最上義光歴史館
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【コラム:新発見の最上義光書状に関して】 2011年2月1日付の各種報道で、山形大学の松尾剛次教授が最上義光の文書を新発見したと大きく取り上げられました。 会見での談話によれば、日付けは慶長十六(1611)年八月十二日付で、最上家家臣「進藤但馬」「原美濃」両名の署名と、義光の「七得印」が押印されており、内容としては義光の従四位上叙位を祝した進物に対する礼状との事でした。 この「七得印」とは、中国の古典である『春秋左氏伝』に記されている、君主の心がけるべき七つの武徳(=七徳、七得とも)を印判のデザインとして使用したものだと言われています。 一、暴を禁ず ……… むやみな暴力を禁じる 二、兵を収(おさ)む ……… 武器をしまう 三、大を保つ ……… 国の威勢を大きいままに保つ 四、功(こう)を定む ……… 君主としての功あるように励む 五、民を安んず ……… 民心を安定させる 六、衆を和(やわ)らぐ ……… 大衆を仲良くさせる 七、財を豊かにす ……… 財産を蓄えるよう努める これが七徳であり、これらを備えたものが王として君臨するのにふさわしいとされていました。義光も、この「七徳」を目指していた、という事でしょう。 次に、連名で署名している進藤但馬と原美濃について。 両名ともに、庄内において酒田城主・志村伊豆守や大山城主・下治右衛門の指揮下で、年貢の徴収管理や検地などの内政実務を担当した人物です。 『最上義光分限帳』によれば、原は千五百石、進藤は八百七十六石を給されていた上級家臣でした。まさに、最上家の「縁の下の力持ち」といえる者たちです。(両名についての詳しい検討は、拙稿「最上家家臣余禄」志村光安(5)・志村光安(6)・志村光安(7)をご覧ください。) 今後も、新たな史料が発見されることを願ってやみません。 |
月日は流れて…
木村☆社長 ※7年前の写真でスミマセン#1(>人<;) ↓↓↓ ![]() (社長)に長年お願いし続けたものがついに完成しました!! 社長の名誉のために… 社長はずいぶん前に完成させていましたスミマセン#2(>人<;)!! 天下三槍をアップした時にもお願いした最上家重代の宝刀「鬼切」を拵と太刀掛のセットで完成させてくれたのです!! やったー!!社長ありがとうO(≧∇≦)O!!! ![]() ![]() ![]() ![]() 茎も忠実に再現!!銘は国綱改竄前の安綱の銘※社長のこだわりです!! ※銘の改竄については>>こちら ![]() 社長の新作太刀掛と… ○太刀掛>>こちら ![]() 刀掛けと…太刀拵と二段掛けもok(>▽<)b !! ○刀掛け>>こちら ![]() ![]() 最上義光所用黒糸威二枚胴具足&義光兜(歴史館Ver.)と…端午の節句にぴったり!!! ○最上義光所用黒糸威二枚胴具足>>こちら ○義光兜(歴史館Ver.)>>こちら そして、このタイミングで米沢市上杉博物館に「鬼切」がやってきます!! 平成4年に当館で展示して以来約25年ぶりに山形県内での公開です!! ↓↓↓ ![]() 特別展「戦国時代展」 2017年4月29日(土・祝) ≫ 6月18日(日) ※「鬼切」の展示は【後期】5月25日(木)〜6月18日(日) この機会にぜひ最上家重代の宝刀をご覧ください!! ※米沢市上杉博物館のホームページ>>こちら 木村☆社長!! 次は最上義光が所持した大黒正宗がいいなあ!!! ※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画したものです。 ※木村☆社長のペーパークラフト>>こちら |
【最上義連/もがみよしつら】 〜勤皇家として活躍〜
山形を去った最上家が、250年にわたって治めた滋賀県八日市市大森あたりには、今も最上時代の名残が残っている。 丘のふもとの鎮守、大森神社には最上家の助成で建てられた舞殿がある。瓦には最上家の家紋や朝廷から許された菊花・五七の桐の紋が使われ、格調の高さを感じさせる。 菩提寺の妙応寺には、最上家歴代の位牌が並ぶ。 領内の村に伝えられてきた伝統芸能「最上踊り」は、滋賀県指定の無形文化財である。 さて、江戸時代最後の当主は、最上駿河守義連であった。 幕府の交代寄合に列し、文久3年(1863)には大番頭となって大坂在番を勤め、翌年の7月に起こった蛤御門の変に際しては、直ちに上京して皇居の警護にあたった。 明治元年、戊辰戦争のときには朝廷に献金して尊皇の真情を表わす一方、山形の農民に対しては、官軍のために食糧を提供するよう働きかけたという。 新政府がスタートすると、大森に明道館を設けて領民教育に尽力。版籍奉還の後は天皇家御陵の衛士に任じられてその職責を全うし、晩年は京都に出て悠々自適の生活を送った。明治22年没。政府は、従四位を贈ってその功を顕彰した。 なお、現当主、最上公義氏は義連の曾孫にあたる。 ■■片桐繁雄著 |
【最上義智/もがみよしさと】 〜吉良上野介と知り合い?〜
最上家が近江大森(滋賀県八日市市)1万石になってからは、そこに陣屋を構えながらも当主は代々江戸城に勤めていた。義光の曾孫にあたる義智は2歳のとき父義俊を亡くし、 大人になるまでは半分でいいと、幕府から5千石に減らされ、あとは返されなかった。しかし名門の子孫ということで、元禄8年、義智は「高家」に列せられ、従五位下、侍従という大名クラスの官職についている。高家とは江戸城内で勅使接待など、特殊な儀式を担当する役目である。 高家で有名なのは吉良上野介だが、これも最上家と同じく清和源氏の一流で、共に名門同士。江戸城内でときどき顔を合わせる機会があっただろうと想像されるが、惜しむらくは、両人の交渉を物語る史料はまだ見つからない。 義智は義士討ち入り(元禄15・1702)の五年前、元禄10年に67歳で死去。したがって吉良上野の悲劇は見なかったことになる。 大森の最上家陣屋の跡は、玉緒小学校の敷地となり、かたわらには「最上陣屋跡」と刻まれた記念碑が建っている。 武村正義氏が滋賀県知事時代に書いた文字である。 ■■片桐繁雄著 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
【鮭延秀綱 (8)】
5 小 括
鮭延に関する基礎的な問題について述べてきた。根本史料が限られている上、軍記物史料という難しい制約を抱える史料を用いながらの検討であった。
まず鮭延氏と最上氏、あるいはそれにかかわる南出羽の国人衆についての研究史を整理した。市町村史等で考察されているが如く、大きな歴史の流れの中での多くの登場人物の中の一人として鮭延秀綱を捉えているものが大多数で、いくつか優れた個別論文はあるものの鮭延に関する個別研究の蓄積はまだまだ多いとは言えない。これは、最上家のその他の家臣、ないし南出羽の国人についてもあてはまる。
第1節では、鮭延氏が真室地方に割拠した当初の状況を整理した。また、天正九年に最上義光の傘下へ降った直後から、天正期に最上家が勢力を伸張させていく段階において、最上家中において鮭延がどのような立場にあったか、またどのように立場を変化させていったかにスポットを当てて検討を進めた。
鮭延秀綱は、その利用価値を大きく認めた最上義光の期待を受けてその傘下に加わった。その「利用価値」の一つに挙げられるのは、小野寺氏や武藤氏ら周辺大名や、その麾下にあった国人領主達とのコネクションであったと推察される。秀綱は、そのパイプをバックボーンとして、最上家が武藤氏・小野寺氏ら周辺大名との抗争を繰り広げる過程での外交活動や抵抗勢力の調略に尽力した形跡がみられた。義光はその働きを高く評価し、最上家内での鮭延の存在感は次第に高まっていったと考えられる。
第2節では、仙北検地に伴う雄勝郡の領有問題に関わる鮭延秀綱の動向を追った。
鮭延は、奥羽仕置軍の先導として小野寺氏領国へと進駐した。元々鮭延氏は小野寺氏の麾下にあり、仙北事情に精通した鮭延は先導者として適任であった。湯沢に進駐した鮭延は、「公儀」の権威を背景に主君の最上義光と連携しつつ雄勝郡の実効支配を進めた。その過程において、鮭延は一貫して現地責任者の立場であり、上杉家家臣の色部長真や小野寺家中との折衝を行っていた事が史料から読み取れる。結果として最上家は、豊臣政権より上浦郡(雄勝・平鹿郡を合わせた通称とされる)の一部を領土として追認されたと見え、湯沢城主として楯岡満茂が配置された。しかし、同地域での火種はくすぶり続け、以降幾度かの軍事的衝突が小野寺氏と最上氏の間で繰り広げられたと考えられる。これら一連の仙北問題において、鮭延秀綱は非常に重要な役割を果たしていたのである。
第3節では、慶長期から元和期にかけての最上家内における鮭延の立場の変化を検討した。
慶長五(1600)年に発生した、いわゆる「慶長出羽合戦」において、鮭延秀綱が長谷堂城救援・庄内反攻などに活躍した事は諸書の記すとおりである。徳川政権下において、最上家領国五十七万石が成立した後も鮭延は重用されたと見え、義光没後も最上家内の中枢重臣の一人として領国経営に参画していた。家中における序列では、由利本城に四万五千石を領する本城満茂には劣るものの、非親族系家臣の中では一際高い立場に位置していたとみられる。
第4節では鮭延の官職名について時期的推移も考慮しながら考察した。鮭延秀綱は、その生涯において「典膳」と「越前守」の二つの官職名を名乗っているが、書状史料・軍記物史料の記事を見る限りその二つの官職名は慶長五(1600)年前後を画期として使い分けられている可能性を指摘した。その理由の仮説として、鮭延郷に勢力を確立した鮭延秀綱の父貞綱も「典膳」を名乗っており、慶長五年の出羽合戦において初陣を飾った嫡子左衛門尉の元服時に、父から受け継いだ鮭延郷の守護者としての「典膳」という名乗りを継がせた、あるいは継がせる前段階として自らの官職名を越前守と変えた可能性を提示した。
以上の問題について考察を行ったが、鮭延氏にまつわる問題はこれだけではない。鮭延氏の鮭延郷入部時期、最上家改易時の動向等残された課題は少なくない。後稿を待ちたい。
<了>
最上家臣余禄 記事一覧へ→
志村光安(1)へ→