最上義光歴史館

【里村家の人々/さとむらけのひとびと】 〜最上家の文芸を指導した〜
   
 日本では中世以来、特定の家が特定分野の職能を受け持つ伝統が一段と顕著になった。和歌の冷泉・二条、絵画の狩野、茶の湯の千家などはよく知られているが、連歌では桃山時代を区切りとして里村家が中心となった。里村一派の人たちは、いずれも最上家と親しかったが、ここでは特に目立つ4人(略系譜、太字で示した)を挙げておこう

略系譜は>>こちら

�里村玄仍。義光同席、31回。
 紹巴の長男である。義光が京都で活躍していた文祿慶長初期(1593〜1600)は30歳前だったが、紹巴もこの長男を頼みにしていたようで、いろんな席に帯同している。能書家で、義光らの連歌を美麗な料紙に清書したものが、これまでに四巻見つかっている。『若草山』という連歌指南書を書き写して義光に贈ったのも玄仍だった。
 慶長2年(1597)正月には、最上義康と対で短連歌(上五七五と下七七だけ)を詠みあった。

 一夜とは霞やへだて今日の春   義康
 雪のこりつつ東雲(しののめ)の山   玄仍   
  
 『北野社家日記』という古記録の慶長3年10月7日の条に、「最上殿内衆」から依頼されて、北野天満宮へ『源氏物語』を発注し、手土産として最上名産「ろうそく二十丁」を届けたのが玄仍であった。
 印刷出版のほとんどなかった当時、書籍を手に入れるには書き写すしか方法がなく、そういう場合、良質の原本を所蔵し、短時日のうちに写本が作れるところとしては、蔵書も学者もそろった北野天満宮が随一だった。「最上殿内衆」の依頼がここに来たのも、自然なことだ。
 「内衆」とは普通家来をさす。しかし、最上の家来たちが自らの発意で『源氏物語』五十四帖を発注したとは考えにくい。憶測だが、その背後に義光の三度目の妻、嫁いで間もないうら若い清水夫人がいたのではあるまいか。大名の奥方から直接依頼するわけには、当時はいかなかっただろうから、家来を通すことになるはずだし、誰に頼むかとなれば、紹巴の子息で京都文化界に知己が多く、最上家に親しく出入りしていた玄仍が、都合のよい立場にあったのだろう。できあがった『源氏物語』写本は、最上家側に届けられたはずだが、それがいつなのか、惜しむらくは記録がない。
 慶長七年に父紹巴が亡くなったとき、七日ごとに百韻連歌を独りで作った高名な「玄仍独吟七百韻」写本が最上義光歴史館に収蔵されている。
慶長12年(1607)7月4日死去。年齢については幾つかの説があるが、活動した時期や、弟玄仲の年齢などを勘案して、元亀2年(1571)生まれの37歳としてよいように思う。

�里村玄仲。義光同席、21回。
 紹巴の次男。天正4年(1576)生まれ、寛永15年(1638)没。流謫の身となった父親について近江に住んだ一時期があるらしい。若かったためか、発句、脇句は少ないが、慶長4年5月5日、最上邸での節句祝連歌では珍しく発句を作った。客として、日野輝資、飛鳥井雅庸、高倉永孝、勧修寺光豊ら、堂上公家衆が4人も列席した座である。 
     
 ふけばふくあやめもわかぬ軒端かな   玄仲
 義光が脇句を付けたが、墨よごれのため解読できない(京都大学付属図書館所蔵)。 

玄仲は、御朱印貿易の豪商、兼河川土木事業家である角倉了以の姪を妻とし、長女「なべ」ほかを産んだ。この「なべ」が、江戸時代の天才的儒学者といわれる伊藤仁斎を産んだ。仁斎は、玄仲の孫、紹巴の曾孫ということになるのだから、血は争えないものだ。
 玄仍・玄仲の系統は、その後江戸幕府連歌所で里村北家と呼ばれた。
 (ついでだが、角倉了以もまた義光と5回連歌会を同席しており、親しい交流があった。駒姫らを弔う京都瑞泉寺の建立者でもある。) 

�里村昌叱。義光との同席、30回。
 天文8年(1539)生まれ、義光より6歳年上である。紹巴が教えを受けた里村昌休の子で、紹巴の娘をめとった。紹巴に次ぐ連歌の権威とされ、義光らとの連歌では発句が9回あり、紹巴の11回に次ぐ。やはり重い存在だった。紹巴が近江に追放されている間は、特に指導者としての動きが目立つ。慶長8年(1603)没。

�里村昌琢。義光同席、30回。
 天正2年(1574)生まれ、寛永13年(1636)没。昌叱の子。はじめ景敏と名乗り、慶長4年(1599)10月ごろに改名した。ほとんど毎回、父とともに義光らの連歌に加わり、回数も同じである。玄仲同様、発句が見られないのは年齢が若かったせいだろう。脇句も、義光の発句につけた例が一度あるだけだ。
 後に江戸幕府連歌所の宗匠になった。里村南家の初代、連歌界の重鎮として尊重された。
 義光が連歌を作らなくなった後も、彼は最上一族と連歌をとおして親しかった。徳島里見家文書(東根市史編集資料8)がそれを物語っているが、それについては別項(東根景佐・親宜の項)で書くこととする。

 桃山時代から江戸時代初期、里村一派の連歌師、文学者グループは、最上一門と深く豊かな交流をしていたのだった。その影響が山形の文化にどんな痕跡を残したか。この問題は、今後の緻密な検証にまつ必要があるだろう。
■■片桐繁雄著
【里村紹巴/さとむらじょうは】 〜義光の連歌の師〜
   
 義光が桃山時代を代表する連歌作者だったことは国文学者の間で広く知られているが、彼が師と仰いだのは里村紹巴(1524〜1602)だった。義光より22歳年上である。紹巴のことは、歴史辞典類や文学史の書籍類に詳細に記されているので、ここでは特に最上家との関係を書いてみる。
 文祿2年(1593)2月、義光は秀吉の朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にあった。たまたま京都では紹巴の一門が、春の連歌会を催そうとして、発句を最上義光からもらうこととなった。これに応じて、義光の発句と、これに和した宿老氏家守棟の脇句(連歌の第二句)が届いた。守棟も名護屋陣にあったのだろう。

  梅咲きて匂ひ外なる四方もなし 義光
  幾重霞のかこふ垣内      守棟

 春がおとずれて梅が咲き、清らかな匂いがあたり一面に満ち満ちている。ここは幾重にも霞に包まれた、のどかな屋敷の内である、というような趣である。これに、第三句として、紹巴がつづけた。

  春深きかげの山畑道見えで

 深みゆく春、かなたの山畑をめぐる細道もいつしか霞の中に消え失せている、というのである。以下つぎつぎと詠じつづけて百韻連歌(五七五 ― 七七 ― 五七五…と百句で完了)とした。2月12日の日付があり、現存する義光連歌としては最初のものである。
 名護屋・京都を使者となって往復したのは、江口五兵衛光清だったらしく、彼はそのまま連歌会に参加して五句が選び入れられた。この連歌の写本は、国立国会図書館、内閣文庫、天理大学図書館に所蔵されている。
 紹巴は、この発句がよほど気に入ったと見えて、夏になって義光が帰京した折を見はからって、改めてみずからが脇句をつくって連衆に示し、百韻に仕立てた。珍しいことをしたものだ。このときには家臣、江口光清、堀(筑紫)喜吽の名もある。この2人は義光が連歌会に参加するときよく随伴した。教養豊かで風雅を解する人物だった。
 紹巴と義光とは、早くから親密だったようだが、いつから交流が始まったかといえば、義光が京都に長期間滞在するようになった天正18年(1590)秋よりあと、特に侍従に任じられた天正19年正月以後だろう。だから、わずか2〜3年の間に、義光と紹巴は親しくなったわけだ。
 紹巴は本姓松井氏。奈良に生まれ、連歌の道にこころざして京都に出た。「これより苦しみ努めて、そのわざ妙にいたり、王侯士庶みな師と仰ぐ……その名天下にあまねし」(続近世畸人伝)という状況になったという。
 彼にかかわる有名な話として、明智光秀が本能寺に織田信長を襲う数日前(天正10年5月末)に、愛宕社で催した連歌会で、

  時は今あめが下しる五月かな     

という光秀の発句に、天下(あめがした)を奪おうという意思が秘められていたことを知りながら、さりげなく第三句を作ったという話がある。あとで秀吉からこの点をただされたそうだが、しかし、それでもって信を失うことはなかった。大坂、伏見、聚楽第に伺候し、さらに吉野の桜狩り、高野山での連歌会と、秀吉の側に侍することが少なくなかった。連歌師は、古典文学の研究者であり、連歌・短歌の実作者でもあったから、紹巴のみならず、里村家の人々はいずれも、京都を中心とする文学芸術の世界で幅広く活動していた。芸術文化に深く関心を寄せていた義光は、光彩に満ちた京都文芸界に、積極的に飛び込んだのであろう。素地は山形にいるとき相当程度は出来ていたのだろうが、妻子同伴で在京期間が長くなったことから、自然に京都文人との交流も密になったと思われる。
 さて、紹巴が義光と同座した連歌会は20回に及ぶ。
 紹巴は、豊臣秀次による謡曲注釈の事業ではリーダー格となり、聚楽第にしじゅう出入りしていた。義光もときどき伺候していたと見え、聚楽御殿で催したと考えられる連歌もある。紹巴が発句、義光が脇句を詠じた。

  写し絵の紅葉はちらぬ宮居かな  紹巴 
  牆(かき)ほの四方や風寒き音  義光 

 「御殿の襖や壁面に描かれた紅葉は、冬近くなっても散らずに宮居を飾っている。めでたいことよ」というのが発句。「御殿をめぐる高い土塀の外は、寒い風の音がしている」というのが脇句である。関白の住まいであるから「宮居」といってもおかしくない。これは文祿3年10月25日(太陽暦12月6日)開催の連歌である。
 文祿4年(1595)秀次は謀反の言い掛かりをつけられ、高野山に追いやられて自決させられる。家臣も、親しかった公家や大名も罪人とされた。義光は閉門、15歳の娘駒姫は処刑された。伊達政宗も譴責を受けた。
 紹巴も秀次の謀反謀議に加わったとされ、財産没収のうえ近江に追放された。およそ2年ほどは三井寺門前で侘び住まいを余儀なくされたが、こういう事態のなかでも、義光は恩師紹巴と音信を絶やさなかった。
 翌年の7月、義光は連歌に関する質問をまとめて紹巴に届け、教えを請うた。近江まで出向いて直接伝授を受けたこともあったようだ。紹巴のほうも、年末には義光の息子で十五歳の家親が文学好きだと聞いて、藤原定家の『詠歌大概』を自筆で書き写しプレゼントしている。紹巴と義光は、互いに深い信頼で結ばれていたのである。
 紹巴と義光の関係や業績については、連歌史研究の最高権威木藤才蔵博士の『連歌史論考』などに詳しい。
 紹巴が流謫を解かれて帰京したのは慶長2年(1597)の夏ごろであろう。8月7日の夕刻から、京都文人のトップクラスが集まり、紹巴を主賓とする連歌会が開かれた。場所は残念ながらわかっていない。
 呼びかけは興山寺の応其(おうご)。豊臣秀吉が尊敬した傑僧で、世に木食上人として知られている。同席者は細川幽斎、徳善院僧正前田玄以、准三后聖護院道澄、大納言日野輝資、新三位参議飛鳥井雅庸、山城守山中長俊、近衛家に仕えた文人北小路友益、これに紹巴の身内である昌叱、玄仍、景敏(後改名、昌琢)の3人が加わった。義光がこの華々しい席に招待されたのである。
 全巻すぐれた句の連続で、数多い桃山時代連歌のなかでも秀作であろう。義光の句は七句選び入れられたが、他に比していささかの遜色もない。それどころか内容の深さ情趣の豊かさは、他をしのぐ感さえある。時に紹巴74歳、義光は52歳であった。実作品は、『最上義光連歌集 第三集』をご覧いただくとして、ここでは略させていただく。義光と紹巴が一座した最後は、慶長5年(1600)の初夏である。日付はないが、おそらく5月上旬だろうと思われる。発句は紹巴。

  秋に散ることわりは憂き若葉かな

「明るい若葉も、秋には散るのが定め、それがもの悲しい」の意。義光は9句が選び入れられた。このときは、江口光清も堀喜吽も同席していない。
 実はこの一箇月ほど後の6月には、義光は家康の意を受けて、会津上杉討伐に向けて山形に帰らねばならないときであった。そしてこの連歌が、現在確かめられる義光連歌の最終作品ということになる。
 上杉の大軍を迎え撃ったいわゆる慶長出羽合戦(長谷堂合戦)で、光清も喜吽も戦死した。ともに連歌を楽しんだ側近2人の死に、義光はどんな感懐を抱いただろう。
 紹巴は、慶長7年(1602)4月12日に没した。慶長元年の文書に「七十三歳」と自記しているところから、年齢は79歳ということになる。
 57万石の大封を得た義光は、その後も上洛の機会は少なくなかったが、師を失い、気心知れた家臣両人を失っては、連歌を楽しむ心境には、もはやなれなかったのかもしれない。関ヶ原合戦以後、義光の連歌を見出すことはできない。
■■片桐繁雄著
【斎藤伊予守光則/さいとういよのかみあきのり】
〜太閤秀吉からの‘御預け人’?〜
   
 最上義光の生涯を書いた『最上記』(『山形市史 史料編1』収録)の末尾に、家臣団のリストがある。その中に異例の書込のある人物が一人いる。

  四千石
  太閤より御預け 斎藤伊予守

とあるのがそれである。
 4千石といえば、数多い最上家の家臣の中でも、20数位ほど。
 最上川舟運の便をはかるために、難所、碁点、隼、三ケ瀬を開削する工事では、責任者となって事業を完成させた。これは、慶長11年のこととされるが、当時出羽にはこうした工事のできる技術者がいなかったため、他国から大勢の石工を呼び寄せて仕事をすすめたという記録が、天童市高擶の願行寺にある。この古文書では、大石田と中野船町の川港を設けたのもこの時とされるから、斎藤伊予はその面でも業績をあげたのだろう。
 「最上川を否船(いなぶね・稲舟)が上下するようになったのは義光公賢巧の徳である」とも書かれている。
 慶長16年(1611)、義光が病気平癒のお礼に若松観音堂を再建改修したときは、普請奉行を務めた。そのほかにも、最上家の米の売買、新田開発、田畑の検地にも斎藤伊予はかかわっている。
 義光時代の分限帳では谷地四千石の城主となっているが、源五郎家信の時代には高玉城5千5百石となっており、最上家が改易された元和8年、領内の城館を接収した伊達家の記録では「高玉之城 斎藤伊予居城、五千石」となっている。義光の信頼あつく、その後家親3年、そして源五郎家信の時代にも、最上家を支える一かどの役職にあったわけだ。
 問題は、この人物が「太閤より御預け」だったという記載だ。
 大名への「預け」とは、政治犯やその一族が、地位を奪われて諸大名に預けられて監視下におかれる事態をさす。もしこの記載を信ずるなら、さまざまな想像がひろがる。
 太閤が亡くなったのは慶長3年である。その後、義光は彼の監視を解き、すぐれた才能を買って、改めてかれを高禄で召し抱え、重要な職務を与えたのであろうか。
 そこで想像だが、この斎藤伊予、ひょっとしたら明智光秀の重臣で、本能寺後の戦いで豊臣秀吉にやぶれて自刃した斎藤利三の一族ではなかったか。そういう立場にあった人物なら「太閤よりお預け」もありえる。
 もしそうだとすれば、かの有名な春日局(3代将軍家光の乳母)は利三の娘であるから、斎藤伊予とは身内同士ということになるわけだ……。
■■片桐繁雄著 
【北楯大学助利長/きただてだいがくのすけとしなが】 〜庄内開発の恩人〜
   
 最上家臣のなかに、神としてまつられた人物がいる。
 北楯大学助利長である。
 慶長5年(1600)の関が原合戦後に最上領になった庄内の大部分は、当時は広大な原野だった。
 狩川城主となった利長はこの原野を水田にしたいと考えた。
 それには水がいる。しかし、最上川は低いところを流れているから役に立たない。
 利長は現地をくわしく調べ、月山の北側を流れる立谷沢川に目をつけた。この流れをせきとめ、堰を掘って水をもってくればいい。大事業だが、これしかない。
 慶長16年(1611)、利長の提案に、一部家臣が反対したが、これを押し切って、義光は着工を命じた。山形藩最上家としての一大事業である。
 翌年工事が開始された。責任者となったのが、発案者北楯利長である。工事に従事する人夫は、新たな最上領である由利・岩屋・亀ケ崎・鶴ケ岡・大山それに櫛引の各地から、6千2百87人を、藩命をもって動員し、これに地元狩川郷からの出役をふくめて、7千人を越えたとされる。
 堰を通す現場は、全体として一方を最上川が流れ、片方は月山につらなる山地がせまっている傾斜地である。なかでも清川の御諸皇子(ごしょのおうじ)神社あたりは、たいへんな箇所だった。苦心して掘り進めた部分が、ずるずると川の側に崩れ落ち、16人の人夫が生き埋めとなる事故も起きた。さらにその西側は、最上川が急な崖をつくって流れ、もっとも困難なところだった。掘り削っても埋まり、埋めても流され、工事ははかどらなかった。
 利長は、これは川の神が工事を喜ばないからだ、なんとか神意を慰めようと、金銀・螺鈿で装飾をほどこした自分の鞍を、渦巻く淵に投げ入れた。するとたちまち流れが静まった。その後は順調に工事が進んだという伝説も、地元には語り伝えられている。
 義光はこの事業に大きな期待を寄せていた。工事最中に利長にあてた手紙が九通現存している。次は、そのなかの1通、5月18日の日付のものである。
 「其元普請心許なく候間、重ねて一書に及び候」に始まり、以下現代語にしてみる。
 「一日二日の間に、二千間、三千間も出来ていると聞いている。野陣に出て、夜昼の別もなく働いているとのことこちらへも聞こえている。それにつけても、健康が許せば自分も現場へ行きたいのだが、そうすれば皆も喜び、自分も楽しみになるのだが、それができないのが残念だ。地元、清川・狩川の者たちは、特に苦労をしているだろうと推察している。このことを、皆々に申し聞かせてほしい」
 義光はこのとき67歳で、健康にかげりが見えていたらしい。現場に行けないことを悔しく思い、現場で働く利長の苦心を察し、働く人々のにも温かな思いやりを寄せているのである。
 次は、8月5日付けの手紙。
 「そちらの堰普請、だいぶ出来たようだが、企画設計にあたったその方の日夜の苦労いかばかりかと察している。立谷川から堰に水が流れ入り、たっぷりと流れているということだが、庄内にとって末長く宝の堰となるだろう。その水でどれほどの新田が開発できるか、村々がふえるか、それを思うと何より喜ばしい……今月十八日には江戸へ出発するが、江戸に行ったら幕府の主立った方々にも、その方の功績を伝えておこうと思う」
 工事は難工事だったが、これらの文書からは、案外スムーズに進捗したようにも見える。新しい領地庄内が開発されていくのを、義光は楽しみにしていたのである。事業の成功を利長の功績として幕府に報告するというところに、家臣を大事に思う義光の心情がうかがわれる。
 一説では、堰完成後、義光は彼に3千石の加増を行なったともいうが、これについてはなお研究の余地がある。
 利長に対しては、義光は堰普請以外のことでも、親しみのこもった手紙を書いている。
 たぶん慶長16年かと推定される5月1日、工事開始より1年ほど前の日付である。
 最上家で何か祝い事があったらしく、それにかかわる用向きを述べた手紙に、義光は次のような追って書きをした。
 「おって、京都にて思いもよらない自分の官位について、御所様(家康)から仰せ出された。過分、かたじけないことと、皆々満足に思うのももっとものことだ」
 義光が従四位上近衛少将に叙任されたときのものらしく、喜びをそれとなく伝えたのであろう。
 また利長が、居館を山の上からふもとに移したい、屋敷まわりに堀をめぐらしたいと願ったときにも、あっさり承認を与えた手紙もある。
 慶長17年(1612)の秋に完成を見た延長10キロメートルを超える堰が、「北楯大堰」である。これ以後、最上川左岸の狩川余目、藤島の新田開発が進み、新しい村が数多く誕生した。
 米どころ庄内平野の水田約8千ヘクタールが、現在もこの堰の恩恵をこうむっており、利長は「開発の恩人、水神様」として、立川町「北館神社」の祭神となったわけである。


北楯利長画像/最上義光歴史館

 ちなみに、最上時代には、庄内地方の各地で大規模な河川改修や用水堰開削が行なわれた。鶴岡市を洪水から防ぐ青龍寺川、赤川から水を分ける中川堰、因幡堰などである。これらはその後長い時間をかけて完成したものだが、スタートは最上時代だった。それらの代表的存在が、北楯大学助利長による「北楯大堰」だといえるだろう。
■■片桐繁雄著
【下次右衛門/しもじうえもん】 〜一城の主となった降将〜
   
 人間を人間として大切にする……。最上義光は、その点において驚くべき思想の持ち主であった。そもそも、罪なき民衆が命を失う戦いを好まなかった。戦っても相手を殲滅するやりかたを彼はしなかった(谷地・寒河江・八ツ沼)。逃亡を黙認した(天童・鮭延)。戦後処理には、弱者への配慮を惜しまなかった(谷地・寒河江)。傷ついた部下に対する見舞状をしたためて、称賛し激励した(現存文書)。「地下人をも家士同然にせられける」とは、義光と敵対した上杉方の評価である(越境記)。一般民衆を家臣同様に扱ったのである。「その性寛柔にして無道に報いず。しかも勇にして邪ならず」と、『中庸』を出典とする言葉で義光の人間性を語った古文献もある。彼は人を活かそうとした、持てる力を発揮させようとした。野辺沢満延、鮭延秀綱、北楯大学、みなそれである。
 上杉の降将下次右衛門も、義光によって見出され、力量を発揮した人物だ。
 そして、この人物を語るには、志村伊豆守光安との友情をも語らねばなるまい。
  *  *  *
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原を主戦場とする「天下分け目の戦い」が起こった。 義光は奥羽諸大名を率いて上杉攻撃を命じられ、準備態勢をととのえているところへ、上杉は先制攻撃をかけてきた。総勢2万とも4万ともいわれる大軍が、怒濤の如く最上領へ侵攻する。総大将は、米沢城主直江山城守兼続である。その率いる主力部隊は、9月13日に白鷹山中の畑谷城を攻め落とした。江口五兵衛ら守備兵は全員討ち死にした。
 ほぼこの前後に、上杉方は最上方の主な出城ほとんどを占領していた。2日後の15日に、兼続は長谷堂城を目前にした陣中から僚友秋山伊賀あてに手紙を書いた。

「去る十三日に、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で切りを命じて、城主江口五兵衛父子をふくめ、五〇〇余りの首を取った……」

 「撫で切り」とは「皆殺し」。老幼、婦女子構わずすべて切り殺せと命じたのである。恐るべき殺戮である。もちろん、戦いは残虐行為そのもので、最上兵の場合も仙北(現秋田県南部)柳田城を攻めたときの地獄絵図のごとき残虐さは『奥羽永慶軍記』に詳しい。ただし義光については、このような命令を出した事実は知られていない。
 兼続は、つづけて「庄内のわが軍も、白岩・寒河江まで占領して、そこに在陣中だ」と書いた。庄内から進出した一隊は、尾浦城(後、大山城)から六十里の峠を越え、一隊は酒田から最上川筋沿いに山形を目指し、寒河江、白岩、谷地の城に陣取った。
 このとき、谷地城を占拠したのは下次右衛門であった。下はここで兵を休めつつ、総大将兼続から山形城攻撃の命令が出るのを待っていたのである。ところが、兼続が山形城にかかる前に片付けようとした長谷堂城は、志村光安らの激しい抗戦で落城せず、半月近くも日が過ぎていた。
 9月末、関ヶ原で石田方敗軍の報せが着くと、兼続は撤退を開始し、最上軍の猛追撃を振りきって米沢へ帰還した。だが、このとき彼は大将にあるまじき大失態を演じた。谷地城で兼続からの命令を今か今かと待っていた下のところへ、何の連絡もしなかったのだ。できなかったというほうが正確かもしれない。
 下の軍勢は、状況を知らされずに、最上領内に置き去りにされたのである。谷地城は、最上軍に幾重にも包囲された。
 下は「城を出て戦い、討ち死にするこそ武人の大義」と覚悟を決める。
 一方、義光は志村伊豆守を呼んで命じた。
 
「次右衛門は、小身ながら武勇の誉れ高き者、説得して降参させよ。味方にして、庄内 攻めの案内者にせよ」

 伊豆守は単身、谷地城に入って、次右衛門を説得する。
 
「直江殿は、すでに会津へ帰国なされた。義をつらぬきこの城で戦って死すことと、妻子ある幾百の兵の命と、いずれか重き。城を開いて降伏し、義光公に仕えられよ」

 熱誠こめた勧告に心を動かし、次右衛門は義光の軍門に下った。おそらく武人同士の厳しい応酬がなされたはずだ。この経過で強い信頼が芽生えたのであろう。下軍はほどなく庄内攻めの先鋒となって尾浦城を落とし、翌年四月、酒田城の戦いにも功名をあらわす。 戦いが終わってから、義光は次右衛門に田川郡尾浦(大山)城1万2千石(最上家中分限帳)を与え、対馬守を称させた。元は上杉家でわずか400石だったのが1万2千石、一城の主となり、80石だった一門の者たちも、みな千石の領地を拝領したという。異例の加増であった。
 これ以後、下対馬と志村伊豆は、たずさえあって庄内発展に力を尽くすことになる。 
 慶長7年に義光はさらに由利郡(現秋田県南部)を得て57万石の大大名となる。
 庄内も由利も新たな領地である。戦いに倦み疲れた民心を安定させ、生産を高めねばならぬ。製塩、漁業など山形では今までなかった新しい産業もある。港を整備して海上の通運や交易も考えねばならぬ。さまざまな課題を解決し、領国の安定と発展を図らねばならなかった。
 その実務者として、川北・酒田と遊佐には志村伊豆、川南の田川には下対馬が登用されたのである。敗軍の降将、下次右衛門を義光はこのように信頼し厚遇したのである。なお、大宝寺城(鶴ケ岡)は直轄として城代を置くことになった。
 以後両人は、義光の意思を体して、数々の事業をなし遂げる。青龍寺川の開削にかかわった可能性もある。彼の所領がこの疎水の恩恵を蒙っていることからの推定である。ただし、確証は得られていない。史料不足で施策の具体相を知ることはむずかしいが、下の名は志村とともに庄内の神社仏閣などで見ることができる。
 慶長10年(1605)、金峰山本社の建立が義光の発願で行われた。奉行として工事を監督したのが、志村、下の両人だった。山上には重要文化財建造物の「釈迦堂」があり、棟札によれば大旦那は源義光、工事監督は志村光安と下秀久(名はあとで改めたらしい)となっている。
 このような神仏に関わる事業を、義光の意を受けてなしてきたわけだが、それらのうち最大の事業は、なんといっても羽黒山五重塔改修工事だったろう。塔の創建は平将門という伝説をもつ日本第9位の古塔である。高さは29メートル。南北朝時代に改修されて以後200余年たち、塔は荒れていた。名だたる修験の霊地、出羽国最大の信仰の霊場。義光の発願には、切なるものがあったであろう。
 義光はこの工事の奉行として、志村・下を任じた。工事期間ははっきりしないが、2〜3年はかかったと見てよいのではあるまいか。かつて敵味方となって戦った志村と下は、固い友情と信頼で結ばれていたのであろう。それを見ていたからこそ、義光は大役を2人に任せたのであろう。慶長13年7月、五重塔は完成した。
 塔の最上層の屋根に、金属製の九輪が立っている。その基礎のブロンズ造の露盤には、137の文字が彫り刻まれ、その中には主君義光とともに、志村と下と、2人の名前が並んでいる。(全二十八行。/は、行替え)

  大泉庄/羽黒山/瀧水寺/塔之修造/
  大檀那/出羽守源義光/時之執見/志村伊豆守光安/下対馬守康久/(中略)
  于時/慶長十三戊申/稔文月七日/

 「執見」は「執権」で、つまり実務責任者である。
 今、鬱蒼たる杉林の中に立つ五重塔を見上げる善男善女のうち、どれほどの人が戦いで相対した2人の武人に思いを馳せるだろうか。
 3年後の慶長16年7月に、下対馬は鶴ケ岡の椙尾神社に石鳥居を建立寄進した。わざわざ越前北の庄(福井)から運んだものである。だいぶ苦労があったと見えて、
 「懸命に努力した誠の心は、決して空しくあるまい。天長、地久、この地に豊かなにぎわいがもたらされるよう祈る」という意味の言葉が、石柱に彫り付けられている。
 志村伊豆守光安は、同16年8月に亡くなった。次右衛門としては、兄を失ったような気持ちだったろう。主君義光も、同19年正月に山形で没した。
 そして、下対馬守康久は、その年6月1日、鶴ケ岡城下で突如一栗兵部グループに襲われて、思いもかけない最期を遂げた。志村光安の嫡子、酒田亀ケ崎城主光惟もまた、この時に殺害された。
 まるで、その後の最上家の運命を予告するような事件だった。 
■■片桐繁雄著
【成沢道忠/なりさわみちただ(どうちゅう)】 〜大剛の老侍大将〜
   
 蔵王成沢の三蔵院に「成沢道忠公像」が大切にまつられている。
 廻国修行に出る行者の旅姿で、高さ約30センチほどの小木像である。手足が破損しているのは残念だが、作りは丁寧でしっかりしている。
 元亀から天正の初めごろ(1570年代初頭)、上山勢が伊達の後押しで山形に攻め込んだ柏木山合戦のとき、成沢城を守ったのが道忠であっと、物語には書かれている。
 「代々の家臣である七十歳にもなる道忠を主将とし、加勢として六十を超える伊良子宗牛(家平とも)をつかわしたのは、経験ゆたかな老将で守りを固め、無駄な戦を避けようという義光公のはかりごとだ」と各種の軍記物語にある。
 天正13年(1585)ごろに、義光が庄内進出を図って余目の安保氏を攻めたときには、「最上の先陣は、大剛の侍大将成沢道忠、5千余騎を引き連れて敵のたてこもる城郭に押し寄せ」(『羽源記』)とあり、老齢ながらも剛の者として知られていた。
 もっとも、このときの戦いは敵方のしぶとい抵抗にあって、失敗に終わっている。
 以上の記事によれば、70〜80歳にしてなお矍鑠として戦陣に立ったこととなる。
 また、義光の死後つまり慶長19年(1614)以後に、道忠は行者となって故国を去り、陸奥国石田沢(塩釜市)に隠れ住んだとする言い伝えもある。
 しかし、これらの記事や伝承は、年令から考えると無理な話で、あるいは、成沢氏の親子2〜3代にわたる活躍を、道忠一人のこととして、まとめて作られた可能性もありそうだ。そもそも、柏木山合戦なるもの自体、作り話らしいのである。
 最上義光歴史館所蔵の『最上家中分限帳』には「一、五千石 成沢道仲」と出ているが、成沢城をあずかったとはなっていない。名乗り名字からいえば、成沢を本拠としていたと見られるわけだが、史料のうえでは、そこが今一つはっきりしない。また、最上家が改易されたころには、重臣としての成沢氏の存在は確認されなくなっている。言い伝えのように、やはりいつのころか山形を去ったのであろうか。
 最上源五郎時代の『分限帳』では、成沢城主は「壱万八千石 氏家左近」となっており、成沢を苗字とする者は、中級家臣のなかに「百五十石 成沢惣内」なる人物が見えるだけだ。山形に残った一族であろうか。
 これは憶測になるが、成沢家が山形を去ったのは、慶長8年(1603)の秋に勃発した政変とかかわりがあるのではあるまいか。
 義光による義康の廃嫡と悲劇的な最期は、最上家内部に大きな衝撃を与えた。義康と親しかった家臣のなかには、最上領を去って新たな土地で生きる道を求めた者もあった。成沢一門も、あるいはそうしたグループに属していたのかもしれない。
 成沢道忠の子孫は宮城県松島町に健在、信濃にも同族がおられて活躍の由である。
 「道忠公像」は、松島の成沢家から寄進されたものである。戦国山形で活躍した人物の晩年の姿をかたどった貴重な彫像を、地元では「尊像保存会」を結成して護持している。ゆかりの成沢城跡もまた、歴史公園として整備されつつある。
■■片桐繁雄著