最上義光歴史館
【下次右衛門/しもじうえもん】 〜一城の主となった降将〜
人間を人間として大切にする……。最上義光は、その点において驚くべき思想の持ち主であった。そもそも、罪なき民衆が命を失う戦いを好まなかった。戦っても相手を殲滅するやりかたを彼はしなかった(谷地・寒河江・八ツ沼)。逃亡を黙認した(天童・鮭延)。戦後処理には、弱者への配慮を惜しまなかった(谷地・寒河江)。傷ついた部下に対する見舞状をしたためて、称賛し激励した(現存文書)。「地下人をも家士同然にせられける」とは、義光と敵対した上杉方の評価である(越境記)。一般民衆を家臣同様に扱ったのである。「その性寛柔にして無道に報いず。しかも勇にして邪ならず」と、『中庸』を出典とする言葉で義光の人間性を語った古文献もある。彼は人を活かそうとした、持てる力を発揮させようとした。野辺沢満延、鮭延秀綱、北楯大学、みなそれである。 上杉の降将下次右衛門も、義光によって見出され、力量を発揮した人物だ。 そして、この人物を語るには、志村伊豆守光安との友情をも語らねばなるまい。 * * * 慶長5年(1600)9月、関ヶ原を主戦場とする「天下分け目の戦い」が起こった。 義光は奥羽諸大名を率いて上杉攻撃を命じられ、準備態勢をととのえているところへ、上杉は先制攻撃をかけてきた。総勢2万とも4万ともいわれる大軍が、怒濤の如く最上領へ侵攻する。総大将は、米沢城主直江山城守兼続である。その率いる主力部隊は、9月13日に白鷹山中の畑谷城を攻め落とした。江口五兵衛ら守備兵は全員討ち死にした。 ほぼこの前後に、上杉方は最上方の主な出城ほとんどを占領していた。2日後の15日に、兼続は長谷堂城を目前にした陣中から僚友秋山伊賀あてに手紙を書いた。 「去る十三日に、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で切りを命じて、城主江口五兵衛父子をふくめ、五〇〇余りの首を取った……」 「撫で切り」とは「皆殺し」。老幼、婦女子構わずすべて切り殺せと命じたのである。恐るべき殺戮である。もちろん、戦いは残虐行為そのもので、最上兵の場合も仙北(現秋田県南部)柳田城を攻めたときの地獄絵図のごとき残虐さは『奥羽永慶軍記』に詳しい。ただし義光については、このような命令を出した事実は知られていない。 兼続は、つづけて「庄内のわが軍も、白岩・寒河江まで占領して、そこに在陣中だ」と書いた。庄内から進出した一隊は、尾浦城(後、大山城)から六十里の峠を越え、一隊は酒田から最上川筋沿いに山形を目指し、寒河江、白岩、谷地の城に陣取った。 このとき、谷地城を占拠したのは下次右衛門であった。下はここで兵を休めつつ、総大将兼続から山形城攻撃の命令が出るのを待っていたのである。ところが、兼続が山形城にかかる前に片付けようとした長谷堂城は、志村光安らの激しい抗戦で落城せず、半月近くも日が過ぎていた。 9月末、関ヶ原で石田方敗軍の報せが着くと、兼続は撤退を開始し、最上軍の猛追撃を振りきって米沢へ帰還した。だが、このとき彼は大将にあるまじき大失態を演じた。谷地城で兼続からの命令を今か今かと待っていた下のところへ、何の連絡もしなかったのだ。できなかったというほうが正確かもしれない。 下の軍勢は、状況を知らされずに、最上領内に置き去りにされたのである。谷地城は、最上軍に幾重にも包囲された。 下は「城を出て戦い、討ち死にするこそ武人の大義」と覚悟を決める。 一方、義光は志村伊豆守を呼んで命じた。 「次右衛門は、小身ながら武勇の誉れ高き者、説得して降参させよ。味方にして、庄内 攻めの案内者にせよ」 伊豆守は単身、谷地城に入って、次右衛門を説得する。 「直江殿は、すでに会津へ帰国なされた。義をつらぬきこの城で戦って死すことと、妻子ある幾百の兵の命と、いずれか重き。城を開いて降伏し、義光公に仕えられよ」 熱誠こめた勧告に心を動かし、次右衛門は義光の軍門に下った。おそらく武人同士の厳しい応酬がなされたはずだ。この経過で強い信頼が芽生えたのであろう。下軍はほどなく庄内攻めの先鋒となって尾浦城を落とし、翌年四月、酒田城の戦いにも功名をあらわす。 戦いが終わってから、義光は次右衛門に田川郡尾浦(大山)城1万2千石(最上家中分限帳)を与え、対馬守を称させた。元は上杉家でわずか400石だったのが1万2千石、一城の主となり、80石だった一門の者たちも、みな千石の領地を拝領したという。異例の加増であった。 これ以後、下対馬と志村伊豆は、たずさえあって庄内発展に力を尽くすことになる。 慶長7年に義光はさらに由利郡(現秋田県南部)を得て57万石の大大名となる。 庄内も由利も新たな領地である。戦いに倦み疲れた民心を安定させ、生産を高めねばならぬ。製塩、漁業など山形では今までなかった新しい産業もある。港を整備して海上の通運や交易も考えねばならぬ。さまざまな課題を解決し、領国の安定と発展を図らねばならなかった。 その実務者として、川北・酒田と遊佐には志村伊豆、川南の田川には下対馬が登用されたのである。敗軍の降将、下次右衛門を義光はこのように信頼し厚遇したのである。なお、大宝寺城(鶴ケ岡)は直轄として城代を置くことになった。 以後両人は、義光の意思を体して、数々の事業をなし遂げる。青龍寺川の開削にかかわった可能性もある。彼の所領がこの疎水の恩恵を蒙っていることからの推定である。ただし、確証は得られていない。史料不足で施策の具体相を知ることはむずかしいが、下の名は志村とともに庄内の神社仏閣などで見ることができる。 慶長10年(1605)、金峰山本社の建立が義光の発願で行われた。奉行として工事を監督したのが、志村、下の両人だった。山上には重要文化財建造物の「釈迦堂」があり、棟札によれば大旦那は源義光、工事監督は志村光安と下秀久(名はあとで改めたらしい)となっている。 このような神仏に関わる事業を、義光の意を受けてなしてきたわけだが、それらのうち最大の事業は、なんといっても羽黒山五重塔改修工事だったろう。塔の創建は平将門という伝説をもつ日本第9位の古塔である。高さは29メートル。南北朝時代に改修されて以後200余年たち、塔は荒れていた。名だたる修験の霊地、出羽国最大の信仰の霊場。義光の発願には、切なるものがあったであろう。 義光はこの工事の奉行として、志村・下を任じた。工事期間ははっきりしないが、2〜3年はかかったと見てよいのではあるまいか。かつて敵味方となって戦った志村と下は、固い友情と信頼で結ばれていたのであろう。それを見ていたからこそ、義光は大役を2人に任せたのであろう。慶長13年7月、五重塔は完成した。 塔の最上層の屋根に、金属製の九輪が立っている。その基礎のブロンズ造の露盤には、137の文字が彫り刻まれ、その中には主君義光とともに、志村と下と、2人の名前が並んでいる。(全二十八行。/は、行替え) 大泉庄/羽黒山/瀧水寺/塔之修造/ 大檀那/出羽守源義光/時之執見/志村伊豆守光安/下対馬守康久/(中略) 于時/慶長十三戊申/稔文月七日/ 「執見」は「執権」で、つまり実務責任者である。 今、鬱蒼たる杉林の中に立つ五重塔を見上げる善男善女のうち、どれほどの人が戦いで相対した2人の武人に思いを馳せるだろうか。 3年後の慶長16年7月に、下対馬は鶴ケ岡の椙尾神社に石鳥居を建立寄進した。わざわざ越前北の庄(福井)から運んだものである。だいぶ苦労があったと見えて、 「懸命に努力した誠の心は、決して空しくあるまい。天長、地久、この地に豊かなにぎわいがもたらされるよう祈る」という意味の言葉が、石柱に彫り付けられている。 志村伊豆守光安は、同16年8月に亡くなった。次右衛門としては、兄を失ったような気持ちだったろう。主君義光も、同19年正月に山形で没した。 そして、下対馬守康久は、その年6月1日、鶴ケ岡城下で突如一栗兵部グループに襲われて、思いもかけない最期を遂げた。志村光安の嫡子、酒田亀ケ崎城主光惟もまた、この時に殺害された。 まるで、その後の最上家の運命を予告するような事件だった。 ■■片桐繁雄著 |
【成沢道忠/なりさわみちただ(どうちゅう)】 〜大剛の老侍大将〜
蔵王成沢の三蔵院に「成沢道忠公像」が大切にまつられている。 廻国修行に出る行者の旅姿で、高さ約30センチほどの小木像である。手足が破損しているのは残念だが、作りは丁寧でしっかりしている。 元亀から天正の初めごろ(1570年代初頭)、上山勢が伊達の後押しで山形に攻め込んだ柏木山合戦のとき、成沢城を守ったのが道忠であっと、物語には書かれている。 「代々の家臣である七十歳にもなる道忠を主将とし、加勢として六十を超える伊良子宗牛(家平とも)をつかわしたのは、経験ゆたかな老将で守りを固め、無駄な戦を避けようという義光公のはかりごとだ」と各種の軍記物語にある。 天正13年(1585)ごろに、義光が庄内進出を図って余目の安保氏を攻めたときには、「最上の先陣は、大剛の侍大将成沢道忠、5千余騎を引き連れて敵のたてこもる城郭に押し寄せ」(『羽源記』)とあり、老齢ながらも剛の者として知られていた。 もっとも、このときの戦いは敵方のしぶとい抵抗にあって、失敗に終わっている。 以上の記事によれば、70〜80歳にしてなお矍鑠として戦陣に立ったこととなる。 また、義光の死後つまり慶長19年(1614)以後に、道忠は行者となって故国を去り、陸奥国石田沢(塩釜市)に隠れ住んだとする言い伝えもある。 しかし、これらの記事や伝承は、年令から考えると無理な話で、あるいは、成沢氏の親子2〜3代にわたる活躍を、道忠一人のこととして、まとめて作られた可能性もありそうだ。そもそも、柏木山合戦なるもの自体、作り話らしいのである。 最上義光歴史館所蔵の『最上家中分限帳』には「一、五千石 成沢道仲」と出ているが、成沢城をあずかったとはなっていない。名乗り名字からいえば、成沢を本拠としていたと見られるわけだが、史料のうえでは、そこが今一つはっきりしない。また、最上家が改易されたころには、重臣としての成沢氏の存在は確認されなくなっている。言い伝えのように、やはりいつのころか山形を去ったのであろうか。 最上源五郎時代の『分限帳』では、成沢城主は「壱万八千石 氏家左近」となっており、成沢を苗字とする者は、中級家臣のなかに「百五十石 成沢惣内」なる人物が見えるだけだ。山形に残った一族であろうか。 これは憶測になるが、成沢家が山形を去ったのは、慶長8年(1603)の秋に勃発した政変とかかわりがあるのではあるまいか。 義光による義康の廃嫡と悲劇的な最期は、最上家内部に大きな衝撃を与えた。義康と親しかった家臣のなかには、最上領を去って新たな土地で生きる道を求めた者もあった。成沢一門も、あるいはそうしたグループに属していたのかもしれない。 成沢道忠の子孫は宮城県松島町に健在、信濃にも同族がおられて活躍の由である。 「道忠公像」は、松島の成沢家から寄進されたものである。戦国山形で活躍した人物の晩年の姿をかたどった貴重な彫像を、地元では「尊像保存会」を結成して護持している。ゆかりの成沢城跡もまた、歴史公園として整備されつつある。 ■■片桐繁雄著 |
【東根源右衛門景佐・親宜/ひがしねげんうえもんかげすけ・ちかのり】
〜徳島に伝わった最上の血筋〜 徳島と言えば蜂須賀家25万余石の城下。「阿波おどり」「十郎兵衛と巡礼お鶴」の人形芝居、鳴門海峡に逆巻く「うずしお」。観光資源には事欠かない。 さて、市の南郊に丈六寺がある。室町時代の重要文化財建造物が立ち並び、質実な中世禅林の面影が今に残る。鬱蒼たる木立ちに囲まれた寺域の一角に、徳島藩の重臣だった里見家の広大な墓地がある。数ある墓標のなかでも特に目につくのが、白い標柱の立つ2基の五輪塔墓である。標柱の銘は、右が「里見家九代 東根源右衛門親宜之墓」、左がその妻「山形城主 最上出羽守義光娘」。 夫は寛文3年11月11日死去。妻は同4年8月6日死去。最上家ゆかりの夫妻が、ここに眠っているのである。 * * * 東根家は山形最上家の一門で、東根を本拠とした。 元和8年(1622)、最上家改易により、幕命によって東根源右衛門親宜は、徳島藩預かりとなる。当初は客分として優遇されたが、藩主蜂須賀家政(蓬庵)の請いを受けて家臣の列に加わり、以後中老格となって藩主に仕え江戸時代を経過する。本姓の里見氏に改めたのは明治初年である。 各種系図でみると、東根氏は天童里見氏の系統とされる。 初代は頼高。徳島に伝わる里見氏『歴代系図』でも頼高を天童頼直の子とし、「居城東根/元祖/里見薩摩守/養源寺殿華屋椿公大居士」と添え書きがある。 東根七代目の頼景が、酒田城攻めのおりに一番乗りをしたが、敵弾に斃れる。即日、弟景佐が義光から跡目相続を許されたうえ軍奉行を命じられ、酒田城攻略に大功があった。これを賞されて、来国光の刀と金短冊の笠印を賜ったという。 義光は57万石となった慶長7年(1602)に、東根家に対して6千石・3千石と2回にわたって知行を加増した。宛行状には「里見薩摩殿」とある。同11年と推定される義光の手紙では「東根薩摩どのへ」とあることから、このころは「里見」のほかに「東根」も名字として使われたらしい。 景佐ら東根一門は、連歌を愛好した。義光が山形に招請した古典研究家にして歌人であった一華堂乗阿が、光明寺においてしばしば連歌を指導したとする古記録があるが、東根一族もまたそういう場に臨席したのであろう。 慶長12年と推定される、7月27日付の景佐あて里村昌琢書状によると、東根家では2年前に連歌一巻の添削をしてもらった。さらに、この年にも新たに二巻を届けて指導を請うた。このとき土産として贈った「紅花二十斤」に、昌琢は「分に過ぎたお志」と感謝した。紅花は、当時最上の名産になっていたのである。 この書状には「玄仍が亡くなったとお聞きでしょう。どんなに驚かれたことか推察いたしております。是非なき次第」と書かれており、連歌の宗匠、里村玄仍の死去は慶長12年7月4日であることから、同書状の年代が確定される。 次に、年不記、壬(閏)十月一日の書状がある。10月が閏月となったのは、景佐の在世中では慶長17年(1612)だけであるから、この年であろう。景佐から家臣高橋雅楽助にあてた書状で、連歌の規則を昌琢に問い合わせたことが記されている。 関ヶ原合戦以後、義光の連歌作品は見られないが、それにもかかわらず、景佐らは独自に京都と連絡を取って、昌琢の指導を受けていたことになろう。 義光が没し、後継者家親が急死し、15歳の藩主源五郎家信のもとで、最上領内が混乱していた元和6年(1620)8月7日、景佐は嫡子親宜あてに遺書をしたためた。 「自分が相果ててしまったならば、源五郎様に相続の御礼に参上せよ・・」に始まり、「源五郎様へのご奉公を大事に」というように、主家を思い、我が家の永続を願う心情が流露している遺書である。同時に、若い最上の当主家信をめぐる重臣たちの不協和ぶりをも、しっかりと見つめ、「山野辺右衛門、小国日向(自分の妻の実家)、楯岡甲斐守光直の三人には、自分の形見を分け与えよ。何ごともこの三人と相談すれば、悪いことはあるまじく……」と教え、その末尾には驚くべき予言を書き残した。 「最上の国も、三年とはもつまい。せめて国替えにでもなったら(以下、意味不詳)」というのである。 明日をも知れぬ病老の身で、最上家の将来に大きな不安をいだいていたのだ。景佐はこの年12月24日に病没した。 この時点で、源右衛門親宜は義光の娘を妻にしていた。最上宗家を支えるべき重要な立場に位置づけられていたのである。 親宜は、慶長20年(1615)5月27日に、主君家親の一字をもらって元服したが、このとき15歳だとすると、生まれは慶長6年(1601)となる。 妻となった女性は、義光の最後の妻、清水夫人のなした娘であろう。名は記録に見えないが、淡路に住んでおられる里見家親族の家では「禧久姫」と伝える。同腹と思われるきょうだいには、義光の五男上山光広(1599生)、六男大山光隆(1602生)があり、「禧久姫」もまたこの兄弟に近い生まれであろう。 元和8年(1622)8月、景佐が懸念していた最上改易が現実となる。源右衛門親宜22歳のこととなるだろう。 親宜は、12月22日、幕命によって預け先とされた徳島に到着する。以後、藩主蜂須賀家政(号蓬庵)はなにかと彼を優遇した。藩主から源右衛門にあてた手紙は『東根市史編集資料第8号』に収録されているが、その数は28通にのぼる。それらは、「四季折々の挨拶から何かと心配りを示す、温かい内容のものばかり」と、最上家研究家、小野末三氏は述べておられる(『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜』)。 親宜は4年後の寛永3年(1626)に、1,000石の高祿を給されて藩の重役待遇となる。亡くなったのは前記寛文3年だが、慶長六年生まれとすれば、享年は63歳ということになる。翌寛文4年8月6日に亡くなった妻「禧久姫」も似た年齢だったろうと思う。 思えば、長姉松尾姫は1606年出羽にて没、次姉駒姫はそれより前1595年に京都で悲劇的な死を迎えた。三姉竹姫は改易後、夫氏家親定とともに長州萩に移り住み、1626年43歳で亡くなった。そして、末娘「禧久姫」は、南国徳島で夫とともに40年の歳月を過ごし、奥羽の名門最上家の娘として、生涯を全うしたのだった。 四姉妹のうち、最も幸福な一生だったと言えるかもしれない。 ■■片桐繁雄著 |
【野辺沢能登守満延/のべさわのとのかみみつのぶ】 〜最上家随一の豪傑〜
数多い最上家臣のなかで「豪傑」として名をあげるなら、トップはやはりこの人物ということになろうか。 山形両所宮の鐘を1人ではずし、鶴子(尾花沢市)までもっていったという伝説がある。また、剛力ぶりを試そうとした主君義光が、逆に彼から追われて逃げ、桜の古木にしがみついた。満延がそれを引き離そうとしたら、木が根こそぎ抜けてしまったというお話もある。 中山町長崎円同寺の釣り鐘(長谷堂清源寺蔵。県指定文化財)をかぶって運んだという伝説も、現物があるだけにおもしろい。かぶっても目が見えるように鐘乳を1個もぎ取ったという穴が、その鐘にはあいている。さらに、この人物は只人ではない、天人が生んだ子供なのだなどという話まで作られた。それだけ、彼の豪力は広く知られていたのだろう。 もともとは、尾花沢市野辺沢(現尾花沢市延沢)に城を構えていた豪族で、本姓は「日野」だったらしい。14世紀に東根を支配した平長義につながるとする説もある。 元亀元年(1570)以後の数年間、天童氏を中心とした北部の豪族グループは、出羽南部を統一しようとする最上家に、結束して抵抗していた。 山形の軍勢が攻め立てても、舞鶴山の要害にたてこもった同盟軍は、頑強に抵抗をつづけた。さすがの山形勢も、ともすると追い立てられがちだった。 それというのも、軍略にすぐれ、そのうえ、5尺の鉄棒を振り回して縦横無尽に戦う豪傑満延がいるからだ、なんとかせねばと義光は、譜代の重臣氏家守棟の意見を聞く。氏家はここで「野辺沢の息子と最上の姫君を結婚させて、親類になったらいかが」と進言した。 当時、政略結婚は、大名同士、豪族同士が戦争を避ける方策として、重要な役割をになっていた。当事者はもちろん、一般民衆も、これで戦いがなくてすむのだから、望むところだった。 義光は、満延の嫡子又五郎に長女松尾姫を与え、息子同然に扱うことを約束する。 満延は、義光が自分を高く評価して、息子に娘をくれるとは「弓矢取る身の誉れ」と、ひじょうに喜んだ。こうして野辺沢は同盟から離脱する。 この婚約がいつなされたのか、正確なことはわからない。かりに天童氏が逃亡した天正12年(1584)だとすると、又五郎は3歳、松尾姫は7歳だったことになる。これは、2人の没年と年令からさかのぼっての推定である。 幼い者同士の婚約で、野辺沢が山形側につくと、同盟はたちまち崩壊してしまう。 支えを失い、孤立した天童頼久(頼澄)は、最上勢の攻撃の前にあえなく城を捨てて奥州国分氏をたよって逃亡してしまう。満延は、義光側近の重臣となって、野辺沢2万石を与えられる。 天正18年、義光は軍勢をつれて上京する。そのときは満延が先駆けをつとめた。翌年の正月に、義光は従四位に叙され侍従に任じられた。全国諸侯と同様、豊臣政権の一翼に編入されたわけだ。京都での勤めを終えて帰国する矢先に、満延は病に倒れる。 『延沢軍記』などによると、意識は正常だったが、運動機能が思うに任せぬ病状のようで、あるいは脳梗塞に冒されたのではないかと思われる。口から出る言葉も、とぎれとぎれだった。 「ご家来に加えていただいてから、殿のご恩は数えきれない程でございます。このたびのご上洛にも先駆けを仰せ付けられ、まことに名誉なことでございました。それなのに、ご帰国というときに、このような病にかかり、お供できないのは不忠のいたり、まして私の病気ゆえに出発を延期してくださったご恩は、とうてい忘れることができません。どうぞ一日も早く国元へお帰りなって、まつりごとをなさってください。もし、これが永遠のお別れとなりましたならば、くれぐれも又五郎のことをよろしくお頼み申し上げます」 満延の言葉に、義光も涙ながらにこう言い聞かせた。 「病気のそなたを置いて帰国するのは本意ではないが、そなたも言うとおり国元の政治も大事だし、秀吉公へも帰国の届けを出したこととて、そう延引もできないのだ。又五郎のことは決して粗略にはせぬ。くれぐれも大切に養生してくれ」 そう語り聞かせて、在京中の費用と療養費を過分に与えて、後ろ髪引かれる思いで帰国の途についたのだった。 3月14日、彼は京都で客死する。遺骸は知恩院に葬られた。報せを聞いた義光は、ことのほか悲しんで落涙したという。主従として、人間として、あたたかい心のつながりのあったことが実感される。 娘婿となった又五郎を、義光がたいそう可愛がったことは、義光が九州名護屋から在山形の家臣伊良子信濃あて、文禄2年(1593)5月18日の手紙からうかがわれる。 「野辺沢家内、おのおの堅固のよし、文見申し候て満足申し候。いつかいつか下り申し候て、又五郎夫婦のもの、見申したく候」 このときまでに、2人は祝言をすましていたのであろう。年若い娘夫婦をいつくしむ父親義光が、ここにはいる。 又五郎は、父の跡を嗣いで野辺沢2万石を領する。遠江守康満を名乗っていたが、後で義光の一字を拝領して「光昌」と改名し、最上一門の家老格となる。妻となった松尾姫は、しかし、慶長11年4月1日、29歳で短い生涯を終えた。 ちなみに、尾花沢では例年能登守祭りを開催して、戦国の豪傑をしのんでいる。 ■■片桐繁雄著 |
【谷柏相模守/やがしわさがみのかみ】 〜畑谷合戦で勇戦した武人〜
具体的な地元史料は見つけられないが、他地方の事例から類推して言えば、室町時代(14〜16世紀)を通じて最上氏は多数の在地国人層を従属させてきたはずである。その多くは、おそらく荘園解体期から村落に居館を構え、農民を統率し、土地の名を苗字とする土豪たちだったと考えてよいだろう。 最上氏分限帳などの文書、あるいは各地の伝承などから推察するに、志村、成沢、野辺沢、飯田、富並,牛房野などは上級家臣に組み込まれ、青柳、岩波、柏倉、渋江、下原、常明寺、成生などは、中級家臣グループとして位置づけられたかと思われる。 谷柏氏(箭柏、弥柏、矢桐と書いた例もある)は、かなり大きな領地をもった豪族の家柄で、歴代「相模守」の称を許されたらしい。その何代目かの当主が、義光の家臣として外交・軍事で活躍したのである。 天正2年(1574)。 春から始まった最上家の内紛と、これに干渉して出兵した伊達輝宗軍との抗争を終結させるため、上山の南方、楢下・中山あたりで、和平交渉が始まった。9月1日から10日まで4回の会談に、最上を代表して出席した人物は、譜代の重臣氏家尾張守が二回、上山城主里見民部が一回。そして、同月10日の最終会談に臨んだのが、谷柏相模守だった。伊達側代表は、政宗の側近富塚孫兵衛であった。 最上・伊達ともに満足できる条件を練り上げ、伊達軍を退かせようというのだから、大変な役目だった。交渉がまとまって、伊達軍は礼服着用、里見民部も手出しをしないと約束した。9月12日の午前、おりから降りだした秋雨の中を、輝宗軍は自領米沢へ帰っていった。一件落着である。 このときの谷柏相模守の働きが、氏家尾張守の才覚や里見民部の最上家への忠節とともに民衆の記憶に残り、大きく変形されて民間の説話となったらしい。 「上山城主満兼は、伊達輝宗の援軍を得て、最上義光と柏木山で戦って敗れた。輝宗の奥方が出てきて戦いを止めさせ、輝宗は帰ってしまった。それでも、山形に叛こうとする満兼を討とうと、最上側が画策する。氏家の策謀に従い、谷柏相模は里見民部としめしあわせて、満兼暗殺と城の乗っ取りを成功させた。その後の上山領の治安維持にも、谷柏相模は敏腕を発揮した」というのである。 だが、『義光記』『羽陽軍記』その他に「柏木山合戦」として書き留められたこの話には信憑性がない。史実とは大きく食い違う。 輝宗の妻(義姫。政宗の母)が仲裁したのは、天正16年(1588)である。対立したのは政宗と義光で、輝宗はすでに亡くなっていた。場所も上山の南、中山境である。上山地域はれっきとした最上領で、伊達・上山の連合などあるはずもなかった。『羽陽軍記』はこの合戦を天正7年9月としているが、これまた無根の説で、こうなると全体が作り話である可能性が大きい。 推察するに、氏家、谷柏、里見ら3人が尽力して戦いを終結させた事実をもとに、架空の合戦譚が仕立てられたのであろう。16世紀、義守、義光の時代に、上山と山形が戦ったということ自体、確実な史料からは認められないのである。 次に、谷柏相模の奮戦が語られているのは、慶長5年(1600)出羽合戦のときである。以下、寛政諸家譜『最上系図』、『義光記』『奥羽永慶軍記』などの記事による。 9月13日、畑谷城が直江兼続軍の猛攻撃にさらされていたとき、援軍として派遣されたのは、谷柏相模、飯田播磨、小国日向、富並忠兵衛、日野伊予らだった。 ところが、援軍到着前に畑谷は落城する。山形の援兵はこれを聞いて引き返そうとしたが、谷柏と飯田はそれをさえぎり、 「城は落ちても、残兵や領民がいる。早く行って彼らを救わねばならぬ」 と馬を進めた。手勢を率いて山道を急ぐと、敵兵に追われて、残兵や領民が必死に逃がれてくる。これを見て、飯田は谷柏に向かい、 「この人々を、一人たりとも敵兵から捕らえられぬよう、山形へ連れ帰ってくれ。しば らくは、自分が敵を食い止めよう」 と言って、部下とともに雲霞のごとく寄せ来る敵勢の中に躍りこむ。すでに60歳を越えた老武者である。力戦奮闘することしばし。しかしながら、多勢に無勢、ついに力尽きて討ち死にしてしまう。 それと知った谷柏は、せめて飯田の首なりとも奪い返さねば友情の甲斐もないと、部下に落人を護送するよう命じ、我が身は取って返し、群がる敵兵を蹴散らして戦い、ついに飯田の首を取り戻した。谷柏は友の首をひたたれに包んで、涙ながらに持ち帰ったという。 多くの軍記物語がほぼ一致して語り伝える有名な話で、もちろん、脚色はあるにしても、大筋は史実に近いのではあるまいか。 さて、この勇者、谷柏相模守については、東大史料編纂所蔵『最上義光分限帳』に、次の記載がある。 谷柏 一、高四千石 八騎 鉄砲 十五挺 弓 四張 槍 四十八本 谷柏相模 4千石は、最上家臣のなかでは上位20位ほど。その領地は、成沢分に入っていた黒沢村(430石余)を除く南山形地区全域であろうと思われる。 寛永13年(1636)、山形藩主保科家が発した「上納一紙」によれば、松原、片谷地、谷柏、津金沢の石高合計は約4千200石となり、分限帳の石高にほぼ等しい。ただし、坂紀伊守光秀が長谷堂1万3千石を領するようになると、谷柏相模は他所で四千石の土地を支配することとなる。一時は長瀞城を預かったと伝えられるが、さだかでない。 添え書きの「八騎」とは、戦いに際して谷柏氏に割り当てられた馬上武士の数で、これは村落の富裕な農民と見てよい。実戦では物頭、つまり指揮官となる。 これに鉄砲衆15人、弓衆4人、槍衆48人、馬上を含め計75人を出すよう定められていたわけであるが、いざ出陣となれば、これだけでは済まなかった。 馬上一騎には、4、5人の小者がつくのが普通だったから、谷柏相模の部隊は百人を上回る人数だったと考えてよい。 日ごろは鍬・鎌を握って暮らした農民は、いざ戦いとなれば、刀や槍・鉄砲を手にして戦列に加わらねばならなかった。谷柏氏は最上家に従属しつつ、領内に住む農民層を支配し、村落の秩序を維持していたのである。 谷柏氏の居館が地区内のどこかにあったはずだが、まだ確定されない。斯波兼頼、最上義守、義光らが尊崇したと伝えられる古社[甲箭神社]の付近か、古墳群のある岡のあたりか。いずれ歴史地理的、考古学的調査で判明するだろう。 ところで、国立資料館所蔵「宝幢寺文書」の最上源五郎時代『分限帳』に、「谷柏」の名は記されていない。畑谷の戦いで奮闘してからおよそ20年ばかり後の文献であるから、その間に何らかの異変があって、国人豪族谷柏家は最上を去ってしまったのかもしれぬ。 参考として、白石城主片倉氏家臣の諸系譜から、谷柏関係の記載を捜し出し、それらをつなぎあわせてみると、表のようになる。 表は>>こちら 見るとおり、最上氏麾下の谷柏・飯田・富並らの国人豪族(氏家はたぶん別)は、相互に縁戚関係があったことがわかる。氏家家に生まれた光直に、「谷柏の名跡を相続」と書き入れがあるところを見ると、この家は廃絶させるには惜しい名門と見られていたわけである。 それにしても、義光の信頼を受けて、大きな働きを見せた谷柏相模と、その後継者たちは、いったいどこへ消え去ったのだろうか。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
最上家臣のなかに、神としてまつられた人物がいる。
北楯大学助利長である。
慶長5年(1600)の関が原合戦後に最上領になった庄内の大部分は、当時は広大な原野だった。
狩川城主となった利長はこの原野を水田にしたいと考えた。
それには水がいる。しかし、最上川は低いところを流れているから役に立たない。
利長は現地をくわしく調べ、月山の北側を流れる立谷沢川に目をつけた。この流れをせきとめ、堰を掘って水をもってくればいい。大事業だが、これしかない。
慶長16年(1611)、利長の提案に、一部家臣が反対したが、これを押し切って、義光は着工を命じた。山形藩最上家としての一大事業である。
翌年工事が開始された。責任者となったのが、発案者北楯利長である。工事に従事する人夫は、新たな最上領である由利・岩屋・亀ケ崎・鶴ケ岡・大山それに櫛引の各地から、6千2百87人を、藩命をもって動員し、これに地元狩川郷からの出役をふくめて、7千人を越えたとされる。
堰を通す現場は、全体として一方を最上川が流れ、片方は月山につらなる山地がせまっている傾斜地である。なかでも清川の御諸皇子(ごしょのおうじ)神社あたりは、たいへんな箇所だった。苦心して掘り進めた部分が、ずるずると川の側に崩れ落ち、16人の人夫が生き埋めとなる事故も起きた。さらにその西側は、最上川が急な崖をつくって流れ、もっとも困難なところだった。掘り削っても埋まり、埋めても流され、工事ははかどらなかった。
利長は、これは川の神が工事を喜ばないからだ、なんとか神意を慰めようと、金銀・螺鈿で装飾をほどこした自分の鞍を、渦巻く淵に投げ入れた。するとたちまち流れが静まった。その後は順調に工事が進んだという伝説も、地元には語り伝えられている。
義光はこの事業に大きな期待を寄せていた。工事最中に利長にあてた手紙が九通現存している。次は、そのなかの1通、5月18日の日付のものである。
「其元普請心許なく候間、重ねて一書に及び候」に始まり、以下現代語にしてみる。
「一日二日の間に、二千間、三千間も出来ていると聞いている。野陣に出て、夜昼の別もなく働いているとのことこちらへも聞こえている。それにつけても、健康が許せば自分も現場へ行きたいのだが、そうすれば皆も喜び、自分も楽しみになるのだが、それができないのが残念だ。地元、清川・狩川の者たちは、特に苦労をしているだろうと推察している。このことを、皆々に申し聞かせてほしい」
義光はこのとき67歳で、健康にかげりが見えていたらしい。現場に行けないことを悔しく思い、現場で働く利長の苦心を察し、働く人々のにも温かな思いやりを寄せているのである。
次は、8月5日付けの手紙。
「そちらの堰普請、だいぶ出来たようだが、企画設計にあたったその方の日夜の苦労いかばかりかと察している。立谷川から堰に水が流れ入り、たっぷりと流れているということだが、庄内にとって末長く宝の堰となるだろう。その水でどれほどの新田が開発できるか、村々がふえるか、それを思うと何より喜ばしい……今月十八日には江戸へ出発するが、江戸に行ったら幕府の主立った方々にも、その方の功績を伝えておこうと思う」
工事は難工事だったが、これらの文書からは、案外スムーズに進捗したようにも見える。新しい領地庄内が開発されていくのを、義光は楽しみにしていたのである。事業の成功を利長の功績として幕府に報告するというところに、家臣を大事に思う義光の心情がうかがわれる。
一説では、堰完成後、義光は彼に3千石の加増を行なったともいうが、これについてはなお研究の余地がある。
利長に対しては、義光は堰普請以外のことでも、親しみのこもった手紙を書いている。
たぶん慶長16年かと推定される5月1日、工事開始より1年ほど前の日付である。
最上家で何か祝い事があったらしく、それにかかわる用向きを述べた手紙に、義光は次のような追って書きをした。
「おって、京都にて思いもよらない自分の官位について、御所様(家康)から仰せ出された。過分、かたじけないことと、皆々満足に思うのももっとものことだ」
義光が従四位上近衛少将に叙任されたときのものらしく、喜びをそれとなく伝えたのであろう。
また利長が、居館を山の上からふもとに移したい、屋敷まわりに堀をめぐらしたいと願ったときにも、あっさり承認を与えた手紙もある。
慶長17年(1612)の秋に完成を見た延長10キロメートルを超える堰が、「北楯大堰」である。これ以後、最上川左岸の狩川余目、藤島の新田開発が進み、新しい村が数多く誕生した。
米どころ庄内平野の水田約8千ヘクタールが、現在もこの堰の恩恵をこうむっており、利長は「開発の恩人、水神様」として、立川町「北館神社」の祭神となったわけである。
北楯利長画像/最上義光歴史館
ちなみに、最上時代には、庄内地方の各地で大規模な河川改修や用水堰開削が行なわれた。鶴岡市を洪水から防ぐ青龍寺川、赤川から水を分ける中川堰、因幡堰などである。これらはその後長い時間をかけて完成したものだが、スタートは最上時代だった。それらの代表的存在が、北楯大学助利長による「北楯大堰」だといえるだろう。
■■片桐繁雄著