最上義光歴史館

 今年は雪が少なくていいねぇ、などと言っていたら、多少は雪が降りまして。そんな日はさすがに来館者も少ないのですが、それでも連日、数名の外国の方が来館しています。雪の降らない地域の方が雪景色を求め蔵王などに行ったついでに、当館にも寄られているようです。山形駅から歩ける距離にあり、近くには山形市郷土館という絶好のフォトスポットもあるためですが、山形駅で若干お時間がある際には、是非お立ち寄りください。
 さて、駅から当館まで、少し回り道にはなりますが霞城公園を経由すればちょうどいい散歩道となり、今の季節はまさに「冬の散歩道」であります。さてこれで「ああ、あの曲ね」と浮かんでくる方は、きっと昭和フォーク世代の方かと。当時、ちょっと人が集まるような場所や部屋には(部室とかにも)フォークギターが置いてあり、テレビ番組では白いフォークギターがプレゼントされていた時代でしたが、私自身、ここでフォークについて語るには、あまりにも貧弱なフォーク体験しかなく、例えば「フォークの神様」岡林信康のこととか、「フォークの女王」ジョーン・バエズのことなどを語れと言われても、全くお手上げです。ちなみに「和製フォークの元祖」は高石友也だったんですね。♪ぼ〜くは、悲しい受験生ぃ〜、というあれです。まさしく今の季節にぴったりです。それにしても、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞し、井上陽水が50周年記念ライブツアーで山形にも訪れるなど、当時、誰が想像したでしょうか。ということで、フォークについての蘊蓄は、この程度で許してください。
 さて、「冬の散歩道」ですが、これはサイモンとガーファンクルの4枚目のシングルで、原題は「A Hazy Shade of Winter」。直訳すれば「冬の霞んだ影」とでもなるのでしょうか(この曲のシングルCD(!!)の対訳には「どんよりとした冬の影にかすんでいる」とあります)。なんとなく山形城の別名「霞城」につながるような曲名でもあります。
 その歌詞は、人生の冬と希望を歌っている(ちょっと難解な歌詞)のですが、曲名にも歌詞の中にも「散歩道」という語はありません。まあ、原題にはない言葉を邦題に用いることはよくあるのですが。そう言えば、かつてビートルズブームの時、日本語のカヴァーがいくつか出されましたが、中でも名訳というか迷訳というか、「オブラディ・オブラダ」の歌詞にでてくる「Desmond」と「Molly」という人名を、「太郎」と「花子」と訳して歌っているのがありました(The Carnabeats)。かなり深い意訳です。
 ちなみに山形城を「霞城」と言うのは、北の「関ヶ原の戦い」とも言われる「長谷堂合戦」で、山形城の城郭が霞で隠れて見えなかったため「霞ケ城」とよばれたことに由来します。「霞ケ城」と呼ばれる城は全国にもあり、二本松城や丸亀城が有名です。二本松城は、春は桜が咲き乱れ城全体が霞に包まれたような景色になることから。一方、丸亀城は、合戦時の不利な状態になると大蛇が現れて霞を吹き城を隠した、という伝説に基づくそうです。これらに比べ山形城は単に、霞んで見えたから、ということですが、それで攻められずに済んだということで、「戦わずして勝つ」ことができた最強の城かと。
 ということで今回は、実際の霞城公園とその周辺の「冬の散歩道」の写真も何枚か掲載します。機会があれば、是非お散歩を。


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山形駅から最上義光館までの道筋を簡単にご案内します。

↑ まずは「冬の散歩道」というと、こんな感じでしょうか。


↑ 山形駅西口を出て、霞城公園の南口に行くとこんな案内看板があります。
山形駅から当館までは、駅東口から線路沿いに行くのが最短ですが、
霞城公園(山形城跡)を経由していくといろいろ見ることができます。


霞城公園に隣接して山形新幹線「つばさ」が走ります。
時折、こんな銀色の旧型「つばさ」も走ります。


霞城公園の中に入ると山形城の本丸が見えます。
普段は空堀ですが、雪が降ると水を張ったようにも見えます。


霞城公園内には元は病院だった洋館(山形市郷土館)があります。
山形市内有数の写真スポットで、特に外国の方に人気です。


霞城公園の大手門の場所に最上義光の騎馬像があります。
雪が積もると、吹雪に向かっているような像に見えます。


霞城公園の大手門を抜けると、山形美術館の前にでます。
時価総額ん百億円の印象派の絵画が常設展示されています。


山形美術館の東側に隣接して最上義光歴史館があります。
山形城の御城印や百名城のスタンプもあります。
以上、山形駅から当館までの「冬の散歩道」でした。


霞城公園の梅の花、早くもこんな具合です。

 やはり今年の冬は暖かく、当館に隣接する霞城公園では、早くも梅の花が開花しました。例年3月上旬に開花する「早咲きの梅」として知られている梅なのですが、これが今年は2月14日に開花したとニュースがありました。
 梅というと、「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」という百人一首にもある菅原道真公(菅公)の歌が有名ですが、その菅公を祀っているのが京都の北野天満宮です。その境内神域には、菅公ゆかりの梅が約50種、約1,500本あり、梅苑「花の庭」が3月下旬まで公開されています。入苑料は1,200円で茶菓子付、週末は時間を延長しライトアップしています。
 北野天満宮は全国約1万2千社ある天満宮・天神社の総本社で、入試合格・学業成就・文化芸能・災難厄除祈願のお社です。山形市内にもいくつかの天満と名のつく神社がありますが、梅とともに受験期の今が、やはり稼ぎ時でしょうか。もっとも、神だのみの受験というのも、良いのか悪いのか難しいところですが。
 さて、千年以上の歴史がある北野天満宮には、数多くの宝物が奉納されており、刀剣だけでも約100振、そのうち最上家にも伝来した「鬼切丸 髭切」など5振が重要文化財です。
 北野天満宮では、菅公の亡後25年ごとに「半萬燈祭」を行い、文化財の「再調査・研究・修繕・保存」がなされるそうです。令和9年(2027)は「菅公御神忌千百二十五年」にあたり、「太刀 銘 安綱〈鬼切丸 髭切〉」の失われた「拵え」(こしらえ)を制作、奉納することとしました。拵えとは、鞘(さや)、柄(つか)、鍔(つば)などの刀身の外装のことですが、〈鬼切丸 髭切〉には、この「拵え」が伝わっていません。
 製作にあっては実行委員会を組織し、この「拵え」の製作費をクラウドファンディングで募り、今年の1月25日に締め切りましたが、2,262人の支援により、15,000,000円の目標に対し、57,841,643円の資金を集めました。当館からも関係職員・ボランティアからの寄附を募り贈りました。
 今回の「拵え」の製作には、携帯電話やPCで使われていた金や銀をリサイクルして使用するとのことです。ちなみに、〈鬼切丸 髭切〉の「鎺」(はばき)、これは刀身と鍔の接する部分にはめる筒状の金具ですが、現在2種類あり、新しいものは純金製とのこと。「拵え」の作成費の予算は当初、10,000,000円(その他は諸経費)としており、これが5倍前後の予算規模となったわけで、純金製「鎺」などは何個でもつくれてしまいそうです。なんとなれば、純金製の鍔や柄や鞘さえも、いや、失礼しました。
 さて、「梅」と最上義光という話題に移すと、現存する義光の連歌の最初が「梅」を詠んだもので、しかも発句です。「梅咲きて匂ひ外なる四方もなし」。文禄2年(1593)2月、義光は朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にいたのですが、里村紹巴の一門が京都で春の連歌会を催すにあたり、発句を義光から届けてもらったものです。詳しくは当館ホームページの片桐繁雄著「最上家をめぐる人々♯30 【里村紹巴】」をご覧願います。
 さてここで、例により伊達・上杉両家の梅に関わる話でも。
伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰った朝鮮ウメの臥龍梅(がりゅうばい)が現存しており、国の天然記念物となっています。仙台城に植えた後,晩年の居城である若林城内に移植しました。ここは現在、宮城刑務所の敷地になっており、一般公開されていませんが、以前、ブラタモリで中を訪ねていました。
 上杉謙信は酒豪で有名ですが、一人で縁側に座り梅干しを肴に酒を飲み、親しい家臣らと飲むときも肴は梅干しだけだった、との記録があるそうです。ただ、こんな飲み方が原因したのか、重臣たちとの酒宴の席で脳出血を起こし、49歳で死去しました。なぜか梅がお気に入りだったようで、市立米沢図書館にある「上杉謙信朱印状」の朱印は、鼎(かなえ)の中に「梅」の字が記されています。また、某酒造会社では、酒豪「上杉謙信」にあやかり、純米梅酒「梅杉謙信」というのを販売しています。ウメエースギ・ケンシン、駄洒落好きの親父にはたまらんネーミングです。

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 今年度も残すところあとわずか、ということで、来年度の事業について学芸員と確認をしていました。令和6年度は山形市制135周年にあたり、各職場・施設で関連事業の開催が求められています。当館は市制100周年に開館しているため開館35周年ということにもなり、やはり何かしら記念事業のようなものを、とは思うのですが、5周年刻み程度では特別な予算などを計上できるはずもなく、でもこれを愚痴れば「足らぬ 足らぬは 工夫が足らぬ」と、物資の乏しいまま戦につっこんでいったようなときの言葉が返ってきかねません。
 この何周年記念といういわゆるメモリアルイヤーは、何か事業のきっかけにはなります。例えば最上義光公の場合、1546年1月1日生、1614年1月18日没ということで、あの、メモリアルイヤーとは当面の間、縁がなさそうです。最上義光没後400年として2013年に「よしあきフェスタ」というものを開催し、長谷堂合戦を模した合戦や、甲冑を着てのパレード、講演会や宝さがしなどが催されました。当時、市の担当課は「義光の存在と魅力をアピールすることができた。ヒーローとして33年後の生誕500年まで発信し続けたい」とコメントしていました。「その手ゆるめば戦力にぶる」という、またもや戦時中の言葉がうかんできます。
 よそ様の話ではありますが上杉謙信公の場合、1530年1月21日生、1578年3月13日没ということで、3年後ぐらいには没後450年、その2年後には生誕500年ということで、毎年鉄砲隊が繰り出す某イベントにおかれましては、「いつもより余計に鉄砲を撃ってます。」ぐらいでは、やはり済まされないかと。
 一方、歴史博物館業界においては、このメモリアルイヤーとは比べ物にならない神風のようなものが吹くことがあります。それはあの「大河ドラマ」というものですが、実際、上杉家と直江兼続を描いた「天地人」が放映された折には、当館においても普段の年の倍以上の来館者があり、いまだにこの記録を超えられません。その効果は凄まじく、当地においても、最上義光を大河ドラマに、との声があがっています。
 そこで話題になるのが配役ですが、その前にざっと主要な登場人物と物語のおさらいを。最上義光は背が高くて筋力にも優れ、連歌を嗜み京の都でも一目おかれました。その妹の義姫は、伊達政宗の母になる人。美人で大柄で勝気で、鬼姫とも称されました。義光の娘の駒姫は、東国一の美人と言われ、豊臣秀次に見初められ嫁ぐも、秀次が自刃。秀次と会うことなく処刑されました。享年15歳。
 最上家は天皇及び足利家に関係する家柄で、最上家11代目の義光は信長、秀吉、家康のそれぞれに仕えます。義光とその父の義守との間には確執があり、それに乗じて伊達家が進出したりします。近隣の領土拡大にあってはいくつかの策謀もあり、ゆえに悪名を被せられもするのですが、豊臣秀吉の「小田原征伐」に加わり出羽国24万石を得ました。しかし、「豊臣秀次事件」のこともあり、関ケ原の戦いでは東軍につきます。西軍の上杉方は、「北の関ケ原」と言われる「長谷堂城合戦」で、直江兼続らが最上軍と対峙しますが、東軍勝利の報を受け退却。義光はその戦功により57万石の大大名となります。山形城下を振興し、最上川の舟運と治水灌漑を整備します。最期は病をおして駿府まで行き家康に拝喝、翌年に生涯を閉じます。このくらいのキャラとストーリーがあればドラマは動いていくのでは。特に最上義光(1546-1614)と徳川家康(1543-1616)とは時代がまるかぶりで、57万石というのも家康の覚えめでたき故なのですが、残念ながら「どうする〜」では、かすりもしませんでした。
 そしてこのドラマを面白くするのは、実は妹の義姫です。米沢城主の伊達家に嫁いだ義姫は1567年に政宗を産みます。18年後の1985年、義姫40歳、夫の輝宗42歳の時、輝宗は二本松城に拉致されます。政宗は救出に行くも、捕らわれている父もろとも敵に銃を放ち、輝宗は亡くなります。1988年、兄(義光)と息子(政宗)が、義光の妻の実家の地で開戦、義姫はこれを止めるため戦境に小屋を建て80日間座り込みをしました。1590年の政宗毒殺未遂事件では、首謀者とされた義姫(最近では政宗の自作自演説が有力)は義光を頼って山形に出奔、28年後に政宗のところに戻ります。長谷堂合戦では、政宗に対し義光への援軍を急がせる手紙を送りました。
 戦国一の悪女とも称されますが、兄や息子らの書状などからは、兄や息子を慕い慕われた関係が読み取れます。義姫の配役にあっては兄や息子との年齢的な整合性も求められることから、まず義姫役を決めてから兄(義光)と息子(政宗)を決めていくことになりそうです。もはや義姫を主役にしていいくらいです。
 義姫の物語については、山形在住の直木賞作家である高橋義夫さんの小説「保春院義姫」や、郷土史研究家の石川藤男さんの「義姫ものがたり」などの資料もあり、シナリオや歴史考証、ロケハンも難なく取りかかれるかも。逆に、兜と指揮棒以外、何も残っていないことから、大道具・小道具・衣装については勝手放題です。義光は身長180cm以上、政宗はその21歳年下、上杉家はもちろん足利家も信長、秀吉、家康もでてくる。そして駒姫という悲劇の美少女も。ドラマとしては親子兄妹のホームドラマでも天下国家の歴史ドラマでも、あるいは過去の某番組では「戦国一のワル?最上兄妹の素顔」とのキャッチ−なタイトルもつけられたことからサスペンスでもピカレスクでもいけます。さあ、皆様が想定されるキャスティングはいかがなものでしょうか。

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「鐵[kurogane]の美2024の展示風景


綾杉のきらめき-刀工月山〜軍勝

 新年度がはじまり当館では、企画展示として「鐵[kurogane]の美2024〜綾杉のきらめき-刀工月山〜」と題し、本県ゆかりの刀工「月山(古刀)」の作品を4月3日から6月末まで展示しています。綾杉肌(あやすぎはだ)と称される独特の鍛えがご覧いただけます。戦国時代の刀剣は、当然ながら実用品であり、地産地消と言いますか、需要のあるところに生産するところができてくるわけですが、当館学芸員によると、刀剣はどこでも作れるわけではなく、まずは材料と燃料が入手できるところ、刀剣であれば砂鉄と炭が入手できることがまず条件で、そして水が大いにかかわるとのことです。
 日本刀の鉄は、日本には鉄鉱床が少ないため、花崗岩などにわずかに含まれる砂鉄を原料としました。「たたら製鉄」です。水辺に自然に堆積した砂鉄を集めたほか、山際を掻き落とした土砂を水路に流し、比重で選別する「鉄穴(かんな)流し」という方法で砂鉄を得ていました。そのための水がかかせません。また、たたらでは、燃料は「石炭」ではなく「木炭」を使用するので、近くに炭となる樹木があることも望ましい条件となります。
 月山は名水の地として有名です。環境省の昭和の名水百選にも「月山山麓湧水群」として入っており、「月山自然水」などの名称で県内のスーパーで販売されています。かつて山形市内の某百貨店では、正月初売りの時にこれを若水として来店者に無料で配っていました。実は数年前にこの百貨店は倒産してしまい、県庁所在地では初めて百貨店が消えた例となりました。しかし、その建物はいまも残っており、地下食品売り場にある井戸からは、地下水がこんこんと湧き出ています。主に建物の空調の冷却タワーに利用されていました。付近の商店街では、このようなビル用の井戸が他に何本も掘られ、一時期、地下水の汲み上げ過ぎによる地盤沈下も起きました。
 話を元に戻すと、築城においても水が重要でして、生活用水は言うまでもなく、堀の水をどうするかというのも課題となります。特に堀の水は、川から引き込むのが一般的かとは思いますが、山形城の場合は地下水で満たすことができました。ちょうど扇状地の縁にあたる場所で、築城当時は地下水が豊富に湧出していたようです。しかし一時期、地下水位が下がって空堀になってしまいました。そうです。地下水のくみ上げ過ぎによるものです。しかしその後、地下水を動力で揚水し、農業用水路からも水を引き込み、現在は水を湛えた堀となっています。
 刀鍛冶にしろ築城にしろ、水は極めて重要な立地要件になるのですが、先端産業のAI開発でも水の確保が必須条件となります。AIのデータセンターでは、日に何百万リッターの水が冷却水として必要とのこと。最近、国内誘致で話題となった大規模半導体工場も大量の洗浄用水が条件で、誘致できた場所はそもそも地下水などに恵まれていたものの、国や関係自治体は上下水道等の整備確保にそれなりの費用をつぎこんだそうです。
 ということで、今も昔も興産に水は欠かせないという話ではありましたが、最上義光にも水をありたがる言葉があります。「命のうちに今一度、最上の土を踏み申したく候、水を一杯飲みたく候」。これは、朝鮮出兵にあたり、肥前名護屋城に留まった時に郷土への想いをうたったものです。水に恵まれれば業を興し千金を手にすることもできますが、一杯の水にも千金の価値があります。ふむふむ、今回はなんかいいこと言ったような。

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桜と最上義光の騎馬像


桜と最上義光歴史館


山形城の堀沿いを通る山形新幹線(旧型)


山形城の堀沿いを通る山形新幹線(新型)

 当館近辺の桜はほぼ満開で、隣接する霞城公園(山形城)では4月13日(土)、14日(日)の両日に「霞城観桜会」が開催されます。舞子花見園遊や大茶会とともに屋台が並び、花笠踊りや仙台すずめ踊りの演舞、最上義光武将隊も繰り出します。当館では100名城スタンプを設置、御城印や最上義光フレーム切手も販売します。
 この季節、気の利いた歴史博物館では、代々伝わる蒔絵野弁当などを展示するわけですが、上杉家(上杉博物館)には「竹雀紋唐草蒔絵茶弁当」つまり蒔絵の野点道具箱一式や「牡丹唐草竹雀紋蒔絵短冊箱」という風流なものもあり、伊達家(仙台市博物館)には「雪薄竹に雀紋桜枝散蒔絵書棚」という桜柄の蒔絵の豪華な書棚や「浅葱縮緬地牡丹桜に鷲模様振袖」という豪勢な桜の図柄の着物、ドローンで空撮したような「榴ヶ岡花見図屏風」というものもあります。これに対し次々と城主が替わった山形城には、徳利のひとつも残されておらず、せいぜい最上義光の連歌に「花」を詠み込んだ句が残っている程度です。山形城の遺跡調査で出てくるのも所有者不明の皿や茶碗の破片程度で、中には金貨や金瓦も出土していますが、花見にちなんだ調度品などは望むべくもありません。梶井基次郎の作品に「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」で始まる有名な短編ありますが、桜花爛漫の山形城跡も、深く掘れば人骨もでてくるそうです。
 有名な落語に「長屋の花見」というのがありまして、そうです、柳家小さん師匠の代名詞的な噺です。長屋の店子がそろって大家を誘って上野へ花見に行くという話で、酒、肴は全部大家持ちとなったものの、1升ビンの酒は番茶を薄めた「お茶け」。かまぼこは大根の薄切り、玉子焼きはたくあん、という具合で、「お茶け」には茶柱が、「玉子焼き」はボリボリと音をたてるという噺です。さても今時の花見はどんなものでしょうか。多分、「ソロキャンプ」ならぬ「ソロ花見」というものがくるかと。道具もウルトラライトな装備で、というかワンカップに柿の種ぐらいでも十分なはずですが、ここは「火起こし」のようななんかめんどくさいこだわりがほしいところかと。シャカシャカと抹茶をたてるとか、おもむろに団子を炙るとか、そんなところでしょうかソロ花見。
 また、何の本に書いてあったか忘れてしまいましたが、花見の仕方として、自分の桜の木を決めて、毎年そこに訪れ、その木の様子とともに自分の様子を見比べる、という見方があるそうです。年々成長し、あるいは年々衰えていく姿を見つめ、そして互いが無事であることに感謝するというもの。ですが、何らかの事情でそれがかなわなくなってしまうと、ダメージが大きいような気がします。ちなみにソメイヨシノは60〜80年で老齢期に達するとのこと、いい勝負です。
 あこがれる桜の見方としては、桜前線とともにひと月近く、日本列島を北上して見に行くというもの。なんとも贅沢な花見です。実際にこれをやってブログなどでレポートしている方がいたりします。退職後は自分もこんな旅をとも思いましたが、時間は何とかなっても、経済的にとか体力的にとか留守宅の管理とかの面倒もあり、なかなか思うにまかせません。花より団子とは言いますが、花見旅行中は、ついでにその土地の名物でもとは思うのですが、別にサンドイッチにビール程度でも十分なので。まずはとりあえず漂泊の俳人、種田山頭火の句でも。「さくらさくらさくさくらちるさくら」、さきちるさくらにくらくら、ということで。



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最上義光公フレーム切手

 最近、地元の郵便局が「最上義光公フレーム切手」というのを企画し、84円切手10枚のシートを1,330円で限定500シートを販売したところ、市内関係郵便局では早々に売れ切れ、全国でのネット販売分も1ゕ月もたたずに売れ切れ売れたようで、当館取り扱い分もわずかとなりました。当館分は全て買い取り制で、100枚のうち8枚以上売れ残れば赤字になるため、当初は慎重姿勢ではあったのですが、赤字にならずに済みそうです。
 さて、博物館にとってこうした物販収入は、近年ますます重要になっているのですが、売れ残りなども考慮すると、そうそう好き放題にできるものでもありません。当館の場合、基本的には受託販売が主で、直売品は研究資料や図録程度です。
 山形県内のミュージアムショップで最大なのは、水族館を別にすれば、上杉博物館でしょうか。歴史博物館としてのグッズはあらかた網羅しており、米沢織物などもあります。伊達グッズを扱う仙台市博物館のショップもまた品揃え豊富で、お土産を買われる団体客で賑やかです。それらに比べるまでもない当館は、ささやかな展示ケースに物販品を並べるのみです。
 さて、こうしたグッズとしては、絵葉書や栞、ボールペンやキーホルダーなどが定番でしたが、最近はあまり多くをみかけません。今はクリアフォルダや一筆箋、マグネットなどが定番商品となっており、最近ではマスキングテープやアクリルスタンド、そしてカプセルトイいわゆるガチャなどが人気のようです。当館もガチャが設置できるほど収蔵品があればいいのですが、まあ、缶バッチ程度であれば種類をかせぐことができるかもしれません。特に「家紋」の缶バッチは手堅いです。最上義光の兜のオリジナルピンバッチなども、特に外国の方に人気です。
 戦国時代を扱う博物館のキラーアイテムには「刀グッズ」というのがあり、当館でもキーホルダーの刀などを置いています。以前、刀型の「ようかん和菓子ナイフ」というものを見つけたのですが、予算の都合で見送らざるをえませんでした。かわりに最近、物販担当者が仕入れたのは、伸び縮みする全長70cmのプスチック製の刀「漆黒刀」というものです。その名のとおり刃も柄も全て黒いので、柄にひし形で赤色を着色すれば、あの鬼を倒す刀剣のようになるらしいです。密かに売れています。
 さらに戦国時代を扱う博物館としては、「花押グッズ」というのも有力です。バッチやキーホルダー、スタンプ、一筆箋などの一連の商品展開ができそうです。あくまでも「例えば」なのですが、伊達政宗公の花押は鳥の形のようなことから「セキレイ」と呼ばれ人気がありますし、上杉謙信公の花押もかなりのインパクトがあります。最上義光の花押は、歴代の足利家との区別が難しい、いわゆる足利様式という極めてオーソドックスなもので特徴に乏しいのですが、印判はなかなかに面白いデザインで、現在、来館記念スタンプのデザインに用いています。
 こうしたグッズで個人的に好きなのはスノードームです。ガラスの玉の中に建物などの模型が入っていて、雪のような粉がちらちら舞うあれです。正しくはスノーグローブといい1889年パリ万博で登場したエッフェル塔のもので人気が広まったとのこと。そう言えば昔、東京タワーのスノードームが土産品によくありました。昨今は、水族館とクリスマスの時期ぐらいしかお目にかかれません。それでも、このスノードームには熱狂的なコレクターがいて、また、自作する方もいるようです。「最上義光の騎馬像」とか「最上義光歴史館」などのスノードームが欲しいところです。そうそう、山形城址内にある山形市郷土館「旧済生館本館」なら、スノードームがピッタリかもしれません。
 以前、雪の降る旧済生館本館を描いた絵が切手になったことがあります。こちらはあたりまえの記念切手で、「1982年近代洋風建築シリーズ第4集」として発売されたものです。ちなみに「旧済生館本館」は、あの漫☆画太郎先生の仕事場となって描かれてもいます(「漫故☆知新」第一話表紙)。是非、当館も先生の仕事場のひとつに加え描いていただけたらと。湾曲した建物、和洋折衷の石庭、モデルが同一人物の二体の裸婦像、どうでしょう。当館の学芸員も、何気に先生の愛読者です。


近代洋風建築シリーズ「旧済生館本館」

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