉薬(ゆうやく・うわぐすり)をつけ本焼きします。楽茶碗には主に「赤楽」と「黒楽」があり、赤楽茶碗は800℃程度、黒楽茶碗は1000℃程度で焼きます。
 伝統工芸などは通常、一子相伝などで代々その技法が伝えられていくものですが、楽家の場合そうした技術伝承はなく、むしろ先代と同じ作風を良しとしないという特徴があります。長次郎の時代からの「手捏ね」という技法こそ守られますが、その他は個人に委ねるもの、例えば、釉薬の調合については教えもせず、書き残しもしないそうで、試行錯誤で作るとのことです。結果、同じ楽家の楽茶碗と言っても、代々それぞれ違うものとなります。
 京都にある楽美術館は、展示室はこじんまりとしていますが、初代長次郎から当代(今は16代)吉左エ門まで代々の楽焼が展示されています。同じ場所に代々の作品が並ぶと、その違いがわかります。それは先代と当代とが新規と回帰とを振り子のように行き来している感じもします。一番分かりやすいのは14代吉左エ門(覚入)と15代吉左エ門(直入)と比べたときの違いです。14代の安定感のある作風に対し15代はそれまでの楽家にはない前衛的なものですが、15代に言わせると、自分は初代長次郎に立ち戻ったものであるとのこと。なるほど、今でこそ、長次郎の作品は茶道の王道のように思われているわけですが、当時、珍重されていた唐物などの茶碗からすれば、ざらざらとして真っ黒い茶碗などとんでもなく斬新なもので、それを考えれば納得できます。
 15代の茶碗には、焼成温度を1,200度まであげる「焼貫」という技法で仕上げたものがあり、それはまさに大気圏を突き抜けてきた隕石のような趣があり、その形も飲み口をどうするかわからないような険しいものです(本人は飲みやすいところを飲み口にすればいいと語っていましたが)。14代のオーソドックスな作風からアグレッシブな15代となったとき、正直、かなり面喰ったのですが、作品を見ていくうち、その技法や考え方に圧倒されることしきりで、現代の作陶そして伝統の継承とはこうあるべきだろうなと勝手に思うに至っています。
 さてここで、茶碗の良し悪しについて少々。以前、楽茶碗を作っている方からきいたことによると、まず見た目より軽いこと。つまりは無駄に分厚い茶碗になっていないことです。そして外側より内側が大きく見えること。物理的にはあり得ないのですが、確かに内側が大きく見える茶碗があります。また、高台がだらしのないものでないこと。気持ちが抜けている高台というものはなんとなくわかるものです。単にきれいな細工だからよしということでもありません。高台際の釉薬の具合が見所という茶碗もありますが、高台に釉薬がかかっていないものもあります。茶碗の見所は見込み(内側)と高台だとは言われていますが、見込みと高台の両方を見るとかは展示では困難で、お道具拝見などで手に取って重さなどもはじめてわかることではあります。もちろん、色合いや様子には、好みや偶然性もあるので、それぞれかと。
 思わず楽茶碗について云々してしまいましたが、今回の「シン・市民の宝モノ」展は、何もこういう品物ばかりを求めるものではなく、古今東西、エピソードに溢れた身近な品こそ大歓迎です。特に茶碗などは「伝」や「写」などが少なからず流通しているのですが、いっそ、楽吉左エ門ならぬ楽吉右衛門とか、加藤唐九郎ならぬ加藤唐十郎とか、北大路魯山人ならぬ北大路魯仙人とか、堂々とした珍品迷品があれば、それはそれで話題にもなるというものです。

(→館長裏日誌へ)
本日から3日間(8月5日〜7日)、「山形花笠まつり」が開催されます。当館も午後6時(入館は午後5時30分)まで、開館時間を延長いたします。どうぞご来館ください。


当館の前には、約20軒ほどの露店が並んでいます。


館内ではミニ花笠を販売しております(税込500円)。
 2か月ぶりの館長日誌でありまして、季節はすっかり冬となっております。とにかく季節の移り変りが急過ぎ、巷では四季ではなく夏と冬だけの二季だけになったとも言われていますが、実際、当館の前の公園の木々も色が変わる間もなく落葉しています。日によっては雪も舞い、そそくさと当館の除雪機もスタンバイさせたところです。
 さて、去る10月21日に「Best of the World 2026(2026年に行くべき世界の旅行先25選)」のひとつに山形県が選出されました。「ナショナル ジオグラフィック」によるもので、個人的に「ナショナル ジオグラフィック」の日本版なら創刊以来、定期購読しているのですがただの積読になっていて、こんな旅行先の選定をしているとは知りませんでした。
 山形県が選ばれた理由ですが、「山形県は、東京から300kmほどの距離にも関わらず、別世界のような静けさを保つ場所であり、日本の旅行者もまだ多くが訪れていない聖なる山々、静寂に包まれる寺社、フォトジェニックな温泉、四季を通じて各地で開催される伝統的な祭りなど、混雑を避けて、通年で、古くからの伝統と神秘的なアウトドア体験ができる点が評価されました。」とあり、具体的には「蔵王山のスキー場と温泉、銀山温泉、山寺、出羽三山は、どれも忘れられない旅行先となる。2月には米沢市の上杉神社に1000を超える雪灯籠がともり、8月初旬には山形市で山形花笠まつりが開催される」とのことです。
 ただ、他に選定された地区、例えばリオデジャネイロ、マニラ、北京、マウイ島などからすれば、山形はあまりにも穴場感が強いといいますか、もちろん蔵王、山寺、花笠まつりなどはいずれも山形市のことで、ありがたいわけではありますが、どうも国内選手権を飛ばして国際舞台に立ってしまった感じです。
 とは言え最近、特に冬は台湾をはじめとする東南アジア圏のお客様が多く、当館の近くでも、雪が積もればしきりに写真を撮ったり、雪遊びをしたりしていて、当館職員はおもむろにその近くを除雪機で掃いたりしています。これが結構な運動でして、とにかく雪が積もる日というのは、汗をかくぐらいの運動を強いられる日でもあります。
 これが山寺ではまた違う体力が要求され、数か月程前ですが、山寺の奥の院近くにある最上家の廟が改修されたとのことで、1,000段以上ある階段をひたすら上ったのですが、廟に到着したときには汗びっしょりのヘロヘロで、還暦過ぎての体力の衰えを思い知らされました。さらに思い知らされたのはその下りでして、降り始めると急に膝が刺すように痛み、それからは手すりを伝いながら一段一段降りる羽目になりました。これは体力というより筋肉疲労と体重増が大きな原因とは思いますが。
 山寺は蝉の鳴く夏も、紅葉の秋もいいのですが、山寺の絶景と言えば冬。水墨画さながらの風景が目前に広がります。ただ注意いただきたいのが、とにかく滑らない靴の着用を。体力や膝の痛み以上に気を付けたいことかと。特に還暦を過ぎての転倒は、命に係わる場合もあるので。
 そして体力勝負となるのが出羽三山 (月山、羽黒山、湯殿山)の神々を祀る三神合祭殿へ登る石段で、2,446段あります。登りは約1時間半の行程ですが、これで「生まれかわりの旅」ができるとのことです。逆に三神合祭殿から下れば半分程度の時間で済みますが、「生まれかわりの旅」も半分になるかと。
 その石段の途中には五重塔があり、山形では数少ない国宝のひとつですが、平安時代中期の承平年間(931年-938年)に平将門が創建したらしいと伝えられています。現存する塔は応安5年(1372年)に再建され、慶長13年(1608年)に最上義光が修理を行いました。最上義光はこの工事の奉行として、志村と下(しも)の2名を任じました。塔の最上層の屋根に金属製の九輪が立ち、その基礎の露盤には義光とともに志村と下の名前が並んでいます。
 一方、米沢市で2月に開催される「上杉雪灯籠まつり」は、1,000を超える雪灯籠がともされますが、これだけの数の雪灯籠を準備しながら、たった2日間(2026年は2月14、15日)だけのまつりとなります。毎年5月連休には「米沢上杉まつり」が行われ、火縄銃の実演を交えた上杉軍と武田軍の合戦が演じられます。
 選考理由にある「古くからの伝統」には、こうした戦国武将も関係してくるようです。ところで「2026年に行くべき世界の旅行先25選」とはありますが、山形では特に2026年になにかあるとは聞き及んではいないのですが、とりあえずいつでも、まずは体力のあるうちにいらしていただければと思います。


(→館長裏日誌に続く)
◇ 小便小僧の話 その1
 神戸の公共空間においては裸婦像が多く、過去に、それらの立像の腰にスカーフがまかれるという事件が起きたそうです。そこで思い出したのが、今年の春に開催された、静嘉堂文庫美術館の特別展「明治美術狂想曲」です。その特別展のメインのひとつが黒田清輝の「裸体婦人像。その絵は、明治34年の第6回白馬会展の際、警察の指導により下半身を布で覆って展示された「腰巻事件」の説明とともに展示されていました。
 これと似たようなことですが、バチカンのシスティナ礼拝堂にあるミケランジェロ作「最後の審判」も一時期、男性図絵の股間にふんどしを描き足したことがありました。性別に関係なく、穿いてないと見る方は安心できないようです。
 ところで山形市内で最も有名な屋外彫刻と言えば、北山形駅前にある小便小僧でしょうか。これも普通の裸の像なのですが、時事の話題などをテーマにした衣装が着せられています。昨年は、多様性をレインボーカラーで表した衣装をとなっていました。下もちゃんと穿いてはいるのですが、それでも当然、隠しようもない部分があり、むしろ出しています。

◇ 小便小僧の話 その2
 小便小僧と言えば、そのオリジナルとなるブリュッセルの小便小僧は、世界三大がっかり名所 (他に、コペンハーゲンの人魚姫、シンガポールのマーライオン) のひとつとしても知られています。きっと御存じの方も多いとは思います
 逆に実物を見て、その大きさに驚く彫像もあります。例えばフィレンツェにあるダビデ像。もともとウフィッツィ美術館近くの広場にあったものですが、保護のため美術館に移され、もとあった広場にはレプリカが置いてあります。その像の高さは517cmあり、その瞳がハート型になっていることなどには気付くこともなく、ちょうど目の前にくるあの部分にどうしても視線がいきます。さらに歴史に造詣がある方々は、ダビデ王はユダヤ人なのに割礼の跡がないのはなぜだ、という議論になるそうです。審美的な理由でこうなっていると結論づける方もいるのですが、それはおとなしく被ったままです。

◇ 小便小僧の話 その3
 知る人ぞ知る有名な小便小僧に「祖谷渓小便小僧」というのがあります。徳島県の祖谷は深い渓谷の地で、そこには県を代表する観光名所のかずら橋とか 自家用ケーブルカーで露天風呂に行き来する旅館もある祖谷温泉とか、鉄道好きの方にはお馴染みの大歩危(おおぼけ)駅とか小歩危(こぼけ)駅とかがあります。
 祖谷渓小便小僧は、祖谷温泉に行く道筋にあるのですが、車のすれ違いも困難な曲がりくねった道路で、広場も駐車場もなく、ガードレールの外にある高さ約200mの岩場に立っているだけです。
 どういう経過でここに小便小僧を建てることとなったかはわからないのですが、この渓谷の、この高さにいると、どうしてもやってみたくなる、というのが自然の摂理なのでしょう。ちなみにその足元には、けっこうなお金が投げ込まれていました。人の気持ちを動かし、金を置きたくなる、やはりこれは本物です。
◇ 連歌AIのお話
 正直、私個人としては、連歌どころか短歌すらつくったことがなく、今回の日誌は、「歴史館だより」とネットから拾ってきている記事のコピペばかりです。つまるところchatGPTでできるようなことを手作業(ハンドメイド)で綴ったというところでしょうか。
 さて、AIと言えば、将棋の藤井聡太八冠でもおなじみになっていますが、文化分野全般にもAIはしっかりと入り込んできています。作曲、絵画、漫画の領域においても、AI生成による作品について報道されていますが、例えば文芸では、星新一の短編を全て読み込ませ、新たなショートショートを創作したりしています。
 北海道大学調和系工学研究室では、俳句を詠む人工知能「AI一茶くん」を開発をしています。その学習データは、小林一茶のみならず松尾芭蕉、正岡子規、高濱虚子らの作品をも網羅。それでも生成した俳句は古臭いものもあったので、現代俳句の四十万句をも取り入れました。文法生成のシステム開発とともに、俳句のチェック機能も装備。季語や切れが一個あるか、五七五であるかなどをチェックし、適合しないものをはじきます。その成果は、写真を見せて俳句を詠む、というものです。
 ならば、この応用で連歌生成AIというのもできるはず。まずは宗匠の役割を担うAIを。その名称は多分、「AI宗祇くん」かと。次に連歌を詠むそれぞれ個性を持たせたAIを5、6体ほど(武士の他、貴族とか僧侶とか)。なんかこれ、小松左京の未完の小説「虚無回廊」の主人公のようです。この小説の設定では、宇宙探査に行くために、人工的な自分のコピーを作り、それに専門の異なる6名の仮想キャラクターAIを載せるというものですが、そのAIの中には多様性をもたせるために女性キャラクターというものも入っていて。ん、待てよ、ということはAIにも性別が。確か、江戸時代には女性の連歌師もいたけれど、いや、ここは性別不詳(いわゆるQ)が正解なのか、悩ましいところではあります。

◇ AIの学習環境のお話
 手塚治虫の漫画でも、そのストーリーとキャラクターを読み込ませ、新たな作品が創作されたりしています。過日、報道がなされていましたが、「ブラックジャック」の創作もなされており、手塚眞氏は「ブラック・ジャックは200話以上あり、作品数が多い。そのなかでも物語が絡んでいる。これも研究には有効ではないか。それと手塚治虫らしさ、作家の個性もはっきりしている。作家を分析する上ではいい材料になる」とコメントしています。そうなんです。まずはしっかりした学習データが豊富にないとAIは創作できないんです。最上義光が関係する連歌だったら、データはそこそこありますよぉ。どうでしょう、誰か。
 一方、某印刷株式会社が、古文書などのくずし字をスマホで撮影し、解読できるAI−OCRアプリ「古文書カメラ」の配信を始めています。くずし字には、手書きのもの(書簡や証文、日記などの古文書)と木版印刷物(版本や錦絵など)があり、それぞれに文字の形や使われている字種が異なるのですが、いずれにも対応しているとのこと。解読したデータは、ユーザーが修正しデータとして蓄積することでAIの精度向上に役立てているそうで、学習データが多いことはやはり重要です。
 ちなみに、国立国会図書館とか京都大学図書館などでは、多数の古文書のデジタルアーカイブを公開していて、誰でもネットで閲覧できます。例えば慶長年間に発刊された「源氏物語」には木版活字が使用され、「伊勢物語」には各頁に版木のイラストがついているなど、最上義光が手に取ったかもしれない書物を手軽にみることができます。当館でもそのうち古文書のデジタルアーカイブ化をやらなくては、とは思ってはいるのですが、そのうちということで、すみません。

◇ 連歌に由来する慣用句の話 
 連歌に由来する慣用句として、「花を持たせる」、「月並み」、「挙句のはて」を紹介しました。さらには「二の句が継げない」という慣用句も関係ありそうではありますが、実は全く無関係です。こちらは宮廷歌謡の「朗詠」に由来しています。「朗詠」は、全部で3段から構成されており、真ん中の段を「二の句」と呼びます。二の句では、音の高さを上げるのですが、高音で歌うのが難く言葉が出ないことから「二の句が継げない」といったそうです。
 「二の句が継げない」とは、相手の発言に驚き、呆れを感じた場合に用います。 なので、謙遜するつもりで、発句の次に「二の句が継げない」などと言おうものなら、発句に対して、呆れてものが言えない、という意味になってしまい、とんでもないことになってしまいます。
 さらに「二の句が継げない」と似た慣用句に「二の矢が継げない」があります。「次にとる手段や手立てがない」ことを表します。つまり、「手詰まりの状態」ということなので、連歌の場合はこちらが適当かも。それはそうとして、一人で「三の矢も四の矢も用意しました」などと言う人もいるかもしれませんが、連歌では無意味です。一人で連歌を続けるのであれば別ですが。「ぼっち連歌」とでも名付けましょうか。