最上義光歴史館
【宝幢寺尊海/ほうどうじそんかい】 〜伝説にいろどられた祈祷僧〜
むかしは、なにかことがあれば必ずといってよいほど「御祈祷」をしてもらった。戦いに出陣するときなどは、とくに戦勝祈願の行法(宗教的なまじない)をしてもらうのが通例だった。宝幢寺の尊海上人は、義光がとくに深い信頼を寄せた修験僧である。 天正2年7月7日には義光の軍使となって、伊達輝宗のところへ行った。(『輝宗日記』) 義光が天童氏を攻めたときのこともよく知られている。 天童領との境にあたる立谷川が満々たる濁流となって、さすがの最上軍も進めないでいた。ところが、尊海が祈祷をするとたちまち水が引いてしまい、天童城を攻め落とすことができたという。もちろん事実ではない。これがさらに変形して、お伽話風に語られるようになった。天童氏が「喜太郎狐」の幻術を使って最上方を惑わそうとしたので、尊海は「犬」を使って退治した、喜んだ義光は、恩賞として「犬扶持」を与えたという話に仕立てられたのである。 ともあれ、彼の功績を賞して、義光は自分の信仰していた勝軍地蔵をまつる天童愛宕神社の別当に任じ、1370石という広大な寺領を与えた。 最上義光歴史館には、宝幢寺住職(たぶん尊海)あて義光の手紙が二通展示されている。 一通は、平安時代の勅撰集『後撰和歌集』のなかの二首をつらねて消息にしたもの。 「秋風の吹くにつけても問はぬかな 荻の葉ならば音はしてまし 神無月降りみ降らずみさだめなき時雨ぞ冬のはじめなりける」 「秋風が吹くにつけても、あなたの来てくださらないのが気掛かりです。荻の葉ならば音ぐらいはするものなのに。今はもはや神無月(旧暦十月)、降ったり降らなかったり、さだめない時雨の雨は、すっかり冬の初めをおもわせます」という意である。 前の一首は女流歌人として高名な中務(なかつかさ)の作。後の一首は読み人知らず。 流麗な筆跡と豊かな教養を感じさせるこの手紙からは、二人の深い交流がうかがわれる。それにしても、数多い古典の名歌から二首を選んで時宜に適した手紙にするというのは、なかなかできないことだ。義光にはそれができるだけの教養と、そういうことを楽しむ柔軟な感性があったのである。受け取った尊海も、風雅を解するすぐれた人物だったことを物語るわけである。 もう一通は、年不記、2月14日付。「道中を安全に守ってもらいありがたい。ご祈祷はそなたが一番だ。何かあったら宝幢寺に連絡をいれるので、これからもよろしく」といった内容である。これまた、尊海の加持祈祷に全幅の信頼をおいている義光の気持ちを率直に表したものといえよう。 こうした祈祷僧の援助も、信仰心あつい義光の心の支えとなっていたのであろう。 ところがこの尊海は、義光が亡くなった翌年(1615)、突如山形を去って行方知れずとなってしまう。 「あの坊さんは、源義経につかえて仙人になった怪僧、常陸坊海尊の生まれ代わりだったのだ」と、町のひとびとはうわさした。霊験あらたかな修験僧として、一般民衆の間にも強い印象を与え、広く知られていたのである。 宝幢寺は、最上時代には三の丸の南東隅に、およそ六千坪に近い広大な寺地を構えていたが、鳥居時代以後は地蔵町に移転された。その後の山形城主歴代もこの寺を尊崇し、山形地方の真言宗触頭として大きな権勢をふるった。 江戸時代の終わりごろの『俳風最上仙流』掲載の作品に「ワンワンは寺禄こんこんは無禄なり」とか、「権勢を尻尾で振るは宝幢寺」というのがあり、宝幢寺の勢いが盛んだったことを伝説の「犬」にかかわらせて皮肉っている。 明治維新の変革で廃寺となり、寺に伝来した宝物類は散逸した。大量の古文書は国立史料館に移管された。明治半ばまで寺院の面影を残していた境内の一部は、終戦後に「もみじ公園」として市民の憩いの場となった。庭は江戸時代中期のすぐれた庭園として知られ、新たに建てられた茶室は、宝幢寺の「宝」と山形名産「紅花」にちなんで「宝紅庵」と名付けられた。 植木市でにぎわうお薬師様(出羽国分寺薬師堂)の堂は、かつての宝幢寺本堂を明治45年に移したものだ。 ■■片桐繁雄著 |
【一華堂乗阿/いっかどうじょうあ】 〜山形に招聘された文人〜
桃山時代の山形、つまり最上義光治下の山形文化に大きくかかわった人物として、一華堂乗阿は見逃すことができない。『山形市史』は、さすがにその存在に注目しているが、その経歴や活動業績については、そう詳しくは触れられなかった。 国文学研究者によると、乗阿は桃山文芸復興期において『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などの古典研究家として、重要な地位をしめる人物とされる。歌学者であり、和歌の達人でもある乗阿は、最上義光の古典文芸の師であり、最上一門の文化的活動の指導者だった。『遍照山光明寺由来記』に、このことがやや詳細に述べられている。 「徳川家康が伏見にいたおり、最上義光公も上京中に、一華堂乗阿上人が陣所において『源氏物語』の講義をなしたのを聴聞し、切り紙(免許状)まで伝授された。ことに歌道の名僧ゆえ、義光公が非常に信頼し、慶長8年(1603)光明寺へ招請なさった。ここで十八世住職となられたが、その期間ちゅう義光公御一門方々は、いつも連歌の会を催された。このときから、当山の住職は藤沢(神奈川県)の遊行寺(清浄光寺)から相続する定めとなった。 乗阿上人は、慶長十年京都の金光寺に入られた。元和五年七月十九日遷化、八十九歳」このように山形との関わりを記し、そのあとに、乗阿の出自・経歴や歌道における力量のほどをこまごまと紹介している。 京都で名が高まって、ついに天皇のお招きを受け、慶長10年6月16日に参内して、後陽成天皇と漢和連句の座で連ねたという。そのときの二人の句。 冷色可入竹 御製 タカユル日数夏ノ雨風 乗阿 その後、百首和歌の席で、天皇・乗阿それぞれ九首を詠み合ったとき、「秋夕」の題で「いつはあれど色なきものの身にしむは あやしき秋の夕なりけり」と乗阿が詠じたのを、「たぐいない秀作」と天皇が感銘なさったという。 そのほか、歌学の難解なことを勅問なさっても、乗阿はすぐにお答え申し上げた。 以上が『遍照山光明寺由来記』の大まかな内容である。 この由来記が執筆されたのは慶安5年(1652)で、最上家改易の30年後、乗阿没後33年のことであるから、光明寺には、十八世住職乗阿のことがまだ色あせずに伝承されていたと考えることができるだろう。 以下、小高敏郎博士の名著『近世初期文壇の研究』を参考にする。 乗阿は、甲斐源氏の正嫡、武田信虎の子であるとされるが、とすれば、高名な武田信玄晴信の異母弟になるらしい。『由来記』にもあるように、一説では赤松氏の出で、信虎の養子となったともいう。 名門武家の出であるが、8歳にして仏門に入った。藤沢遊行寺第二十九世体光上人について学び、今川氏の庇護を受けて成長。この家は、南北朝期の武人にして歌人、今川了俊につながる。駿府は当時、東海道随一の城下で、京都から文人の来訪するもの多く、室町時代の連歌師柴屋軒宗長は、ここに寄留して亡くなった。青少年時代をここで暮らした乗阿にとって、文学・歌学を吸収するに適した環境だったといえるだろう。 33歳の永禄6年ごろまでに上京し、三条西実枝の父、実条に学び、このころに連歌師里村紹巴とも親交を結んだらしい。37歳ごろには再び駿河にもどり、一華堂の住職となっていた。一華堂は、駿府(現静岡市)本丁通り、時宗、藤沢遊行寺の末寺、長善寺のこと。 「長善寺一華堂の住職は、在京のときより尊友である」と、紹巴は『富士見道記』に書いているそうである。 慶長年間になると、乗阿の名声がますます高まり、林羅山、松永貞徳のような若い学者グループとの交渉も出てくる。昭和初期刊行の『静岡市史編纂資料』には、 「慶長に入ると、伏見にて最上義光に『源氏』の切紙(免許状)を伝授したことが機縁となって、出羽から招請されたから、慶長七[ママ]年五月十二日京都をたち、近江より北陸道を下り、途中歌人連歌師としても厚遇を受け、六月出羽鶴岡[ママ]光明寺に著いた。太守の優待至れり尽せりである。紀行『道之記』一巻がある」 と書かれているという。(文中の「鶴岡」は誤り。) ちなみに『静岡市史編纂資料』には、乗阿の詠草として次の作が引いてあるという。 慶長八年の作として、 世の声もやすく明けてや今日の春 出羽下向の時遊行の会にて なかずとも帰らん道の時鳥 袖の香とめよ宿の橘 「出羽下向の時」とあるのが興味を引くが、乗阿のような大学者が山形に来て足掛け3年を暮らし、義光や一門の人たちに連歌や古典の講義を行なったというのも、文人義光の時代なればこそであろう。家老として重きをなした東根氏、里見薩摩守景佐の一家も連歌を好み、里村昌琢の指導をも受けて、紅花を土産として届けたこともある(慶長12年7月27日付、景佐あて昌琢書状)。 小高博士は独自の調査から次のように述べておられる。 「義光は文事を好み、その連歌一座の記録なども伝わる。……『道之記』は現存すると思って目下探索中だが、まだ目睹の機を得ない。」 乗阿作の『道之記』が見つかれば、当時の出羽国山形の様子が、なにかわかるのではないかと思われるが、はたしてどこにあるものか。いつか、どこかから出現するのを、大いに期待しているところである。 * * * ここまで書いていたところ、平成18年夏に山形市七日町の光明寺で、秘蔵の古文書類を拝見する機会が与えられた。そしてそこで、筆者は驚くべき僥倖に恵まれた。 一見なんの飾りもない未表具の巻物の端をめくってみたら、その第一行に『最上下向道記』(もがみげこう/みちのき)とあるのだ。読み進んでみると、小高博士のいう『道之記』に違いなかった。 さらにもう一巻、やや大振りのこれまた質素な体裁の巻物があって、見るとこれが小高博士の紹介された「当座和歌百首」写本だった。博士はこれはもはや戦災に遭って失われたのではないかと案じておられたものだった。後陽成上皇、桂離宮の主智仁親王その他、そうそうたる堂上貴顕に交じって、乗阿の作が載せられているのである。 ここでは、山形について書かれている『道記』を、簡単に紹介しておきたい。 乗阿は出羽太守最上義光の勧めに従って出羽に行こうと心を固め、慶長8年5月12日に京都を発つ。 逢坂の関で見送りの友人と別れ、船路、山路の旅となる。落馬して腰を痛めては駕籠に乗り、旅寝重ねてついに越後本庄から出羽庄内の鶴岡に着く。おりから鶴岡城は普請の最中。奉行の者は主君から前もって連絡を受けていたと見えて、行く先々の道中をいろいろと世話してくれた。舟で最上川をさかのぼって山形に近づけば、なんと美しい町だったことか。 「山形も近くなれば、つくり並べたる家々数多く、柳桜植ゑぬ門もなく、見る目かがやくばかりなれば、おぼえずして又もとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはベりぬ」 出羽五十七万石の府城山形の様子を「見る目かがやくばかり」「又もとの都のうちに帰り入るか」と思われたと賛嘆しているのである。 たぶん町に入ってからであろう。行く手の方から大勢でこちらに来る。何事かと駕籠を止めて見たら、なんと太守・最上義光公が私を迎えに来てくださったのだった。 「はるばるとさ迷い下ってきた心細さも、力がついた心地」と乗阿は書く。 光明寺に入って十八世住職となったわけだが、米穀・金銭はたっぷり、まことに暮らしやすい。最上一門、家臣たちが次々と訪問する。どうやら都で知り合った者も少なくなかったらしい。近くには西行法師が「枯れ野のすすき形見とぞみる」と詠じた藤原実方の基もある。あこやの松もある。そのうち行って見ようとしているころに、七夕になった。 ここで乗阿は七夕の節句のご挨拶として、一首を義光に差し上げる。 いでてもやあこやの松の木がくれも あらぬ今宵の星逢ひの空 義光の返歌 七夕も逢ふ夜となればしのぶかな あこやの松の木がくれにして 京都の上層知識人が伝統的に身に付けていた和歌の贈答である。素人目には、乗阿の歌もさることながら、義光の歌もまた一段と簡潔ながら情緒豊かである。 散文のなかに和歌・発句・漢詩句を散りばめた伝統的スタイルの紀行文である。短編ではあるが、乗阿の人柄がうかがわれ、連中の出来事などもさりげなく軽妙に記述されており、さすが一流文人という印象がある。 光明寺の本は写本。「一花堂乗阿自筆の本をもって、今これを書写し、光明寺の宝蔵に納め終わりぬ/元禄三年七月二十一日/光明寺二十四世/其阿量光」と漢文で巻末奥書がなされている。元禄3年は1590年、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で山寺立石寺を訪れたのは、ちょうど一年前のことだった。 乗阿の墓碑は、光明寺境内、斯波兼頼墓の参道左側に建っている。大文人の墓じるしと知る人はおそらくあまりいなかったのではあるまいか。 ■■片桐繁雄著 |
【里村家の人々/さとむらけのひとびと】 〜最上家の文芸を指導した〜
日本では中世以来、特定の家が特定分野の職能を受け持つ伝統が一段と顕著になった。和歌の冷泉・二条、絵画の狩野、茶の湯の千家などはよく知られているが、連歌では桃山時代を区切りとして里村家が中心となった。里村一派の人たちは、いずれも最上家と親しかったが、ここでは特に目立つ4人(略系譜、太字で示した)を挙げておこう 略系譜は>>こちら �里村玄仍。義光同席、31回。 紹巴の長男である。義光が京都で活躍していた文祿慶長初期(1593〜1600)は30歳前だったが、紹巴もこの長男を頼みにしていたようで、いろんな席に帯同している。能書家で、義光らの連歌を美麗な料紙に清書したものが、これまでに四巻見つかっている。『若草山』という連歌指南書を書き写して義光に贈ったのも玄仍だった。 慶長2年(1597)正月には、最上義康と対で短連歌(上五七五と下七七だけ)を詠みあった。 一夜とは霞やへだて今日の春 義康 雪のこりつつ東雲(しののめ)の山 玄仍 『北野社家日記』という古記録の慶長3年10月7日の条に、「最上殿内衆」から依頼されて、北野天満宮へ『源氏物語』を発注し、手土産として最上名産「ろうそく二十丁」を届けたのが玄仍であった。 印刷出版のほとんどなかった当時、書籍を手に入れるには書き写すしか方法がなく、そういう場合、良質の原本を所蔵し、短時日のうちに写本が作れるところとしては、蔵書も学者もそろった北野天満宮が随一だった。「最上殿内衆」の依頼がここに来たのも、自然なことだ。 「内衆」とは普通家来をさす。しかし、最上の家来たちが自らの発意で『源氏物語』五十四帖を発注したとは考えにくい。憶測だが、その背後に義光の三度目の妻、嫁いで間もないうら若い清水夫人がいたのではあるまいか。大名の奥方から直接依頼するわけには、当時はいかなかっただろうから、家来を通すことになるはずだし、誰に頼むかとなれば、紹巴の子息で京都文化界に知己が多く、最上家に親しく出入りしていた玄仍が、都合のよい立場にあったのだろう。できあがった『源氏物語』写本は、最上家側に届けられたはずだが、それがいつなのか、惜しむらくは記録がない。 慶長七年に父紹巴が亡くなったとき、七日ごとに百韻連歌を独りで作った高名な「玄仍独吟七百韻」写本が最上義光歴史館に収蔵されている。 慶長12年(1607)7月4日死去。年齢については幾つかの説があるが、活動した時期や、弟玄仲の年齢などを勘案して、元亀2年(1571)生まれの37歳としてよいように思う。 �里村玄仲。義光同席、21回。 紹巴の次男。天正4年(1576)生まれ、寛永15年(1638)没。流謫の身となった父親について近江に住んだ一時期があるらしい。若かったためか、発句、脇句は少ないが、慶長4年5月5日、最上邸での節句祝連歌では珍しく発句を作った。客として、日野輝資、飛鳥井雅庸、高倉永孝、勧修寺光豊ら、堂上公家衆が4人も列席した座である。 ふけばふくあやめもわかぬ軒端かな 玄仲 義光が脇句を付けたが、墨よごれのため解読できない(京都大学付属図書館所蔵)。 玄仲は、御朱印貿易の豪商、兼河川土木事業家である角倉了以の姪を妻とし、長女「なべ」ほかを産んだ。この「なべ」が、江戸時代の天才的儒学者といわれる伊藤仁斎を産んだ。仁斎は、玄仲の孫、紹巴の曾孫ということになるのだから、血は争えないものだ。 玄仍・玄仲の系統は、その後江戸幕府連歌所で里村北家と呼ばれた。 (ついでだが、角倉了以もまた義光と5回連歌会を同席しており、親しい交流があった。駒姫らを弔う京都瑞泉寺の建立者でもある。) �里村昌叱。義光との同席、30回。 天文8年(1539)生まれ、義光より6歳年上である。紹巴が教えを受けた里村昌休の子で、紹巴の娘をめとった。紹巴に次ぐ連歌の権威とされ、義光らとの連歌では発句が9回あり、紹巴の11回に次ぐ。やはり重い存在だった。紹巴が近江に追放されている間は、特に指導者としての動きが目立つ。慶長8年(1603)没。 �里村昌琢。義光同席、30回。 天正2年(1574)生まれ、寛永13年(1636)没。昌叱の子。はじめ景敏と名乗り、慶長4年(1599)10月ごろに改名した。ほとんど毎回、父とともに義光らの連歌に加わり、回数も同じである。玄仲同様、発句が見られないのは年齢が若かったせいだろう。脇句も、義光の発句につけた例が一度あるだけだ。 後に江戸幕府連歌所の宗匠になった。里村南家の初代、連歌界の重鎮として尊重された。 義光が連歌を作らなくなった後も、彼は最上一族と連歌をとおして親しかった。徳島里見家文書(東根市史編集資料8)がそれを物語っているが、それについては別項(東根景佐・親宜の項)で書くこととする。 桃山時代から江戸時代初期、里村一派の連歌師、文学者グループは、最上一門と深く豊かな交流をしていたのだった。その影響が山形の文化にどんな痕跡を残したか。この問題は、今後の緻密な検証にまつ必要があるだろう。 ■■片桐繁雄著 |
【里村紹巴/さとむらじょうは】 〜義光の連歌の師〜
義光が桃山時代を代表する連歌作者だったことは国文学者の間で広く知られているが、彼が師と仰いだのは里村紹巴(1524〜1602)だった。義光より22歳年上である。紹巴のことは、歴史辞典類や文学史の書籍類に詳細に記されているので、ここでは特に最上家との関係を書いてみる。 文祿2年(1593)2月、義光は秀吉の朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にあった。たまたま京都では紹巴の一門が、春の連歌会を催そうとして、発句を最上義光からもらうこととなった。これに応じて、義光の発句と、これに和した宿老氏家守棟の脇句(連歌の第二句)が届いた。守棟も名護屋陣にあったのだろう。 梅咲きて匂ひ外なる四方もなし 義光 幾重霞のかこふ垣内 守棟 春がおとずれて梅が咲き、清らかな匂いがあたり一面に満ち満ちている。ここは幾重にも霞に包まれた、のどかな屋敷の内である、というような趣である。これに、第三句として、紹巴がつづけた。 春深きかげの山畑道見えで 深みゆく春、かなたの山畑をめぐる細道もいつしか霞の中に消え失せている、というのである。以下つぎつぎと詠じつづけて百韻連歌(五七五 ― 七七 ― 五七五…と百句で完了)とした。2月12日の日付があり、現存する義光連歌としては最初のものである。 名護屋・京都を使者となって往復したのは、江口五兵衛光清だったらしく、彼はそのまま連歌会に参加して五句が選び入れられた。この連歌の写本は、国立国会図書館、内閣文庫、天理大学図書館に所蔵されている。 紹巴は、この発句がよほど気に入ったと見えて、夏になって義光が帰京した折を見はからって、改めてみずからが脇句をつくって連衆に示し、百韻に仕立てた。珍しいことをしたものだ。このときには家臣、江口光清、堀(筑紫)喜吽の名もある。この2人は義光が連歌会に参加するときよく随伴した。教養豊かで風雅を解する人物だった。 紹巴と義光とは、早くから親密だったようだが、いつから交流が始まったかといえば、義光が京都に長期間滞在するようになった天正18年(1590)秋よりあと、特に侍従に任じられた天正19年正月以後だろう。だから、わずか2〜3年の間に、義光と紹巴は親しくなったわけだ。 紹巴は本姓松井氏。奈良に生まれ、連歌の道にこころざして京都に出た。「これより苦しみ努めて、そのわざ妙にいたり、王侯士庶みな師と仰ぐ……その名天下にあまねし」(続近世畸人伝)という状況になったという。 彼にかかわる有名な話として、明智光秀が本能寺に織田信長を襲う数日前(天正10年5月末)に、愛宕社で催した連歌会で、 時は今あめが下しる五月かな という光秀の発句に、天下(あめがした)を奪おうという意思が秘められていたことを知りながら、さりげなく第三句を作ったという話がある。あとで秀吉からこの点をただされたそうだが、しかし、それでもって信を失うことはなかった。大坂、伏見、聚楽第に伺候し、さらに吉野の桜狩り、高野山での連歌会と、秀吉の側に侍することが少なくなかった。連歌師は、古典文学の研究者であり、連歌・短歌の実作者でもあったから、紹巴のみならず、里村家の人々はいずれも、京都を中心とする文学芸術の世界で幅広く活動していた。芸術文化に深く関心を寄せていた義光は、光彩に満ちた京都文芸界に、積極的に飛び込んだのであろう。素地は山形にいるとき相当程度は出来ていたのだろうが、妻子同伴で在京期間が長くなったことから、自然に京都文人との交流も密になったと思われる。 さて、紹巴が義光と同座した連歌会は20回に及ぶ。 紹巴は、豊臣秀次による謡曲注釈の事業ではリーダー格となり、聚楽第にしじゅう出入りしていた。義光もときどき伺候していたと見え、聚楽御殿で催したと考えられる連歌もある。紹巴が発句、義光が脇句を詠じた。 写し絵の紅葉はちらぬ宮居かな 紹巴 牆(かき)ほの四方や風寒き音 義光 「御殿の襖や壁面に描かれた紅葉は、冬近くなっても散らずに宮居を飾っている。めでたいことよ」というのが発句。「御殿をめぐる高い土塀の外は、寒い風の音がしている」というのが脇句である。関白の住まいであるから「宮居」といってもおかしくない。これは文祿3年10月25日(太陽暦12月6日)開催の連歌である。 文祿4年(1595)秀次は謀反の言い掛かりをつけられ、高野山に追いやられて自決させられる。家臣も、親しかった公家や大名も罪人とされた。義光は閉門、15歳の娘駒姫は処刑された。伊達政宗も譴責を受けた。 紹巴も秀次の謀反謀議に加わったとされ、財産没収のうえ近江に追放された。およそ2年ほどは三井寺門前で侘び住まいを余儀なくされたが、こういう事態のなかでも、義光は恩師紹巴と音信を絶やさなかった。 翌年の7月、義光は連歌に関する質問をまとめて紹巴に届け、教えを請うた。近江まで出向いて直接伝授を受けたこともあったようだ。紹巴のほうも、年末には義光の息子で十五歳の家親が文学好きだと聞いて、藤原定家の『詠歌大概』を自筆で書き写しプレゼントしている。紹巴と義光は、互いに深い信頼で結ばれていたのである。 紹巴と義光の関係や業績については、連歌史研究の最高権威木藤才蔵博士の『連歌史論考』などに詳しい。 紹巴が流謫を解かれて帰京したのは慶長2年(1597)の夏ごろであろう。8月7日の夕刻から、京都文人のトップクラスが集まり、紹巴を主賓とする連歌会が開かれた。場所は残念ながらわかっていない。 呼びかけは興山寺の応其(おうご)。豊臣秀吉が尊敬した傑僧で、世に木食上人として知られている。同席者は細川幽斎、徳善院僧正前田玄以、准三后聖護院道澄、大納言日野輝資、新三位参議飛鳥井雅庸、山城守山中長俊、近衛家に仕えた文人北小路友益、これに紹巴の身内である昌叱、玄仍、景敏(後改名、昌琢)の3人が加わった。義光がこの華々しい席に招待されたのである。 全巻すぐれた句の連続で、数多い桃山時代連歌のなかでも秀作であろう。義光の句は七句選び入れられたが、他に比していささかの遜色もない。それどころか内容の深さ情趣の豊かさは、他をしのぐ感さえある。時に紹巴74歳、義光は52歳であった。実作品は、『最上義光連歌集 第三集』をご覧いただくとして、ここでは略させていただく。義光と紹巴が一座した最後は、慶長5年(1600)の初夏である。日付はないが、おそらく5月上旬だろうと思われる。発句は紹巴。 秋に散ることわりは憂き若葉かな 「明るい若葉も、秋には散るのが定め、それがもの悲しい」の意。義光は9句が選び入れられた。このときは、江口光清も堀喜吽も同席していない。 実はこの一箇月ほど後の6月には、義光は家康の意を受けて、会津上杉討伐に向けて山形に帰らねばならないときであった。そしてこの連歌が、現在確かめられる義光連歌の最終作品ということになる。 上杉の大軍を迎え撃ったいわゆる慶長出羽合戦(長谷堂合戦)で、光清も喜吽も戦死した。ともに連歌を楽しんだ側近2人の死に、義光はどんな感懐を抱いただろう。 紹巴は、慶長7年(1602)4月12日に没した。慶長元年の文書に「七十三歳」と自記しているところから、年齢は79歳ということになる。 57万石の大封を得た義光は、その後も上洛の機会は少なくなかったが、師を失い、気心知れた家臣両人を失っては、連歌を楽しむ心境には、もはやなれなかったのかもしれない。関ヶ原合戦以後、義光の連歌を見出すことはできない。 ■■片桐繁雄著 |
【斎藤伊予守光則/さいとういよのかみあきのり】
〜太閤秀吉からの‘御預け人’?〜 最上義光の生涯を書いた『最上記』(『山形市史 史料編1』収録)の末尾に、家臣団のリストがある。その中に異例の書込のある人物が一人いる。 四千石 太閤より御預け 斎藤伊予守 とあるのがそれである。 4千石といえば、数多い最上家の家臣の中でも、20数位ほど。 最上川舟運の便をはかるために、難所、碁点、隼、三ケ瀬を開削する工事では、責任者となって事業を完成させた。これは、慶長11年のこととされるが、当時出羽にはこうした工事のできる技術者がいなかったため、他国から大勢の石工を呼び寄せて仕事をすすめたという記録が、天童市高擶の願行寺にある。この古文書では、大石田と中野船町の川港を設けたのもこの時とされるから、斎藤伊予はその面でも業績をあげたのだろう。 「最上川を否船(いなぶね・稲舟)が上下するようになったのは義光公賢巧の徳である」とも書かれている。 慶長16年(1611)、義光が病気平癒のお礼に若松観音堂を再建改修したときは、普請奉行を務めた。そのほかにも、最上家の米の売買、新田開発、田畑の検地にも斎藤伊予はかかわっている。 義光時代の分限帳では谷地四千石の城主となっているが、源五郎家信の時代には高玉城5千5百石となっており、最上家が改易された元和8年、領内の城館を接収した伊達家の記録では「高玉之城 斎藤伊予居城、五千石」となっている。義光の信頼あつく、その後家親3年、そして源五郎家信の時代にも、最上家を支える一かどの役職にあったわけだ。 問題は、この人物が「太閤より御預け」だったという記載だ。 大名への「預け」とは、政治犯やその一族が、地位を奪われて諸大名に預けられて監視下におかれる事態をさす。もしこの記載を信ずるなら、さまざまな想像がひろがる。 太閤が亡くなったのは慶長3年である。その後、義光は彼の監視を解き、すぐれた才能を買って、改めてかれを高禄で召し抱え、重要な職務を与えたのであろうか。 そこで想像だが、この斎藤伊予、ひょっとしたら明智光秀の重臣で、本能寺後の戦いで豊臣秀吉にやぶれて自刃した斎藤利三の一族ではなかったか。そういう立場にあった人物なら「太閤よりお預け」もありえる。 もしそうだとすれば、かの有名な春日局(3代将軍家光の乳母)は利三の娘であるから、斎藤伊予とは身内同士ということになるわけだ……。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
最上家臣の中には、才能を認められて領外から登用された人物も少なくない。
堀喜吽もそのひとりで、諸国を兵法修業して“今判官”といわれ、山形に来て義光の側近となっていた。『最上義光分限帳』では「高千石 堀喜吽」とある。
もともとは筑紫(九州)の生まれだから「筑紫喜吽」と史書に書かれたのであろう。上方で兵法を修業して、さらには文化芸能の達者でもあって、それを認められて最上義光に仕えるようになったと推定されるが、前半生の経歴は不明である。
京都で開かれた連歌の席には、主君義光と共に16回同席し、義光がなんらかの事情で参加できなかったときにも江口光清と共に1回出席した。計17巻、句数は102句で、最上家臣の中で最も多い。
喜吽の名がはじめてあらわれるのは、文禄2年(1593)6月13日の連歌会である。このときには、主君義光、僚友江口光清とともに列席して5句を採られた。
その一つ。紹巴の後につけたもの。
同じ蓮となほ契らばや 紹由
相思う心は更に浅からず 喜吽
兵法修業のかたわら文化的な教養も身に付けていたのである。
最後の作は慶長5年3月7日。
松風の音もあらしに明かりはり 兼如
苔路分け行く住まひ寂しも 喜吽
慶長5年10月1日、山形西部の富神山付近で壮絶な追撃戦が展開された。
退く上杉、追う最上。戦いは激烈をきわめ、上杉方の戦死者1580余、最上軍も623人が戦死(『羽陽軍記』など)。
この戦いで義光は例の鉄棒を振り回し先頭にたつ。鉄砲の標的になるから前に出すぎるなと注意した喜吽は、逆に「臆病者」と言われ、「臆病かどうか見てくれ」とばかりに走り出たところを、左肩から右胸まで射抜かれて討ち死にした。
喜吽の心配どおり、義光の兜にも敵弾が命中。危うく命を落とすところだった。弾痕のついた兜は、最上義光歴史館に展示され、激戦の模様をしのばせてくれる。
喜吽没後に描かれた山形城内図に「堀道喜」という名がある。喜吽と関係があるようだが、各種分限帳にこの人物名は載せられていない。
■■片桐繁雄著