最上義光歴史館

 現在、当館では企画展示「収蔵名品展 −武人と屏風−」を開催中で、3点の屏風を展示しています(令和6年9月29日(日)まで)。収蔵資料から武人とかかわりのある名作屏風を展示し、武人が屏風を通して見ていた風景を供するものです。
 それぞれの屏風を簡単に紹介しますと、まず「四季花鳥図屏風」は、六曲一双の山形県指定有形文化財です。「四季花鳥図屏風」と言えば、狩野派ファンの方は、あっ、あの狩野元信の平成25年の切手趣味週間にも採用されたあれか、と色めきたたれるかもしれませんが、そうです、あの狩野元信の屏風、ではなく、彼の晩年の弟子、狩野玄也が描いた、金極彩色の「四季花鳥図屏風」とは真逆の、しぶい墨画淡彩です。
 背景には霞のようにうっすらと金泥が塗られているものの、あちこちに傷みがあります。しかし、博物館的な価値としては出所や来歴に依るところが大きく、この屏風は山形城主だった秋元家に伝来したものであり、作者も来歴も由所あるものです。逆にたとえ美品であっても、出所や来歴が不明だと展示は困難になります。


「四季花鳥図屏風」右隻

 つぎに「葡萄棚図屏風」という六曲一隻の屏風を。最上義光の菩提寺である光禅寺に伝来した屏風で、本来、六曲一双の屏風なのですが、火事に遭い、半分の一隻だけが残ったものです。葡萄棚にフサフサと実る葡萄が描かれているのですが、これは「葡萄」に「武道」を掛けた武人に好まれる図柄でもあるということで、なんともベタベタな駄洒落ではありますが、西洋では、葡萄は多産繁栄の象徴として好まれたモチーフではあります。
 それで焼けてなくなったもう一方の屏風はどんな図柄なのか。当館に協力いただいている大学の先生から以前、ケルン市立東洋美術館で同じような屏風を見たことがある、との情報をいただいており、今回の展示にあたり、その収蔵品リストにネットで確認したところ、ほぼ同じ図柄の屏風がありました。これにより当館に残った屏風が、右隻なのか左隻なのかも推測できました。
 また、そこには作品解説もあり、ネットによる自動翻訳文では「構図的には、屏風は加納永徳の〈拡大されたモチーフの公式〉に従っており、金箔の広い表面に対してセットされ、浅い絵画空間を作り出しています。」とありました。なんとも直訳風ではありますが、まず、「加納永徳」ですが、なぜか「永徳」は変換できても、「狩野」ではなく「加納」となってしまい、まあこれは自動翻訳ではしばしば起きることです。「拡大されたモチーフの公式」とは「大画様式」のこと、「浅い絵画空間」とは「奥行きのない絵画空間」と読みかえると、ようやくこの文章がわかりやすくなるかと。まずは、このドイツでの研究成果をもってすれば、この屏風の作家や年代がなんとなくわかり、この葡萄棚図屏風は狩野永徳の工房でつくられたとの見方に、もしかしてたどりつけるかも。なにはともあれ、ここの美術館のデーターベースはしっかりしていて、出品記録や出版物掲載記録まで記録公開されていて、とても有用なものです。


「葡萄棚図屏風」

 最後は、紙本金地著色の「すすき図屏風」。これは金地に様式化された糸薄(いとすすき)だけをただただ描いているもので、尾形光琳の「燕子花図屏風」を想起させる、狩野派よりも琳派といった趣向の図柄です。見事なほどシンプルモダンな図柄で、色彩的にもデザイン的にもミニマルなものです。そのグラフィカルに描かれた薄が、屏風が折れることで、重層的で立体的な奥行きを作り出し、この六曲一双の大画面で室内を飾れば、そこはたちまち異空間と相成ります。
 個人的には大変気に入っている屏風なのですが、如何せん、「義光の重臣の菩提寺に伝来したもの」という情報のみで、年代も作者も不詳のため、博物館的には扱いが難しいものです。「葡萄棚図」のように、類似作品が他にあればとは思うのですが、薄(すすき)をモチーフにした屏風はあっても、これと同じ画風のものはなく、見方を変えれば唯一無比の屏風なのですが、多くの屏風がパターン化されて描かれていた中で、この「すすき図屏風」は、「他に類を見ない唯一無比の貴重な屏風である。」と言い切るのも、それはそれで気合のいることでして。でも、いい図柄でしょう、これ。


「すすき図屏風」右隻


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 博物館に限らず、施設管理の基本に「草取り」というのがあります。山形の場合これに「雪掃き」が加わります。実際はそんな風物詩のようなことではなく、機材による「除草」とか「除雪」といった作業になるのですが、当館は良くも悪くも零細博物館で、また、公園敷地の中にあるため、草取りを要する場所はほとんどありません。しかし、当館裏の一般立ち入り禁止の公園敷地には、野草が伸び放題になっています。


敷地裏側の伸び放題の野草近影

 中でも勢いがあるのが、洋種山牛蒡(ヨウシュヤマゴボウ)というアメリカヤマゴボウとも言われる山牛蒡の仲間です。その実は紫色の染料にもなり、手や服につくとなかなか色が取れず、アメリカではインクベリー(Inkberry)とも言われ、日本でもインクの木などと呼ばれることもあります。実はたっぷりとなり、ヤマブドウの一種と勘違いされることもあります。ヤマゴボウなのにヤマブドウのような実がなるというわけのわからない植物です。


ヨウシュヤマゴボウの実

 ただ、この洋種山牛蒡には、根も葉も実も全てに毒があり、最悪の場合は死に至るといいます。しかしその実は、いかにも食べられそうに見えるため、これを幼児などは口にする危険性があります。一方、鳥には毒性がないのか、実をよくついばみ、その分、種を運ぶようで、洋種山牛蒡は付近のあちこちに繁殖します。気づくと一か月ぐらいでかなり大きく育ち、その根は時にサツマイモのような大きさになります。
 厚生労働省のHPには「自然毒のリスクプロファイル」というリストがあり、それによると、食べると腹痛・ 嘔吐・下痢を起こし、ついで延髄に作用し、けいれんを起こして死亡、発病時期は2時間とあります。皮膚に対しても刺激作用があるとのこと。にもかかわらず、実のついたものを花屋でみかけることがあります。生け花に使うようです。なお、味噌漬けなどにされる山菜の「山ごぼう」は、このヤマゴボウとは全く異なるキク科に属するモリアザミなのだそうです。
 意外だったのが、同じリストにアジサイ(紫陽花)があることです。アジサイなんか食べないだろう、とは思うのですが、料理の下敷きに使われたものを食べて中毒症状を起こしたりするそうです。厚生労働省のHPにも、料理に添えられていたアジサイの葉を食べた 10 人のうち 8 人が、食後 30 分から吐き気・めまいなどの症状を訴えた例や、居酒屋のだし巻き卵の下に敷かれていたアジサイの葉を食べ、40 分後に嘔吐や顔面紅潮などの中毒症状を起こした例が掲載されています。いずれも重篤には至らず、3日程度で回復したそうです。中国では、アジサイそのものが八仙花(はちせんか)と呼ばれる生薬となっており、抗マラリア剤とされるが、やはり嘔吐性が強いので頻用はされないそうです。アジサイは毒にも薬にもなるようです。
 一方、このリストにはないのですが、毒性をもつことで有名なのがキョウチクトウ(夾竹桃)です。その名のとおり、葉の形が竹の葉に似ており桃色の花を咲かせます。この花はバラに劣らず美しく背丈もあり庭木にもってこいの植物で、かつては玄関口など身近な場所に鉢植えや地植えなどで植えられていたのですが、その毒性が知られるようになり注意を促す自治体もでてきました。


キョウチクトウの花と葉

 夾竹桃は、花、葉、枝、茎、全ての部分に、青酸カリよりも毒性が強いと云われる有毒物質を含んでいるそうです。下痢や心臓麻痺などを引き起こし、成人では、キョウチクトウの葉5〜15枚で致死量に達するといわれています。実際に小さな子供が夾竹桃に触れてしまい、夾竹桃中毒になって亡くなってしまった例があるそうです。ペットや剪定の時なども夾竹桃に触れないよう注意が必要です。また、夾竹桃の枝や葉を燃やすことで有毒ガスが発生し、吸引すれば下痢や嘔吐といった症状がでます。これも死に至ることがあるそうです。
 フランスでは普仏戦争の時、野外でバーベキューをしたところ串が不足したので、夾竹桃の生枝を串にして肉を焼いて食べ、11人中7人が死亡したとか、日本でも西南戦争の時、官軍の兵隊が夾竹桃の箸で弁当を食べ中毒者を出したということがあったそうです。山形名物の芋煮の季節もそろそろです。夾竹桃を串にしたり箸にしたりされないよう気を付けましょう。


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 当館のようにささやかな博物館(しかも未指定)であっても、各地の博物館からさまざまな展示企画のポスターやチラシを預かります。米沢市の上杉博物館からは特別展「上杉氏と鷹と馬」(前期9月7日〜10月6日:後期10月12日〜11月10日)の案内をいただきました。その説明には「鷹や馬は、大名と室町幕府や豊臣政権、江戸幕府との関係のほか、大名同士の関係においても重要な役割を果たしました。」とあり、最上も伊達も馬や鷹を秀吉や家康に贈っています。今で言うなら、馬は車、鷹はゴルフ、と解せば理解いただけるかと。芸能人同士で車やゴルフクラブをやったりもらったりという話を耳にしますし、某メジャーリーガーは同僚の妻に車を贈り、某総理大臣は某大統領に金色のゴルフクラブを贈ったりもしています。まあ、それはさておき、この「鷹狩り」に絡んだ歴史的な出来事として「秀次事件」というのがあります。
 豊臣秀次は永禄11年(1568年)、秀吉の3つ上の姉の長男として生まれました。秀次が関白を世襲したとされるのが、天正から文禄と元号が改元された1592年とのこと。ところが継承が済んだ後に、秀吉の側室である淀殿の懐妊が判明、文禄2年(1593年)8月3日に大坂城二の丸で秀頼(拾)を産みます。秀吉は嫡男である秀頼を溺愛し、9月4日に秀吉は、日本を5つに分け、そのうち4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡し、また、生まれたばかりの秀頼と秀次の娘(八百姫)を婚約させるつもりでもあったそうです。
 そこからすると自分の跡目については、ちゃんと秀次を間にはさんでいたと思われたのですが、文禄4年 (1595年)6月末に突然、関白秀次に謀反の疑いをかけます。「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」というものです。これにはなんとなく伏線もあって、鷹狩りと言えば家康というくらい、家康と鷹狩りとは切っても切れない関係で、一方、奥州は鷹の産地としても知られ、最上も伊達も家康に鷹を贈るなどして親交を築いています。 
 さらに秀吉は6月28日に秀次を勘当、その後、高野山へ追放します。7月13日に次々と家臣が切腹。秀次は7月15日に切腹、いわゆる「秀次事件」が起きます。この7月15日には、福島正則・池田秀雄・福原長堯の3名の検使が兵を率いて高野山に現れ、秀次に賜死の命令が下ったと告げたのでしたが、秀吉が切腹を命じたかどうかについては確たる文書がなく、近年、異説も唱えられています。本当に謀反を起こしたのであれば切腹ではなく、斬首や磔などが科されるはずであり、また、家臣が切腹したのにもかかわらず切腹させられたり、高野山行が出家であるなら切腹すら求められることはない、まして関白には、というような理由からです。つまり秀吉は、秀次の「出奔」を「追放」に、「無実の自害」を「切腹命令」に改ざんし、秀次を「天下の大罪人」とするためにその一族を殺戮したのではないかと。8月2日には義光の娘駒姫を含む秀次の妻妾や公達39名が三条河原で処刑されました。
 最上義光や伊達政宗も、秀次が奥羽に下向した際に接近したとして疑惑をもたれ、秀次の邸宅となっていた聚楽第に拘禁され厳重な取調べをうけました。義光は、娘を侍妾にした経緯などについて、また政宗は。かつて伊達家に仕えていた粟野秀用が秀次の側近であり、政宗と通じていたという疑義です。さらにこの聚楽第も8月から徹底的に破却されます。
 で、ここからちょっとしたミステリーなのですが、同年8月、伏見の徳川邸前に何者かの手で高札が立てられ、徳川の留守居衆から秀吉のもとに差し出されました。高札には、政宗と義光が三人の普請奉行をそそのかして、秀吉を普請場で殺させ、「三人の御奉行をば国大名になし、西三十三ヶ国は義光、東三十三国をば政宗支配、天下を分持になさんと云計略あり」とありました。
 これに対し秀吉は、「義光と政宗が金子四十枚を出し、京都室町と伏見京町に二十枚ずつ掛け置いて、高札を立てた者が名乗り出たら、この金子は勿論、知行地も最上.伊達双方から望み次第に下される」としましたが、申し出る者はなかったといいます。秀吉は「此両家をば世上にてにくむと見得たり」と言いながらも、この高札がきっかけとなり、8月14日、最上義光と伊達政宗は赦免されました。さて、このような高札をたてたのは誰なのか、その目的は何なのか、なぜ家康邸の前に立てたのか、そして誰が得をするのか。皆様の推理はいかがでしょうか。

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 当館では10月16日(木)よりコーナー展示で「収蔵名品展〜松」を開催します(来年1月12日まで)。松はその独特の形態から多くの画家の描くところとなり、また、常緑であることから吉祥樹として、さらには神が降臨する樹ともされているものです。当館収蔵品の中から松が描かれている大画面の障屏画(屏風・板戸・襖)3点を展示します。松の表現の一端を紹介することによって、あらためて日本美術と文化財に対する関心を高める、との担当学芸員の説明でしたが、それでもなぜ「松」なのか、きっと「そこに松があるから」という、「そこに山があるから」と同じようなものではないかと。
 さて、松の絵で有名なものとしては、「松の廊下」という毎年のように年末の某時代劇に登場する場所がありますが、全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下で、襖に松並木と千鳥の絵が描かれています。江戸城にはこの「松の廊下」以外にも大広間をはじめ、あちこちに松の絵が描かれています。
 他に緑の松の絵の代表的なものはというと、能舞台の背景画でしょうか。「鏡板」と言われる舞台背景に堂々とした松が描かれ、それは演目にかかわらず松の絵のままです。この松の木は、春日大社の鳥居の近くにある「影向(ようこう)の松」というクロマツをモチーフにしています。昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われたことから、松の木は芸能の神の依代(よりしろ)であり、神さまが宿る場所とされたとのことです。余計な話をすれば、1995年にこれが枯れたため、巨大な切り株の横に後継樹の若木が植えられたそうです。
 能楽堂によって松の木の描かれ方は違うそうですが、この松の木の描写が定着したのは、室町後期の貴族邸宅での能の公演が盛んになった頃からとのことです。能の歴史は奈良時代にまで遡り、室町時代に観阿弥・世阿弥父子によって確立されたのですが、室町時代、足利将軍家が能を愛し能役者を庇護したことから、能は武士の嗜むべき諸芸のひとつになりました。武家の間に広まったのは、観能の場が武士たちの社交・情報交換の場となったことからとも言われています。戦国時代になると、能は武将たちに保護されるようになり、有力大名を頼って地方へ下る能役者が続出しました。
 徳川幕府は第2代将軍秀忠の時に、能を幕府の式楽(公式行事で演じられる芸能)と定められ、能役者は武士の身分となり俸禄を与えられました。大名の御殿や前庭には必ず能舞台が設けられ、慶事や公式の行事の際には能が演じられました。
 とは言うものの、山形城には能舞台がなく、現在でも山形市内には、東北芸術工科大学に水盤に囲まれた現代建築の「水上能楽堂」があるのみです。一方、米沢市の上杉博物館に隣接する置賜文化ホールには、なんとホバークラフト式で移動させる能舞台があります。
 能舞台には、舞台背景の「鏡板」に描かれる松の他に、「橋掛かり」に沿って設置される松の絵もあります。「橋掛かり」とは、本舞台と出入り口(揚幕)をつなぐ廊下状の通路ですが、幽玄の世と現世を結ぶ、あるいは長い旅路を表現するなど、遠近感を生み出す演出空間としても機能します。ここには舞台から遠ざかるほど低くなるように三本の松(一の松、二の松、三の松)が順に配置され、演技の目安や遠近感の演出に利用されます。さらに「橋掛かり」と反対側の舞台側面には「竹」が描かれます。鏡板の松は樹齢を重ねた老松ですが、竹は若竹です。竹は松とともに常緑であり、生命力や成長を表します。
 そして「松」「竹」ときたら「梅」はないのかと。実は能舞台には梅は描かれません。その理由は諸説あるらしいのですが、一説によると梅は直接見るのではなく暗闇の中からかすかに香るものとして、あえて描くことをしないとのことです。
 とにかく「松竹梅」をもって、空間、時間のみならず気配までも演出しているとは、能舞台、恐るべしです。


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 当館では現在、「シン・市民の宝モノ2025」(3月30日まで)を開催しています。山形市民が所蔵する宝モノを公募し展示する、市民参加型の展覧会です。出品に関しては古今東西、評価なども一切問わず、自慢の宝モノを物語とともに展示しています。おかげさまで、新聞やテレビなどからも、通常の企画展以上に取材いただいております。
 今回はテーマを「陶磁器」とし、皿や茶碗、花瓶などの出品を想定していましたが、ドレスデンレース人形や平清水焼の土人形、香炉、火鉢、さらには小松均画伯が絵付けした湯飲みというのもあり、予想を超える様々な出品をいただきました。まさに市民のお宝展というか、博物館の原点を思わせる展覧会となっております。感謝申し上げます。
 ちなみに、「ヨーロッパの博物館・美術館には、バロック期のヴンダーカンマー(驚異の部屋)に発祥するものが多い。ヴンダーカンマーとは、世界中の珍しい事物(異国の工芸品や一角鯨の角、珍しい貝殻、等々)を、種類や分野を問わず一部屋に集めたものである。」とWikiさんにありまして、規模は別として、今回はまさにそのような趣きになっています。
 これが日本の場合、博物館のきっかけとなるのが博覧会らしく、やはりWikiさんによると、「1872年(明治5年)、ウィーン万博への出品準備として開かれた湯島聖堂博覧会(文部省博物館)が日本の博物館の始まりとされ、東京国立博物館はこの時をもって館の創立としている。」とのことです。
 1867年(慶応3年)のパリ万博には、幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展しているのですが、佐賀藩は、陶磁器や白蝋、和紙、茶などの特産品を、薩摩藩も陶器の薩摩焼や絹製品を出品したとのことで、いずれも陶磁器を出品しています。そのような歴史的経過からも、博物館の基本は陶磁器にあるなぁとも思うわけです。ちなみに、幕府による展示は、飾馬に乗る武者人形とともに、江戸商人が連れてきた3人の芸者が茶屋で日常生活を再現するなどし、パリっ子の人気をさらったそうです。画期的な展示というか、民俗学的というか。
 その民俗学ですが、大阪の国立民族学博物館(民博)は、日本万国博覧会の跡地に建設、1977年(昭和52年)に開館しています。設計は黒川紀章。メタボリズムの思想のもと、収蔵資料の増加にあわせ増築していくというものでした。収蔵庫不足に悩む各地の博物館の皆様、特に地元大阪におかれましては、切に願う思想ではないかと。
 そのきっかけは、太陽の塔での展示のために収集された資料や万博閉幕後の跡地利用を意識していた岡本太郎や梅棹忠夫の存在と、日本民族学会の「国立民族学研究博物館」構想とが重なり、国立民族学博物館が建設されることになったそうです。
 岡本太郎は、太陽の塔の地下空間に展示する仮面や神像などを収集するため、東京大学の泉靖一教授と京都大学の梅棹忠夫教授に「日本万国博覧会 世界民族資料 調査収集団」を組織することを依頼しました。約 20 人の若手研究者を世界中に派遣し、2,600 点近くの民族資料を集め、その約半数の資料を太陽の塔の地下空間に「根源の世界」というテーマで展示しました。その後、収集資料のほとんどが民博に収蔵されたそうです。
 今度の大阪・関西万博の会場跡地は、カジノやサーキットがあるリゾートになるようですが、博物館的には何か残すのでしょうか。まあ、廃棄物の埋め立てでできているこの会場自体は、「人新世」という地質時代を確実に残すことにはなりそうですが。(「人新世」は、1950年代を境に人類の活動が地球全体に影響を及ぼした地質時代として提案されたのですが、最近、国際地質科学連合で残念ながら否決されてしましたが)
 ところで、「博物館」という名称は、1861年(文久元年)の江戸幕府の文久遣欧使節の日録で、「British Museum(大英博物館)」に対して「博物館」という訳語を与えたことによるそうです。また、この「Museum」の語源は、「Mouseion」つまり芸術と学問を司るミューズの神々に捧げられた神殿に由来し、芸術家の方がよく、意中のご婦人に「ああっ、私のミューズ!!」と、口にするとかしないとかも、御存じのとおりです。と言うことで、当館の「シン・市民の宝モノ2025」には、ミューズとまでは言わないまでも、弁天様を中心に七福神を乗せた陶製の宝船も展示されております。

(→館長裏日誌に続く)
 さてさて、この山形にもインバウンドの波が訪れていまして、山形県は最近、インバウンドの伸び率が日本一とのことです。そもそもこれまでが少なかったこともありますが。山形市の蔵王もこの冬はインバウンド様ばかりで、いままでにない光景を目の当たりにします。蔵王は昔から外国のようなスキー場と言われていて、それは山形弁が県外の方に通じないからですが、今は本当に外国語ばかりが聞こえてくる感じです。スキーウエアなどを着用することもなく街歩きの恰好のまま、ましてスキーもスノーボードも持たずに、朝からロープウェイ駅の外に長い行列を作り並んでおられます。ネットのライブカメラでもこの様子は見ることができますが、乗車券は午前中に完売という日々が続いているようです。夜間は樹氷がライトアップされ(2/23まで)、ロープウェイから観ることができますが、最近人気なのは新型雪上車「ナイトクルーザー号」に乗車し夜の樹氷を間近で体験するという「樹氷幻想回廊ツアー」です。当日のネットのみの予約で、受付開始とともに回線がパンク状態と表示されることがほとんどです。
 やはりと言うか、この蔵王に関係する最上義光の逸話もありまして、温泉街から酢川温泉神社に続く参道には「最上義光の力石」というものがあります。そこには、「義光が16歳(永禄4(1561)年)の時、高湯(蔵王温泉)に湯治にきた際、十数人の盗賊に囲まれた。しかし義光は単騎で盗賊に切り込み、その頭領を殺傷し数人に重傷を負わせた。その武勇を聞いた父の最上義守は最上家家宝「笹切丸」を与えた。また、義光は家来達と力比べをし、誰一人として持ち上げられなかった重さ約50貫目(190キロ)の大石を軽々と持ち上げた、と伝えられているのがこの力石である。」とあります。実は、襲ってきた盗賊を追い返し、父から笹切丸を給されたことまでは、「最上記」や「奥羽永慶軍記」にはあるのですが、力石については文書的に定かではなく、ただ「奥羽永慶軍記」に「(義光は)十六(歳)にしては七、八人しても動かしがたき大石を、只一人にして安々と押転ばし給ふ程の人なれば、今永禄四年四月四日の夜、盗賊をば討給ふ。」とあります。


「最上義光の力石」
山形市観光協会HPより

 とにもかくにも、何か目立つ石があれば、それにかこつけて物語などを付け加えたくなるのが世の常でして、例えば芭蕉の「奥の細道」でも有名な「殺生石」などもそのような類ではないかと。「殺生石」は国指定名勝ともなっており、近年、この石が割れてしまい話題になりました。那須町HPによると、「平安の昔、帝(みかど)の愛する妃に『玉藻の前』という美人がいたが、これは天竺(インド)、唐(中国)から飛来してきた九尾の狐の化身であった。帝は日に日に衰弱し床に伏せるようになり、これを陰陽師の阿倍泰成が見破り、上総介広常と三浦介義純が狐を追いつめ退治したところ、狐は巨大な石に化身し毒気をふりまき、ここを通る人や家畜、鳥や獣に被害を及ぼした。これを源翁和尚が一喝すると、石は三つに割れて飛び散り、その一つがここに残り「殺生石」と伝えられている。」とのことです。
 殺生石のある付近一帯は、硫化水素などの有毒な火山ガスが絶えず噴出し、鳥獣が亡くなることもあるためこのような伝名称となっているとのことですが、芭蕉も「奥の細道」では「石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す」と記しています。
その殺生石が2022年3月5日、ほぼ中央から刃物で切ったように真っ二つに割れた状態で見つかり、SNSでは「封印されていた九尾の狐が解放された」などの書き込みがあったそうです。地元では早速、しめ縄を交換したそうですが、以前に比べて大幅に観光客が増え、この割れた殺生石をモチーフにした様々なグッズまで販売されているそうです。地元の人にとっては、不吉どころか吉となったとのことでした。
 「奥の細道」とくれば山寺のお話も。山寺は正しくは宝珠山阿所川院立石寺(りっしゃくじ)といい、寺名には「石」の字があります。そこで「立石寺」という名の由来を山寺芭蕉記念館のA学芸員に尋ねたのですが、それはわからないと。その地形はまさに石が切り立っているような場所なので、見た目そのままに「立石寺」としたのではとの安直な推測はできるのですが。ちなみに立石というと東京では「のんべえの聖地」そして「せんべろの街」こと葛飾区立石(たていし)が有名ですが、その地名は立石様と呼ばれる石があることに由来しており、立石寺とは関係ないようです。
 とにかく「立石寺」の名称の由来は、とりあえずはわからないままですが、慈覚大師が山寺を開くにあたり、大石の上でこの地方を支配していた狩人磐司磐三郎と対面し、仏道を広める根拠地を求めたと伝えられていて、その石は「対面石」として現在も山寺駅から立石寺に行く途中にあります。その「対面石」に隣接して、同じ名の眺望のいい蕎麦屋さんがあり、ここは「せんべろ」とはいきませんが、蕎麦で一献などはいかがでしょうか。いや、屋外ならば冬の山寺を背景に、名物の「玉こん」をあてにカップ酒でなら「せんべろ」もいけるかもしれません。なかなかハードではありますが。


(→裏館長日誌に続く)