最上義光歴史館
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【氏家伊予守定直・尾張守守棟/うじいえいよのかみさだなお・おわりのかみもりむね】 〜信頼厚い譜代の重臣〜
「どうぞ親子の争いをおやめください。最上のお家は義光様に任せるのが一番です。」 元亀元年(1570)に義光が家督を嗣ぎ、新たな政策を実行しはじめた段階で、家臣団が父義守派と嫡男・義光派に分かれて対立、領内が混乱におちいった。このとき、病床の氏家定直はこう言って、主君義守をいさめた。 その事情は5月15日付けの義守(入道して栄林)書状によってわかる。 「さてゝゝ此口之儀者、氏家存命不定之刻、意見に及び候条、諸事の不足をさしおき、親子和与せしめ候。定めて祝着たるべく候や」 現代語では「こちらの方では、氏家(伊予守)が生死のさかいにあるときに、意見してくれたことから、いろいろ問題はあっても、親子和解したところだ。まずは目出度いこととしてよいだろう」となる。 義守としては、不満はあれども喜んでいいことと、自分を納得させている文面である。 定直の忠言に従って義守は一旦は政治の世界から引退し、龍門寺に入った。 文献史料を見ると、氏家定直が最上家の重臣として活躍をはじめるのは、義光が生まれる前の天文12、3年(1543、4)ごろからで、主君義守が20歳を過ぎたばかりの時期にあたる。若い山形の主を、定直は懸命に支え続けてきたのである。だからこそ、その病床からの意見には、剛毅な義守も従わざるを得なかったのであろう。 仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏の研究によれば、15世紀前半の当時、米沢の伊達氏と最上氏が外交折衝をするときは、定直が後見となっていたとのことで、「義守政権の宿老で第一の重臣」の地位にあったという。 さらに筆者の意見を述べるなら、その名字の「定」は、さらに前代の「最上義定」から拝領したのではないか。だとすれが、義定の没年とされる永正17年(1520)以前からの、譜代の家臣だということになる。 * * * 義光時代に活躍する氏家尾張守守棟は、定直の子であろう。父が主君の名の一字をもらったのと同じく、彼も義守から「守」一字を拝領したと考えられる。ついでだが、その子「光棟」、孫「親定」もまた、「義光」「家親」の一字をもらったのだろう。 『最上記』によれば、守棟は常に義光の側近にあった。義光が領域拡大の戦いを積極的に進めていった時代、谷地の白鳥氏、寒河江氏、天童、上山の里見氏等との戦いには、さまざまな計略を進言して、成功を収めたとされている。 それだけではない。主君に対して厳しい苦言を呈したこともあった。 永禄年間(1565前後)に、貴志氏が篭もった八ツ沼城(朝日町宮宿)を攻めたとき、義光は真っ先かけてめぼしい敵と渡り合おうとする。一軍の総大将が勢い込んで走り出るのを、兵士たちは「とんでもないこと」と引き止めるが、義光はそれを振り切って進み、例の鉄棒を振り回して相手を仕留め、首を取った。 そのとき、傍に駆け寄った氏家守棟は、「大将ともあろう方がそんな雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と、厳しく叱り付けた。義光は叱られてしょげかえり、取った首をかたわらにいた兵に与えてしまった。 まさに信頼厚い重臣なればこそである。 『奥羽永慶軍記』では、義光を「ソノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ」と称賛したのに続けて、「誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ」と、守棟を「志村九郎兵衛(伊豆守光安)」と並べて最上家の最重要な家臣として位置付けている。 守棟は、まさに義光の出羽南部統一事業をささえた大功労者であった。 『最上義光分限帳』には、その子「高壱万七千石 氏家左近」が出ており、城下絵図で見ると、山形城二の丸東大手門の前、元の県立病院の敷地一帯が氏家の屋敷であった。山形城内で最も重要な所に居住していたわけである。守棟の子光棟は、義光の娘「竹姫」を妻とするが、これは別項にゆずる。 山形市平清水の大日堂に、氏家相模守光房が「諸願成就」を感謝して寄進した鉄鉢がある。この人物も、伊予守、尾張守に連なる人物であろう。「慶長六年閏月(この年は十一月)二十八日」とあるから、出羽合戦で勝利を収めた記念でもあろうか。参考までに、尾花沢市六沢の円照寺観音堂に延沢康満が奉納した絵馬も、同年、同月「十七日」の銘がある。この月、山形領内では祝勝パーティーでもあったのか、あるいは戦後の論功行賞が発令されたのかもしれない。 話かわって、古く14世紀の南北朝時代、新田義貞が越前で戦死したときに、その首を取ったのは斯波氏の家来の氏家重国だと『太平記』にはある。このとき新田義貞が佩いていた太刀が、めぐりめぐって最上家に伝えられた名刀「鬼切丸」であるとされる。 斯波氏は現宮城県北部に居住して「大崎」を名乗り、最上家はその分家として出羽最上に入った。両家には共に「氏家」を名乗る重臣がいた。 どうやら氏家氏は、斯波氏、最上・大崎両家とは切っても切れない深いつながりがあったらしいのである。 ■■片桐繁雄著 |
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【松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ】 〜俳人・松根東洋城の先祖〜
義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878〜1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。 故里の故里淋し閑古鳥 青嵐三百年の無沙汰かな 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。 ■■片桐繁雄著 |
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【本城豊前守満茂/ほんじようぶぜんのかみみつしげ】 〜秋田南部を舞台に活躍〜
弘治2年(1556)生まれ。義光より10歳年下。弟だろうという説もあるが、どうやらそうではなく、分家筋の最上一族と見るほうがよいようだ。 『奥羽永慶軍記』『羽源記』などによると、義光の領地拡大作戦や領内支配にあたって、仙北地方(横手・湯沢付近)や由利郡など、現在の秋田県南部を主な舞台として大活躍している。 はじめ楯岡城主として「楯岡」を名乗ったとされ、仙北地方が最上領になった一時期は湯沢を本拠としたために「湯沢豊前守」と称されたこともあった。 最上義光が関が原合戦の後、慶長7年5月に由利地方を与えられてからは、その地方の政治をまかせられ、本城城(現本荘市)を築いて政治の拠点とした。今残る城跡も城下の町並みも、満茂の建設が基礎となっているわけだ。 彼の支配した領地は、最上家の分限帳で見ると実に4万5千石、最上一族、家臣団のなかでは最高の石高である。越後村上や津軽弘前に匹敵する堂々たる大名クラスである。最上の家臣でありながら、秋田の佐竹氏や津軽家とは、まるで対等の大名同士のような付き合いをしていたことが秋田藩の記録類からうかがわれる。さらに、この地域には豊かな金山があったところから、大きな財力をもっていたと想像されるが、これは今後の研究課題としよう。 ちなみに、秋田県側には「本荘市」という地名は、「本城豊前」の姓にちなむという説があり、そうだとすれば最上一族の名字が市の名として残ったことになる。だが、その反対に「本荘」城主になったからその地名を姓にしたと見るほうが妥当かもしれない。 最上家が改易になったとき、満茂は幕府の閣僚であった酒井雅楽頭忠世(前橋藩主)にあずけられた。「預け人」とは、政治的事件に連座して身分地位を剥脱され、大名家に預けられた人物である。そういう身の上ではあったが、満茂は大勢の家来を引き連れて前橋に移転した。その後は酒井家の家臣として召し抱えられたが、知行は本人千石、その家来たち2千石、合わせて3千石という待遇であった。 寛永16年(1639)1月21日没、84歳。宗家の主だった義光の69歳、義姫の76歳も長命なほうだったが、満茂はそれにまさる長寿にめぐまれたわけだ。 その墓は前橋の長昌寺にあり、子孫が姫路に移転してからも、代々墓所をたいせつに守りつづけてきたといわれる。 ■■片桐繁雄著 |
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【楯岡甲斐守光直/たておかかいのかみあきなお】 〜兄・義光のために祈った〜
「立石寺の薬師様の御前に、鰐口一箇を寄進します。そのわけは、出羽の国守、義光公の寿命が長く息災にて、文武ともに久しく発展するよう祈願するものです。」 慶長13年(1608)10月26日の銘がある巨大な鰐口には、このような内容の漢文がしっかりと刻みつけられている。願主は「山形甲斐守源光直」、義光の弟の祈りのことばである。 光直は一門の家老として、楯岡城主、1万6千石を与えられていた。 この年の前後から、最上義光の領国内は、明るい発展のムードがみなぎってくる。 山形専称寺、宝幢寺、鶴岡極楽寺には京都の「天下一道仁」の鋳造した鐘が納められ、羽黒山の五重塔や慈恩寺の三重塔が落成し、加茂の港は整備され、鶴岡三日町にはじめて橋がかけられ……と、出羽は新たな時代へと変わっていく。 華やかな桃山文化が、ここ出羽の国につぎつぎと移入され、うつくしく花を開かせはじめていた。 光直だけでなく、最上家の重臣たちもきそって、寺院や神社に土地、建物や美術品などを寄進して、領内の平和と発展を祈願した。 この鰐口は、そのころの様子を物語る貴重な史料の一つであり、現在は立石寺の宝物として県文化財の指定を受けている。 だが、最上家の繁栄を願った光直の祈りもむなしく、1622年(元和8)最上家はわずか一万石で近江に移されてしまう。 光直は、幕府の命令で山形を離れ、九州小倉城主細川忠利に預けられることとなった。 忠利は、江戸から国もとの家臣にあてて、わざわざ手紙を書いた。(『細川実記』) 「甲斐守が小倉に着きしだい、百人分の手当てをせよ。宿舎はしばらくは寺をあてるように。家は自分がそちらに行ってから申し付ける。……家来を百二、三十人も連れているのだから、その心得をするように」 奥羽の雄藩、最上家の改易は、諸大名にとって大きな驚きであったのだろう。手紙につづけて、「光直ハ最上義守ノ次男ニテ、義光ノ弟、其姉ハ伊達政宗ノ母堂ナリ」と注があるが、そういう人物を預かるのはやはり大変なことと受けとめられていたのである。 光直はやがて出家して「哲齋」と号し、七年後の寛永6年(1629)5月21日に病没する。年齢は65歳、71歳、二つの説がある。 近くの柳川(福岡県)には、最上家後継ぎ問題で対立した一族の松根光広が住んでいたはずだが、顔を合わせる機会もなかっただろうと思われる。 光直の子孫は、細川家が熊本に移ったのちも千石を与えられ、代々同家に仕えて明治維新を迎えた。 ■■片桐繁雄著 |
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【山野辺義忠/やまのべよしただ】 〜水戸徳川家の重鎮となった〜
最上義光が巨大な人物だったことは言うまでもないが、その血を分けた息子たちのなかにも、非常にすぐれた人物がいた。 四男山野辺義忠(改名前は光茂)は、その筆頭に挙げることができるだろう。 天正16年(1588)生まれ。父義光43歳であった。 幼名を比治利丸(ひじりまる)と称したという。義光のほかの子等同様、系図類には生母として「某氏」とあるだけだが、おそらくは正室大崎夫人の所生かと思われる。夫人は40歳に近かったのではあるまいか。 義光の子供たちの生年を見ると、長男義康は1575年生まれ、松尾姫・78年、駒姫・81年、竹姫・84年、それにこの光茂は88年生まれ。異論はあるかもしれないが、14年間に生まれたこの5人を同腹としても矛盾はない。 家親(義光没後、山形城主)と光氏(後清水城主、義親)は、ともに1582年(天正10)生まれで当然異母兄弟、駒姫とは1歳違いの弟に当たる。 家親の実母は、慶長3年(1598)12月14日逝去「高月院殿妙慶禅定尼」と最上家過去帳に記載がある。光氏は天童夫人(天正10年10月12日没)の子らしく、彼の領した清水(現大蔵村)の興源院が母子の牌所となっている。 これら七人の兄弟姉妹からずっと離れて、光茂とは11歳違いの五男光広(1599生、後上山城主)、六男大山光隆(1602生、後大山城主)、徳島で亡くなった女子(旧東根城主、後徳島藩家臣、里見親宜の妻)がいるが、この3人は義光の最後の妻となった、30歳ほど年下だった清水夫人の生した子ではあるまいか。 さて、四男が義忠を名乗るようになった時期ははっきりしない。山形で見られる名乗りは「光茂」である。鶴岡市の高木家、松山町石川家の慶長年間と推定される文書や、山辺町専念寺、山形市千手堂吉祥院、朝日町大谷大行院の文書など、すべて「光茂」である。 慶長5年の出羽合戦のときは、13歳の少年であったから、戦陣には加わらなかったと見え、水戸徳川家の『水府系纂巻第三十八』には「関原ノ證人ト為テ神君(徳川家康)ニ参リ静謐ノ後従五位下ニ叙シ右衛門大夫ニ任セラル」とある。人質として家康のもとに預けられたというわけだが、その折家康は「将来恐るべき怪童」と評したという。どこか並々ならぬ素質を具えていたのであろう。 関ケ原戦後は山野辺家の名跡をつぎ、右衛門大夫を称し、1万9千300石を領した。山野辺は、山形の北西7キロメートルばかりの所にあり、本城を支える重要な城池であった。領地の範囲は、現在の山辺郷周辺の平野部と白鷹丘陵の山間地、及びその西の最上川が峡谷となって北流する五百川郷(現朝日町)を含む範囲だったらしく、最上家改易のとき接収された朝日町の八ツ沼城は「山野辺右衛門の内」と伊達文書に記載されている。 15歳そこそこの少年でありながら重要な一城をあずかったのも、それなりの器量の持ち主だったからであろう。もちろん、すぐれた家臣団があってのことと推測される。伝承によると、光茂は現在の大石田町深堀で育ち、山野辺に入部するに際して連れてきたという、いわゆる「深堀三十六人衆」と称される人々が家臣団の中核をなしていた可能性もあるが、これについては今後の更なる検討が必要だろう。 後藤禮三氏の研究をもとに、山野辺城主時代の業績を箇条書きにすれば次のようになる。 1 山野辺城の拡張改修 2 城下町の建設と市の開設 3 釣樋堰の開鑿など灌漑治水事業 4 神社仏閣の護持 5 交通路の整備 最上家改易(1622)までのおよそ20年、山野辺の青年城主としてこれらの事業を成し遂げ、城下町山野辺を小規模ながらも山形の衛星都市として完成させたのである。 57万石の大大名となった奥羽の重鎮最上義光は、しばしば長期にわたって京都、江戸などに滞在しなければならなかった。そういうとき、留守をまもって領内政治を取り仕切ったのが、確かな史料があるわけではないが、近くに居城を持つ山野辺光茂ではなかったか。 ともあれ、彼がすぐれた力量の持ち主だったことが、後にお家騒動の原因となったのは、まことに皮肉な巡り合わせであった。 義光亡き後藩主となった兄・駿河守家親が元和3年(1617)3月に急病で亡くなると、その子源五郎家信が12歳で山形の主となる。家信は江戸生まれ、江戸育ち、全国有数の57万石の大封土と、大名クラスの重臣をはじめとする多数の家臣団を統治するには力不足だった。(以下、別項と重複することをお許し願いたい。) 「義俊(当時は家信)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠(光茂)をして家督たらしめんことをねがう」と、『最上氏系図』(寛政重修家譜)は述べている。 このとき、義忠は30歳であった。一族・家臣団の多くは、信望あつい彼に最上の未来を託そうとしたのだった。むろん、義忠自らも領内の最高権力者、責任者となって、出羽国を発展させることに、強い自信を持っていたに相違あるまい。重臣のほとんどが彼を推した。中心となったのが義光の弟楯岡甲斐守光直、千軍萬馬の勇将として知られる鮭延越前守秀綱。 一方、これに強く反対し「家親の死は、楯岡らの陰謀による毒殺。源五郎家信こそ正統」と幕府に訴え出たのが、一族の老臣松根備前守光広であった。だが、幕府はこれを無根の説と退けて、彼を九州柳川の立花家に預けた。そのうえで重臣たちを呼び出し「皆で最上家を守り立てよ」と説得したにもかかわらず、重臣の多くはこれを拒否した。 最上のトップたる義忠が、並み居る幕府閣僚を前にして何を語ったかは知ることができないが、自己の主張信念を曲げることはなかっただろう。 元和8年8月、最上家は改易となった。 多くの家臣は禄を失って流浪するものが少なくなかった。 このときに義忠は、岡山池田家に預けられた。ここで約12年を過ごし、寛永10年(1633)9月、三代将軍徳川家光じきじきの命令によって、水戸徳川家の家老として1万石で仕えることとなった。類まれな処遇というべきだろう。 水戸藩主頼房は、やがて三男千代松(1628〜1700)の教導役を命じたそうである。 非行少年と心配された千代松は、青年時代から急速に変貌をとげ、仁義の大道を歩むようになる。そうして、ついには名君・水戸光圀公と仰がれるようになるわけだが、その蔭には山野辺義忠の豊かな薫陶があったのであろう。 頼房が没する(寛文元年/1661)と、光国(のち、圀に改む)が藩主となる。これを見届けたのち義忠は隠居して仏門に入り、道慶と号する。 義忠の後を嗣いだ義堅は、光圀の妹である利津姫を妻に迎えている。その後も山野辺家は、幾度か主家と縁組を重ねている。改易のとき九州細川家に預けられた楯岡甲斐守光直の孫が、山野辺家の養子となったという奇しき因縁もある。最上義光の血筋は、こうして水戸徳川家を支える名門として伝えられたのである。 茨城県那珂市にある常福寺は、水戸徳川家の菩提寺で、浄土宗の名刹として知られている。境内の入り口には、山野辺家の墓所がある。巨大な五輪塔が四基立ち並んでおり、右端が義忠の供養塔である。牌記は「良源院殿前堅門貞誉松座道慶大居士」。 山形にも、山野辺家にゆかりある小堂がある。 立石寺奥の院近く、中性院前にある「最上義光公霊屋」がそれである。 これを建立したのは、たぶん山野辺義忠であろう。年次不明6月晦日の千手院別当あての光茂書状に「今度山寺にて玉屋(霊屋)直し申し付け……」とあるが、これは義光没後まもないころに建てた霊屋が破損したので、修理するよう手配したものであろう。 また、館林市に伝わる『山形風流松木枕』には「宝暦十三年(一七六三)二月七日に、義光公百五十年忌、この御子孫(義忠の子孫)より御弔いあり」という記事があるが、これはたぶん山寺の霊屋のことであろう。水戸に移ってから百五十年たった後にも、山野辺家は先祖のふるさと山形との縁を大切にしていたのである。もっとも、この年は義忠の百年忌にもあたっていたので、その供養も兼ねたのかもしれない。 霊屋内には、義光・家親二代の位牌を中に、山野辺義忠親子三人の位牌も納められている。義忠の牌記は次のとおり。 「義光次男従五位上 山野辺右衛門太(ママ)夫義忠 寛文四天極月十四日午ノ上刻」 「次男」は誤記かどうか。正室が生んだ男子としては、次男に当たるという意味か。 寛文四年は1664年。「極月」は12月。午ノ上刻は正午少し前ごろ。77歳、堂々たる生涯であった。 東根家に嫁いだ腹ちがいの妹が、遠い徳島で亡くなったのは同年8月のことだが、お互いにそういう事実を知ることができたのだろうか。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



形に影の添うごとく、最上義光の側にあって出羽の統一と繁栄に尽力した家臣として、志村伊豆守光安は特筆すべき人物であろう。『奥羽永慶軍記』では、義光の柱石として、氏家尾張守守棟とともに志村九郎兵衛をあげている。後の伊豆守光安である。
「ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ。彼等ハ皆君臣ノ礼アツクシテ、国治マリ、栄耀家門ニ及ボシ給フ」
と、まさに絶賛の対象となった人物である。
出自は明らかでないが、成沢・谷柏・柏倉など山形周辺の郷村名を名字とする最上家臣が少なからず存在するところから、彼も漆山地区志村(山形市北部)の出であろうかと推察される。年齢も不祥。活躍の時期と没年から推して、主君義光に近い年齢だったかと思われる。
天正5年(1577)ごろ、谷地の領主白鳥十郎長久が、義光を殺して出羽を自分の領地にしようと、中央の権力者であった織田信長のところに使者を派遣し、
「わが家こそ斯波兼頼以来、代々出羽国の守護職を務めた家柄」と、鷹と馬を献上する。
信長は遠い出羽のことなど知らなかったから、その言い分を受け入れたという。
伝え聞いた最上側は、放っておけぬとばかり、こちらも信長へ接触する。この時に使者となったのが、志村九郎兵衛光安だった。光安は、献上品として青鷹一居、駿馬一頭、名刀工「月山」の鍛えた鑓二十本(十本とも)ともども、最上家の系図をたずさえて上京し、信長に謁する。信長は光安に面会して、白鳥の言い分を偽りと断定、「最上出羽守殿」として返書を与えたという。
この話は江戸時代の文献にあるだけで信憑性はとぼしいが、光安が最上家にとっていかに重要な存在だったかを物語るとはいえるだろう。
その後、白鳥を討伐することになるが、ここでも氏家と志村の策謀と活躍が語られる。
天正12年(1584)、白鳥十郎は義光によって誅殺される。続いて寒河江氏、天童の里見氏も、義光の制圧するところになるが、どの戦いでも志村伊豆が大きな働きをした。ついで、最上郡方面に兵を進め、鮭延越前守秀綱と戦うが、ここでも「秀綱を殺すな」という義光の意を体して、光安はその城外脱出を見逃している。
光安が最も注目される働きをしたのは、慶長5年9月のいわゆる長谷堂合戦であろう。寄せくる上杉の大軍を向こうにまわし、長谷堂城に篭もって持久戦に持ち込み、山形の本城と町を戦火から守りぬいたのである。この戦いは、畑谷落城9月13日の翌日から始まっているが、光安は援軍として派遣された鮭延秀綱らとともに、しばしば上杉軍を翻弄した。
9月末に、関ケ原の戦いで東軍・徳川家康側圧勝となった結末が報らされると、直江兼続のひきいる上杉勢は撤退する。この追撃戦の激烈さは、両軍あわせて2千を超える戦死者を出したことでも想像できるだろう。ちなみに、関ケ原の戦死者は、6、7千だったとされており、長谷堂合戦は、全国的に見ても、実は関ケ原につぐ大合戦だったのである。
山形最上方の城塞のほとんどが落城あるいは空け逃げだったのに、たいした損害も出さずに長谷堂城を守り通した功績は、抜群のものだった。
直江退去の10月1日、ここで慶長出羽合戦は事実上決着している。
このとき、撤退した直江兼続は、大きな失態を演じた。庄内から最上に攻め入って、谷地城を占拠してここに篭もり、総大将兼続からの山形城総攻撃の命令を今か今かと待ってていた下治右衛門吉忠のところに、撤退の連絡をしなかったのである。
吉忠とその率いる兵たちは、兼続から置きざりにされて孤立してしまったのだ。
そこを最上の大軍が包囲する。援軍を期待できない情況でも上杉方は篭城して交戦しようとするが、義光は「次右衛門は武勇の誉れも名高き者、特に庄内のことに詳しい人物であるから、なんとかして降参させて味方にしたい」と、光安に交渉を命じる。
夜に入って光安は、独り谷地城に入る。
「関ケ原では西軍が大敗し、上杉の大将直江殿は会津に帰られた。貴殿一人が義を守り、数多い兵士とともに戦い死にたりとて、何の益かあるべき。義光公も貴殿を惜しみなされて、拙者を遣わされたのである。降参なされば必ず礼をもって厚く遇する」と、理を尽くして降伏をすすめた。下一族はその熱誠にうたれ、また直江が何の連絡もなく撤退したことへの反感もあって、ついに軍門にくだった。「志村という武将は、敵に対して絶対偽りを語らぬ」という相手方の高い評価も作用したらしい。
「口才人ヲクジキ」という『永慶軍記』の記述どおりであった。
下一族は、その後庄内尾浦城(鶴岡市大山)を落とし、翌年4月には酒田城攻略にも大きな働きを見せる。
慶長6年(1601)、戦功を賞されて、志村光安は庄内の最上川北3万石酒田城主に大抜擢される。この石高は、最上家臣としては最上一族の本荘満茂の4万5千石に次いで第2位である。広大な平野があり、最上川口には古くからの港がある。その重要な所を、志村光安は任されたのである。下吉忠は、田川郡1万2千石大山城主となり、名乗りも下対馬守康久と称することとなる。降将への処遇として類少ない手厚い処遇といえるだろう。
酒田の志村、大山の下。この二人が、庄内地域に数々の事績を残すこととなる。
光安は、戦火で荒廃した酒田の町づくりに努める。町の指導者として重きをなした三十六人衆と協議し、経済活動を重視した都市計画だったとされる。強い西風、それによる災害への対策、商人職人の居住地、寺町の配置を工夫し、さらに港の機能を充実して、「羽州第一の港町」にふさわしいものとした。
城も当然復旧した。土塁のなごりは、東高校の敷地に残っている。城内に祀られていた山王宮を移建して、酒田町の鎮守とした。今の日枝神社である。長谷堂城主時代に菩提寺だった曹洞宗清源寺から峰岩呑鷲和尚を招き、新たに青原寺を建立した。
酒田繁栄の土台は、志村光安によって固められたといってよいだろう。
慶長8年、義光は新たな領地となった庄内の二つの重要拠点、酒田東禅寺を「亀ケ崎」、大宝寺を「鶴ケ岡」と目出度い名に改めた。庄内の末永い発展を願ったのである。
最上家では、慶長17年までに庄内の検地を完了したが、並行して古来の神社仏閣の復興にも力を入れた。これにも、志村伊豆守が大きくかかわっている。
慶長10年、鶴岡市の金峯神社本社、13年、同釈迦堂、羽黒山五重塔などの大規模な建造事業を差配したのが、光安だった。下対馬守もいっしょに協力したことが、残る棟札から知られる。
光安の人柄がよく表れた手紙がある。年次未詳、10月3日付。家普請をしている家来四人にあてたもので、
「壁の下地は念入りに、どうせなら台所も造れ。風雨のひどい時分で大変だろうが、しっかりやれ。大工衆にもご苦労と、申しつたえてくれ」という内容である。
具体的な状況が今ひとつはっきりしないが、工事にたずさわる大工衆へも、思いやりを見せていることは読み取れる。
慶長14年かと推定される「用度帳」断片に、二月二十日「(銀)拾匁は上方へ点取りに代金として」、二月三十日「四十三匁は、しょふたく(里村昌琢)へ御音信」と記された部分があるそうである(川崎浩良「山形の歴史」345p)。「点取り」とは、批評を受けること、「御音信」とは、ここでは「おみやげ」ぐらいの意味であろうか。最上一統の気風として、光安もまた、連歌をたしなんでいたらしいのである。
天童市若松観音堂に、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」(重要文化財)がある。永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部に「志村九郎・・」という落書が見える。天童攻めを終えた天正12年(1584)後のいつの日か、参詣した光安が、なにげなく筆をとってわが名を書き付けたのであろう。
慶長16年(1611)8月7日没。主君に先立つこと3年である。年令不明。その後を九郎兵衛光惟がついだが、慶長19年6月1日、鶴ケ岡城下において一栗兵部に襲殺された。その係累と思われる人物が安藤対馬守へ預けられ旨の注記が『最上義光分限帳』に見えているが、詳しいことはわからない。
妻は元和年間には健在だったと見え、『山形城下絵図』三の丸南東部に「志村伊豆守後室」の屋敷があった。僚友であった坂紀伊守光秀の後室も近くに住んでいた。最上家重臣の妻たち、夫に先立たれた二人の女性の間に、どんな交流があっただろうか。
酒田青原寺の裏庭に立つ古風な二基の五輪等が、志村伊豆守夫妻の墓である。
彼が領した飽海郡遊佐町、庄内平野の北はずれ、鳥海山の裾野に落伏(おちぶし)の小さな集落がある。集落の東台地には曹洞禅の古刹永泉寺(ようせんじ)がある。伽藍の間を行くと、奥まった木立のなかに、一基の石造九重塔が建っている。風化した塔の四面には、「奥大日本出羽州□□□君侯前豆州太守為天室良清公大禅定門 士卒等謹就于永泉精舎建立石塔一尊以供養…」の刻まれているというが、実物からはなかなか読み取り難い。
彼を慕う家臣たちが建立したもので、山形県文化財に指定されている。
■■片桐繁雄著