最上義光歴史館
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【野辺沢能登守満延/のべさわのとのかみみつのぶ】 〜最上家随一の豪傑〜
数多い最上家臣のなかで「豪傑」として名をあげるなら、トップはやはりこの人物ということになろうか。 山形両所宮の鐘を1人ではずし、鶴子(尾花沢市)までもっていったという伝説がある。また、剛力ぶりを試そうとした主君義光が、逆に彼から追われて逃げ、桜の古木にしがみついた。満延がそれを引き離そうとしたら、木が根こそぎ抜けてしまったというお話もある。 中山町長崎円同寺の釣り鐘(長谷堂清源寺蔵。県指定文化財)をかぶって運んだという伝説も、現物があるだけにおもしろい。かぶっても目が見えるように鐘乳を1個もぎ取ったという穴が、その鐘にはあいている。さらに、この人物は只人ではない、天人が生んだ子供なのだなどという話まで作られた。それだけ、彼の豪力は広く知られていたのだろう。 もともとは、尾花沢市野辺沢(現尾花沢市延沢)に城を構えていた豪族で、本姓は「日野」だったらしい。14世紀に東根を支配した平長義につながるとする説もある。 元亀元年(1570)以後の数年間、天童氏を中心とした北部の豪族グループは、出羽南部を統一しようとする最上家に、結束して抵抗していた。 山形の軍勢が攻め立てても、舞鶴山の要害にたてこもった同盟軍は、頑強に抵抗をつづけた。さすがの山形勢も、ともすると追い立てられがちだった。 それというのも、軍略にすぐれ、そのうえ、5尺の鉄棒を振り回して縦横無尽に戦う豪傑満延がいるからだ、なんとかせねばと義光は、譜代の重臣氏家守棟の意見を聞く。氏家はここで「野辺沢の息子と最上の姫君を結婚させて、親類になったらいかが」と進言した。 当時、政略結婚は、大名同士、豪族同士が戦争を避ける方策として、重要な役割をになっていた。当事者はもちろん、一般民衆も、これで戦いがなくてすむのだから、望むところだった。 義光は、満延の嫡子又五郎に長女松尾姫を与え、息子同然に扱うことを約束する。 満延は、義光が自分を高く評価して、息子に娘をくれるとは「弓矢取る身の誉れ」と、ひじょうに喜んだ。こうして野辺沢は同盟から離脱する。 この婚約がいつなされたのか、正確なことはわからない。かりに天童氏が逃亡した天正12年(1584)だとすると、又五郎は3歳、松尾姫は7歳だったことになる。これは、2人の没年と年令からさかのぼっての推定である。 幼い者同士の婚約で、野辺沢が山形側につくと、同盟はたちまち崩壊してしまう。 支えを失い、孤立した天童頼久(頼澄)は、最上勢の攻撃の前にあえなく城を捨てて奥州国分氏をたよって逃亡してしまう。満延は、義光側近の重臣となって、野辺沢2万石を与えられる。 天正18年、義光は軍勢をつれて上京する。そのときは満延が先駆けをつとめた。翌年の正月に、義光は従四位に叙され侍従に任じられた。全国諸侯と同様、豊臣政権の一翼に編入されたわけだ。京都での勤めを終えて帰国する矢先に、満延は病に倒れる。 『延沢軍記』などによると、意識は正常だったが、運動機能が思うに任せぬ病状のようで、あるいは脳梗塞に冒されたのではないかと思われる。口から出る言葉も、とぎれとぎれだった。 「ご家来に加えていただいてから、殿のご恩は数えきれない程でございます。このたびのご上洛にも先駆けを仰せ付けられ、まことに名誉なことでございました。それなのに、ご帰国というときに、このような病にかかり、お供できないのは不忠のいたり、まして私の病気ゆえに出発を延期してくださったご恩は、とうてい忘れることができません。どうぞ一日も早く国元へお帰りなって、まつりごとをなさってください。もし、これが永遠のお別れとなりましたならば、くれぐれも又五郎のことをよろしくお頼み申し上げます」 満延の言葉に、義光も涙ながらにこう言い聞かせた。 「病気のそなたを置いて帰国するのは本意ではないが、そなたも言うとおり国元の政治も大事だし、秀吉公へも帰国の届けを出したこととて、そう延引もできないのだ。又五郎のことは決して粗略にはせぬ。くれぐれも大切に養生してくれ」 そう語り聞かせて、在京中の費用と療養費を過分に与えて、後ろ髪引かれる思いで帰国の途についたのだった。 3月14日、彼は京都で客死する。遺骸は知恩院に葬られた。報せを聞いた義光は、ことのほか悲しんで落涙したという。主従として、人間として、あたたかい心のつながりのあったことが実感される。 娘婿となった又五郎を、義光がたいそう可愛がったことは、義光が九州名護屋から在山形の家臣伊良子信濃あて、文禄2年(1593)5月18日の手紙からうかがわれる。 「野辺沢家内、おのおの堅固のよし、文見申し候て満足申し候。いつかいつか下り申し候て、又五郎夫婦のもの、見申したく候」 このときまでに、2人は祝言をすましていたのであろう。年若い娘夫婦をいつくしむ父親義光が、ここにはいる。 又五郎は、父の跡を嗣いで野辺沢2万石を領する。遠江守康満を名乗っていたが、後で義光の一字を拝領して「光昌」と改名し、最上一門の家老格となる。妻となった松尾姫は、しかし、慶長11年4月1日、29歳で短い生涯を終えた。 ちなみに、尾花沢では例年能登守祭りを開催して、戦国の豪傑をしのんでいる。 ■■片桐繁雄著 |
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【谷柏相模守/やがしわさがみのかみ】 〜畑谷合戦で勇戦した武人〜
具体的な地元史料は見つけられないが、他地方の事例から類推して言えば、室町時代(14〜16世紀)を通じて最上氏は多数の在地国人層を従属させてきたはずである。その多くは、おそらく荘園解体期から村落に居館を構え、農民を統率し、土地の名を苗字とする土豪たちだったと考えてよいだろう。 最上氏分限帳などの文書、あるいは各地の伝承などから推察するに、志村、成沢、野辺沢、飯田、富並,牛房野などは上級家臣に組み込まれ、青柳、岩波、柏倉、渋江、下原、常明寺、成生などは、中級家臣グループとして位置づけられたかと思われる。 谷柏氏(箭柏、弥柏、矢桐と書いた例もある)は、かなり大きな領地をもった豪族の家柄で、歴代「相模守」の称を許されたらしい。その何代目かの当主が、義光の家臣として外交・軍事で活躍したのである。 天正2年(1574)。 春から始まった最上家の内紛と、これに干渉して出兵した伊達輝宗軍との抗争を終結させるため、上山の南方、楢下・中山あたりで、和平交渉が始まった。9月1日から10日まで4回の会談に、最上を代表して出席した人物は、譜代の重臣氏家尾張守が二回、上山城主里見民部が一回。そして、同月10日の最終会談に臨んだのが、谷柏相模守だった。伊達側代表は、政宗の側近富塚孫兵衛であった。 最上・伊達ともに満足できる条件を練り上げ、伊達軍を退かせようというのだから、大変な役目だった。交渉がまとまって、伊達軍は礼服着用、里見民部も手出しをしないと約束した。9月12日の午前、おりから降りだした秋雨の中を、輝宗軍は自領米沢へ帰っていった。一件落着である。 このときの谷柏相模守の働きが、氏家尾張守の才覚や里見民部の最上家への忠節とともに民衆の記憶に残り、大きく変形されて民間の説話となったらしい。 「上山城主満兼は、伊達輝宗の援軍を得て、最上義光と柏木山で戦って敗れた。輝宗の奥方が出てきて戦いを止めさせ、輝宗は帰ってしまった。それでも、山形に叛こうとする満兼を討とうと、最上側が画策する。氏家の策謀に従い、谷柏相模は里見民部としめしあわせて、満兼暗殺と城の乗っ取りを成功させた。その後の上山領の治安維持にも、谷柏相模は敏腕を発揮した」というのである。 だが、『義光記』『羽陽軍記』その他に「柏木山合戦」として書き留められたこの話には信憑性がない。史実とは大きく食い違う。 輝宗の妻(義姫。政宗の母)が仲裁したのは、天正16年(1588)である。対立したのは政宗と義光で、輝宗はすでに亡くなっていた。場所も上山の南、中山境である。上山地域はれっきとした最上領で、伊達・上山の連合などあるはずもなかった。『羽陽軍記』はこの合戦を天正7年9月としているが、これまた無根の説で、こうなると全体が作り話である可能性が大きい。 推察するに、氏家、谷柏、里見ら3人が尽力して戦いを終結させた事実をもとに、架空の合戦譚が仕立てられたのであろう。16世紀、義守、義光の時代に、上山と山形が戦ったということ自体、確実な史料からは認められないのである。 次に、谷柏相模の奮戦が語られているのは、慶長5年(1600)出羽合戦のときである。以下、寛政諸家譜『最上系図』、『義光記』『奥羽永慶軍記』などの記事による。 9月13日、畑谷城が直江兼続軍の猛攻撃にさらされていたとき、援軍として派遣されたのは、谷柏相模、飯田播磨、小国日向、富並忠兵衛、日野伊予らだった。 ところが、援軍到着前に畑谷は落城する。山形の援兵はこれを聞いて引き返そうとしたが、谷柏と飯田はそれをさえぎり、 「城は落ちても、残兵や領民がいる。早く行って彼らを救わねばならぬ」 と馬を進めた。手勢を率いて山道を急ぐと、敵兵に追われて、残兵や領民が必死に逃がれてくる。これを見て、飯田は谷柏に向かい、 「この人々を、一人たりとも敵兵から捕らえられぬよう、山形へ連れ帰ってくれ。しばらくは、自分が敵を食い止めよう」 と言って、部下とともに雲霞のごとく寄せ来る敵勢の中に躍りこむ。すでに60歳を越えた老武者である。力戦奮闘することしばし。しかしながら、多勢に無勢、ついに力尽きて討ち死にしてしまう。 それと知った谷柏は、せめて飯田の首なりとも奪い返さねば友情の甲斐もないと、部下に落人を護送するよう命じ、我が身は取って返し、群がる敵兵を蹴散らして戦い、ついに飯田の首を取り戻した。谷柏は友の首をひたたれに包んで、涙ながらに持ち帰ったという。 多くの軍記物語がほぼ一致して語り伝える有名な話で、もちろん、脚色はあるにしても、大筋は史実に近いのではあるまいか。 さて、この勇者、谷柏相模守については、東大史料編纂所蔵『最上義光分限帳』に、次の記載がある。 谷柏 一、高四千石 八騎 鉄砲 十五挺 弓 四張 槍 四十八本 谷柏相模 4千石は、最上家臣のなかでは上位20位ほど。その領地は、成沢分に入っていた黒沢村(430石余)を除く南山形地区全域であろうと思われる。 寛永13年(1636)、山形藩主保科家が発した「上納一紙」によれば、松原、片谷地、谷柏、津金沢の石高合計は約4千200石となり、分限帳の石高にほぼ等しい。ただし、坂紀伊守光秀が長谷堂1万3千石を領するようになると、谷柏相模は他所で四千石の土地を支配することとなる。一時は長瀞城を預かったと伝えられるが、さだかでない。 添え書きの「八騎」とは、戦いに際して谷柏氏に割り当てられた馬上武士の数で、これは村落の富裕な農民と見てよい。実戦では物頭、つまり指揮官となる。 これに鉄砲衆15人、弓衆4人、槍衆48人、馬上を含め計75人を出すよう定められていたわけであるが、いざ出陣となれば、これだけでは済まなかった。 馬上一騎には、4、5人の小者がつくのが普通だったから、谷柏相模の部隊は百人を上回る人数だったと考えてよい。 日ごろは鍬・鎌を握って暮らした農民は、いざ戦いとなれば、刀や槍・鉄砲を手にして戦列に加わらねばならなかった。谷柏氏は最上家に従属しつつ、領内に住む農民層を支配し、村落の秩序を維持していたのである。 谷柏氏の居館が地区内のどこかにあったはずだが、まだ確定されない。斯波兼頼、最上義守、義光らが尊崇したと伝えられる古社[甲箭神社]の付近か、古墳群のある岡のあたりか。いずれ歴史地理的、考古学的調査で判明するだろう。 ところで、国立資料館所蔵「宝幢寺文書」の最上源五郎時代『分限帳』に、「谷柏」の名は記されていない。畑谷の戦いで奮闘してからおよそ20年ばかり後の文献であるから、その間に何らかの異変があって、国人豪族谷柏家は最上を去ってしまったのかもしれぬ。 参考として、白石城主片倉氏家臣の諸系譜から、谷柏関係の記載を捜し出し、それらをつなぎあわせてみると、表のようになる。 表は>>こちら 見るとおり、最上氏麾下の谷柏・飯田・富並らの国人豪族(氏家はたぶん別)は、相互に縁戚関係があったことがわかる。氏家家に生まれた光直に、「谷柏の名跡を相続」と書き入れがあるところを見ると、この家は廃絶させるには惜しい名門と見られていたわけである。 それにしても、義光の信頼を受けて、大きな働きを見せた谷柏相模と、その後継者たちは、いったいどこへ消え去ったのだろうか。 ■■片桐繁雄著 |
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【江口五兵衛光清/えぐちごひょうえあききょ】 〜文武にすぐれた勇者〜
「この城がほしいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはないのだ。」 慶長5年(1600)九月、最上領の最前線である畑谷城は、上杉二万余の大軍によって包囲された。城を守る最上の兵は、わずか3百数十人。城主は江口五兵衛光清である。 上杉方の大将、直江山城守兼続は軍使を城中に送って、「無駄な戦いはやめて降伏せよ。かならず名誉ある処遇をする」と伝えたが、その使者に対して光清が敢然と言い返したのが、ここに紹介した言葉である(『奥羽永慶軍記』による)。 上杉家の公史『景勝公御年譜』でも、江口五兵衛については絶賛を惜しまない。 「城主は江口五兵衛道連(ママ)というものである。かねてから評判の忠信無二の義士であり、父子ともに立てこもった。信条ひとしき者は結束するというとおり、従う勇士はいずれも一騎当千の者ばかり、百余人ママが篭城した。直江山城守は諸将と相談して、なんとかして五兵衛父子を味方にしようと計略をめぐらしたが、江口は義士であり全く聞き入れなかった」 義光もまた、上杉軍の襲来を前にして、 「畑谷城のような山中の小城で戦ったとて、とうてい持ちこたえることはできぬ。急いで山形に帰り生死をともにせよ」 と再三撤退を命じたが、光清は、 「常々この城をあずかっているのは、このような時のためでございます。いま危うい時に城を捨てたとあっては武士の名折れ。もとより一命を捨てる覚悟であるからには、ここで華々しく討ち死にし、忠義の心を後世に残す所存でございます」 と、いっこうに従おうとしなかった。 義光は見捨てることはできぬと、飯田播磨守、谷柏相模守、小国日向守らの援軍を派遣したが、その甲斐もなく、畑谷の孤城は9月13日に落城、全員城を枕に討ち死にを遂げた。玉砕であった。時に光清55歳。ともに討ち死にした一族は、次男小吉23歳、甥松田久作(一書に忠作)40歳。彼らの奮戦ぶりは江戸時代に書かれた軍記物語に詳しいが、もちろん、想像をたくましくした部分もあるだろう。 援軍としておもむいた飯田相模守も、乱戦のなかで戦死した。その首を取り返そうと、引き返して戦った谷柏相模守の友情も、多くの軍記物語の語るところだ。 兼続は、9月15日付け、僚友秋山伊賀守あての手紙で、 「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々(村々)に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」 と書いた。「撫で斬り」とは、刃にあたる者皆殺し、の意。壮絶、悲惨な戦いであった。 慶長出羽合戦の「悲劇の城」。それが江口五兵衛の畑谷城だった。 ところで、この光清はただ勇敢・信義の武人というだけではない。古典文芸に通じ、すぐれた感性をもった人物だった。そのことは、残された連歌作品や手紙から明らかに見て取れる。 連歌についていえば、文禄から慶長初年にかけて、彼が連なった連歌は、現在確認されるだけで14巻、句数は76句である。 その最初、文禄2年(1593)2月12日の連歌では、5句が選入された。 秋の雲まよふあとより晴れ渡り 禅昭 つばさ離れず雁わたる空 光清 秋空に浮かぶちぎれ雲が行方さだめず流れ去り、しだいに晴れていく。これが山名禅昭の句。これにつけた光清の句は、そのあとの晴れ渡った空を、雁の列が渡っていくという景である。「つばさ離れず」が仲良く助け合って旅をする雁の姿を描いて、いかにも温かい。これに、景敏が付けて、視点を色づきはじめた田圃へと移した。 はるかなる田づらも色になりそめて 景敏 景敏は連歌の大家として、義光はじめ最上一族と深い交流があった。慶長4年10月以後に改名して里村昌琢を名乗り、後水尾上皇から古今伝授をうけた。後に江戸幕府の連歌所の宗匠として重きをなした人物である。寛永13年(1636)2月に63歳で没した。 江口光清は、このような一流文人たちと一座して、奥深い文芸の世界に心をあそばせることのできる武人だった。単なる武骨な田舎ざむらいではなかったのである。 手紙では、光清が僚友加藤掃部左衛門にあてた一通が、山形市村木沢の旧家、加藤家に秘蔵されている。 掃部左衛門が村木沢の一部「悪戸」というところに館を構え、堀を掘りめぐらしたことを「むつかし」いこと、つまり「結構でない」と言い、悪戸に住まいする衆は、村木沢衆と上手に付き合わなければ立ち行かぬ、その点にじゅうぶん気配りをしてほしいと、懇切な忠告を与えた手紙である。「四月二日」の日付はあるが、年次はわかっていない。推定では慶長2年7月以後、戦死するまでの3年余の間だろうと思われる。 文武両道にすぐれた勇者、名誉ある死をとげた江口光清のことは、畑谷落城の悲話とともに長く人々に語り継がれている。 戒名は清浄院殿江月秋公大居士。山辺町畑谷の、古城跡を眼前に見上げる長松寺の境内に、彼を弔う古い家型塔婆がある。墓地の一画には彼を讃える漢詩を刻んだ石碑がたち、1999年の秋四百年忌を修して建立された五輪供養塔がある。 人柄といい、戦いぶりといい、彼のことは末長く語り継がれることだろう。 ■■片桐繁雄著 |
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【鮭延越前守秀綱/さけのべえちぜんのかみひでつな】 〜重文の仏像にかかわり?〜
不思議な仏像が一体、真室川町内町の薬師堂にある。 奈良時代か白鳳期の作かと思われるブロンズの薬師如来像で、国指定重要文化財となり、今は特別に建てられたお堂のなかに安置されている。 いったいなぜ、こんなにすぐれた仏像が山形県内にあるのか。すくなからず謎めいている。 16世紀の終わりごろ……。 この付近を領していたのは、鮭延(真室川)城主、佐々木典膳という武将であった。彼は、源平合戦のむかし宇治川の先陣で名を挙げた近江源氏の名門、佐々木高綱の子孫であるという誇りをもって、義光に従おうとしなかった。 義光は大軍をさし向けて鮭延城を攻撃し落城させたが、武勇才知にすぐれた典膳を惜しんで、庄内に逃げ去るのを見逃してやったという。典膳はこの事実を後で知り、その温情を忘れず、後年最上義光に帰参したと軍記物語類にはある。 義光はかれに1万千5百石という高禄を与え、鮭延越前守秀綱と名のらせた。その後の秀綱は、義光の側近として知謀才覚を発揮、なかでも慶長5年の上杉軍山形侵攻に際しては、長谷堂城への応援軍としてはなばなしい活躍ぶりを見せる。 泰平の世になってからは、鮭延城(真室川町)を居城として、町づくりに尽力、現山形県最上郡北部の発展に大きな成果をあげた。 嫡子、左衛門尉も父にまさる文武すぐれた人物だった。15歳で長谷堂合戦に出陣、その戦いぶりは「諸人ノ耳目ヲ驚カス、異国ハ知ラズ、本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ是程ノ武功ハイマダ聞カザレバ…」と『奥羽永慶軍記』は絶賛している。だが、十八歳で亡くなった。以後、秀綱は妻をめとらなかったのであろう。血筋は絶えたという。 義光没後の最上家は、家親の早世に端を発し、少年源五郎家信が家督を相続するに至って、重臣たちの離反がはじまる。 「家信は器にあらず、山野辺光茂を主君と仰ぐべし」と主張した旗頭が秀綱であった。これに対して「若年といえども、源五郎家信こそ正統」と、一族の松根備前守光広らは主張した。最上の家臣団は、二つに分裂してしまったのである。 抗争は幕府の審問に付される。「幼君を補佐して最上家を全うせよ」という幕府閣僚の助言を、鮭延秀綱をはじめとして、山野辺・楯岡らは受け入れなかった。その結果、元和8年8月、最上家は57万石を没収されて、近江・三河1万石へ改易となり、重臣たちはそれぞれ各地の大名に預けられた。 秀綱はこの時、審問の中心となった土井大炊頭利勝(当時佐倉、のち古河城主)に預けられた。実は、駿河大納言忠長から仕官の誘いがあったとも、彦根井伊家からの招きがあったともいわれ、秀綱の人物力量は広く諸侯の知るところとなっていたのである。 土井家では彼を優遇して、古河に移転した後も大堤庄5千石を与えた。秀綱はそのうち3千石を出羽から連れていった譜代の家来18人に分け与えた。これが話題となって、越前は知行すべてを家来に与え、自らは清貧に甘んじ、家来たちの施しを受けて晩年を送ったという話にもなった。 物欲に恬淡たる武人の生き様というべきか。戦国時代の荒波をくぐって生き抜き、泰平の世になってからも固い信念をもって、人生を全うした出羽の英傑の一人といえるだろう。 正保3年(1646)6月21日没。84歳。菩提寺は古河市鮭延寺。秀綱の屋敷跡に建立され、その名もゆかりの故地「鮭延」にちなんだものだ。この寺は、反骨の儒学者熊沢蕃山の墓があることでも知られている。 真室川町では、秀綱を町発展の恩人として顕彰している。また、同町正源寺は、秀綱父子を丁重に弔い、境内奥の二人の墓はいつも清浄に保たれ、香華の絶えることがない。 さて、例の仏像、真室川にあるからには、名門の武人、鮭延秀綱が持ってきたものにちがいない……地元の人々がそう考えるのも、かれに対する敬愛の念の表れだろう。 ■■片桐繁雄著 |
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【坂紀伊守光秀/さかきいのかみあきひで】 〜最上家臣団のエリート官僚〜
戦国武将は、おおむね戦における手柄や活躍、武勇を誇示する逸話などによって名を知られ、評価もされがちだ。たしかに、武勇こそが戦国の世を生き抜く武士の本分ではある。 しかしながら、大名をささえる家臣団として見たとき、戦上手ばかりでは決してバランスのとれた組織とはいえない。 坂紀伊守光秀(あきひで)。 慶長6年、志村伊豆守光安が酒田城主として栄転した後の長谷堂城主。1万3千石。最上家では十指に入る重臣でありながら、当時の記録にも後代の物語にも、華やかな戦歴はなく、逸話も残されていない。 長谷堂合戦に際しては、後詰め部隊(援軍)の中に彼の名が見えている。当時は成沢城を預かっていたとする記録もあるが、不確かだ。彼の足跡をみると、武人というよりもむしろ政治外交の面にすぐれていたようだ。 関ケ原戦後、最上氏と秋田氏が戦陣参加の時期をめぐって議論になったことがあった。 このとき、主君義光が徳川家康といっしょに忍(おし)へ鷹狩りに出ていたので、最上側の代表者となって秋田実季と渡り合ったのが、他ならぬ光秀であった。 この論争のことは、秋田家の家臣が聞いた話を思い出して書き留めたもので、最上家没落後のことであるから、どうしても最上家には不利な書きぶりとなっている。そのため、坂光秀が実季から一々やり込められてしまうという内容となっている。にもかかわらず、光秀の弁舌はなかなか鋭いところを突いているように思われる。 慶長8年3月15日、光秀は主君義光の使者となって、京都の公家山科言緒を訪問した。 山科家は、皇室・廷臣らの公的場における衣冠装束を世話する家柄である。訪問の趣旨は、将軍家康の御前において言緒が「御取合」をしたことに対する義光からのお祝いの手紙と銀子三枚の贈り物を届けることであった。 「使坂紀伊守也、則対顔了、食相伴了」(使者は坂紀伊守であった。そこで対面をし、食事をともにした)。 出羽で育ったと思われる坂光秀が、礼儀作法にうるさい京都貴族の邸に参上して、きちんと用を済ませることができたのは、それなりの教養をそなえた人物だったからであろう。 二日後の3月17日、山科言緒はこう日記に書いた。 「最上出羽守へ一昨日のお土産に礼状を出した。坂紀伊守へも書状を遣した」 このころ、義光は京都あるいは伏見の邸に滞在しており、光秀はその側近としてさまざまな公務にたずさわっていたことが、この断片的な記事からうかがわれるのである。 関が原の戦いの後に、新たな最上領となった庄内地方の検地に尽力し、慶長十六年(1611)義光が寄進した慈恩寺領2千880石の検地も、光秀が責任者となって実施した。 義光が亡くなった翌年、慶長20年(1615)正月13日、徳川家康が岡崎で鷹狩を楽しんでいたところへ、主君家親の名代として光秀が陣中見舞い行った。 最上家からの献上品は、白鳥二、黒馬一疋、それに「いったい、どういう代物?」と、よく話題になる「最上蓼漬」一桶。光秀自身も、「子篭鮭十尺」を土産として持っていった。74歳の家康は喜んで光秀に面会し、最上家親の働きについても合わせて礼を述べたという。 長谷堂には、自らが開基となり、その菩提寺とした曹洞宗清源寺がある。この寺に彼は田畑とともに百姓十軒を寄進して護持を図った。寺に秘蔵される「すすき図屏風」は、桃山風のりっぱなもの(山形市指定文化財)。彼自身を描いた画像は、桃山武将の同時代に描かれた肖像画としては県内唯一の貴重なもの(県指定文化財)。その表情には、温厚で知的な趣がただよう。 彼の奥方が使用したという朱漆塗の膳椀もある。京都に上った時にでも、妻のために買い求めたのであろうか。 元和2年(1616)4月26日逝去。年令は不明。はしなくも、徳川家康の没年に当たる。戒名「清源寺殿祀山英典公大居士」。 ちなみに翌年3月には主君家親が亡くなり、それ以後、最上家は屋台骨がゆらぎはじめるが、光秀はそれを見ることなく亡くなったわけだ。 光秀の妻は、志村伊豆守光安の娘だといわれ、夫亡き後は、山形城内三の丸八日町口近くに広大な屋敷をもらっている。彼女が亡くなったのは正保元年(1644)10月19日。戒名「宝正院殿実相良信大姉」。28年の寡婦としての暮らしがあったことになる。 最上家改易の後、跡を継いだ坂光重は、上杉家に親しい人がいて、その配慮で白鷹町荒砥に落ち着き、四十間四方の屋敷を拝領してここに居住した。 坂氏の系譜は、白鷹町と米沢市に連綿として続いている。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum



〜徳島に伝わった最上の血筋〜
徳島と言えば蜂須賀家25万余石の城下。「阿波おどり」「十郎兵衛と巡礼お鶴」の人形芝居、鳴門海峡に逆巻く「うずしお」。観光資源には事欠かない。
さて、市の南郊に丈六寺がある。室町時代の重要文化財建造物が立ち並び、質実な中世禅林の面影が今に残る。鬱蒼たる木立ちに囲まれた寺域の一角に、徳島藩の重臣だった里見家の広大な墓地がある。数ある墓標のなかでも特に目につくのが、白い標柱の立つ2基の五輪塔墓である。標柱の銘は、右が「里見家九代 東根源右衛門親宜之墓」、左がその妻「山形城主 最上出羽守義光娘」。
夫は寛文3年11月11日死去。妻は同4年8月6日死去。最上家ゆかりの夫妻が、ここに眠っているのである。
* * *
東根家は山形最上家の一門で、東根を本拠とした。
元和8年(1622)、最上家改易により、幕命によって東根源右衛門親宜は、徳島藩預かりとなる。当初は客分として優遇されたが、藩主蜂須賀家政(蓬庵)の請いを受けて家臣の列に加わり、以後中老格となって藩主に仕え江戸時代を経過する。本姓の里見氏に改めたのは明治初年である。
各種系図でみると、東根氏は天童里見氏の系統とされる。
初代は頼高。徳島に伝わる里見氏『歴代系図』でも頼高を天童頼直の子とし、「居城東根/元祖/里見薩摩守/養源寺殿華屋椿公大居士」と添え書きがある。
東根七代目の頼景が、酒田城攻めのおりに一番乗りをしたが、敵弾に斃れる。即日、弟景佐が義光から跡目相続を許されたうえ軍奉行を命じられ、酒田城攻略に大功があった。これを賞されて、来国光の刀と金短冊の笠印を賜ったという。
義光は57万石となった慶長7年(1602)に、東根家に対して6千石・3千石と2回にわたって知行を加増した。宛行状には「里見薩摩殿」とある。同11年と推定される義光の手紙では「東根薩摩どのへ」とあることから、このころは「里見」のほかに「東根」も名字として使われたらしい。
景佐ら東根一門は、連歌を愛好した。義光が山形に招請した古典研究家にして歌人であった一華堂乗阿が、光明寺においてしばしば連歌を指導したとする古記録があるが、東根一族もまたそういう場に臨席したのであろう。
慶長12年と推定される、7月27日付の景佐あて里村昌琢書状によると、東根家では2年前に連歌一巻の添削をしてもらった。さらに、この年にも新たに二巻を届けて指導を請うた。このとき土産として贈った「紅花二十斤」に、昌琢は「分に過ぎたお志」と感謝した。紅花は、当時最上の名産になっていたのである。
この書状には「玄仍が亡くなったとお聞きでしょう。どんなに驚かれたことか推察いたしております。是非なき次第」と書かれており、連歌の宗匠、里村玄仍の死去は慶長12年7月4日であることから、同書状の年代が確定される。
次に、年不記、壬(閏)十月一日の書状がある。10月が閏月となったのは、景佐の在世中では慶長17年(1612)だけであるから、この年であろう。景佐から家臣高橋雅楽助にあてた書状で、連歌の規則を昌琢に問い合わせたことが記されている。
関ヶ原合戦以後、義光の連歌作品は見られないが、それにもかかわらず、景佐らは独自に京都と連絡を取って、昌琢の指導を受けていたことになろう。
義光が没し、後継者家親が急死し、15歳の藩主源五郎家信のもとで、最上領内が混乱していた元和6年(1620)8月7日、景佐は嫡子親宜あてに遺書をしたためた。
「自分が相果ててしまったならば、源五郎様に相続の御礼に参上せよ・・」に始まり、「源五郎様へのご奉公を大事に」というように、主家を思い、我が家の永続を願う心情が流露している遺書である。同時に、若い最上の当主家信をめぐる重臣たちの不協和ぶりをも、しっかりと見つめ、「山野辺右衛門、小国日向(自分の妻の実家)、楯岡甲斐守光直の三人には、自分の形見を分け与えよ。何ごともこの三人と相談すれば、悪いことはあるまじく……」と教え、その末尾には驚くべき予言を書き残した。
「最上の国も、三年とはもつまい。せめて国替えにでもなったら(以下、意味不詳)」というのである。
明日をも知れぬ病老の身で、最上家の将来に大きな不安をいだいていたのだ。景佐はこの年12月24日に病没した。
この時点で、源右衛門親宜は義光の娘を妻にしていた。最上宗家を支えるべき重要な立場に位置づけられていたのである。
親宜は、慶長20年(1615)5月27日に、主君家親の一字をもらって元服したが、このとき15歳だとすると、生まれは慶長6年(1601)となる。
妻となった女性は、義光の最後の妻、清水夫人のなした娘であろう。名は記録に見えないが、淡路に住んでおられる里見家親族の家では「禧久姫」と伝える。同腹と思われるきょうだいには、義光の五男上山光広(1599生)、六男大山光隆(1602生)があり、「禧久姫」もまたこの兄弟に近い生まれであろう。
元和8年(1622)8月、景佐が懸念していた最上改易が現実となる。源右衛門親宜22歳のこととなるだろう。
親宜は、12月22日、幕命によって預け先とされた徳島に到着する。以後、藩主蜂須賀家政(号蓬庵)はなにかと彼を優遇した。藩主から源右衛門にあてた手紙は『東根市史編集資料第8号』に収録されているが、その数は28通にのぼる。それらは、「四季折々の挨拶から何かと心配りを示す、温かい内容のものばかり」と、最上家研究家、小野末三氏は述べておられる(『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜』)。
親宜は4年後の寛永3年(1626)に、1,000石の高祿を給されて藩の重役待遇となる。亡くなったのは前記寛文3年だが、慶長六年生まれとすれば、享年は63歳ということになる。翌寛文4年8月6日に亡くなった妻「禧久姫」も似た年齢だったろうと思う。
思えば、長姉松尾姫は1606年出羽にて没、次姉駒姫はそれより前1595年に京都で悲劇的な死を迎えた。三姉竹姫は改易後、夫氏家親定とともに長州萩に移り住み、1626年43歳で亡くなった。そして、末娘「禧久姫」は、南国徳島で夫とともに40年の歳月を過ごし、奥羽の名門最上家の娘として、生涯を全うしたのだった。
四姉妹のうち、最も幸福な一生だったと言えるかもしれない。
■■片桐繁雄著