最上義光歴史館
【鮭延越前守秀綱/さけのべえちぜんのかみひでつな】 〜重文の仏像にかかわり?〜
不思議な仏像が一体、真室川町内町の薬師堂にある。 奈良時代か白鳳期の作かと思われるブロンズの薬師如来像で、国指定重要文化財となり、今は特別に建てられたお堂のなかに安置されている。 いったいなぜ、こんなにすぐれた仏像が山形県内にあるのか。すくなからず謎めいている。 16世紀の終わりごろ……。 この付近を領していたのは、鮭延(真室川)城主、佐々木典膳という武将であった。彼は、源平合戦のむかし宇治川の先陣で名を挙げた近江源氏の名門、佐々木高綱の子孫であるという誇りをもって、義光に従おうとしなかった。 義光は大軍をさし向けて鮭延城を攻撃し落城させたが、武勇才知にすぐれた典膳を惜しんで、庄内に逃げ去るのを見逃してやったという。典膳はこの事実を後で知り、その温情を忘れず、後年最上義光に帰参したと軍記物語類にはある。 義光はかれに1万千5百石という高禄を与え、鮭延越前守秀綱と名のらせた。その後の秀綱は、義光の側近として知謀才覚を発揮、なかでも慶長5年の上杉軍山形侵攻に際しては、長谷堂城への応援軍としてはなばなしい活躍ぶりを見せる。 泰平の世になってからは、鮭延城(真室川町)を居城として、町づくりに尽力、現山形県最上郡北部の発展に大きな成果をあげた。 嫡子、左衛門尉も父にまさる文武すぐれた人物だった。15歳で長谷堂合戦に出陣、その戦いぶりは「諸人ノ耳目ヲ驚カス、異国ハ知ラズ、本朝近代ノ弓矢ノ少年ニシテ是程ノ武功ハイマダ聞カザレバ…」と『奥羽永慶軍記』は絶賛している。だが、十八歳で亡くなった。以後、秀綱は妻をめとらなかったのであろう。血筋は絶えたという。 義光没後の最上家は、家親の早世に端を発し、少年源五郎家信が家督を相続するに至って、重臣たちの離反がはじまる。 「家信は器にあらず、山野辺光茂を主君と仰ぐべし」と主張した旗頭が秀綱であった。これに対して「若年といえども、源五郎家信こそ正統」と、一族の松根備前守光広らは主張した。最上の家臣団は、二つに分裂してしまったのである。 抗争は幕府の審問に付される。「幼君を補佐して最上家を全うせよ」という幕府閣僚の助言を、鮭延秀綱をはじめとして、山野辺・楯岡らは受け入れなかった。その結果、元和8年8月、最上家は57万石を没収されて、近江・三河1万石へ改易となり、重臣たちはそれぞれ各地の大名に預けられた。 秀綱はこの時、審問の中心となった土井大炊頭利勝(当時佐倉、のち古河城主)に預けられた。実は、駿河大納言忠長から仕官の誘いがあったとも、彦根井伊家からの招きがあったともいわれ、秀綱の人物力量は広く諸侯の知るところとなっていたのである。 土井家では彼を優遇して、古河に移転した後も大堤庄5千石を与えた。秀綱はそのうち3千石を出羽から連れていった譜代の家来18人に分け与えた。これが話題となって、越前は知行すべてを家来に与え、自らは清貧に甘んじ、家来たちの施しを受けて晩年を送ったという話にもなった。 物欲に恬淡たる武人の生き様というべきか。戦国時代の荒波をくぐって生き抜き、泰平の世になってからも固い信念をもって、人生を全うした出羽の英傑の一人といえるだろう。 正保3年(1646)6月21日没。84歳。菩提寺は古河市鮭延寺。秀綱の屋敷跡に建立され、その名もゆかりの故地「鮭延」にちなんだものだ。この寺は、反骨の儒学者熊沢蕃山の墓があることでも知られている。 真室川町では、秀綱を町発展の恩人として顕彰している。また、同町正源寺は、秀綱父子を丁重に弔い、境内奥の二人の墓はいつも清浄に保たれ、香華の絶えることがない。 さて、例の仏像、真室川にあるからには、名門の武人、鮭延秀綱が持ってきたものにちがいない……地元の人々がそう考えるのも、かれに対する敬愛の念の表れだろう。 ■■片桐繁雄著 |
【坂紀伊守光秀/さかきいのかみあきひで】 〜最上家臣団のエリート官僚〜
戦国武将は、おおむね戦における手柄や活躍、武勇を誇示する逸話などによって名を知られ、評価もされがちだ。たしかに、武勇こそが戦国の世を生き抜く武士の本分ではある。 しかしながら、大名をささえる家臣団として見たとき、戦上手ばかりでは決してバランスのとれた組織とはいえない。 坂紀伊守光秀(あきひで)。 慶長6年、志村伊豆守光安が酒田城主として栄転した後の長谷堂城主。1万3千石。最上家では十指に入る重臣でありながら、当時の記録にも後代の物語にも、華やかな戦歴はなく、逸話も残されていない。 長谷堂合戦に際しては、後詰め部隊(援軍)の中に彼の名が見えている。当時は成沢城を預かっていたとする記録もあるが、不確かだ。彼の足跡をみると、武人というよりもむしろ政治外交の面にすぐれていたようだ。 関ケ原戦後、最上氏と秋田氏が戦陣参加の時期をめぐって議論になったことがあった。 このとき、主君義光が徳川家康といっしょに忍(おし)へ鷹狩りに出ていたので、最上側の代表者となって秋田実季と渡り合ったのが、他ならぬ光秀であった。 この論争のことは、秋田家の家臣が聞いた話を思い出して書き留めたもので、最上家没落後のことであるから、どうしても最上家には不利な書きぶりとなっている。そのため、坂光秀が実季から一々やり込められてしまうという内容となっている。にもかかわらず、光秀の弁舌はなかなか鋭いところを突いているように思われる。 慶長8年3月15日、光秀は主君義光の使者となって、京都の公家山科言緒を訪問した。 山科家は、皇室・廷臣らの公的場における衣冠装束を世話する家柄である。訪問の趣旨は、将軍家康の御前において言緒が「御取合」をしたことに対する義光からのお祝いの手紙と銀子三枚の贈り物を届けることであった。 「使坂紀伊守也、則対顔了、食相伴了」(使者は坂紀伊守であった。そこで対面をし、食事をともにした)。 出羽で育ったと思われる坂光秀が、礼儀作法にうるさい京都貴族の邸に参上して、きちんと用を済ませることができたのは、それなりの教養をそなえた人物だったからであろう。 二日後の3月17日、山科言緒はこう日記に書いた。 「最上出羽守へ一昨日のお土産に礼状を出した。坂紀伊守へも書状を遣した」 このころ、義光は京都あるいは伏見の邸に滞在しており、光秀はその側近としてさまざまな公務にたずさわっていたことが、この断片的な記事からうかがわれるのである。 関が原の戦いの後に、新たな最上領となった庄内地方の検地に尽力し、慶長十六年(1611)義光が寄進した慈恩寺領2千880石の検地も、光秀が責任者となって実施した。 義光が亡くなった翌年、慶長20年(1615)正月13日、徳川家康が岡崎で鷹狩を楽しんでいたところへ、主君家親の名代として光秀が陣中見舞い行った。 最上家からの献上品は、白鳥二、黒馬一疋、それに「いったい、どういう代物?」と、よく話題になる「最上蓼漬」一桶。光秀自身も、「子篭鮭十尺」を土産として持っていった。74歳の家康は喜んで光秀に面会し、最上家親の働きについても合わせて礼を述べたという。 長谷堂には、自らが開基となり、その菩提寺とした曹洞宗清源寺がある。この寺に彼は田畑とともに百姓十軒を寄進して護持を図った。寺に秘蔵される「すすき図屏風」は、桃山風のりっぱなもの(山形市指定文化財)。彼自身を描いた画像は、桃山武将の同時代に描かれた肖像画としては県内唯一の貴重なもの(県指定文化財)。その表情には、温厚で知的な趣がただよう。 彼の奥方が使用したという朱漆塗の膳椀もある。京都に上った時にでも、妻のために買い求めたのであろうか。 元和2年(1616)4月26日逝去。年令は不明。はしなくも、徳川家康の没年に当たる。戒名「清源寺殿祀山英典公大居士」。 ちなみに翌年3月には主君家親が亡くなり、それ以後、最上家は屋台骨がゆらぎはじめるが、光秀はそれを見ることなく亡くなったわけだ。 光秀の妻は、志村伊豆守光安の娘だといわれ、夫亡き後は、山形城内三の丸八日町口近くに広大な屋敷をもらっている。彼女が亡くなったのは正保元年(1644)10月19日。戒名「宝正院殿実相良信大姉」。28年の寡婦としての暮らしがあったことになる。 最上家改易の後、跡を継いだ坂光重は、上杉家に親しい人がいて、その配慮で白鷹町荒砥に落ち着き、四十間四方の屋敷を拝領してここに居住した。 坂氏の系譜は、白鷹町と米沢市に連綿として続いている。 ■■片桐繁雄著 |
【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 〜酒田繁栄の土台をきずいた〜
形に影の添うごとく、最上義光の側にあって出羽の統一と繁栄に尽力した家臣として、志村伊豆守光安は特筆すべき人物であろう。『奥羽永慶軍記』では、義光の柱石として、氏家尾張守守棟とともに志村九郎兵衛をあげている。後の伊豆守光安である。 「ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ。彼等ハ皆君臣ノ礼アツクシテ、国治マリ、栄耀家門ニ及ボシ給フ」 と、まさに絶賛の対象となった人物である。 出自は明らかでないが、成沢・谷柏・柏倉など山形周辺の郷村名を名字とする最上家臣が少なからず存在するところから、彼も漆山地区志村(山形市北部)の出であろうかと推察される。年齢も不祥。活躍の時期と没年から推して、主君義光に近い年齢だったかと思われる。 天正5年(1577)ごろ、谷地の領主白鳥十郎長久が、義光を殺して出羽を自分の領地にしようと、中央の権力者であった織田信長のところに使者を派遣し、 「わが家こそ斯波兼頼以来、代々出羽国の守護職を務めた家柄」と、鷹と馬を献上する。 信長は遠い出羽のことなど知らなかったから、その言い分を受け入れたという。 伝え聞いた最上側は、放っておけぬとばかり、こちらも信長へ接触する。この時に使者となったのが、志村九郎兵衛光安だった。光安は、献上品として青鷹一居、駿馬一頭、名刀工「月山」の鍛えた鑓二十本(十本とも)ともども、最上家の系図をたずさえて上京し、信長に謁する。信長は光安に面会して、白鳥の言い分を偽りと断定、「最上出羽守殿」として返書を与えたという。 この話は江戸時代の文献にあるだけで信憑性はとぼしいが、光安が最上家にとっていかに重要な存在だったかを物語るとはいえるだろう。 その後、白鳥を討伐することになるが、ここでも氏家と志村の策謀と活躍が語られる。 天正12年(1584)、白鳥十郎は義光によって誅殺される。続いて寒河江氏、天童の里見氏も、義光の制圧するところになるが、どの戦いでも志村伊豆が大きな働きをした。ついで、最上郡方面に兵を進め、鮭延越前守秀綱と戦うが、ここでも「秀綱を殺すな」という義光の意を体して、光安はその城外脱出を見逃している。 光安が最も注目される働きをしたのは、慶長5年9月のいわゆる長谷堂合戦であろう。寄せくる上杉の大軍を向こうにまわし、長谷堂城に篭もって持久戦に持ち込み、山形の本城と町を戦火から守りぬいたのである。この戦いは、畑谷落城9月13日の翌日から始まっているが、光安は援軍として派遣された鮭延秀綱らとともに、しばしば上杉軍を翻弄した。 9月末に、関ケ原の戦いで東軍・徳川家康側圧勝となった結末が報らされると、直江兼続のひきいる上杉勢は撤退する。この追撃戦の激烈さは、両軍あわせて2千を超える戦死者を出したことでも想像できるだろう。ちなみに、関ケ原の戦死者は、6、7千だったとされており、長谷堂合戦は、全国的に見ても、実は関ケ原につぐ大合戦だったのである。 山形最上方の城塞のほとんどが落城あるいは空け逃げだったのに、たいした損害も出さずに長谷堂城を守り通した功績は、抜群のものだった。 直江退去の10月1日、ここで慶長出羽合戦は事実上決着している。 このとき、撤退した直江兼続は、大きな失態を演じた。庄内から最上に攻め入って、谷地城を占拠してここに篭もり、総大将兼続からの山形城総攻撃の命令を今か今かと待ってていた下治右衛門吉忠のところに、撤退の連絡をしなかったのである。 吉忠とその率いる兵たちは、兼続から置きざりにされて孤立してしまったのだ。 そこを最上の大軍が包囲する。援軍を期待できない情況でも上杉方は篭城して交戦しようとするが、義光は「次右衛門は武勇の誉れも名高き者、特に庄内のことに詳しい人物であるから、なんとかして降参させて味方にしたい」と、光安に交渉を命じる。 夜に入って光安は、独り谷地城に入る。 「関ケ原では西軍が大敗し、上杉の大将直江殿は会津に帰られた。貴殿一人が義を守り、数多い兵士とともに戦い死にたりとて、何の益かあるべき。義光公も貴殿を惜しみなされて、拙者を遣わされたのである。降参なされば必ず礼をもって厚く遇する」と、理を尽くして降伏をすすめた。下一族はその熱誠にうたれ、また直江が何の連絡もなく撤退したことへの反感もあって、ついに軍門にくだった。「志村という武将は、敵に対して絶対偽りを語らぬ」という相手方の高い評価も作用したらしい。 「口才人ヲクジキ」という『永慶軍記』の記述どおりであった。 下一族は、その後庄内尾浦城(鶴岡市大山)を落とし、翌年4月には酒田城攻略にも大きな働きを見せる。 慶長6年(1601)、戦功を賞されて、志村光安は庄内の最上川北3万石酒田城主に大抜擢される。この石高は、最上家臣としては最上一族の本荘満茂の4万5千石に次いで第2位である。広大な平野があり、最上川口には古くからの港がある。その重要な所を、志村光安は任されたのである。下吉忠は、田川郡1万2千石大山城主となり、名乗りも下対馬守康久と称することとなる。降将への処遇として類少ない手厚い処遇といえるだろう。 酒田の志村、大山の下。この二人が、庄内地域に数々の事績を残すこととなる。 光安は、戦火で荒廃した酒田の町づくりに努める。町の指導者として重きをなした三十六人衆と協議し、経済活動を重視した都市計画だったとされる。強い西風、それによる災害への対策、商人職人の居住地、寺町の配置を工夫し、さらに港の機能を充実して、「羽州第一の港町」にふさわしいものとした。 城も当然復旧した。土塁のなごりは、東高校の敷地に残っている。城内に祀られていた山王宮を移建して、酒田町の鎮守とした。今の日枝神社である。長谷堂城主時代に菩提寺だった曹洞宗清源寺から峰岩呑鷲和尚を招き、新たに青原寺を建立した。 酒田繁栄の土台は、志村光安によって固められたといってよいだろう。 慶長8年、義光は新たな領地となった庄内の二つの重要拠点、酒田東禅寺を「亀ケ崎」、大宝寺を「鶴ケ岡」と目出度い名に改めた。庄内の末永い発展を願ったのである。 最上家では、慶長17年までに庄内の検地を完了したが、並行して古来の神社仏閣の復興にも力を入れた。これにも、志村伊豆守が大きくかかわっている。 慶長10年、鶴岡市の金峯神社本社、13年、同釈迦堂、羽黒山五重塔などの大規模な建造事業を差配したのが、光安だった。下対馬守もいっしょに協力したことが、残る棟札から知られる。 光安の人柄がよく表れた手紙がある。年次未詳、10月3日付。家普請をしている家来四人にあてたもので、 「壁の下地は念入りに、どうせなら台所も造れ。風雨のひどい時分で大変だろうが、しっかりやれ。大工衆にもご苦労と、申しつたえてくれ」という内容である。 具体的な状況が今ひとつはっきりしないが、工事にたずさわる大工衆へも、思いやりを見せていることは読み取れる。 慶長14年かと推定される「用度帳」断片に、二月二十日「(銀)拾匁は上方へ点取りに代金として」、二月三十日「四十三匁は、しょふたく(里村昌琢)へ御音信」と記された部分があるそうである(川崎浩良「山形の歴史」345p)。「点取り」とは、批評を受けること、「御音信」とは、ここでは「おみやげ」ぐらいの意味であろうか。最上一統の気風として、光安もまた、連歌をたしなんでいたらしいのである。 天童市若松観音堂に、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」(重要文化財)がある。永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部に「志村九郎・・」という落書が見える。天童攻めを終えた天正12年(1584)後のいつの日か、参詣した光安が、なにげなく筆をとってわが名を書き付けたのであろう。 慶長16年(1611)8月7日没。主君に先立つこと3年である。年令不明。その後を九郎兵衛光惟がついだが、慶長19年6月1日、鶴ケ岡城下において一栗兵部に襲殺された。その係累と思われる人物が安藤対馬守へ預けられ旨の注記が『最上義光分限帳』に見えているが、詳しいことはわからない。 妻は元和年間には健在だったと見え、『山形城下絵図』三の丸南東部に「志村伊豆守後室」の屋敷があった。僚友であった坂紀伊守光秀の後室も近くに住んでいた。最上家重臣の妻たち、夫に先立たれた二人の女性の間に、どんな交流があっただろうか。 酒田青原寺の裏庭に立つ古風な二基の五輪等が、志村伊豆守夫妻の墓である。 彼が領した飽海郡遊佐町、庄内平野の北はずれ、鳥海山の裾野に落伏(おちぶし)の小さな集落がある。集落の東台地には曹洞禅の古刹永泉寺(ようせんじ)がある。伽藍の間を行くと、奥まった木立のなかに、一基の石造九重塔が建っている。風化した塔の四面には、「奥大日本出羽州□□□君侯前豆州太守為天室良清公大禅定門 士卒等謹就于永泉精舎建立石塔一尊以供養…」の刻まれているというが、実物からはなかなか読み取り難い。 彼を慕う家臣たちが建立したもので、山形県文化財に指定されている。 ■■片桐繁雄著 |
【氏家伊予守定直・尾張守守棟/うじいえいよのかみさだなお・おわりのかみもりむね】 〜信頼厚い譜代の重臣〜
「どうぞ親子の争いをおやめください。最上のお家は義光様に任せるのが一番です。」 元亀元年(1570)に義光が家督を嗣ぎ、新たな政策を実行しはじめた段階で、家臣団が父義守派と嫡男・義光派に分かれて対立、領内が混乱におちいった。このとき、病床の氏家定直はこう言って、主君義守をいさめた。 その事情は5月15日付けの義守(入道して栄林)書状によってわかる。 「さてゝゝ此口之儀者、氏家存命不定之刻、意見に及び候条、諸事の不足をさしおき、親子和与せしめ候。定めて祝着たるべく候や」 現代語では「こちらの方では、氏家(伊予守)が生死のさかいにあるときに、意見してくれたことから、いろいろ問題はあっても、親子和解したところだ。まずは目出度いこととしてよいだろう」となる。 義守としては、不満はあれども喜んでいいことと、自分を納得させている文面である。 定直の忠言に従って義守は一旦は政治の世界から引退し、龍門寺に入った。 文献史料を見ると、氏家定直が最上家の重臣として活躍をはじめるのは、義光が生まれる前の天文12、3年(1543、4)ごろからで、主君義守が20歳を過ぎたばかりの時期にあたる。若い山形の主を、定直は懸命に支え続けてきたのである。だからこそ、その病床からの意見には、剛毅な義守も従わざるを得なかったのであろう。 仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏の研究によれば、15世紀前半の当時、米沢の伊達氏と最上氏が外交折衝をするときは、定直が後見となっていたとのことで、「義守政権の宿老で第一の重臣」の地位にあったという。 さらに筆者の意見を述べるなら、その名字の「定」は、さらに前代の「最上義定」から拝領したのではないか。だとすれが、義定の没年とされる永正17年(1520)以前からの、譜代の家臣だということになる。 * * * 義光時代に活躍する氏家尾張守守棟は、定直の子であろう。父が主君の名の一字をもらったのと同じく、彼も義守から「守」一字を拝領したと考えられる。ついでだが、その子「光棟」、孫「親定」もまた、「義光」「家親」の一字をもらったのだろう。 『最上記』によれば、守棟は常に義光の側近にあった。義光が領域拡大の戦いを積極的に進めていった時代、谷地の白鳥氏、寒河江氏、天童、上山の里見氏等との戦いには、さまざまな計略を進言して、成功を収めたとされている。 それだけではない。主君に対して厳しい苦言を呈したこともあった。 永禄年間(1565前後)に、貴志氏が篭もった八ツ沼城(朝日町宮宿)を攻めたとき、義光は真っ先かけてめぼしい敵と渡り合おうとする。一軍の総大将が勢い込んで走り出るのを、兵士たちは「とんでもないこと」と引き止めるが、義光はそれを振り切って進み、例の鉄棒を振り回して相手を仕留め、首を取った。 そのとき、傍に駆け寄った氏家守棟は、「大将ともあろう方がそんな雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と、厳しく叱り付けた。義光は叱られてしょげかえり、取った首をかたわらにいた兵に与えてしまった。 まさに信頼厚い重臣なればこそである。 『奥羽永慶軍記』では、義光を「ソノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ」と称賛したのに続けて、「誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ」と、守棟を「志村九郎兵衛(伊豆守光安)」と並べて最上家の最重要な家臣として位置付けている。 守棟は、まさに義光の出羽南部統一事業をささえた大功労者であった。 『最上義光分限帳』には、その子「高壱万七千石 氏家左近」が出ており、城下絵図で見ると、山形城二の丸東大手門の前、元の県立病院の敷地一帯が氏家の屋敷であった。山形城内で最も重要な所に居住していたわけである。守棟の子光棟は、義光の娘「竹姫」を妻とするが、これは別項にゆずる。 山形市平清水の大日堂に、氏家相模守光房が「諸願成就」を感謝して寄進した鉄鉢がある。この人物も、伊予守、尾張守に連なる人物であろう。「慶長六年閏月(この年は十一月)二十八日」とあるから、出羽合戦で勝利を収めた記念でもあろうか。参考までに、尾花沢市六沢の円照寺観音堂に延沢康満が奉納した絵馬も、同年、同月「十七日」の銘がある。この月、山形領内では祝勝パーティーでもあったのか、あるいは戦後の論功行賞が発令されたのかもしれない。 話かわって、古く14世紀の南北朝時代、新田義貞が越前で戦死したときに、その首を取ったのは斯波氏の家来の氏家重国だと『太平記』にはある。このとき新田義貞が佩いていた太刀が、めぐりめぐって最上家に伝えられた名刀「鬼切丸」であるとされる。 斯波氏は現宮城県北部に居住して「大崎」を名乗り、最上家はその分家として出羽最上に入った。両家には共に「氏家」を名乗る重臣がいた。 どうやら氏家氏は、斯波氏、最上・大崎両家とは切っても切れない深いつながりがあったらしいのである。 ■■片桐繁雄著 |
【松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ】 〜俳人・松根東洋城の先祖〜
義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878〜1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。 故里の故里淋し閑古鳥 青嵐三百年の無沙汰かな 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
「この城がほしいなら、戦って取るがよい。上杉の習いはいざしらず、最上の武士は最後の一人になろうとも、城を明け渡すことはないのだ。」
慶長5年(1600)九月、最上領の最前線である畑谷城は、上杉二万余の大軍によって包囲された。城を守る最上の兵は、わずか3百数十人。城主は江口五兵衛光清である。
上杉方の大将、直江山城守兼続は軍使を城中に送って、「無駄な戦いはやめて降伏せよ。かならず名誉ある処遇をする」と伝えたが、その使者に対して光清が敢然と言い返したのが、ここに紹介した言葉である(『奥羽永慶軍記』による)。
上杉家の公史『景勝公御年譜』でも、江口五兵衛については絶賛を惜しまない。
「城主は江口五兵衛道連(ママ)というものである。かねてから評判の忠信無二の義士であり、父子ともに立てこもった。信条ひとしき者は結束するというとおり、従う勇士はいずれも一騎当千の者ばかり、百余人ママが篭城した。直江山城守は諸将と相談して、なんとかして五兵衛父子を味方にしようと計略をめぐらしたが、江口は義士であり全く聞き入れなかった」
義光もまた、上杉軍の襲来を前にして、
「畑谷城のような山中の小城で戦ったとて、とうてい持ちこたえることはできぬ。急いで山形に帰り生死をともにせよ」
と再三撤退を命じたが、光清は、
「常々この城をあずかっているのは、このような時のためでございます。いま危うい時に城を捨てたとあっては武士の名折れ。もとより一命を捨てる覚悟であるからには、ここで華々しく討ち死にし、忠義の心を後世に残す所存でございます」
と、いっこうに従おうとしなかった。
義光は見捨てることはできぬと、飯田播磨守、谷柏相模守、小国日向守らの援軍を派遣したが、その甲斐もなく、畑谷の孤城は9月13日に落城、全員城を枕に討ち死にを遂げた。玉砕であった。時に光清55歳。ともに討ち死にした一族は、次男小吉23歳、甥松田久作(一書に忠作)40歳。彼らの奮戦ぶりは江戸時代に書かれた軍記物語に詳しいが、もちろん、想像をたくましくした部分もあるだろう。
援軍としておもむいた飯田相模守も、乱戦のなかで戦死した。その首を取り返そうと、引き返して戦った谷柏相模守の友情も、多くの軍記物語の語るところだ。
兼続は、9月15日付け、僚友秋山伊賀守あての手紙で、
「去る十三日、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で斬りを命じて、城主江口五兵衛父子含めて、首を五百余り討ち取った。簗沢の城も空け逃げ、在々(村々)に放火し、昨十四日には最上の居城に向かい陣を構えている……」
と書いた。「撫で斬り」とは、刃にあたる者皆殺し、の意。壮絶、悲惨な戦いであった。
慶長出羽合戦の「悲劇の城」。それが江口五兵衛の畑谷城だった。
ところで、この光清はただ勇敢・信義の武人というだけではない。古典文芸に通じ、すぐれた感性をもった人物だった。そのことは、残された連歌作品や手紙から明らかに見て取れる。
連歌についていえば、文禄から慶長初年にかけて、彼が連なった連歌は、現在確認されるだけで14巻、句数は76句である。
その最初、文禄2年(1593)2月12日の連歌では、5句が選入された。
秋の雲まよふあとより晴れ渡り 禅昭
つばさ離れず雁わたる空 光清
秋空に浮かぶちぎれ雲が行方さだめず流れ去り、しだいに晴れていく。これが山名禅昭の句。これにつけた光清の句は、そのあとの晴れ渡った空を、雁の列が渡っていくという景である。「つばさ離れず」が仲良く助け合って旅をする雁の姿を描いて、いかにも温かい。これに、景敏が付けて、視点を色づきはじめた田圃へと移した。
はるかなる田づらも色になりそめて 景敏
景敏は連歌の大家として、義光はじめ最上一族と深い交流があった。慶長4年10月以後に改名して里村昌琢を名乗り、後水尾上皇から古今伝授をうけた。後に江戸幕府の連歌所の宗匠として重きをなした人物である。寛永13年(1636)2月に63歳で没した。
江口光清は、このような一流文人たちと一座して、奥深い文芸の世界に心をあそばせることのできる武人だった。単なる武骨な田舎ざむらいではなかったのである。
手紙では、光清が僚友加藤掃部左衛門にあてた一通が、山形市村木沢の旧家、加藤家に秘蔵されている。
掃部左衛門が村木沢の一部「悪戸」というところに館を構え、堀を掘りめぐらしたことを「むつかし」いこと、つまり「結構でない」と言い、悪戸に住まいする衆は、村木沢衆と上手に付き合わなければ立ち行かぬ、その点にじゅうぶん気配りをしてほしいと、懇切な忠告を与えた手紙である。「四月二日」の日付はあるが、年次はわかっていない。推定では慶長2年7月以後、戦死するまでの3年余の間だろうと思われる。
文武両道にすぐれた勇者、名誉ある死をとげた江口光清のことは、畑谷落城の悲話とともに長く人々に語り継がれている。
戒名は清浄院殿江月秋公大居士。山辺町畑谷の、古城跡を眼前に見上げる長松寺の境内に、彼を弔う古い家型塔婆がある。墓地の一画には彼を讃える漢詩を刻んだ石碑がたち、1999年の秋四百年忌を修して建立された五輪供養塔がある。
人柄といい、戦いぶりといい、彼のことは末長く語り継がれることだろう。
■■片桐繁雄著