最上義光歴史館

 当館では、来月から開催する企画展「シン・市民の宝モノ2025」にむけて、山形市民の方から「宝モノ」とする品々を募集しています。今回は陶磁器を対象とし、古今東西、文化的評価にかかわらず出品いただけます。ただ陶磁器限定ということで、最近、流行している土偶や埴輪などの土器は、対象外となるので、また別の機会にでも。
 この「市民の宝モノ」展は以前、10年間程毎年開催していたのですが、一時中断となり6年ぶりに再開するため、「シン」という言葉をつけました。流行に遅ればせながら乗ってみただけなのですがお許しください。
 さて、陶磁器といえば、壺や皿から人形や貯金箱までいろいろあろうかと思いますが、まずは茶碗あたりのお話から。茶碗と言えば「一楽、二萩、三唐津」などと言われており、まあ、その上には唐物とか高麗の茶碗があるのですが、まずは楽焼のことを少々。
 この「楽焼」という名称ですが、「楽しい焼物」とか「楽ちんな焼物」とかいうことではなくて、まあ、そんなところもあるかもしれませんが、千利休が瓦職人であった長次郎に作らせたのが始まりです。長次郎が聚楽第の瓦を製造したことで豊臣秀吉から楽の印判を賜り、聚楽焼と称したといいます。また、聚楽第建造時に掘り出された土(聚楽土)で茶碗をつくったからともいいます。千利休と聚楽第のいずれも豊臣秀吉とは切っても切れない関係であり、つまり楽焼の発生は、戦国時代の最中にあります。
 楽茶碗は、轆轤(ろくろ)を用いない手捏(づく)ね、つまりは手の中で茶碗の形をつくり、箆(へら)で形を削り上げます。掌にしっくりと納まり、やや肉厚であるため、熱の伝導を抑えられ飲み口の触感もいいのです。素焼きの後、釉薬(ゆうやく・うわぐすり)をつけ本焼きします。楽茶碗には主に「赤楽」と「黒楽」があり、赤楽茶碗は800℃程度、黒楽茶碗は1000℃程度で焼きます。
 伝統工芸などは通常、一子相伝などで代々その技法が伝えられていくものですが、楽家の場合そうした技術伝承はなく、むしろ先代と同じ作風を良しとしないという特徴があります。長次郎の時代からの「手捏ね」という技法こそ守られますが、その他は個人に委ねるもの、例えば、釉薬の調合については教えもせず、書き残しもしないそうで、試行錯誤で作るとのことです。結果、同じ楽家の楽茶碗と言っても、代々それぞれ違うものとなります。
 京都にある楽美術館は、展示室はこじんまりとしていますが、初代長次郎から当代(今は16代)吉左エ門まで代々の楽焼が展示されています。同じ場所に代々の作品が並ぶと、その違いがわかります。それは先代と当代とが新規と回帰とを振り子のように行き来している感じもします。一番分かりやすいのは14代吉左エ門(覚入)と15代吉左エ門(直入)と比べたときの違いです。14代の安定感のある作風に対し15代はそれまでの楽家にはない前衛的なものですが、15代に言わせると、自分は初代長次郎に立ち戻ったものであるとのこと。なるほど、今でこそ、長次郎の作品は茶道の王道のように思われているわけですが、当時、珍重されていた唐物などの茶碗からすれば、ざらざらとして真っ黒い茶碗などとんでもなく斬新なもので、それを考えれば納得できます。
 15代の茶碗には、焼成温度を1,200度まであげる「焼貫」という技法で仕上げたものがあり、それはまさに大気圏を突き抜けてきた隕石のような趣があり、その形も飲み口をどうするかわからないような険しいものです(本人は飲みやすいところを飲み口にすればいいと語っていましたが)。14代のオーソドックスな作風からアグレッシブな15代となったとき、正直、かなり面喰ったのですが、作品を見ていくうち、その技法や考え方に圧倒されることしきりで、現代の作陶そして伝統の継承とはこうあるべきだろうなと勝手に思うに至っています。
 さてここで、茶碗の良し悪しについて少々。以前、楽茶碗を作っている方からきいたことによると、まず見た目より軽いこと。つまりは無駄に分厚い茶碗になっていないことです。そして外側より内側が大きく見えること。物理的にはあり得ないのですが、確かに内側が大きく見える茶碗があります。また、高台がだらしのないものでないこと。気持ちが抜けている高台というものはなんとなくわかるものです。単にきれいな細工だからよしということでもありません。高台際の釉薬の具合が見所という茶碗もありますが、高台に釉薬がかかっていないものもあります。茶碗の見所は見込み(内側)と高台だとは言われていますが、見込みと高台の両方を見るとかは展示では困難で、お道具拝見などで手に取って重さなどもはじめてわかることではあります。もちろん、色合いや様子には、好みや偶然性もあるので、それぞれかと。
 思わず楽茶碗について云々してしまいましたが、今回の「シン・市民の宝モノ」展は、何もこういう品物ばかりを求めるものではなく、古今東西、エピソードに溢れた身近な品こそ大歓迎です。特に茶碗などは「伝」や「写」などが少なからず流通しているのですが、いっそ、楽吉左エ門ならぬ楽吉右衛門とか、加藤唐九郎ならぬ加藤唐十郎とか、北大路魯山人ならぬ北大路魯仙人とか、堂々とした珍品迷品があれば、それはそれで話題にもなるというものです。

(→館長裏日誌へ)
本日から3日間(8月5日〜7日)、「山形花笠まつり」が開催されます。当館も午後6時(入館は午後5時30分)まで、開館時間を延長いたします。どうぞご来館ください。


当館の前には、約20軒ほどの露店が並んでいます。


館内ではミニ花笠を販売しております(税込500円)。
◇ 小便小僧の話 その1
 神戸の公共空間においては裸婦像が多く、過去に、それらの立像の腰にスカーフがまかれるという事件が起きたそうです。そこで思い出したのが、今年の春に開催された、静嘉堂文庫美術館の特別展「明治美術狂想曲」です。その特別展のメインのひとつが黒田清輝の「裸体婦人像。その絵は、明治34年の第6回白馬会展の際、警察の指導により下半身を布で覆って展示された「腰巻事件」の説明とともに展示されていました。
 これと似たようなことですが、バチカンのシスティナ礼拝堂にあるミケランジェロ作「最後の審判」も一時期、男性図絵の股間にふんどしを描き足したことがありました。性別に関係なく、穿いてないと見る方は安心できないようです。
 ところで山形市内で最も有名な屋外彫刻と言えば、北山形駅前にある小便小僧でしょうか。これも普通の裸の像なのですが、時事の話題などをテーマにした衣装が着せられています。昨年は、多様性をレインボーカラーで表した衣装をとなっていました。下もちゃんと穿いてはいるのですが、それでも当然、隠しようもない部分があり、むしろ出しています。

◇ 小便小僧の話 その2
 小便小僧と言えば、そのオリジナルとなるブリュッセルの小便小僧は、世界三大がっかり名所 (他に、コペンハーゲンの人魚姫、シンガポールのマーライオン) のひとつとしても知られています。きっと御存じの方も多いとは思います
 逆に実物を見て、その大きさに驚く彫像もあります。例えばフィレンツェにあるダビデ像。もともとウフィッツィ美術館近くの広場にあったものですが、保護のため美術館に移され、もとあった広場にはレプリカが置いてあります。その像の高さは517cmあり、その瞳がハート型になっていることなどには気付くこともなく、ちょうど目の前にくるあの部分にどうしても視線がいきます。さらに歴史に造詣がある方々は、ダビデ王はユダヤ人なのに割礼の跡がないのはなぜだ、という議論になるそうです。審美的な理由でこうなっていると結論づける方もいるのですが、それはおとなしく被ったままです。

◇ 小便小僧の話 その3
 知る人ぞ知る有名な小便小僧に「祖谷渓小便小僧」というのがあります。徳島県の祖谷は深い渓谷の地で、そこには県を代表する観光名所のかずら橋とか 自家用ケーブルカーで露天風呂に行き来する旅館もある祖谷温泉とか、鉄道好きの方にはお馴染みの大歩危(おおぼけ)駅とか小歩危(こぼけ)駅とかがあります。
 祖谷渓小便小僧は、祖谷温泉に行く道筋にあるのですが、車のすれ違いも困難な曲がりくねった道路で、広場も駐車場もなく、ガードレールの外にある高さ約200mの岩場に立っているだけです。
 どういう経過でここに小便小僧を建てることとなったかはわからないのですが、この渓谷の、この高さにいると、どうしてもやってみたくなる、というのが自然の摂理なのでしょう。ちなみにその足元には、けっこうなお金が投げ込まれていました。人の気持ちを動かし、金を置きたくなる、やはりこれは本物です。
◇ 連歌AIのお話
 正直、私個人としては、連歌どころか短歌すらつくったことがなく、今回の日誌は、「歴史館だより」とネットから拾ってきている記事のコピペばかりです。つまるところchatGPTでできるようなことを手作業(ハンドメイド)で綴ったというところでしょうか。
 さて、AIと言えば、将棋の藤井聡太八冠でもおなじみになっていますが、文化分野全般にもAIはしっかりと入り込んできています。作曲、絵画、漫画の領域においても、AI生成による作品について報道されていますが、例えば文芸では、星新一の短編を全て読み込ませ、新たなショートショートを創作したりしています。
 北海道大学調和系工学研究室では、俳句を詠む人工知能「AI一茶くん」を開発をしています。その学習データは、小林一茶のみならず松尾芭蕉、正岡子規、高濱虚子らの作品をも網羅。それでも生成した俳句は古臭いものもあったので、現代俳句の四十万句をも取り入れました。文法生成のシステム開発とともに、俳句のチェック機能も装備。季語や切れが一個あるか、五七五であるかなどをチェックし、適合しないものをはじきます。その成果は、写真を見せて俳句を詠む、というものです。
 ならば、この応用で連歌生成AIというのもできるはず。まずは宗匠の役割を担うAIを。その名称は多分、「AI宗祇くん」かと。次に連歌を詠むそれぞれ個性を持たせたAIを5、6体ほど(武士の他、貴族とか僧侶とか)。なんかこれ、小松左京の未完の小説「虚無回廊」の主人公のようです。この小説の設定では、宇宙探査に行くために、人工的な自分のコピーを作り、それに専門の異なる6名の仮想キャラクターAIを載せるというものですが、そのAIの中には多様性をもたせるために女性キャラクターというものも入っていて。ん、待てよ、ということはAIにも性別が。確か、江戸時代には女性の連歌師もいたけれど、いや、ここは性別不詳(いわゆるQ)が正解なのか、悩ましいところではあります。

◇ AIの学習環境のお話
 手塚治虫の漫画でも、そのストーリーとキャラクターを読み込ませ、新たな作品が創作されたりしています。過日、報道がなされていましたが、「ブラックジャック」の創作もなされており、手塚眞氏は「ブラック・ジャックは200話以上あり、作品数が多い。そのなかでも物語が絡んでいる。これも研究には有効ではないか。それと手塚治虫らしさ、作家の個性もはっきりしている。作家を分析する上ではいい材料になる」とコメントしています。そうなんです。まずはしっかりした学習データが豊富にないとAIは創作できないんです。最上義光が関係する連歌だったら、データはそこそこありますよぉ。どうでしょう、誰か。
 一方、某印刷株式会社が、古文書などのくずし字をスマホで撮影し、解読できるAI−OCRアプリ「古文書カメラ」の配信を始めています。くずし字には、手書きのもの(書簡や証文、日記などの古文書)と木版印刷物(版本や錦絵など)があり、それぞれに文字の形や使われている字種が異なるのですが、いずれにも対応しているとのこと。解読したデータは、ユーザーが修正しデータとして蓄積することでAIの精度向上に役立てているそうで、学習データが多いことはやはり重要です。
 ちなみに、国立国会図書館とか京都大学図書館などでは、多数の古文書のデジタルアーカイブを公開していて、誰でもネットで閲覧できます。例えば慶長年間に発刊された「源氏物語」には木版活字が使用され、「伊勢物語」には各頁に版木のイラストがついているなど、最上義光が手に取ったかもしれない書物を手軽にみることができます。当館でもそのうち古文書のデジタルアーカイブ化をやらなくては、とは思ってはいるのですが、そのうちということで、すみません。

◇ 連歌に由来する慣用句の話 
 連歌に由来する慣用句として、「花を持たせる」、「月並み」、「挙句のはて」を紹介しました。さらには「二の句が継げない」という慣用句も関係ありそうではありますが、実は全く無関係です。こちらは宮廷歌謡の「朗詠」に由来しています。「朗詠」は、全部で3段から構成されており、真ん中の段を「二の句」と呼びます。二の句では、音の高さを上げるのですが、高音で歌うのが難く言葉が出ないことから「二の句が継げない」といったそうです。
 「二の句が継げない」とは、相手の発言に驚き、呆れを感じた場合に用います。 なので、謙遜するつもりで、発句の次に「二の句が継げない」などと言おうものなら、発句に対して、呆れてものが言えない、という意味になってしまい、とんでもないことになってしまいます。
 さらに「二の句が継げない」と似た慣用句に「二の矢が継げない」があります。「次にとる手段や手立てがない」ことを表します。つまり、「手詰まりの状態」ということなので、連歌の場合はこちらが適当かも。それはそうとして、一人で「三の矢も四の矢も用意しました」などと言う人もいるかもしれませんが、連歌では無意味です。一人で連歌を続けるのであれば別ですが。「ぼっち連歌」とでも名付けましょうか。
■ことわざの話
 いつものことわざシリーズですが、今回はたいしたオチにもならなそうなので、裏日誌に回します。鎧にまつわることわざとしては、「衣の袖から鎧が見える」というのがあり、本音が見え隠れする、という意味ですが、その由来は平家物語にあるとのことです。
 「物語要素事典」の「重ね着」(?!)の項目には、「武士を召集し法住寺の御所へ押し寄せようとする平清盛のところへ、嫡子重盛が諌めにかけつける。清盛はあわてて鎧の上に法衣を着、胸板の金具が見えるのをひき隠しつつ対面」したとあり、実はあわててしまいバレバレであるという話なわけで、これは「頭隠して尻隠さず」に近い感じです。
 ちなみにこの「重ね着」の例示では他に、「法衣の上に鎧を着る。」、「死装束の上に羽織を着る。」、「他国の軍服の下に、自国の軍服を着る。」というのも載っていて、これを全て「重ね着」という括りにしてしまっているのがすごいところです。
 それはさておき「衣の袖から鎧が見える」というのは、私はてっきり「腹に一物をもっている」という意味合いなのかなと思っていました。ここで「一物」と言うと、あの神様にお願いする唄が思い出されますが、いや、ここでやめておきます。さすがに当館にもコンプライアンスというものが、はい。

■甲冑と映画の話
 これは別にディスるわけではないのですが、「ダースベイダーは、伊達政宗の甲冑」説と「上杉謙信の甲冑は、全身銀色の南蛮胴」説は、いずれも有名ではありますが、事実ではないという話です。
 これはあくまでネットによる確認情報なのですが、まずは、伊達政宗の甲冑の話から。スター・ウォーズの制作関係者から黒漆五枚胴具足を所蔵している仙台市博物館に写真の提供依頼があり、また、1997年に発行された"STAR WARS−THE MAGIC OF MYTH−"という本の188−189ページには、ダースベイダーと伊達政宗の黒漆五枚胴具足の兜部分の写真が並んで紹介されているとのこと。ここまでは事実です。しかし「ウキペディア」によると、「ルーカス博物館の館長のレイラ・フレンチによれば、ジョン・モロが役者をロンドンのコスチュームショップに連れて行き、そこで黒いオートバイ・スーツと黒いマントを見つけ、それに第一次世界大戦中のドイツ軍のガスマスクとナチスのフリッツヘルメット(シュタールヘルム)をモデルにしたヘルメットを追加したものであるという」、とのことです。
 次に上杉謙信の甲冑について。「Yahoo知恵袋」のベストアンサーには「上杉謙信が実際に着用した鎧は何点か現存していますが、その中には南蛮胴は一つもありません。日本での南蛮胴は、南蛮との交易が盛んになったことから見られるようになりますが、安土桃山以降です。また、記録上でも謙信に纏わる南蛮胴は存在しません。つまり、1570年代に死去した謙信が着た可能性はかなり低いでしょう。上杉謙信と南蛮胴との関係ですが、映画『天と地と』で上杉謙信は南蛮胴を使用していました。(中略)そして、大河ドラマ『風林火山』では、(南蛮胴を)上杉謙信を演じるGACKTさんが着るに至ったと推察します。」とのことでした。
 それにしても最上義光の甲冑は、映画でもTVドラマでも、ましてSFでも取り上げられるわけでもなく、某大河ドラマでは「関ケ原の戦い」に突入するも名前すら出てくる気配がなく、「どうする」以前の状況ではあります。しかしここは、これを改めていくべきではないかと思い、まずはドラマのタイトルを考えてみました。例えば、「それにしても義光」というのはどうでしょうか。やはり、いけませんかね。失礼しました。あと、「ヨシミツじゃないよ、ヨシアキだよ。」という番組名も考えましたが、あっ、許してください、ごめんなさい。

■ナレッジマネジメントの話
 学芸員さんの間で、刀剣や甲冑についての話をするとき、品物や資料の知見については多くを語らず、どこの誰が何を持っているという情報交換に熱が入ります。そしてそれは家族関係の話であったり健康状態の話であったり、言葉としては何なのですが、いわゆるナマモノの情報です。つまり、いつ出物がでるかと虎視眈々に、とまではいかないまでも、そんな情報のアップデートを図っているわけです。それは学芸員同士だけではなく、収蔵品の運搬を請け負う業者さんであったり、刀剣や甲冑を趣味としている方などにも探りが入ります。収蔵品の入手にあっては、単に金銭の勝負だけではなく、タイミングが重要であり、これまでの付き合いも当然大事になります。これが寄託や寄贈ということにでもつながれば、学芸員の面目躍如といったところでしょう。
 しかも刀剣や甲冑は、様々なレベルのマーケットが形成されていて、しかもそれは国外にも広がっていて、しかも外国のコレクターには結構な金持ちがいて、それが相場を引き上げる原因にもなっていたりして、こういうことからも、当館のような資金に乏しい弱小博物館では太刀打ちできないわけでして。やはりここは、普段からの不断の情報収集で勝負するしかありません。
 ただし、このような情報のほとんどは、個人レベルの暗黙知であり、これをどう形式知に変換して、作業の効率化や知識の共有を図るか、いわゆるナレッジマネジメントが組織の課題ではあるのですが、逆に学芸員の存在価値もそこにあるわけで、難しいところではあります。いくらDXだ、AIだ、と言ってみても、やはりナマモノの情報は、まずはマンツーマンが基本とは思いますが、最近はそれもSNSなどで知ることになる場合もありまして、悩ましいところではあります。そう言えば、かの長寿スパイ映画にもこんな組織課題を背景にした話がありましたが、映画と違いこちらには、カーアクションや爆破シーン、そしてお色気シーンというのもありません。
■ 温泉の良し悪しのお話
 温泉の良し悪しは、まずは「源泉かけ流し」かということで。それなりの湯量があり、循環させない、加水しないのが大事とされます。自噴であればなおよし、温泉が空気に触れることなく湯舟の底からこんこんとお湯がわきでてくるのが最上(さいじょう)とのこと。蔵王温泉にもそれにあてはまる貴重なお風呂はあるのですが、熱いし強酸性なのでなかなかにきついお湯です。個人的には、かつて白濁した温泉成分の強い温泉が好きでしたが、今は弱アルカリ性の透明な湯が好きです。白布温泉「西屋」のお湯は加水ですが弱アルカリ性で、湯舟の大きさからすればすごい湯量で頭の上からじゃばじゃばと降り注いできます。
 一方、温泉街については、勝手にその良し悪しの基準をもっています。まず、「豆腐屋」がある温泉街は間違ありません。豆腐屋があるということは、豆腐屋がなりたつような経済地域であり、温泉客が行き来する温泉街だということです。これが大手資本の温泉施設ばかりが立ち並ぶ場所だと、客を囲い込み過ぎて豆腐屋もありません。山形県内では、「銀山温泉」の豆腐屋では冷ややっこがテイクアウトでき川沿いの足湯で食べることができます。「小野川温泉の豆腐屋は、様々な豆腐や関係商品が並び、とりわけ豆乳ソフトクリームが人気です。
 圧巻なのが城崎温泉。豆腐屋も当然あるのですが、その隣には時計屋があります。温泉街で時計屋が成り立つのです。普通は、日用食料品店とか土産物店くらいしかないものですが、温泉街としての格が違いすぎます。ちなみに、城崎にある6つの外湯がまた立派で、全てを回れる一日券もあり、ネットでリアルタイムで混み具合がわかり、一番風呂に入れば記念手形がもらえます。
 そして「温泉神社」があるかどうか。温泉神社でパワースポット的な価値が付加されますし、温泉の神様を祀る温泉街にはそれなりの物語があります。あと、個人的な指標としている「遊技場」つまり射的・スマートボールのお店があるかどうかです。これが令和の時代にも生きている温泉街はかなり地力のある温泉街です。また、文豪が逗留して名作を残した温泉、例えば「城崎にて」などはそのままですが、名作とされている小説の舞台になった温泉地なり文人が逗留した温泉宿はやはりそれだけのことはあります。
 さらに昔は、賑わった温泉街には大人の劇場というのもありました。山形市に隣接する天童温泉や上山市の葉山温泉にもあったのですが、昭和の終わり頃にはだいぶ衰退していて、踊り子さんも高齢化し、むしろ服を着てほしいくらいと言っていた人がいましたが、それが外国人に代わり、ついに劇場は廃止になる、なんか衰退産業の構図そのものです。
 さて、いつものことわざシリーズを。「命の洗濯」という言い方があります。温泉はまさしくそういう場所です。アニメ「エヴァンゲリオン」では、「風呂は命の洗濯よ」というセリフあったとか。ちなみに江戸時代は、吉原あたりで「命の洗濯」をしていたそうです。

■ 冬の露天風呂のお話
 年末年始の蔵王温泉は、ほぼ間違いなく雪見風呂となります。名物の大露天風呂は残念ながら冬期間休業中ですが、宿によっては露天風呂に入れます。ただこの雪の露天風呂、確かに風情はありますが、脱衣所から素足で雪を踏みしめて湯舟まで行き、そのお湯がまた熱すぎたりぬるすぎたりして、吹雪のときは目もあけていられなくなる、それは雪すら見たことのない外国の方からすれば貴重な体験かもしれませんが、雪国の人からすれば罰ゲームのようなものであります。なお、酔った勢いのまま露天風呂に行き、雪上に裸でダイブするのは、気持ちだけにしておきましょう。

■ 年末年始イベントのお話
 年末年始の体験と言えば、千葉にある「夢と魔法の王国」の年越しカウントダウンに出かけたことがあります。午前2時ぐらいともなると、いくら関東とは言え海沿いの屋外は寒く、アトラクションの行列に並ぶ気力も失せて、「明日の土地」にあるハンバーガーレストランでは、寒さと疲労をしのぐカスタマーがびっしりと床に横たわり、大災害時の避難所といった様相でした。こういう場合、防寒ブランケット(シュラフなんかもいいかも)は必携です。ただ、それを背負いながらのアトラクション巡りもなかなか難儀なことかと。

■ 年末年始の思い出 その1
 昭和の時代の話で恐縮ですが、自分の両親などは年末ぎりぎりまで仕事していて、父親などは自宅に職場の仲間を呼んで「年越し麻雀」なんかをやっていて、元旦は届いた年賀状をもとに年賀状を書き始め、翌日に同じ市内の実家に顔出しに行く程度だったので、年末年始を旅館で過ごすどころか、年末年始は旅館も休みだろうぐらいの認識しかありませんでした。私もせいぜい「ゆく年くる年」が終わる頃から、夜通し市内の神社をハシゴして、あちこちで引くおみくじに一喜一憂するぐらいです。(おみくじのハシゴは本当はいけないそうですが)。
 この「ゆく年くる年」ですが、若い時は、除夜の鐘がただただ続くだけの地味な番組だなぁと思っていましたが、年を重ねるにつれ、全国の有名な寺社の様子を生中継で観られることのありがたさがわかるようになってきました。ちなみにこの生中継される寺社や鐘の打ち手というのは、寺社業界では「紅白」出場に匹敵するようなことらしいです。

■ 年末年始の思い出 その2
 後にようやく、年末年始に旅館に行く機会がありました。きっかけは旬の蟹を食べたいというものでしたが、目的とする北陸の某所は山形から遠いため家人の都合で正月休みぐらいにしか行けず、すると、ただでさえ高級食材のところに正月料金となり、慎重の上に慎重に検討を重ねたのですが、一度ぐらい贅沢してもということで、元旦に山形を発ちました。
 大宮経由で新幹線を乗り継ぎ、その日のうちに到着はしたものの、冬の日本海は案の定、みぞれ交じりの荒波で、海沿いにある旅館には波飛沫がかかり、部屋に籠り蟹だけを待つような状況でしたが、出てきた蟹は本当にすばらしいものでした。旅館内に蟹の生け簀があり、海が荒れて漁がなくても間に合う量を保管し、そこで落ち着かせて出すそうです。
 部屋にはまず、蟹がまるごと運ばれ、それを持ち上げガバっと広げるとまあ、大きいのなんの。ブランド蟹を示すタグの説明もなされ、ありがたみが増したところで調理場に回され、生、焼、茹、と出てきました。これを正月料理とともに食べている間は、贅沢とはこういうことか、いつかまたもう一度、とは思いましたが、山形に帰った後しばらくは、そのコスパについて悩んでいました。グダグダですみません。