最上義光歴史館

関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【三 幕府開設の頃】

 慶長八年(1603)三月廿一日、徳川家康は将軍宣下御礼のため上洛[注1]、征夷大将軍に任ぜられる。この時の参内行列の中からは、義光の姿は見出だせないが、公家の日記などにも「神君征夷大将軍宣下之刻三月伏見へ参上」とあり、義光も家康の上洛に付随していたことが分かる。伊達政宗も正月から在府しており、江戸にいた嗣子忠宗も、伏見にて家康に御目見を果たしている。上杉景勝は米沢に在り、この二月から江戸桜田屋敷の普請が始まっている。
 この家康の将軍宣下に係る一連の行事の中で、公家・諸大名達を二条城に招き、能楽を饗したのは四月四日のことで、そこには義光の姿もあった。

四月四日庚寅、霙、八時分雨、殿中御能有之間、冷同道、早朝ニ参了、辰下刻、先朝有之、事済々事也、次大樹(家康)御出座、次相伴衆各被参了、……出羽侍従、最上…(欠字)等、下之段足付也、[注2]

 そして、家康が京・大坂での行事を済ませ、伏見を発し江戸へ向かったのは十月十八日である。義光の四月以降の行動については定かではないが、この年の八月に国元で起きた嫡子義康暗殺事件に、注目せねばならないだろう。義光のこの時期は国元に在ったであろう。
 『筆濃餘理』などに、義光が庄内の狩川館主の北館兵部に宛てた書状がある。
 
近日庄内へ下向間、其本之路次中宿等之儀、無油断可申付候、日限之事重而申遣候、恐々謹言
 六月十日   義光(花押)
  北館兵部少輔とのへ
  同 大学とのへ
 
 この書状は、義光の庄内下向の日時と警護の打合わせに関わるもので、これは鶴岡城普請に際しの義光の鶴岡入りとして、慶長八年(1603)頃ではとしているので、これが事実とすれば、義康暗殺事件に極めて近接した時期であったろう。翌九年八月、松前藩が幕府へ鷹献上に際し、その通行手段としての駅伝の朱印を受理している。その際に経路の諸大名に宿泊や餌などの便宜を計るべく「奉書[注3]」授けている。その大名の中に義光の名
が見えることから、義光の在府していることが分かる。
 また徳川家に近侍の次男の家親は、秀忠の嫡子竹千代(家光)の三七夜の席に招かれているのも、この八月のことであり、家親を通して徳川家との親密さの一端を伺うことができる。
 慶長十年(1695)四月、家康は将軍職を秀忠に譲る。秀忠は将軍宣下を受けるため上洛、二十六日の参内行列の武者達の中に義光の姿もあった[注4]。この年の正月末は暖気、二月三月旬共寒、中でも十二、二十三日比打つつき、三度大霜、草木為之凋、というような極めて不順な天候の中での上洛であった。その行列を覗くと四番手の位置に義光の姿があった。そして、秀忠の新将軍としての上方での諸行事を済ませ、上洛した諸大名達に暇を与え帰国を許したのは、五月十一日のことである[注5]。
 このように、東北の大名達も帰国を許される中で、義光の京を離れたのはいつ頃であったろうか。在京中の三月二十二日と翌月の二十四日に、義光は公家の舟橋秀賢の来訪を受けている。秀賢は明経家学の継承者として、当時の天皇・公家を始め多くの武家衆とも交遊を持ち、家康とは役儀のみならず頻繁に交遊を重ねていた。連歌の素養もあり、禁中、公家間での連会などにも度々顔を見せている。義光との出会いについても、その日記『慶長日件録[注6]』に詳しい記述がある。この日記から、義光が連歌や書を通し、公家との交遊関係の一端を知ることができよう。そして、京での私的な面での日々を持ちながら、帰国の途に就いたのはいつ頃であったろうか。この年の五月十二日、下対馬守と志村伊豆守を従え、金峯権現に参拝したというから、それまでには帰国したものと思われる。
 併せて、この秀忠の上洛には家親も付随している。そして、従五位下・侍従に叙任したのはこの時である。これは秀忠の将軍就任に伴うもので、池田・前田・細川・最上という、関ケ原戦で積極的な働きを見せた大名家に限り、いわば功賞のひとつであった。
■執筆:小野末三

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[注] 
1、「義演准后日記」(『大日本史料』12編之l)
三月廿一日晴、今日、将軍家康上洛、帰路見物驚目了、来廿五日、将軍宣下御礼ノ参内、
2、「言経卿記」(『大日本史料』12編之l)
3、「松前文書」(『大日本史料』12編之2)
4、『寛政重修諸家譜』
十年台徳院殿御上洛に供奉し、四月二十六日将軍宣下の拝賀として、御参内の時も扈従す、
 「慶長十年御参内行列記」(『大日本史料』12編之3)
盛大な行列の最後尾の八番・塗輿之衆の中に、伊達、秋田氏などの中に、最上侍従の名がある。
5、『当代記・巻三』
此比今度上洛之関東衆、依将軍仰、先立手思々下国、十五日、将軍家関東下向、
6、「慶長日件録」(『史料纂集』)
廿二日、伏見へ右幕下御見廻ニ行、御対面也、次右府(家康)公へ参、御対面有御振舞、次最上殿(義光)へ行……廿四日……午刻御取置ニ参内、次大樹へ参、次最上義光へ行、有晩喰、古今古本被見之、
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【五 慶長十六年の江戸城普請の頃】

 慶長期もやがて終りを告げようとする頃、それは義光も体力の変調からくる肉体の衰えは、それは多方面に渡っての政治的活動にも、多少の変化を与えたのではなかろうか。『当代記』〔十三年条)に、慶長十三年五月頃、義光の在府を伝える記録がある。そこには諸国大名達の献上物の記録の中に、義光と重臣の坂紀伊守の名が見られる。

五月三日 拾    御帽子  最上出羽守
五月八日 五つ   御小袖  最上出羽守
九月九日 百枚   銀子   最上出羽守
九月九日 五拾把  最上綿  坂上紀伊守

 ここに坂紀伊守の名が見られるが、紀伊守は義光とは常に行動を共にしている人物で、義光亡き後も家親の身近かに仕え、重要な立場にあった人物である。この年の義光は、昨年の普請手伝い以来、引き続き在府していたのであろうが、消失した慈恩寺の再建に尽力した義光が、三重塔が同年八月に完成の後、翌年の四月に千部会[注1]を行ったというから、この時期には在国していたのであろう。
 嫡子の駿河守家親は、その身分は幕臣の一員の如く、同十五年と三年後の正月には、恒例の御謡初めに出席、また琉球王の参府に際し、その奏者役を勤めるなど、江戸での華やかな動きを知ることができる。これらは、晩年期に入った義光にしてみれば、更なる最上家繁栄への道として、歓迎すべきものではあったろうが、これが嗣子としての家親と国元との間に、いつしか疎遠関係が生まれてくるのも、致し方のないことであろう。
 この年の工事については、『当代記』は次のように記している。

十六年辛亥三月朔日辛工ヲ起ス、実ハ六日丙午ノ着手ニ係ルト云フ、奥州及信州、関東ノ大名、仙台城主伊達政宗、若松城主蒲生秀行、米沢城主上杉景勝、山形城主最上出羽守、久保田城主佐竹義宣、……助役大名伊達政宗等ハ、自ラ臨テ工事ヲ督シ、将軍秀忠亦殆卜工事ヲ巡視ス、

 このように、北からは伊達・佐竹・最上など、前回から引き続いての助役であった。幸いにその詳細については、「伊達政宗記録事蹟記[注2]」に伊達家の工事進行状況が語られている。その中に義光も再三登場している。この時期、義光は在府していたことが分かる。

三月六日、天気快晴、御普請土取始申候、
三月十日、快晴、台徳院御普請場江披為成候、
三月廿三日、雨小ふり、され共御ふしん仕候、将軍様も御出候、佐渡様も御出候、殿様(政宗)も御すきニ御出、御とをり被成候、又したゝめにやとへかへりに、ふしんはへ御出候間、まかり出候へハ、いろいろ御懇切の御意とも候、またひた殿(蒲生)・景勝(上杉)殿、出羽(義光)殿、御奉行衆より、ほりのわりをあるへく候間、わり衆出し申候、
三月廿八日、天気よし、五ツ時、将軍様御出、川島と御意被下候……殿様(政宗)も御出被成候、少おそく候て、将軍様へあひ御申なく候……人足よるまかり出候間、ひた殿・景勝・出羽殿御奉公申合、夜明申候而、人そく出し申ニさため申候、
四月六日、天気くもり、風吹、将軍様御出被成候、……将軍様御成被成候て、御ことは被下候、御なわはり近頃見事之由被仰出候、佐州さま仰ニハ、ひた殿・景勝・出羽殿へも申理へくよし仰候、
四月廿日、朝より曇り、将軍様御出被成候、殿様(政宗)よき処へ御出、一段御仕合ニ候、四ツ比より少々ふり申候、ひる頃皆以人そくあけ申候、出羽殿丁場ニ而、土よせを申候、くちおしきよし申候、

 この伊達家の記録から、最上家も他の東北大名達と同様に、手伝いを命ぜられたことが分かる。この工事は七月には終了しているが、藩主達をはじめ、将軍も度々現場に姿を見せていたことが判る。またこの年の三月には、これと並行して全国の大名・小名二百数十名にも禁裏修造の役を課している。
 八月、義光は駿府の家康を訪れている。これが単なる時候の挨拶であったのか。「八月二十二日、出羽山形城主最上義光、鴻ヲ家康ニ進ム、家康、之ヲ献ズ」とあり、家康はこれを禁中に献上している。また九月にも家親も駿府入りをして、大鷹を献上している。
■執筆:小野末三

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[注]
1、『寒河江市史・中巻』(寒河江市・平十一年)
2、『東京市史稿・皇城篇』
3、「慶長十六年禁裏御普請帳」(『大日本史料』12編之7)
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【一 はじめに】

 ある人は「残忍義光」という。それは山形郷土史会に絶大なる影響力を持ち、信ずべき『公史』に義光憎しの風評を植え付けた、一部の学者の仕業であった。義光の反体制側にある者達への採った行動を、これを義光個人の為せる業として、最大の非難の言葉を浴びせたのではないか。
 時は戦国の世であったことを、忘却なされたのではなかろうか。羽州の一武将「残忍義光」の為せる業が、それが中央を目指す武将達の、避けては通れない過程の一つであることを、認識すべきではなかろうか。時の権力者の豊臣秀吉、そして徳川家康との結びつきが功を奏し、これが慶長五年(1600)の関ヶ原戦に勝利した家康との、長年の友誼関係が実を結び、念願の庄内の地をも掌中に収め、五十数万石の大名に登りつめたのも、これも義光の器量の為せる業として、「残忍」の二文字を償却してもよいのではないか。
 さて、関ヶ原戦から三年後の、家康の征夷大将軍への就任による、大名達の江戸への集中化の中で、義光の羽州を離れての、中央での活躍振りはどのようなものであったろうか。
 しかし、その全貌を捜し出す手立てを、最上家改易とともに諸史料などの離散により、殆ど失うという結果になってしまった。しかし、それでも義光の私的な記録の稀薄さは当然ながらも、多少でも公的な場での動きを追いながら、その晩年期の関東での動きを追って行きたい。
■執筆:小野未三

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【四 慶長十一、二年の江戸城普請の頃】
 
 慶長十年(1605)暮、幕府は翌年三月に開始する江戸城普請手伝いを、諸国大名に命じている。幕府の大名達に発した年寄「奉書[注1]」から、秋田藩宛のものを取り上げてみる。

態令啓上候、御領分之人足、千石ニ付而壱人宛之積を以、
江戸城御普請被仰付候間、来年三月一日至于江戸参着仕様ニ、可被仰付候、為其如此候、恐々謹言
    大久保相模守 忠隣
    本多佐渡守  正信
 秋田侍従殿
       人々御中

 この年の助役は西国筋の大名が占め、東北・出羽などの大名の参加は無かったようだ。『当代記』には「関東在囲之衆は、去年将軍上洛し給、依造作普請赦免、但去年留守居不上洛の衆、千石に一人つつ人夫を出す」とある。秋田藩が直接、工事に参加したのは十二年であった。
 「最上家譜」が云うには、「十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普請之御役相勤候之節」、また「寛政重修諸家譜」も「十一年江戸城の普請をうけたまわり、御書三通を下されて労はせたまふ」と、藩の参加を示唆している。だが『当代記』によると、「当月朔日(十二年閏四月)より江戸普請、関八州并安房・信濃・越後・奥州・出羽衆行之、関東衆百万を二十万石宛五年に分、八十万石にて石をよせ、廿万石にて殿守之石垣被築、奥州衆伊達政宗、米沢長尾景勝、会津蒲生飛騨、最上山縣出羽守、今秋田に住の佐竹、云々とあり、十二年参加の東国大名達の名を挙げている。ここで十一年の普請手伝いの様子を見てみよう。

慶長十一年二月、大名関東へ下り、江戸城石垣ヲ築、其々ノ町場ニ大名等タチツケヲ著シ、自身爰ニ居ス、台徳公朝夕両度ツゝ御普請場へ御歩行ニテ御廻リ遊ハサル、御城初ノ御普請故、欺アルヘキ事、大名等モ尤ノ事也、戦場之役ヲ勤ルトハ、御普請御手伝役ハ、物ノ数ニモオラサルヘシ、扨此節マタハ諸士未タ屋敷ナキ故、町屋ニ宿ス、[注2]

 このように、大名達は直接普請場に出向き、工事を督励していたのであろう。この時期は藩自体の屋敷も完備されてはおらず、家臣や多くの人夫達の宿舎の確保も、大変な仕事であったであろう [注3] 。「最上家譜」に、次のような秀忠からの書状がある。

(前略)
同十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普君之御役相勤候之節、
(イ)
就其許普請、差越使者之苦労之程察恩召候、猶口上申含候也、
 五月十二日  秀忠 (御黒印)
最上少将とのへ
(ロ)
為普請見廻差越使者、炎天之時分苦労之程察思召候、将又帷子如目録遣之候、猶之候、猶口上申含候也、
 六月廿一日  秀忠 (衛黒印)
  最上少将とのへ
(ハ)
来翰令被閲候、然者今度普請延引ニ付而之差上候者共、自路次罷帰候由尤候、被入念候旨早々示預、本望之至候、猶期後音之時、 恐々謹言
 六月廿八日  秀忠 (御判)
  最上出羽守殿

 この三通の書状のうちから(イ)、(ロ)は「最上少将」宛となっているが、義光の少将叙任は慶長十六年(1611)以降であるから、これはそれ以後の普請の際に下されたものと考えるべきである。これが「最上家伝覚書」では、(イ)は「五月十三日、御黒印、最上侍従とのへ」と。(ロ)は「最上侍従とのへ」。(ハ)は「家康御判」としている。このように、同じ最上家側の記録とは申せ、何時しかこのような誤りも生じてくるようだ[注4]。
 『出羽三山史料集』には、「初ニ義光庄内ヲ切取納後、慶長十一年六月最上出羽守義光、羽黒御参詣有り」と、六月には在国している。
 「武徳編年集成」(『東京市史稿』)は次のようにいう。
 
朔日江戸城本丸ノ天守修造始ル、伊達・蒲生・上杉・最上・佐竹・溝口・掘・村上・等是ニ与ル、天守台二重目ハ伊達政宗一人ニテ是ヲ修造ス、天守台石垣ハ南部。津軽両家是ヲ築ク、関東及ヒ信州御譜代ニ非サル十万石ヨリ一万石ノ輩、其高都合二百万石ヲ五組トシ、其四組石ヲ運送シ、一組ハ是ヲ築ク、

 この十二年の工事開始は前年度を引継ぎ、閏四月に始まっている。伊達家は天守閣の築造と、最上家と同様に掘開削にも従事している。またこの年は駿府城の二度目の工事も始まっている。『当代記』は次のようにいう。
 
此比、駿河為普清、越前・美濃・尾張・三州。速江衆下る、上方衆去年江戸普請に被下衆、此度駿河へ悉相下、是は何も一万石二万石、或は千石二千石とりの小身の衆也
 
 この工事は七月には一応の完成を見るが、暮に失火で消失、改めて完成したのは翌年の十月である。初めの完成時には朝廷、諸大名の祝賀を受け[注5]、義光も「慶長十二未七月、神君駿府江御移之節、参府恐悦、国許ノ土産献上」と、「最上家譜」はその駿府入りを伝えている。
■執筆:小野末三

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[注] 
1、『江戸幕府の制度と伝達文書』(角川書店・平十一年 高木将作)
2、「君臣言行録」(『東京市史稿』)
3、『千代田区史・上巻』(千代田区・昭三十五年)
毛利家文書によると、家臣の普請役割当てを総数2,988人として、十一年正月には1,980余人が萩を出発、これも軍役の一種として藩から補助があるとしても、家臣達にしては大きな経済的負担となり、この江戸勤番を果たすために負債に苦しられ、藩自体も京・堺の商人から多くの金子を工面したという。
4、『山形県史・第二巻近世編上』(山形県・昭六十年)
この書状については、慶長十一年義光が人足を途中で帰国させ、将軍より与えられた感状である。普請延期とはこの年は西日本の大名達による普請であったので、最上勢はすぐ帰国したのではといっているが、「最上少将」についての疑念は示していない。
5、『史料綜覧』(慶長十二年七月条)
駿府城修築ノ功竣り、家康、之ニ移ル、尋テ、太刀・馬ヲ家康ニ賜ヒ、政仁親王モ亦、太刀・馬ヲ賜フ、秀忠・豊臣秀吉及ビ諸大名等、各大名達、冬物ヲ進メテ賀ス、
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【六 少将叙任の頃】

 義光の念願の少将への遭が開けたのは何時であったか。
 『寛政重修諸家譜』は、「慶長十六年三月二十三日、東照宮御参内有て、広忠卿の御贈官を謝せらる、このとき、少将に任ず」とある。また他にも同じような記述があるが、果たして事実であったのか。当時の公の文書や個人の記録等から、この年の義光叙任の記録を探しだすのは難しい。『武家官位記』や『武家補任』にはその記録は無く、見落としもあるとは思うが、しかし、『続撰武家補任』には、慶長十六年三月叙任の記録がある。
 この年は、三月に始まった江戸城普請、そして禁裏修造と、諸国大名達にとっては経済的負担を強いられた年でもあった。駿府を出立した家康が二条城に入ったのは三月十七日、そして二十・一日の両日に叙任の栄に浴した者達は徳川一門[注1]であり、それ以外の大名達の記録は見当たらない。
 昨今の文禄・慶長期に於ける「武官官位」に関する研究書[注2]を拾い読みすると、管見の限りに於いて、義光の私家史料の記事を是認、一方では叙任の証となる「口宣案」と公家「日記」等をもとに、諸家の叙任記録に疑問を呈するものと、大きく二通りの見解を示しているように思われる。このような中で、義光の十六年三月叙任は間違いではなかったか、それに疑問を投げかけるような史料も、散見するのである。
 先に公家の舟橋秀賢が義光と親交があったことを述べた。その秀賢が同年十月の参府に際し、将軍秀忠の催した猿楽の席に招かれ、義光も同席していることが、秀賢の日記は伝えている。

廿一日、朝、払暁冷認、黎明登城、即猿楽相始、大夫ハ今春・妻少進法印両人也、………伊達息子・橘左近・毛利宰相・最上侍従・加藤左馬助、其他大名衆相伴也、入夜前大樹へ参、備前女中より雁一ツ給之、

 この時の「最上侍従」とは義光なのか、それとも家親なのか。二日後の日記に見られる「最上侍従」とは、当然、家親のことであるから、前者の侍従とは義光を指しているものと考えてもよいのではないか。

廿三日、佐久間備前守へ朝 ニ行、次三縁増上寺へ見物ニ行、晩最上駿河守へ行、滌(扇)五筋遣之、対面畢、参前大樹(家康)、

 秀賢の日記は、この十月の時点に於いて、義光を侍従としていことは、秀賢は未だ義光の少将叙任を知ってはいなかったのか。それとも筆の誤り侍従としたのか。
 明けて十七年正月、家康が発した法令三ケ条を定めた誓書[注3]は、最上侍従としている。

   条々
去年四月十二日、前右府様如仰出、任右大将家以来代々将軍方式、可奉仰之、被損益而、重而於被出御目録者、弥堅可守其旨事、
(二ケ条略ス)
右条々若有背輩者、被遂御糾明、速可被処科者也、如件。
 慶長十七年正月
津軽越中守 会津侍従 丹羽宰相 南部信濃守
秋田侍従 越前少将 安房侍従 立花侍従
米沢中納言 最上侍従 大崎侍従

 この「誓書」については、数本の写しを参考にしたが、『上杉御年譜』のみ日付を十五日にしているが、内容は同じである。大崎侍従とは伊達政宗の事で、既に少将に任ぜられている。この最上侍従にしても、一国の藩主でもない家親に比定するのは無理であり。義光のことである。この「誓書」の最上侍従とするのは誤りで、最上少将とするのが正しいのではないか。
 地元に残る義光関連の「寄進状」の多くには、「慶長十七年六月四日 少将出羽守」と、圧倒的に慶長十七年六月には少将に叙せられていることを示している。また鶴岡の日枝神社に義光寄進の「鰐ロ」・「鉄鉢」にも、「慶長十六年辛亥四月十四日 少将出羽守義光」の著名がある。また他にも例を見ることから、少将叙任の時期は慶長十六年三月であろう[注4]。

出羽国庄内櫛引郡鶴岡山王之霊地久怠点処加再興殊奉納鰐口上下之社者也
慶長十六年辛亥卯月四月十四日
少将出羽守義光敬白

 また、この年の八月十二日発給の、少将叙任に関わるものかと思われる複数ある文書から、その一部を取り上げて見よう。

  最上出羽守義光書  秋田長山文書
 御位の御志うきとして、わさとまてにさし上申され候、御めてたふ
一、銀子   三匁
一、あふき 一本 なか山わかさ
   以上
慶長十六年
  八月十二日(小黒印)たちま
            ミの

 この叙任の祝儀として家臣達に与えた「目録」であろうが、その叙任の喜びを共に分かちあえたことであろう。大名やその嫡子の官位叙任に際しては、藩内では江戸と国元で一年かけて盛大な祝が為されたという。その時には、藩主から家中へ御祝儀が振るまわれ、また家中からも藩主へ御祝儀献上もあった。これらは近世前期から行われており、官位叙任は家中をも含め大きな慶事[注5]であった。
■執筆:小野末三

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[注] 
1、『史料綜覧』(慶長十六年三月条)
2、「近世武家官位制の成立過程について」(『史林』七四巻九号・平三年 季 煌)
李は家康・秀忠の時期は、将軍宣下・上洛と大きく関連があるという。それが慶長十六年の従四位下以上の叙任については、吉良義弥を除き、家康上洛の三月廿前後にとり行われたしており、義光の名も挙げている。
 「慶長期大名の氏姓と官位」(『日本史研究』四一四号・平九年 黒田基寿)
黒田は慶長期の諸大名とその嗣子の叙任について、年代別に示しているが、義光の叙任の記録もある。
 「天正・文禄・慶長年間の公家成・諸大夫一覧」(『栃木史学』七号・平五年 下村 效)下村は「武家補任や「寛政譜」などの誤りが多い事から、「口宣案」や「公家」日記などの確かな史料により、大名の官位叙任を拾っていくしかない。総じて諸家の「寛政譜」など、特に天正・文禄・慶長初期については、信頼しがたい部分が少なくない、と述べている。
3、「諸法度」(『大日本史料』12編之9)
4、『山形市史・史料編l』
5、「近世武家官位試論」(『歴史学研究』七〇三号・平九年 掘 新)
関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【七 最晩年期を迎えて】

 最晩年期の慶長十七・八年頃の義光は、江戸での公儀へ「誓書」提出の正月五日に始まる。義光に残されたこの二年余の年月は、病躯を押しての領国経営の仕上げの時期であった。それはそれは庄内での開拓事業の根幹となる灌漑用水路の開削事業は、三月に始まる北館大堰の工事を以て、一応の幕を降ろしたといえよう。
 十七年正月、公儀に「誓書」を提出した義光が、帰国の途に就いたのはいつ頃であったか。それは三月に始まる大堰開削に併せての帰国だったのか。義光の北館大学宛の書状[注1]を見てみよう。

(イ)
おって京都ニて存もよらぬ我等くらいの事、御所様よりおほせ出され、くわふん忝なき事、かたかたにまんそくの事、尤ニ候、
  以上
藤十郎さうさうしやうし出候へは、よき事とまんそく候、殊にゆわ井のよしにて、たるさかな内て・中たてめんめんにさし上候、則五月一日をゆわい候へハ、そさうニ候へ共、かたひらとらせ候、端午ニちやしく候へく候、何事もめてたく、かしく
  五月一日   出
   北館大覚(学)とのへ

(ロ)
こゝもとかはる事なく候ゆかしくあるましく候、江戸するか(駿河)御しつかに候へく候、  以上
つるおか(鶴岡)のしよたうく(諸道具)風すかし候ハんためニ此もの共相下し候、さて又そこもとふしんなにほと出候や、心もとなく候へハ、かれらもとりの時分くハしく可承候、めてたくかしく
  五月九日   出
   北館大覚とのへ

 また、次の十八日付の書状[注2]には、「此時分気相も能候ハゝ罷下見候ハゝ、皆々も悦我々のなくさみに成候ハン物をと呉々残多候」と、気分も良いのでそちらに赴いたならば、皆も喜ぶだろうが、それも出来ない残念さを述べており、暗に体調の悪さを伝えているようだ。次の七月二日付の書状[注3]は、義光が大石田から清川に下ることを伝えている。そして、七月の末には開削工事の完工を見たのであるが、八月五日の書状には、その功を賞すると同時にこの月の十八日には参府することを伝えている。
 この今年初めての参府は、体調も思わしくなかったのか在府期間は短く、大学宛の十月廿七日付の書状[注4]から察すると、もうその頃には帰国していたようにも思われる。義光は今年は雪も多く大変だろうから、来春三月の中頃には山形に来て、積もる話しを聞かせてくれと、書き伝えている。
 この年、義光は国元の個人や寺院に対し、六月四日付の「寄進状[注5]」を多く発給している。そこには少将出羽守の署名が見られる。暮の十二月に始まる禁中仙洞普請の助役に、最上家も招集されている。上杉家の記録には、禄高に応じて銀の拠出が為されたとあり、労力の他にそれなりの負担を強いられたのだろう。
 翌十八年の正月を国元で迎えた義光は、四月に入って参府した。新年の江戸表は大名達による恒例の参賀、そして駿府へと華やかな年の初めとなる。しかし、この年の初めには義光の姿を見ることはできない。義光の江戸入りは四月に入ってからである。一月三日には、多くの国持ち大名の使者が駿府を訪れている[注6]。そこには最上家の使者の姿もあった。

三日、於御座処三献之御祝、宰相殿、中条将殿、少将殿、御装束、国持衆名代、献御太刀御馬、羽柴肥前守利家、米沢中納言景勝………最上出羽守義光……(後略)

 この時、義光は未だ山形に在った。これが義光も新年には駿府に入り、駿府築城の祝辞を述べ、太刀と馬を献上して帰国したというが[注7]、それは誤りである。また駿府城の新築はもう五年前のことであり、改めて祝辞を述べる必要もないであろう。
 この時、伊達政宗、上杉景勝などは新年を江戸屋敷で迎えている。最上家の使者は誰が勤めたであろうか。坂紀伊守であったろうか。
二月十三日付の秀忠よりの書状[注8]がある。内容からすると、新年の献上品に対しての謝辞かと思われる。

為音信蝋燭弐百挺、銀子五十枚、并黒之馬壱疋到来、入念候段歓思候、将又所労無油断養生肝要候、猶本多佐渡守可申候也、 恐々謹言
  二月十三日  秀忠(御判)
   最上少将殿

 このように、慶長十八年(1613)の正月を病床で迎えたであろう義光が、病躯を押して参府したのは四月に入ってからだ。それは林光宛の書状[注9]からはっきりする。

(長文のため前文は省略)…江戸へ十八日ニ上着候、即刻従御城預御使者、色々過分之御諚共にて、翌日御前へ被召出、仕合無残所候而、早々令下国、気相養可致之由、御意共ニ候へ共、これ迄参、駿府へ御見廻不申候者、如何と存、今日江戸を相立、加の川迄着候義ニ候、於駿府にも弥以仕合能、頓而加致帰国候、気相も少々験気に候、御祈念故と存事候、猶以無油断御祈祷頼入候、尚帰国之上直々可申理候、恐々謹言
  卯月廿六日  義光(小黒印)
林 光様

 義光は四月十八日に江戸に入り、翌日には早々に登城し秀忠に会う。秀忠は義光の体調を安じたのであろう、早々に帰国せよとの事。しかし、義光はここまで来て駿府を尋ねないことにはと、今日(廿六日)江戸を出て加の川(神奈川宿)まで来たことを告げている。しかしこの時、義光は駿府入りを果たしたであろうか。文面から察るに少しは元気になったとはいっているが、病躯を押しての長旅である。果たして駿府へ入ったのか。それには大変な気力を必要としたであろう。こゝに五月二十日付の家康からの書状がある。

  出羽守就病気、使者差上候刻、被成下御書候、
   御書之写
銀子弐百枚・蝋燭三百挺并鶴到来、入念候歓思召候、所労養生肝要也、猶本多佐渡守可申也、
  五月廿五日  家康(御黒印)
最上少将殿

 また、佐竹義宣へ宛てた四月晦日付の書状[注10]には、「気相之事少々験気之分ニ候、此儘早々好御座候可と存申候」と、少しは元気になったことを告げている。また義光の甥の松根備前光広が、熊野権現に義光の病平癒を祈る「祈願野[注11]」がある。

  以上
最上出羽守義光就煩、神馬壱疋并鳥目百疋奉納候、於御神前、御祈念頼入迄候、猶彼使者可申述候、 恐々謹言
  八月廿日  白岩備前守
             光広 (花押)
熊野那智
 御別当 御宿所

 この「祈願書」は、帰国した義光の病状を察した光広が、その平癒を願ってのものではなかったか。そして、義光の江戸・駿府への旅はこの年が最後となったのである。天正以来、常に家康の庇護のもと羽州の大守としての地位を勝ち取った義光である。気力を振り絞っての江戸、駿府への道を歩んだのであろう。『古今武家盛衰記』は次のようにいっている。

義光の曰く、我死遠からじ、我家康公の厚恩を得ること年久し、之に依って最期の御目見せん、各用意せよと、家人等之を諌む、義光聴かず、俄に内立ち同年九月駿府へ赴く、此事先立ちて家康公聞き給ひ、本多上野介正純を上使とし、途中迄遣され、労らひ給ひ、本丸式台迄、乗物似て参るべき旨仰越さる、義光関悦し、上野介同道にて登城するに、御居間迄召寄せられ、種々御懇志の詞、且病体を問ひ給ひ、御手づから御茶を賜はり、急ぎ帰国し心の儘に補養すべし、帰国の道なれば、江戸へも立寄り、将軍へも対面すべしとて、自筆の御書を添え遣さる、其文に日く、

今度出羽守不厭老病、今生之為暇乞令参府候条、諸事御懇意専一候、 以上
  九月廿一目  家康
   秀忠公へ

斯く認め義光に預け給ふ、義光感涙を催し退出すれば、押付け上使を以て、御夜着呉服并御菓子等を賜ふ、夫より義光江戸へ赴き、先立ちて家康公の御書を上る、此時も途中迄上使あり、御玄関迄乗輿にて登城、又御懇意の仰数々あり、偖御小袖金銀等腸はり、早々帰国し補養すべしと、御直に暇賜けりれば、翌日江戸を立ちて十月上旬山形へ到着し、今は思ひ置く事なしと、大いに喜ばる、終に慶長十九甲寅年正月十八日逝去、六十九歳、

 義光の駿府入りは九月に入ってからであろうか。先の林光宛ての書状には四月廿六日に駿府への道を取り、加の川(神奈川宿)まで来たといっている。しかし、このまゝ駿府へと歩を進めて行ったのか。家康はこの月の十七日には関東へ放鷹の旅に出かけ、二十七日には江戸城に入っている[注12]。義光の駿府入りはいつ頃であったのか。
 師走の十七日、将軍からの書状は、家親の江戸での役儀三分之一免除を知らせるものであった。それは義光への暖かき配慮を示すものであった。

所労験気之由弥養生尤ニ候、然者駿河守参在江戸の条、年来之役儀三ケ一免除候間、可得其意、猶本多佐渡守可申也、
  十二月十七日  秀忠(御判)
   最上出羽守とのへ

 この年の義光にとっては、念願の羽州の大半を掌中に収め、更に将軍家との深き繋がりを築き挙げたという満ち溢れた歳月であったろう。そして、明けて十九年正月十八日、波乱に満ちたその生涯を閉じる。六十九歳。
「梅津政景日記」 
正月廿九日、出羽守様御死去之様子、館岡(楯岡)宿にて承届候、十八日に御死去被成候と、在々まてふれまハリ候由、
「最上家伝覚書」 
慶長十九寅歳正月廿五日、権現様相州小田原御働座被遊候刻、去十八日出羽守少将義光死去仕候由、同名駿河守家親飛脚差上候、本多佐渡守殿則言上之、駿河守儀急致下着、仕置等可申付旨被仰出、則帰国仕候、
■執筆:小野末三

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[注] 
1、「北館文書」(『山形市史・史料編1』昭四十八年)
2、「狩川八幡文書」(1と同じ)
3、「本間美術館所蔵文書」(『最上川土地改良区史』昭五十三年)
4、「最上川土地改良区文書」(3と同じ)
5、『山形市史・史料編1』昭四十八年
6、「駿府記」(『大日本史料』12編之10)
7、『山形の歴史』(昭三十九年 川崎浩良)
8、この書状の発給年月については、『山形市史・史料編1』所収の「家譜」は三月とするが、『大日本史料』や『徳川実紀』などは二月とする。
9、「慈光明院所蔵文書」(1と同じ)
この年の正月に江戸入りを果たせなかった義光にとっては、寒気の去った時期を待ってのことであったろう。将軍は義光の身体に気を使い、早々の帰国を進めた。義光は駿府を訪れるべく、神奈川宿まで歩を進めた。そして、この書状を認めたのだ。 文中の「加の川」とは「神奈川」のことである。先の舟橋秀賢の日記にも、「十三日、晴、早朝出大磯到着藤沢、過富塚(戸塚)、狩野川(神奈川)、到品川投宿」とあり、中世から近世初頭の頃は、加の川ともいっていた。
10、「佐竹氏記録」(『大日本史料』12編之10)
この書状には、佐竹義宣が三月の晦日に駿府に至り、家康に会い金子・時服などを献上、四月九日に江戸へ下り、七月十一日に帰国の途に就いたとあるから、この書状は江戸にて交わしたものであろう。
11、「熊野夫須美神社文書」(『大日本史料』12編之13)
12、『史料綜覧』慶長十八年九月条
十七日、家康関東ニ放鷹セントシ駿府ヲ発ス、廿七日、家康江戸ニ著シ、江戸城西丸ニ入ル、諸大名、之ニ謁ス、