最上義光歴史館

【最上義連/もがみよしつら】 〜勤皇家として活躍〜
  
 山形を去った最上家が、250年にわたって治めた滋賀県八日市市大森あたりには、今も最上時代の名残が残っている。
 丘のふもとの鎮守、大森神社には最上家の助成で建てられた舞殿がある。瓦には最上家の家紋や朝廷から許された菊花・五七の桐の紋が使われ、格調の高さを感じさせる。
 菩提寺の妙応寺には、最上家歴代の位牌が並ぶ。
 領内の村に伝えられてきた伝統芸能「最上踊り」は、滋賀県指定の無形文化財である。
 さて、江戸時代最後の当主は、最上駿河守義連であった。
 幕府の交代寄合に列し、文久3年(1863)には大番頭となって大坂在番を勤め、翌年の7月に起こった蛤御門の変に際しては、直ちに上京して皇居の警護にあたった。
 明治元年、戊辰戦争のときには朝廷に献金して尊皇の真情を表わす一方、山形の農民に対しては、官軍のために食糧を提供するよう働きかけたという。
 新政府がスタートすると、大森に明道館を設けて領民教育に尽力。版籍奉還の後は天皇家御陵の衛士に任じられてその職責を全うし、晩年は京都に出て悠々自適の生活を送った。明治22年没。政府は、従四位を贈ってその功を顕彰した。
 なお、現当主、最上公義氏は義連の曾孫にあたる。 
■■片桐繁雄著
【最上義智/もがみよしさと】 〜吉良上野介と知り合い?〜

 最上家が近江大森(滋賀県八日市市)1万石になってからは、そこに陣屋を構えながらも当主は代々江戸城に勤めていた。義光の曾孫にあたる義智は2歳のとき父義俊を亡くし、
大人になるまでは半分でいいと、幕府から5千石に減らされ、あとは返されなかった。しかし名門の子孫ということで、元禄8年、義智は「高家」に列せられ、従五位下、侍従という大名クラスの官職についている。高家とは江戸城内で勅使接待など、特殊な儀式を担当する役目である。
 高家で有名なのは吉良上野介だが、これも最上家と同じく清和源氏の一流で、共に名門同士。江戸城内でときどき顔を合わせる機会があっただろうと想像されるが、惜しむらくは、両人の交渉を物語る史料はまだ見つからない。
 義智は義士討ち入り(元禄15・1702)の五年前、元禄10年に67歳で死去。したがって吉良上野の悲劇は見なかったことになる。
 大森の最上家陣屋の跡は、玉緒小学校の敷地となり、かたわらには「最上陣屋跡」と刻まれた記念碑が建っている。
 武村正義氏が滋賀県知事時代に書いた文字である。
■■片桐繁雄著
【堀喜吽齋/ほりきうんさい】 〜主君の馬前で戦死〜
 
 最上家臣の中には、才能を認められて領外から登用された人物も少なくない。
 堀喜吽もそのひとりで、諸国を兵法修業して“今判官”といわれ、山形に来て義光の側近となっていた。『最上義光分限帳』では「高千石 堀喜吽」とある。
 もともとは筑紫(九州)の生まれだから「筑紫喜吽」と史書に書かれたのであろう。上方で兵法を修業して、さらには文化芸能の達者でもあって、それを認められて最上義光に仕えるようになったと推定されるが、前半生の経歴は不明である。
 京都で開かれた連歌の席には、主君義光と共に16回同席し、義光がなんらかの事情で参加できなかったときにも江口光清と共に1回出席した。計17巻、句数は102句で、最上家臣の中で最も多い。
 喜吽の名がはじめてあらわれるのは、文禄2年(1593)6月13日の連歌会である。このときには、主君義光、僚友江口光清とともに列席して5句を採られた。
 その一つ。紹巴の後につけたもの。

  同じ蓮となほ契らばや   紹由
  相思う心は更に浅からず  喜吽

 兵法修業のかたわら文化的な教養も身に付けていたのである。
 最後の作は慶長5年3月7日。

  松風の音もあらしに明かりはり 兼如
  苔路分け行く住まひ寂しも 喜吽

 慶長5年10月1日、山形西部の富神山付近で壮絶な追撃戦が展開された。
 退く上杉、追う最上。戦いは激烈をきわめ、上杉方の戦死者1580余、最上軍も623人が戦死(『羽陽軍記』など)。
 この戦いで義光は例の鉄棒を振り回し先頭にたつ。鉄砲の標的になるから前に出すぎるなと注意した喜吽は、逆に「臆病者」と言われ、「臆病かどうか見てくれ」とばかりに走り出たところを、左肩から右胸まで射抜かれて討ち死にした。
 喜吽の心配どおり、義光の兜にも敵弾が命中。危うく命を落とすところだった。弾痕のついた兜は、最上義光歴史館に展示され、激戦の模様をしのばせてくれる。
 喜吽没後に描かれた山形城内図に「堀道喜」という名がある。喜吽と関係があるようだが、各種分限帳にこの人物名は載せられていない。
■■片桐繁雄著
【宝幢寺尊海/ほうどうじそんかい】 〜伝説にいろどられた祈祷僧〜
   
 むかしは、なにかことがあれば必ずといってよいほど「御祈祷」をしてもらった。戦いに出陣するときなどは、とくに戦勝祈願の行法(宗教的なまじない)をしてもらうのが通例だった。宝幢寺の尊海上人は、義光がとくに深い信頼を寄せた修験僧である。
 天正2年7月7日には義光の軍使となって、伊達輝宗のところへ行った。(『輝宗日記』)
 義光が天童氏を攻めたときのこともよく知られている。
 天童領との境にあたる立谷川が満々たる濁流となって、さすがの最上軍も進めないでいた。ところが、尊海が祈祷をするとたちまち水が引いてしまい、天童城を攻め落とすことができたという。もちろん事実ではない。これがさらに変形して、お伽話風に語られるようになった。天童氏が「喜太郎狐」の幻術を使って最上方を惑わそうとしたので、尊海は「犬」を使って退治した、喜んだ義光は、恩賞として「犬扶持」を与えたという話に仕立てられたのである。
 ともあれ、彼の功績を賞して、義光は自分の信仰していた勝軍地蔵をまつる天童愛宕神社の別当に任じ、1370石という広大な寺領を与えた。
 最上義光歴史館には、宝幢寺住職(たぶん尊海)あて義光の手紙が二通展示されている。
 一通は、平安時代の勅撰集『後撰和歌集』のなかの二首をつらねて消息にしたもの。
 
 「秋風の吹くにつけても問はぬかな 荻の葉ならば音はしてまし
  神無月降りみ降らずみさだめなき時雨ぞ冬のはじめなりける」

 「秋風が吹くにつけても、あなたの来てくださらないのが気掛かりです。荻の葉ならば音ぐらいはするものなのに。今はもはや神無月(旧暦十月)、降ったり降らなかったり、さだめない時雨の雨は、すっかり冬の初めをおもわせます」という意である。
 前の一首は女流歌人として高名な中務(なかつかさ)の作。後の一首は読み人知らず。
 流麗な筆跡と豊かな教養を感じさせるこの手紙からは、二人の深い交流がうかがわれる。それにしても、数多い古典の名歌から二首を選んで時宜に適した手紙にするというのは、なかなかできないことだ。義光にはそれができるだけの教養と、そういうことを楽しむ柔軟な感性があったのである。受け取った尊海も、風雅を解するすぐれた人物だったことを物語るわけである。
 もう一通は、年不記、2月14日付。「道中を安全に守ってもらいありがたい。ご祈祷はそなたが一番だ。何かあったら宝幢寺に連絡をいれるので、これからもよろしく」といった内容である。これまた、尊海の加持祈祷に全幅の信頼をおいている義光の気持ちを率直に表したものといえよう。
 こうした祈祷僧の援助も、信仰心あつい義光の心の支えとなっていたのであろう。
 ところがこの尊海は、義光が亡くなった翌年(1615)、突如山形を去って行方知れずとなってしまう。
 「あの坊さんは、源義経につかえて仙人になった怪僧、常陸坊海尊の生まれ代わりだったのだ」と、町のひとびとはうわさした。霊験あらたかな修験僧として、一般民衆の間にも強い印象を与え、広く知られていたのである。
 宝幢寺は、最上時代には三の丸の南東隅に、およそ六千坪に近い広大な寺地を構えていたが、鳥居時代以後は地蔵町に移転された。その後の山形城主歴代もこの寺を尊崇し、山形地方の真言宗触頭として大きな権勢をふるった。
 江戸時代の終わりごろの『俳風最上仙流』掲載の作品に「ワンワンは寺禄こんこんは無禄なり」とか、「権勢を尻尾で振るは宝幢寺」というのがあり、宝幢寺の勢いが盛んだったことを伝説の「犬」にかかわらせて皮肉っている。
 明治維新の変革で廃寺となり、寺に伝来した宝物類は散逸した。大量の古文書は国立史料館に移管された。明治半ばまで寺院の面影を残していた境内の一部は、終戦後に「もみじ公園」として市民の憩いの場となった。庭は江戸時代中期のすぐれた庭園として知られ、新たに建てられた茶室は、宝幢寺の「宝」と山形名産「紅花」にちなんで「宝紅庵」と名付けられた。
 植木市でにぎわうお薬師様(出羽国分寺薬師堂)の堂は、かつての宝幢寺本堂を明治45年に移したものだ。
■■片桐繁雄著
【一華堂乗阿/いっかどうじょうあ】 〜山形に招聘された文人〜
   
 桃山時代の山形、つまり最上義光治下の山形文化に大きくかかわった人物として、一華堂乗阿は見逃すことができない。『山形市史』は、さすがにその存在に注目しているが、その経歴や活動業績については、そう詳しくは触れられなかった。
 国文学研究者によると、乗阿は桃山文芸復興期において『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などの古典研究家として、重要な地位をしめる人物とされる。歌学者であり、和歌の達人でもある乗阿は、最上義光の古典文芸の師であり、最上一門の文化的活動の指導者だった。『遍照山光明寺由来記』に、このことがやや詳細に述べられている。
 「徳川家康が伏見にいたおり、最上義光公も上京中に、一華堂乗阿上人が陣所において『源氏物語』の講義をなしたのを聴聞し、切り紙(免許状)まで伝授された。ことに歌道の名僧ゆえ、義光公が非常に信頼し、慶長8年(1603)光明寺へ招請なさった。ここで十八世住職となられたが、その期間ちゅう義光公御一門方々は、いつも連歌の会を催された。このときから、当山の住職は藤沢(神奈川県)の遊行寺(清浄光寺)から相続する定めとなった。
 乗阿上人は、慶長十年京都の金光寺に入られた。元和五年七月十九日遷化、八十九歳」このように山形との関わりを記し、そのあとに、乗阿の出自・経歴や歌道における力量のほどをこまごまと紹介している。
 京都で名が高まって、ついに天皇のお招きを受け、慶長10年6月16日に参内して、後陽成天皇と漢和連句の座で連ねたという。そのときの二人の句。

  冷色可入竹    御製
  タカユル日数夏ノ雨風    乗阿

 その後、百首和歌の席で、天皇・乗阿それぞれ九首を詠み合ったとき、「秋夕」の題で「いつはあれど色なきものの身にしむは あやしき秋の夕なりけり」と乗阿が詠じたのを、「たぐいない秀作」と天皇が感銘なさったという。
 そのほか、歌学の難解なことを勅問なさっても、乗阿はすぐにお答え申し上げた。
 以上が『遍照山光明寺由来記』の大まかな内容である。
 この由来記が執筆されたのは慶安5年(1652)で、最上家改易の30年後、乗阿没後33年のことであるから、光明寺には、十八世住職乗阿のことがまだ色あせずに伝承されていたと考えることができるだろう。
 以下、小高敏郎博士の名著『近世初期文壇の研究』を参考にする。
 乗阿は、甲斐源氏の正嫡、武田信虎の子であるとされるが、とすれば、高名な武田信玄晴信の異母弟になるらしい。『由来記』にもあるように、一説では赤松氏の出で、信虎の養子となったともいう。
 名門武家の出であるが、8歳にして仏門に入った。藤沢遊行寺第二十九世体光上人について学び、今川氏の庇護を受けて成長。この家は、南北朝期の武人にして歌人、今川了俊につながる。駿府は当時、東海道随一の城下で、京都から文人の来訪するもの多く、室町時代の連歌師柴屋軒宗長は、ここに寄留して亡くなった。青少年時代をここで暮らした乗阿にとって、文学・歌学を吸収するに適した環境だったといえるだろう。
 33歳の永禄6年ごろまでに上京し、三条西実枝の父、実条に学び、このころに連歌師里村紹巴とも親交を結んだらしい。37歳ごろには再び駿河にもどり、一華堂の住職となっていた。一華堂は、駿府(現静岡市)本丁通り、時宗、藤沢遊行寺の末寺、長善寺のこと。
 「長善寺一華堂の住職は、在京のときより尊友である」と、紹巴は『富士見道記』に書いているそうである。
 慶長年間になると、乗阿の名声がますます高まり、林羅山、松永貞徳のような若い学者グループとの交渉も出てくる。昭和初期刊行の『静岡市史編纂資料』には、 
「慶長に入ると、伏見にて最上義光に『源氏』の切紙(免許状)を伝授したことが機縁となって、出羽から招請されたから、慶長七[ママ]年五月十二日京都をたち、近江より北陸道を下り、途中歌人連歌師としても厚遇を受け、六月出羽鶴岡[ママ]光明寺に著いた。太守の優待至れり尽せりである。紀行『道之記』一巻がある」
と書かれているという。(文中の「鶴岡」は誤り。)
 ちなみに『静岡市史編纂資料』には、乗阿の詠草として次の作が引いてあるという。

 慶長八年の作として、
   世の声もやすく明けてや今日の春
 
出羽下向の時遊行の会にて
   なかずとも帰らん道の時鳥
   袖の香とめよ宿の橘

 「出羽下向の時」とあるのが興味を引くが、乗阿のような大学者が山形に来て足掛け3年を暮らし、義光や一門の人たちに連歌や古典の講義を行なったというのも、文人義光の時代なればこそであろう。家老として重きをなした東根氏、里見薩摩守景佐の一家も連歌を好み、里村昌琢の指導をも受けて、紅花を土産として届けたこともある(慶長12年7月27日付、景佐あて昌琢書状)。
 小高博士は独自の調査から次のように述べておられる。
 「義光は文事を好み、その連歌一座の記録なども伝わる。……『道之記』は現存すると思って目下探索中だが、まだ目睹の機を得ない。」
 乗阿作の『道之記』が見つかれば、当時の出羽国山形の様子が、なにかわかるのではないかと思われるが、はたしてどこにあるものか。いつか、どこかから出現するのを、大いに期待しているところである。

* * *

ここまで書いていたところ、平成18年夏に山形市七日町の光明寺で、秘蔵の古文書類を拝見する機会が与えられた。そしてそこで、筆者は驚くべき僥倖に恵まれた。
 一見なんの飾りもない未表具の巻物の端をめくってみたら、その第一行に『最上下向道記』(もがみげこう/みちのき)とあるのだ。読み進んでみると、小高博士のいう『道之記』に違いなかった。
 さらにもう一巻、やや大振りのこれまた質素な体裁の巻物があって、見るとこれが小高博士の紹介された「当座和歌百首」写本だった。博士はこれはもはや戦災に遭って失われたのではないかと案じておられたものだった。後陽成上皇、桂離宮の主智仁親王その他、そうそうたる堂上貴顕に交じって、乗阿の作が載せられているのである。
 ここでは、山形について書かれている『道記』を、簡単に紹介しておきたい。
 乗阿は出羽太守最上義光の勧めに従って出羽に行こうと心を固め、慶長8年5月12日に京都を発つ。
 逢坂の関で見送りの友人と別れ、船路、山路の旅となる。落馬して腰を痛めては駕籠に乗り、旅寝重ねてついに越後本庄から出羽庄内の鶴岡に着く。おりから鶴岡城は普請の最中。奉行の者は主君から前もって連絡を受けていたと見えて、行く先々の道中をいろいろと世話してくれた。舟で最上川をさかのぼって山形に近づけば、なんと美しい町だったことか。
 「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」
 出羽五十七万石の府城山形の様子を「見る目かがやくばかり」「又もとの都のうちに帰り入るか」と思われたと賛嘆しているのである。
 たぶん町に入ってからであろう。行く手の方から大勢でこちらに来る。何事かと駕籠を止めて見たら、なんと太守・最上義光公が私を迎えに来てくださったのだった。
 「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」と乗阿は書く。
 光明寺に入って十八世住職となったわけだが、米穀・金銭はたっぷり、まことに暮らしやすい。最上一門、家臣たちが次々と訪問する。どうやら都で知り合った者も少なくなかったらしい。近くには西行法師が「枯れ野のすすき形見とぞみる」と詠じた藤原実方の基もある。あこやの松もある。そのうち行って見ようとしているころに、七夕になった。
 ここで乗阿は七夕の節句のご挨拶として、一首を義光に差し上げる。
 
 いでてもやあこやの松の木がくれも あらぬ今宵の星逢ひの空
 
 義光の返歌         
  七夕も逢ふ夜となればしのぶかな あこやの松の木がくれにして
 
京都の上層知識人が伝統的に身に付けていた和歌の贈答である。素人目には、乗阿の歌もさることながら、義光の歌もまた一段と簡潔ながら情緒豊かである。
 散文のなかに和歌・発句・漢詩句を散りばめた伝統的スタイルの紀行文である。短編ではあるが、乗阿の人柄がうかがわれ、連中の出来事などもさりげなく軽妙に記述されており、さすが一流文人という印象がある。
 光明寺の本は写本。「一花堂乗阿自筆の本をもって、今これを書写し、光明寺の宝蔵に納め終わりぬ/元禄三年七月二十一日/光明寺二十四世/其阿量光」と漢文で巻末奥書がなされている。元禄3年は1590年、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で山寺立石寺を訪れたのは、ちょうど一年前のことだった。
 乗阿の墓碑は、光明寺境内、斯波兼頼墓の参道左側に建っている。大文人の墓じるしと知る人はおそらくあまりいなかったのではあるまいか。
■■片桐繁雄著