最上義光歴史館

【本城豊前守満茂/ほんじようぶぜんのかみみつしげ】 〜秋田南部を舞台に活躍〜

 弘治2年(1556)生まれ。義光より10歳年下。弟だろうという説もあるが、どうやらそうではなく、分家筋の最上一族と見るほうがよいようだ。
 『奥羽永慶軍記』『羽源記』などによると、義光の領地拡大作戦や領内支配にあたって、仙北地方(横手・湯沢付近)や由利郡など、現在の秋田県南部を主な舞台として大活躍している。
 はじめ楯岡城主として「楯岡」を名乗ったとされ、仙北地方が最上領になった一時期は湯沢を本拠としたために「湯沢豊前守」と称されたこともあった。
 最上義光が関が原合戦の後、慶長7年5月に由利地方を与えられてからは、その地方の政治をまかせられ、本城城(現本荘市)を築いて政治の拠点とした。今残る城跡も城下の町並みも、満茂の建設が基礎となっているわけだ。
 彼の支配した領地は、最上家の分限帳で見ると実に4万5千石、最上一族、家臣団のなかでは最高の石高である。越後村上や津軽弘前に匹敵する堂々たる大名クラスである。最上の家臣でありながら、秋田の佐竹氏や津軽家とは、まるで対等の大名同士のような付き合いをしていたことが秋田藩の記録類からうかがわれる。さらに、この地域には豊かな金山があったところから、大きな財力をもっていたと想像されるが、これは今後の研究課題としよう。
 ちなみに、秋田県側には「本荘市」という地名は、「本城豊前」の姓にちなむという説があり、そうだとすれば最上一族の名字が市の名として残ったことになる。だが、その反対に「本荘」城主になったからその地名を姓にしたと見るほうが妥当かもしれない。
 最上家が改易になったとき、満茂は幕府の閣僚であった酒井雅楽頭忠世(前橋藩主)にあずけられた。「預け人」とは、政治的事件に連座して身分地位を剥脱され、大名家に預けられた人物である。そういう身の上ではあったが、満茂は大勢の家来を引き連れて前橋に移転した。その後は酒井家の家臣として召し抱えられたが、知行は本人千石、その家来たち2千石、合わせて3千石という待遇であった。
 寛永16年(1639)1月21日没、84歳。宗家の主だった義光の69歳、義姫の76歳も長命なほうだったが、満茂はそれにまさる長寿にめぐまれたわけだ。
 その墓は前橋の長昌寺にあり、子孫が姫路に移転してからも、代々墓所をたいせつに守りつづけてきたといわれる。
■■片桐繁雄著
【楯岡甲斐守光直/たておかかいのかみあきなお】 〜兄・義光のために祈った〜
   
 「立石寺の薬師様の御前に、鰐口一箇を寄進します。そのわけは、出羽の国守、義光公の寿命が長く息災にて、文武ともに久しく発展するよう祈願するものです。」
 慶長13年(1608)10月26日の銘がある巨大な鰐口には、このような内容の漢文がしっかりと刻みつけられている。願主は「山形甲斐守源光直」、義光の弟の祈りのことばである。
 光直は一門の家老として、楯岡城主、1万6千石を与えられていた。
 この年の前後から、最上義光の領国内は、明るい発展のムードがみなぎってくる。
 山形専称寺、宝幢寺、鶴岡極楽寺には京都の「天下一道仁」の鋳造した鐘が納められ、羽黒山の五重塔や慈恩寺の三重塔が落成し、加茂の港は整備され、鶴岡三日町にはじめて橋がかけられ……と、出羽は新たな時代へと変わっていく。
 華やかな桃山文化が、ここ出羽の国につぎつぎと移入され、うつくしく花を開かせはじめていた。
 光直だけでなく、最上家の重臣たちもきそって、寺院や神社に土地、建物や美術品などを寄進して、領内の平和と発展を祈願した。
 この鰐口は、そのころの様子を物語る貴重な史料の一つであり、現在は立石寺の宝物として県文化財の指定を受けている。
 だが、最上家の繁栄を願った光直の祈りもむなしく、1622年(元和8)最上家はわずか一万石で近江に移されてしまう。
 光直は、幕府の命令で山形を離れ、九州小倉城主細川忠利に預けられることとなった。
忠利は、江戸から国もとの家臣にあてて、わざわざ手紙を書いた。(『細川実記』)
 「甲斐守が小倉に着きしだい、百人分の手当てをせよ。宿舎はしばらくは寺をあてるように。家は自分がそちらに行ってから申し付ける。……家来を百二、三十人も連れているのだから、その心得をするように」
 奥羽の雄藩、最上家の改易は、諸大名にとって大きな驚きであったのだろう。手紙につづけて、「光直ハ最上義守ノ次男ニテ、義光ノ弟、其姉ハ伊達政宗ノ母堂ナリ」と注があるが、そういう人物を預かるのはやはり大変なことと受けとめられていたのである。
 光直はやがて出家して「哲齋」と号し、七年後の寛永6年(1629)5月21日に病没する。年齢は65歳、71歳、二つの説がある。
 近くの柳川(福岡県)には、最上家後継ぎ問題で対立した一族の松根光広が住んでいたはずだが、顔を合わせる機会もなかっただろうと思われる。
 光直の子孫は、細川家が熊本に移ったのちも千石を与えられ、代々同家に仕えて明治維新を迎えた。
■■片桐繁雄著
【山野辺義忠/やまのべよしただ】 〜水戸徳川家の重鎮となった〜   

 最上義光が巨大な人物だったことは言うまでもないが、その血を分けた息子たちのなかにも、非常にすぐれた人物がいた。
 四男山野辺義忠(改名前は光茂)は、その筆頭に挙げることができるだろう。
 天正16年(1588)生まれ。父義光43歳であった。
 幼名を比治利丸(ひじりまる)と称したという。義光のほかの子等同様、系図類には生母として「某氏」とあるだけだが、おそらくは正室大崎夫人の所生かと思われる。夫人は40歳に近かったのではあるまいか。
 義光の子供たちの生年を見ると、長男義康は1575年生まれ、松尾姫・78年、駒姫・81年、竹姫・84年、それにこの光茂は88年生まれ。異論はあるかもしれないが、14年間に生まれたこの5人を同腹としても矛盾はない。
 家親(義光没後、山形城主)と光氏(後清水城主、義親)は、ともに1582年(天正10)生まれで当然異母兄弟、駒姫とは1歳違いの弟に当たる。
 家親の実母は、慶長3年(1598)12月14日逝去「高月院殿妙慶禅定尼」と最上家過去帳に記載がある。光氏は天童夫人(天正10年10月12日没)の子らしく、彼の領した清水(現大蔵村)の興源院が母子の牌所となっている。
 これら七人の兄弟姉妹からずっと離れて、光茂とは11歳違いの五男光広(1599生、後上山城主)、六男大山光隆(1602生、後大山城主)、徳島で亡くなった女子(旧東根城主、後徳島藩家臣、里見親宜の妻)がいるが、この3人は義光の最後の妻となった、30歳ほど年下だった清水夫人の生した子ではあるまいか。
 さて、四男が義忠を名乗るようになった時期ははっきりしない。山形で見られる名乗りは「光茂」である。鶴岡市の高木家、松山町石川家の慶長年間と推定される文書や、山辺町専念寺、山形市千手堂吉祥院、朝日町大谷大行院の文書など、すべて「光茂」である。
 慶長5年の出羽合戦のときは、13歳の少年であったから、戦陣には加わらなかったと見え、水戸徳川家の『水府系纂巻第三十八』には「関原ノ證人ト為テ神君(徳川家康)ニ参リ静謐ノ後従五位下ニ叙シ右衛門大夫ニ任セラル」とある。人質として家康のもとに預けられたというわけだが、その折家康は「将来恐るべき怪童」と評したという。どこか並々ならぬ素質を具えていたのであろう。
 関ケ原戦後は山野辺家の名跡をつぎ、右衛門大夫を称し、1万9千300石を領した。山野辺は、山形の北西7キロメートルばかりの所にあり、本城を支える重要な城池であった。領地の範囲は、現在の山辺郷周辺の平野部と白鷹丘陵の山間地、及びその西の最上川が峡谷となって北流する五百川郷(現朝日町)を含む範囲だったらしく、最上家改易のとき接収された朝日町の八ツ沼城は「山野辺右衛門の内」と伊達文書に記載されている。
 15歳そこそこの少年でありながら重要な一城をあずかったのも、それなりの器量の持ち主だったからであろう。もちろん、すぐれた家臣団があってのことと推測される。伝承によると、光茂は現在の大石田町深堀で育ち、山野辺に入部するに際して連れてきたという、いわゆる「深堀三十六人衆」と称される人々が家臣団の中核をなしていた可能性もあるが、これについては今後の更なる検討が必要だろう。
 後藤禮三氏の研究をもとに、山野辺城主時代の業績を箇条書きにすれば次のようになる。
 1 山野辺城の拡張改修
 2 城下町の建設と市の開設
 3 釣樋堰の開鑿など灌漑治水事業
 4 神社仏閣の護持
 5 交通路の整備
 最上家改易(1622)までのおよそ20年、山野辺の青年城主としてこれらの事業を成し遂げ、城下町山野辺を小規模ながらも山形の衛星都市として完成させたのである。
 57万石の大大名となった奥羽の重鎮最上義光は、しばしば長期にわたって京都、江戸などに滞在しなければならなかった。そういうとき、留守をまもって領内政治を取り仕切ったのが、確かな史料があるわけではないが、近くに居城を持つ山野辺光茂ではなかったか。
 ともあれ、彼がすぐれた力量の持ち主だったことが、後にお家騒動の原因となったのは、まことに皮肉な巡り合わせであった。
 義光亡き後藩主となった兄・駿河守家親が元和3年(1617)3月に急病で亡くなると、その子源五郎家信が12歳で山形の主となる。家信は江戸生まれ、江戸育ち、全国有数の57万石の大封土と、大名クラスの重臣をはじめとする多数の家臣団を統治するには力不足だった。(以下、別項と重複することをお許し願いたい。)
 「義俊(当時は家信)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠(光茂)をして家督たらしめんことをねがう」と、『最上氏系図』(寛政重修家譜)は述べている。
 このとき、義忠は30歳であった。一族・家臣団の多くは、信望あつい彼に最上の未来を託そうとしたのだった。むろん、義忠自らも領内の最高権力者、責任者となって、出羽国を発展させることに、強い自信を持っていたに相違あるまい。重臣のほとんどが彼を推した。中心となったのが義光の弟楯岡甲斐守光直、千軍萬馬の勇将として知られる鮭延越前守秀綱。
 一方、これに強く反対し「家親の死は、楯岡らの陰謀による毒殺。源五郎家信こそ正統」と幕府に訴え出たのが、一族の老臣松根備前守光広であった。だが、幕府はこれを無根の説と退けて、彼を九州柳川の立花家に預けた。そのうえで重臣たちを呼び出し「皆で最上家を守り立てよ」と説得したにもかかわらず、重臣の多くはこれを拒否した。
 最上のトップたる義忠が、並み居る幕府閣僚を前にして何を語ったかは知ることができないが、自己の主張信念を曲げることはなかっただろう。
 元和8年8月、最上家は改易となった。
 多くの家臣は禄を失って流浪するものが少なくなかった。
 このときに義忠は、岡山池田家に預けられた。ここで約12年を過ごし、寛永10年(1633)9月、三代将軍徳川家光じきじきの命令によって、水戸徳川家の家老として1万石で仕えることとなった。類まれな処遇というべきだろう。
 水戸藩主頼房は、やがて三男千代松(1628〜1700)の教導役を命じたそうである。
 非行少年と心配された千代松は、青年時代から急速に変貌をとげ、仁義の大道を歩むようになる。そうして、ついには名君・水戸光圀公と仰がれるようになるわけだが、その蔭には山野辺義忠の豊かな薫陶があったのであろう。
 頼房が没する(寛文元年/1661)と、光国(のち、圀に改む)が藩主となる。これを見届けたのち義忠は隠居して仏門に入り、道慶と号する。
 義忠の後を嗣いだ義堅は、光圀の妹である利津姫を妻に迎えている。その後も山野辺家は、幾度か主家と縁組を重ねている。改易のとき九州細川家に預けられた楯岡甲斐守光直の孫が、山野辺家の養子となったという奇しき因縁もある。最上義光の血筋は、こうして水戸徳川家を支える名門として伝えられたのである。
 茨城県那珂市にある常福寺は、水戸徳川家の菩提寺で、浄土宗の名刹として知られている。境内の入り口には、山野辺家の墓所がある。巨大な五輪塔が四基立ち並んでおり、右端が義忠の供養塔である。牌記は「良源院殿前堅門貞誉松座道慶大居士」。
 山形にも、山野辺家にゆかりある小堂がある。
 立石寺奥の院近く、中性院前にある「最上義光公霊屋」がそれである。
 これを建立したのは、たぶん山野辺義忠であろう。年次不明6月晦日の千手院別当あての光茂書状に「今度山寺にて玉屋(霊屋)直し申し付け……」とあるが、これは義光没後まもないころに建てた霊屋が破損したので、修理するよう手配したものであろう。
 また、館林市に伝わる『山形風流松木枕』には「宝暦十三年(一七六三)二月七日に、義光公百五十年忌、この御子孫(義忠の子孫)より御弔いあり」という記事があるが、これはたぶん山寺の霊屋のことであろう。水戸に移ってから百五十年たった後にも、山野辺家は先祖のふるさと山形との縁を大切にしていたのである。もっとも、この年は義忠の百年忌にもあたっていたので、その供養も兼ねたのかもしれない。
 霊屋内には、義光・家親二代の位牌を中に、山野辺義忠親子三人の位牌も納められている。義忠の牌記は次のとおり。
 「義光次男従五位上 山野辺右衛門太(ママ)夫義忠 寛文四天極月十四日午ノ上刻」
 「次男」は誤記かどうか。正室が生んだ男子としては、次男に当たるという意味か。
寛文四年は1664年。「極月」は12月。午ノ上刻は正午少し前ごろ。77歳、堂々たる生涯であった。
 東根家に嫁いだ腹ちがいの妹が、遠い徳島で亡くなったのは同年8月のことだが、お互いにそういう事実を知ることができたのだろうか。
■■片桐繁雄著
【最上源五郎家信/もがみげんごろういえのぶ】 〜改易時の山形藩主〜

【1】    
 元和3年(1617)3月6日(太陽暦4月11日)、山形藩主最上家親が急逝した。
 さて、このとき嫡子源五郎は12歳。そのときどこにいたか、確かな記録はないが、おそらく江戸であろう。
 藩主急死。
 江戸の藩邸で大騒ぎをしている3月8日、山形では城下が大火に見舞われていた。
 「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」という、光明寺の記録がある。山形ではこの段階で主君の死を知るはずがなく、家臣、町人、寺社関係者にいたるまで、火災の後始末に懸命だったろう。そこに藩主急逝の報せが届いたのである。
 英主・義光没後わずか3年、重なる凶事に領内は不安に覆われたに相違あるまい。
 ところで地元山形領内の政務は、家親が幕府奥向きの役職のため江戸詰めが多かったことから、一族のめぼしい者や重役層が評定衆となって執行していたと思われる。そうして見たとき、最上藩にはどういう人物がいたか。
 まず最上一族ではどうか。
 慶長八年(1603)の政変で、長男義康はとうにいない。三男清水光氏(義親)は義光没年(慶長19年/1614)の一族抗争で敗死した。残る主な親類は、次のようだ。 
 山野辺光茂(義光の四男。後、義忠。天正16年(1588)生まれ、30歳。山野辺城主、1万9千300石)
 上山光広 (義光の五男。推定慶長4年(1599)生まれ、19歳か。上山城主、2万1千石)
 大山光隆 (義光の六男。推定慶長7年(1602)生まれ、16歳か。庄内大山城主、2万7千石。)
 楯岡光直 (義光の弟。永禄8年(1565)生まれか。52歳ほど。甲斐守。楯岡城主、1万6千石。)
 松根光広 (義光の弟、義保の子。天正17年(1589)生まれ、29歳。庄内松根城主、1万2千石。)
 本荘満茂 (最上家分家筋。弘治二年(1556)生まれ、62歳。由利郡本荘城主、4万5千石)
 いずれも大名格だが、上山と大山はまだ10代で、源五郎の叔父とはいっても兄のような若さで、力量は期待できまい。光直はもう年だ。そうなると義光の四男、前藩主の弟という近親者。年齢に不足なく、城池が山形に近いこともあって、藩内第一のリーダー格は山野辺光茂ということになりそうだ。政治の表向きには出なかっただろうが、義光の妹義姫(お東の方)が70歳で健在だった。
 いっぽう家臣の方は、寒々とした状況だった。義光とともに戦い、最上家の隆盛をもたらした往年の勇将、智将の多くはすでに亡くなっていた。
 志村伊豆守光安…慶長16年(1611)死去。後継者の光惟は義光の死去半年後に、鶴ケ岡城下で勃発した一栗兵部の反乱で殺害された。
 氏家尾張守守棟…慶長20年(1615)死去。男子三人がいたようだが、上の二人は早世。三男、左近丞親定は26歳。幼少時から仏門入っていたため、政治には疎かっただろう。
 坂紀伊守光秀……元和2年(1616)死去。
 上山を領していた里見越後・民部親子、義光の信頼厚かった成沢、谷柏らの一族は、義康廃嫡時の政変で失脚したらしい。最上家を本気で守ろうという気概をもった宿老は少なかった。
 残るは、歴戦の勇将鮭延越前守秀綱(真室川/鮭延城主、1万1千500石。56歳)・里見薩摩守景佐(東根城主、1万2千石。老齢、病身だった。)・野辺沢遠江守光昌(野辺沢城主、2万石。30歳代半ばか)・小国日向守光基(小国城主、8千石。年齢未詳)など。
 これらの中で、実力者は、血筋、年齢、経歴から見て、随一は鮭延である。こういう状態で、藩主が亡くなり、12歳の長男、源五郎が残されたのである。

【2】    
 家督相続者は、江戸時代に入ってからは長男と決まったようなものだが、当時はまだこの考えは確立していなかった。12歳の源五郎でよいかどうか。領内でもとりどりの評判があっただろうし、幕府内部でもさまざま検討がなされただろう。しかし、結局幕府は5月3日に源五郎の家督相続を承認し、57万石は安堵された。
 同月10日、幕府は未成年藩主であることに配慮し、領内政治の安定を図るべく7項目の指示をだした。内容は次のようなものである。(『徳川実記』『最上家譜』から要約。)
 1 義光、家親が定めた制度を変えないこと。
 2 家臣の縁組みは、2千石以上の場合、幕府に報告して許可を得ること。
 3 訴訟裁断は先代の如く計らい、判定し兼ねる場合は幕府と協議すること。
 4 父祖が任じた役職は、勝手に改変しないこと。
 5 父祖が勘当追放した者を、領内に立ち入らせないこと。
 6 家臣への加増、新規召し抱えは、家信幼稚のうちは幕府の許可を得ること。
 7 家臣らが徒党を組むことは厳しく禁ずること。
 幕府としては、義光の忠節ぶり、家親の律儀な奉公ぶりを高く評価し、奥羽全体の平和と安定のために最上家を重視していた。だから山形藩が整然と成り立っていくようにと、大所高所からの助言を与えたのだった。源五郎が「家信」を名乗るようになったのは、この前後であろうかと思われるが、定かではない。
 ちょうどこのころ、先に義光が三重塔を建造し、3千石といわれる莫大な寺領を寄進した出羽の大寺、慈恩寺の大改修が進行中だった。家親急逝の後は、家信が願主となったのであろう。翌元和4年8月に、本堂が完成し大々的な入仏法会が行われた。
 家信は、程なく江戸に出る。そういうときも国元では叔父山野辺光茂らが中心となって、領内政治を行っていたのであろう。
 家信は江戸の最上邸(和田倉門付近にあった)に滞在していたと思われるが、たまたま起こった事件解決に大きな役割を果たす。
 元和5年(1619)6月、幕府は広島藩主福島正則の改易を決定した。江戸の福島邸を接収するにあたって、家来たちの武力抵抗が予想されたため、幕府は監視・鎮圧の役割を最上家信および、松平忠明、松平忠次、鳥居忠政らに命じた。家信は軍勢を率いて出動し、事なく福島邸の接収を完了した。その功を賞して、秀忠は長光の太刀を褒美として下賜したと、『重修寛政諸家譜・最上氏系図』にある。家信十四歳である。
 ところが、家信の評判は悪いほうに向かう。
 元和6年9月12日の『徳川実記』に、

 「十二日、最上源五郎義俊は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」

という話が記録されている。大大名の当主になったとはいっても、それなりの教育も、訓練も受けていなかったのだと思われる。藩内部でも混乱が生じたらしい。同年10月16日、家信は山形の山王権現(現、香澄町三丁目日枝神社)に絵馬を3枚奉納した。金蒔絵の板に馬と猿を描き、「おさめたてまつる 馬形 三疋」と幼い筆跡で書き添えられている。猿は山王権現の使いで、馬を御し、しあわせをもたらすとされる。最上歴代が崇敬し、以前は山形城内に鎮座したこの社に、十五歳の藩主は何を願ったのだろうか。
 行跡おさまらぬ主君から、家臣は離反しはじめる。重臣たちは相互に不信感をつのらせ、仲間割れしてしまう。この状態を、最上家が幕府に提出した自家の系譜ですら、
 「義俊(家信)若年にして国政を聴く事を得ず、しかのみならず常に酒色を好みて宴楽に耽り、家老共これを諫むといえども聴かざるにより、家臣大半は叔父義忠(山野辺光茂)をして家督たらしめん事を願う」(前出、寛政・最上氏系図)と記述する。奥羽の押さえとされた名門大名最上家は、大きく傾きはじめた。

【3】    
 元和6年8月7日、東根2万2千石の城主、薩摩守景佐は、嫡子源右衛門親宜(ちかよし)あてに遺言状をしたためた。景佐は義光の傍らにあって大きな働きをした人物である。子・親宜は家親から一字をもらい、義光の娘を妻に迎え、最上家とは縁つづきの関係にあった。元の姓は里見氏。慶長七年の義光書状では「里見殿」と書いていたが、11年には「東根殿」となっている。出羽の要地を領する最上一門の誇りをこめて、姓を変えたのだろう。
 さて、景佐の遺書は、「自分が死んだなら、源五郎様へ相続の御礼に行くように」から始まって、めんめんと思いを述べた文章である。「少しなりとも少しなりとも、殿様へご奉公いたして、粗略のないように心がけよ」「自分は少しも間違ったことをしなかったからこそ、東根の地をみな頂戴して、そなたへ渡すことができるのだ」
 そういうこととともに、山野辺光茂、小国光基、楯岡光直へは、内々で形見を贈るよう指示した。景佐は、藩政運営にあたって、この三人と共同歩調を取っていたのであろう。 そして、この遺書は、最後のところで驚くべき指摘をしている。
 「最上の御国、三年とこの分にあるまじく候。せめて御国替えにも候へばいつともにて……」。最上の国もこのままでは三年と持つまい。せめて国替えにでもなったら(以下意味不明)、というのである。義光とともに戦った老臣東根景佐の、最上家の将来に対する厳しい洞察であった。

【4】
 こうして、最上家内部は混乱を深め、改易への道筋を走ることとなる。詳細なのが『徳川実記』である。現代語になおしてみる。(本来は藩主は「家信」、山野辺は「光茂」とすべきところだが、この記事では「義俊・義忠」となっているので、それに従う。)
 …義俊は年若いために、みずから国政を掌握し、決裁することができなかった。常に酒色にふけり宴楽をもっぱらにし、重役家臣らが忠告をしても、取り入れようとしなかった。そこで家来たちの多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主にして、最上家を継がせようと望んだ。
 ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しなかった。のみならず、彼は先代家親の死についてまで、「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出た。
 当時、家親の急死には不穏な風説があったという。家親が鷹狩りのため城を出ての帰途、一族の家老楯岡甲斐守の家で宴を催したが、家親はその席でにわかに病を発し、ついに絶命してしまった。これは、同じく家老格の鮭延越前守と楯岡甲斐守が共謀して、山野辺義忠を主にしようと計って毒をすすめたのだ………というような話である。松根はこの噂を取り上げ、江戸に上って幕府にこう訴え出た。
 「鮭延らは、山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」
 事実なら大事件である。幕府では酒井雅楽頭忠世が双方を邸に呼び出し、取り調べをしたが、松根の言い分には根拠がないことが判明した。松根は虚偽の訴えをしたとしてただちに罪人とされ、九州柳川の立花家にお預けとなった。
 その後、幕府では町奉行島田弾正利正・米津勘兵衛由政を使者として、将軍の意向として次のように伝えた。
 「義俊は年若くて政務が行き届かず、家臣らが騒動に及んでいる。最上というところは、奥羽越後に境して、東国第一の要地である。しばらく領地を幕府で預かり、義俊には6万石を与えよう。九人の家老も心を一つにして補佐し、国政を確実にするなら、義俊の成長後に本領を返すこととする。義忠はじめ家老一同、明日参上のうえ返答せよ」
 しかしながら、山野辺、鮭延らの家老たちは、
 「厳命承りましたが、松根のような逆臣を厳しく処分もなさらず、そのままにしておかれるのでは、またまた同様の讒臣がでて問題を起こすでしょう。そうなったらどうなることか。いよいよ義俊の本領を収公なさるとならば、我々家老どもはみな最上家から暇を取って出家遁世し、高野山に籠ろうと存じます」と、申し上げた。
 義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年8月18日、ついに断を下した。
 最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。
 こうして、義光が築き上げた最上百万石は、崩壊した。
 江戸時代を通じて、これほど大きな大名が改易処分となった例は、ほかにない。先にあげた福島正則は安芸広島約50万石、肥後熊本、加藤忠広もほぼ同じ。最上家の57万石は最大である。しかも最上家は、家康、秀忠二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずである。最上家改易は、全国諸大名にとって衝撃的な事件だった。
    
【5】
 この年家信は17歳。詳細な経緯はわからないが、江戸城和田倉門前の最上邸は返還させられた。名字の「家」字は家康から父がもらい、それを引き継いだものだったが、これも元和9年8月以後に返したと見え、「源五郎義俊」が呼び名となる。
 寛永8年(1631)7月15日、義俊は「一遍上人絵巻」を山形光明寺に再寄進する。これははじめ義光が光明寺に寄進し、訳あって一時源五郎のところで預かっていたものだった。「文祿三年七月七日 義光寄進」と巻末に銘記されているから、義光が京都で華やかに文化活動をしていた、そのころにあたる。現在は国指定重要文化財、奈良国立博物館に寄託、保管されている。
 義俊は、絵巻物を寺に返して4箇月ばかり経った11月22日、1歳の男児、仙徳丸(後、義智)を残して江戸で亡くなった。二十六歳であった。浅草の万隆寺に葬られ、墓碑はそこにある。山形の光禅寺にも、祖父義光、父家親の墓と並んで、後日建立された墓碑がある。
 若くして逝った薄倖な最上の主を悼んで、翌年4月吉日に山形七日町の法祥寺に供養の五輪塔を建てた人物がいた。
 「寒河江之住人、微力をもってこれを造立す」と刻まれている。
■■片桐繁雄著
【最上駿河守家親/もがみするがのかみいえちか】 〜名門最上家の御曹司〜
 
 第12代山形城主。天正10年(1582)の生まれであるから、清水城主となった光氏(義親)とは同年齢の異母兄弟である。幼名を太郎四郎、左馬助といった。
 天正19年に、徳川家康が奥州九戸の乱を平定するために福島在の大森に着陣しているとき、義光が10歳になった太郎四郎をつれて行き、「この倅をさしあげます。自分の代わりに召し使ってくだされ」と申し出た。家康は「国持ち大名の子息を家来にするとは、初めてのこと」と非常によろこんだという。
 文禄3年(1549)8月5日、家康の前で、徳川四天王の1人井伊直政の理髪で元服をした。名乗りは「家康」の一字を拝領して「家親」。駿河守となる。「康」をもらったのは何人かいるようだが、「家」をもらったのは、最上家親と島津家久の2人だけらしい。それだけ、彼に寄せる期待も、最上家を大切に思う気持ちも、家康にはあったのだろう。
 15歳(慶長元年)から江戸詰め。家康のそばから移って、秀忠に仕えることになった。
 19歳のとき、関ケ原の戦いの直前、徳川軍が会津征伐に出たときは、秀忠にしたがって宇都宮にいたり、ついで信州真田攻めに従軍する。
 いわゆる「武功」の話は聞かれない。名門大名最上家の御曹司ということで、前線に出て戦うよりも、主君秀忠の側にあって、戦陣の心得などを学び取っていたのかもしれない。
 世の中がしずまった慶長10年4月には従四位下侍従に叙され、同月9日には細川忠利とともに宮中において天皇から盃を賜った。その夜、家親は京都の家康邸を訪問しているが、これはおそらくお礼言上のためであろう。
 同じ時期に、父親義光も京都にいた。3月29日には義光は秀忠に随行して参内。天盃を下賜された。4月26日にも、秀忠の将軍宣下に扈従して、殿上に昇った。
 出羽山形57万石、最上家は花盛りだった。
 翌年、家親の嫡男が生まれる。源五郎、後の家信、あらため義俊である。母は不詳。最上家のような名家の妻がどこの出か知れないとは、まったく不思議なことで、世間には「西三条家」の娘だとする説もあるが、根拠となる史料は見あたらない。
 その後の家親は、江戸城内で開かれる正月恒例の御謡初めには着座を許され、琉球国王の訪問では奏者役となり、摂関家から使者が訪問すれば披露役を務めるという具合で、幕府の重要式典に参画しているのが目立つ。詳細を書く余裕はないが、文化的芸術的なたしなみが豊かだったことがうかがわれ、有職故実などにも詳しかったのであろうか。
家親は江戸暮らしが常態だったらしく、その邸には京都から来た公家も訪れた。
 慶長16年(1611)10月21日には、江戸城内で催された申楽に、家親も参席した。
 その4日後、船橋秀賢と山科言経(いずれも京都の公家)の宿所を訪問して、それぞれに紅花50袋をプレゼントしたことが、両人の日記からわかる。
 慶長19年(1614)1月18日、義光逝去。その報せが小田原にいた家康にとどくと、家親はただちに帰国を許され、2月6日、山形城下の慶長寺(光禅寺)において葬儀をすます。そのあと半年ほど山形にいたと推測される。新藩主として、さまざまな政務を処理したと思われるのだが、そのころの最上領内のムードは必ずしも平穏無事ではなかった。
 6月には庄内鶴ケ岡城下で一栗兵部の反乱が勃発、酒田城主の志村光惟と大山城主の下秀実が襲殺されてしまう。最上重臣クラスのなかには、徳川につくか豊臣につくかということで互いに疑心暗鬼の状態だったらしく、家親に親しみ薄いグループの中には大坂方を支持する者があったことも否めないだろう。
 家親は、家督承認の御礼をするために9月に山形を発った。そのとき、これは果たして史実としてよいかどうかだが、野辺沢遠江、日野将監らに、清水城、清水義親討伐の命令を下していたといわれる。家親が駿河で家康に謁していたちょうどそのころ、清水は最上宗家の大軍の攻撃を受けて滅び去る。10月13日とされている。
 同年11月、家康、秀忠は、20万といわれる大軍をもって大坂攻撃を決行する。いわゆる「大坂冬の陣」であるが、このとき家親は徳川の本拠江戸城の留守居役を割り当てられた。翌年4、5月の「夏の陣」でも、家親は江戸城留守居を命じられた。
 「冬の陣」のとき、家親は1日も自分の邸に帰らずに、江戸城本丸に詰めたと『最上家譜』には記されている。
 冬・夏ともに、伊達、上杉、佐竹など東北外様諸大名は軒並み危険な戦場に駆り出されたのに対して、最上家だけは別格の役割だった。これは、家親に対する徳川家の厚い信頼を物語るものであろう。もっとも、多少の軍勢は大坂に派遣したようで、上級家臣武久庄兵衛が大坂で功績があったので賞された旨、分限帳の書き込みが見られる。
 江戸にあって、家親が高名な文人僧、足利学校の庠主(しょうしゅ/校長)寒松和尚と親交を結んでいたことが、近年小野末三氏によって明らかにされている。幾編かの漢詩を贈られたことも、新しい発見であった。
 冬の陣の直後、慶長20年正月16日、寒松が最上邸に参上した時の日記と漢詩を、読み下しで掲げてみよう。
 
 「最上家のお屋敷では、珍しいご馳走があった。如白(寒松の弟子か)もお相伴した。その席で「春の雪」の詩を差し上げ、楽しい語らいに時を過ごし、すっかり酔って帰った。

   夜雪空に連なって、月色ゆたかなり、
   壁門金殿、瓦溝めぐる、
   江天暁に到りて、尺をみたし難し、
   ことごとく是れ軍営、喜気消えんか」

 学僧で文人、幕府要人との付き合いの多かった寒松との交際は没年まで続く。元和二2(1616)2月26日、家親は山形六椹八幡宮に鷹の絵を寄進した。「源家親」の記名がある。彼自身の作であろうか。
 ところで、家親については、山形ではとかく好ましからぬ風評が語られている。
 最上家を乗っ取ろうとするグループによる毒殺とか、女に刺し殺された、などという話である。だが、これらは作り話に過ぎない。
 亡くなったのは、元和3年3月6日。36歳。『徳川実記』では「在府して猿楽(能狂言)を見ながら頓死す、人みなこれをあやしむ」とある。「在府」は「江戸府にあって」ということ。「頓死」は「急死」である。
 大大名の若い当主の急死は、うわさ話にはもってこいである。「人みなあやしむ」というのも無理はない。
 確かな史料で見ると、秋田藩重臣、梅津政景の日記によると「四日の晩から苦しみだし、
6日の四つ時(午前10時ごろか)死去した」とされている。
 いっぽう、将軍秀忠からは、病気見舞いの手紙が寄せられている。
 この年の3月4日は、太陽暦では4月9日。江戸は春の花盛りである(鈴木靜兒氏の御教示による。)花見がてらの能狂言、酒に肴に音曲に…。
 このような状況から推測して、これはまったくの想像にすぎないが、家親はにわかな食中毒にかかったのではなかったか。二晩を病に苦しんで亡くなったのであろう。
 後日、一族の松根備前守光広が「毒殺の疑いあり」と訴え出たけれども、幕府は調査のうえこれを却下、光広は偽りの訴えをしたとして築後柳川に流罪となった。幕府の判定も、
変死とはしなかったのだから、やはり病死だったとするのが正しいだろう。
 彼の領内政治がどんなものであったか。今のところ、ほとんど知ることはできないが、小野末三氏の研究によって、その人物像は少しずつわかりかけていると言ってよいだろう。
■■片桐繁雄著
【最上義康/もがみよしやす】 〜悲運の嫡男〜

 「義光のご子息、修理大夫殿が使者となって、山形から日駆けでこちらまで来られた。何の御用かまだ聞いていないが、たぶん加勢を依頼する使者かと思われる。(相談をしたいので)明日朝早くおいでいただきたい。お待ちしている」
 
 慶長5年(1600)9月15日、夜中の10時ごろに、伊達政宗はこのような内容の手紙を叔父の留守(伊達)政景に発した。
 最上領は、このとき直江兼続ひきいる上杉軍の猛攻撃を受けていた。
 荒砥から萩野中山を経て、白鷹山の北方をとおる山道(現、狐越街道筋)沿いに侵攻した上杉軍は、9月13日に最前線の畑谷城(山辺町)を攻め落とし、ただちに山形盆地に駆け下って、14日には山形城南西の要害、長谷堂城攻撃にとりかかった。
 同じ頃には、最上領内の多くの砦は、つぎつぎに落城、あるいは守備を放棄して明け逃げという状態だった。
 長谷堂城が落ちれば、山形は裸同然となる。山形の民衆はおびえていた。
 
 「会津(上杉)勢、モハヤ上山・長谷堂ヲ攻メ破リ、山形ニ乱入トイフモアレバ、イヤトヨ、明明日押寄スルナド」

うわさし合い、てんでに財産を持ち運んで山奥へと逃げ隠れた。
 これは『奥羽永慶軍記』の記述である。
 まさにその9月15日、義康が使者となって援軍要請のために、山を越えて北目城(現仙台市太白区)に駐留していた伊達政宗のもとへ走ったのであった。
 一族の最重要人物である嫡男が使者になったのである。最上一統にとって危急存亡の重大局面、ここは家臣では駄目だという義光の判断が働いていたのであろう。
 政宗は、最上への援軍派遣を了承した。 

 馬上 百八十七騎。 鉄砲 四百五十四丁。 弓 二百三十八張。 鎗  二百六十六丁。派遣人数合計 千百四十五。 (史料により差異あり)

 かなり本格的な援軍と言ってよいだろう。総司令官は、叔父の留守政景(伊達上野介)。伊達家でも南方の福島境方面に上杉の脅威を感じていたはずだが、しかし、最上への応援軍派遣を決定したのだった。
 政宗にとって義光は伯父、使者となって来た義康は従弟。当時山形には母・義姫がいた。司令官となった政景は、義姫の夫・輝宗の弟であった。
 政宗からの返書は、16日付け。

 「万々修理殿(義康)からお聞きした。そのうち千二百ばかり援軍を差し向けるので、ご安心あれ。近年は仲たがいして情けないことも少しはあったが、そんなことはこの際打ち捨てて、この身にかえても味方します」

 義康は、この書状をもらって、すぐさま山形に帰ったはず。その報せは、義光をはじめ最上全軍を歓喜させたに違いあるまい。
 だが、援軍の山形到着は遅れて、ようやく22日に笹谷峠を越えた。上杉主力軍の布陣は山形盆地の西側山麓であった。本陣は菅沢山、現沢泉寺付近とされるが、大森山の清源寺と推定される記事も米沢方の文書には見られる。
 長谷堂城を中心とする攻防戦は、9月末まで続く。
 9月晦日夜10時ごろに、関ケ原で徳川家康軍勝利の報せが届くと、政宗はすぐさま写しを義光へ届ける手配をする。
 同じ報せは、直江にも別方向から届いたと見え、翌日の10月1日(太陽暦11月5日)には、撤退する上杉勢を最上・伊達連合軍が追撃する。長谷堂から柏倉・門伝・村木沢(いずれも山形市西部)にかけては、激烈な戦闘が展開され、殿軍(しんがり)をつとめた上杉鉄砲隊の巧妙な射撃に、追う最上軍も苦戦を強いられた。
 大将義光が、この戦いでは鉄砲隊の標的にされ、兜の真っ向に銃弾が命中した。
 側近の堀(筑紫)喜吽は、義光の馬前で戦死した。上級家臣、志村藤右衛門も戦死した。このとき、山を隔てて父の苦戦を見た義康は、部下一千とともに馬から下りて駆け付け、横合いから敵を追い散らし父の危急を救ったという。
 慶長出羽合戦は、長谷堂合戦の後にも、翌年の酒田城攻撃がある。
 完全な終局は、慶長6年4月である。終始一貫徳川家康の盟友として戦った義光は、57万石の大大名となる。
 勝者家康は、慶長8年2月、京都において征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創始する。
 徳川の時代が始まったのである。
 義光、58歳。山形にいる長男義康は29歳、江戸にあって家康、秀忠のおぼえめでたい次男家親は22歳であった。
 4月に京都にいた義光が、領国山形に帰ったのは、おそらくは夏のうちであろう。広大な最上領は、これから新たな発展を遂げるべき時となっていた。
 この時点での大問題は、後継者をだれにするかということだった。
 熟慮を重ねた結果が、家親となった。長男義康は、言わば廃嫡である。この経緯について『義光記』『永慶軍記』『羽源記』などの一致するところはこうである。
 嫡子修理大夫義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、ついにさまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。
 「大殿もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」
 そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。
 いっぽう、義光の近臣からみれば、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。
 たまたま、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をしたことがあった。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。
 それ以後親子の仲はひどく不和になってしまった。
 一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解なさるようにと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。
 この状態を、江戸に上った義光が家康に相談した。家康は、
 「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。
 帰国した父から、高野山へ行き(出家して)先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに山形を立ち去る。義康の邸の中では、多くの女房たちが声をあげて泣き叫ぶばかりだった。
 義康一行が月山の峠を越えて、庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。伏兵であった。
 義康の家来たちは、必死に戦ったが多勢に無勢、ついに全員討ち死にする。
 襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門のグループだった。
 義康は、こうして非業の最期を遂げる。慶長8年8月16日であったという。
 義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。
 義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。
 義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。
 慶長2年正月、義康が当時の連歌の大家だった里村玄仍と交わした短連歌がある。

 「一夜とは霞や隔て今日の春 義康
  雪残りつつしののめの空   玄仍」

 広島大学の国文学研究室にも、義光と義康、親子そろって一座した百韻連歌1巻があり、ここでは義康の7句が選ばれている。そのうちの2句。
  
 山の端や更けても霧の晴れざらん
 鳴くもただ幽かなりけりきりぎりす
 
 慶長2年初秋の作であろう。とすれば、義康23歳だった。
 平成14年、義康四百年忌を期して、山形常念寺では立派な供養碑を建立して、非業の最期を遂げた若き最上家の嫡男を弔った。
 ■■片桐繁雄著