最上義光歴史館

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (9)】


 庄内統治の実情を家老等の持つ権限という切り口で見てきたが、以上確認してきた事実関係から一歩押し進め、仮説とするとしたら以下のようになるであろう。
 庄内の各地は志村・新関といった譜代直臣や、新しく直臣層へと取り込んだ下対馬へと与えられた。進藤・原ら家老達は、志村光安ら各城主の配下として庄内の民政・警察権の管轄という実務を取り仕切ってはいたが、最上家内での立場は最上家から直接知行を受けた義光の直臣であった。つまり、庄内は山形から離れてはいたが、支配の中心は最上家直臣層によって行われていたのである。また、城主達も、各々連絡を取り合い、最終的な決定権を所持していたと考えられるがそれはあくまで庄内に限っての事であり、城主・家老それぞれ制限を受けた上で領国支配を行っていたように見うけられる。庄内衆の中でも最大の知行高を持ち、最上家中でも大身の部類に入る志村光安とてこれは例外ではなかった。

 また、これらは、最上義光自身の意向が庄内支配へ大きく影響していたことを想起させ、進藤ら中級家臣が実務を遂行している点は、他藩に見られるような中低級家臣の藩政参画のテストケースとも捉えられるのではなかろうか。このような義光のコントロールは、大学堰を始めとした新堰開削と、慶長十六(1613)年から翌十七年にかけて行われた庄内・由利検地に象徴される。

 北館大学が義光に願い出て、志村伊豆守などが反対したものの義光がゴーサインを出し始まった新堰普請は、反対した志村が担当する区画の遅れが目立つなど当初進展が捗々しくなかったらしい。そこで北館大学は再び義光に申請し、自らの裁量で工事が進められる事となった。この工事には、庄内・由利全域より人足が徴発された。その割り当ては各々二十石に一人の割合であり(注29)、この普請が最上家内での軍役の一つであること、従って義光主導の元進められたことは明確である。

 最上家が庄内・由利を拝領して十年経った後に行われた検地は、一つに幕府による軍役負担の増大、第二に新田等低年貢地の年貢増徴、第三に新田開発による地主層の地位の相対的低下による検地の実施容易化を背景に押し進められたものだった。この検地に奉行として従事したのは、志村や本城といった大身の城主層ではなく、庄内河南は日野備中、河北は進藤但馬、由利は日野・進藤両名の千石前後を知行していた最上直臣達で、さらに請取役(点検役・実質責任者)はいずれも高三百五十~五百石の最上家中堅家臣であり、これら直臣を運用し総指揮をとっていたのは最上義光自身であったのである(注34) 。
<続>

(注34) 井川一良「最上氏慶長検地の実施過程と基準」
(『日本海地域史研究 第11輯』日本海地域史研究会 1990、初出は1983)


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【志村光安 (8)】


 このように、庄内の統治に関する実務の多くは進藤・原らが行っていたように見うけられるのであるが、対して、志村や新関ら城主達が直接庄内の統治に関わったことを示す書状史料は少ない。慶長八(1603)年に志村光安が飛島及び沿岸諸村の雑税を徴収している(注20)が、前述したように慶長十三年段階に進むとその役割は進藤但馬が果たしている(注30)。また新関因幡に関しても、永田勘十郎に預けていた米を売却したい旨を永田へ申し送った書状が見られる程度であり、残存している書状史料は少数である。だが、直接統治に関わった史料がほとんど見られないから城主達の権限は小さいと断定するのは誤りであろう。実務の多くは家老達が実行していたといえども、抱えた案件を「次右衛門殿申上」たり、「即伊豆守に申きかせ」たりしている訳であるから、もちろん義光が介入しない限り最終的な決定権は城主達が握っていたと見てよい。また、北館大学に宛てた最上義光書状でも、

   昨日朔日ニ大志田下候、為知候ハんためニ態書状越候、態書状越候、
   明日三日ニハ清河へ可下候間、此等之段志村伊豆・下治右衛門方へ、
   無嫌夜中可申断候事候、恐々謹言
      七月二日         義光(花押)
          北館大学とのへ (注32)

 と、内容は不明であるが、義光は重要な事であるから夜間を厭わず志村・下らへ伝えよと北館大学へ申し送っている。このように、重要な案件は城主同士が通達し、決定していたであろうし、また連携も密であったと考えられる。さらに、由利の岩屋右兵衛へ米の輸送に関して言及した書状を差し送っている(注33)し、笹子山落事件の際も本城(当時は赤尾津)満茂の報告を「上様」つまり山形に差上げ、その返答を中継しているのである。由利地方との交信は志村伊豆守の役割であった。
<続>


(注32) 「本間美術館文書」七月二日付最上義光書状
(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注33) 「秋田藩家蔵文書」八月十七日付志村伊豆守光安書状
(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


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【志村光安 (7)】


 それでは、進藤・原達は最上家臣の中でいかなる立場にあったのであろうか。〈最上義光分限帳〉を参照してみよう。分限帳には、「高千五百石 原美濃」とあり、同様に進藤但馬は、〈最上家中分限帳〉に知行高八百七十六石と記載されているのが確認される。〈最上義光分限帳〉でも近藤但馬なる人物が同じく八百七十六石の知行高を受けており、進藤と近藤を混同したのであろうか、恐らく同一人物であると推定できる。進藤但馬は、上記の知行を最上氏から受けてはいたが、同時に進藤楯千五百石をも宛行われていたともされる(注28)が確証はない。これら家老達は、本城氏における家老原田大膳や、鮭延氏における庭月理右衛門ら陪臣城主層とは最上家から直接知行を受けているという点で性格を異にしており、城主指揮下にありながらも義光の直臣という側面を併せ持っていたことがわかる。これら進藤等の上司であった志村・新関の各城主達は、最上譜代の直臣層出身の城主であり、鮭延氏ら国人衆出身の城主に比べれば自らの家臣団はごくごく小規模であったと考えられる。これを考慮すれば、進藤らは庄内に移封され、地域支配を行うにあたっての人的資源補強という観点から、義光より与力として派遣された者等であったろうと推定できる。

 さて、これら家老的立場にいた者たちは、庄内を統治する上で如何なる範囲に影響を及ぼしていたのであろうか。まず目に付くのが、先に挙げた亀ヶ崎より「闕落申候弐人之者」に関わる書状群である。前記した原美濃書状を再び挙げる。

   追而、彼飛脚一人、人留無相違御通可有之候、猶々□有かせきの由、
   次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候 已上

   先日亀崎より走申候故、貴殿御念故、小俣村ニてとらへ申候、
   忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候、又大嶋手柄被申候由、
   我等所へも被越候、又大嶋手柄被申候由、我等所へも被仰越候、
   将又村上長老□衆へ、御領分ニ而とらへ申候事、忝由飛脚御越候、
   小俣村へ御人留衆御馳走の由、我等も御年寄中へ申入候、
   其元より足軽衆一人、小俣まてさしそへ候て、
   其自分御馳走忝由可被仰候、又彼使越後不案内之由申候間、
   様子をも御おしへ可然存候、恐々謹言
            原 美濃
   卯月廿六日        頼秀(花押)
       有沢采女殿  
           参(注18)

 亀ヶ崎より逃散した者を越後村上の小俣村で捕らえたことを賞し、また村上の家老衆にその事を謝したこと、そして受け取りに足軽一人を派遣することを報じ、そして不案内であろう足軽の案内を要請したい、というのがこの書状の大意であろう。「小俣村へ御人留衆御馳走の由、我等も御年寄中へ申入候」とあり、原美濃と村上藩の家老レベルで折衝が持たれたようで、また同時に、原は「次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候」と下次右衛門をはじめ進藤但馬や新関因幡等と相談をしていたことが推測される。下対馬守の居した大山城は川南の要衝であり、下対馬守は配下を鼠ヶ関・小鍋・関川の三道の守衛として置いていたというから(注29)、越後への往還に関する案件は大山城の管轄であったのだろう。原美濃は、領内で起きた逃散を取り締まり、その事後処理を他藩の者と折衝する公的権力を下対馬守に代わって行使できる立場にあったとみてよい。

 また、進藤らが司ったのは領内の警察権のみではなく、民政にもその範囲は及んでいたようである。前掲した北館大学へ対する年貢覚は両名の連署であるし、慶長十三(1608)年十二月には進藤但馬が雑税の徴収を管轄している(注30)。ただし、城主が志村光惟に代わってからは、租税の徴収の管轄は酒田商人の永田勘十郎が行っているようである。また、慶長十九(1614)年には原美濃が加茂に新設された新岡町の諸役を三ヵ年免ずることを同町肝煎に通達している(注31)。
<続>

(注28) 『庄内人名辞典』(庄内人名事典刊行会 1986)
(注29) 『山形県史 巻1』(山形県 1973)
(注30) 「永田文書」進藤但馬請取状、ただし、城主が志村光惟に代わってからの租税の
徴収は酒田商人の永田勘十郎が行っているようである。
(注31) 「鶏肋編所収文書」原美濃書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


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【志村光安 (6)】


 前述したように、慶長六年に東禅寺城(亀ヶ崎城、以下亀ヶ崎城に統一)に志村が移封されて後の庄内の統治は、志村・下・新関らの各城主が連携しあい、また進藤但馬・原美濃ら各城の家老と比定されてきた者達がある程度の実務を遂行していた形跡が見られる。その関係性の実情を探るにあたって、各々が発給した書状史料に注目して検討を試みる。
 考察を進めるにあたり、前提としてこれら城主と家老たちの関係、そして主君最上義光との関係を見ておかねばならないだろう。進藤ら家老達は、最上家臣としてどのような位置にあったのだろうか。
 『山形県史』ならびに『酒田市史年表』は、原美濃を大山城主下対馬守(治右衛門)の家老、進藤但馬を亀ヶ崎城主志村光安・光惟の家老であるとしている。まず、この事実関係についての確認を行いたい。

   貴札并作右衛門殿御口上之通、即伊豆守に申きかせ候、
   さてヽヽ越国之金鑿衆、篠子と仙北境にて山落つかまつり、
   十二・三人討捨申由被仰下候、驚入申され候、…(後略)
   (注23)

 右の一文は、慶長十四(1609)年六月に、由利郡東部の笹子において発生した笹子山落事件に関して、進藤但馬が赤尾津(本城)満茂に対し山形へ連絡したこととその返答を申し送っている書状の一部であるが、傍線部「即伊豆守に申きかせ候」とあるのが見える。進藤但馬は、かかる重要事案に関して「即」「申し聞かせる」事ができる立場にあったのであり、志村光安と共に亀ヶ崎城に居って職務に携わっていた、つまり家老的立場であったとするのが妥当であろう。
 原美濃は、上記のように直接的に志村や下ら城主とのやり取りを記した書状史料は見当たらないが、以下に挙げる史料によってその立場を検討しえよう。

   無音村年具之覚
  一、 高四百四拾四石七斗九升者
    (中略)
  右地所相渡者也、仍如件
   慶長十七年      進藤但馬 印
      十一月二十七日    安清(花押)
              原 美濃 印
                 頼秀(花押)
     北館大学殿  (注16)

 とあり、両名が連署して年貢覚を北館大学に通達している事が分かる。また、元和元年頃発給されたと推定される(注26)書状群においても両者の連携が見られる。

   追而、彼飛脚一人、人留無相違御通可有之候、猶々□有かせきの由、
   次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候 已上

   先日亀崎より走申候故、貴殿御念故、小俣村ニてとらへ申候、
   忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候、又大嶋手柄被申候由、
   我等所へも被越候、(略)(注18)
 

 原美濃守が、有沢采女に対し亀ヶ崎から欠け落ちた者を召捕った大嶋某と言う者を賞する事を報じた書状であるが、これと同日付で同じ懸案を記した進藤但馬発給の書状が存在する。

   一書令啓上候、此方より牧野安芸武井内之者闕落申候ニ付、
   濃州様より貴殿へ被仰遣候ヘハ、程々御念被入候而御穿鑿被成、
   越後之内小俣村ニ而とらへ申事、(略)(注19)

 上記二つの書状実線傍線部を参照すると、原美濃・進藤但馬双方が書状を発給した事を双方が把握し、亀ヶ崎よりの欠落という事件に対して連絡をとりつつ「各々へさうたん(相談)」しながら対処していることが判明する。また、点線傍線部を見ると、原美濃書状は「亀崎より」進藤但馬書状は「此方より」と自らの在所が区別されているように見て取れることから、原美濃は亀ヶ崎城に在城してはおらず、また「次右衛門殿」へ申上げるとあって次右衛門は治右衛門と同音であり、これは下治右衛門を指すものであろうか(時期的に見て下吉忠の継嗣下秀実であろう。慶長十七年八月十五日付下秀実宛行状(注27)において、下秀実が治右衛門を称していることが確認される)。同事件に関わるもう一通の書状にも、

   (前略)亀崎より闕落申候弐人之者、小俣村にて搦申候事、
   貴殿無御油断御念入候故と存候、(中略)貴殿より我等所へ
   御越候書状をも、今朝亀崎へもたせ越候、(後略)(注17)
 

 とあり、「我等所」と「亀崎」を明確に他所と区別している。これらいくつか挙げた書状の内容を検討する限り、原美濃が下対馬守の家老である可能性は高く、進藤但馬と原美濃は異なる居所、恐らく亀ヶ崎と大山において同等の家老的立場とそれに伴う権限を持って統治に当たっていたと考えるのが妥当だ。
<続>

(注26) 『鶴岡市史』(鶴岡市 1962)
(注27) 「鶏肋編所収文書」(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


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【志村光安 (5)】


 その後の庄内は、各々の城主がその支配地域を独立的に管理する状況ではなく、各城の家老レベルで連携を取り合い、その統治を進めていった形跡が見られる。例えば、志村氏の家老進藤但馬と大山城主下対馬守の家老原美濃守が連署し、年貢の覚書を狩川城主北舘大学へ通達している書状(注16)や、亀ヶ崎より欠落した輩を召捕った事を賞する内容の原美濃書状・進藤但馬書状(注17、18、19)がある。「忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候」(注18)「濃州様より貴様へ被仰遣候ヘハ、」(注19)と、一つの懸案に関して連絡を取り合っていたようだ。だが、光安を始めとした大身の城主層が、行政を家老格に全面的に任せていたかというとそうでもないようだ。義光に命じられ、光安が飛島および沿岸諸村の雑税を徴収しているし(注20)、また藤島城主新関因幡が酒田商人永田勘十郎に米の売却を依頼したような内容の書状も見られる(注21)。これら家老格の家臣等と志村との関わりは次項にて若干の考察を試みたい。

 このように、庄内の城主達は、互いに連携を取り合い庄内の支配を行っていった。光安は、懸案によっては庄内の領主達に留まらず由利の本城氏とも連絡をとって対処しているようである。慶長十四(1609)年六月に発生した笹子山落事件(注22)においては、事件の発生を本城氏から通報された進藤但馬が、それを「即伊豆ニ申きかせ」ており、また山形へ問い合わせた結果、類似事件があった事、また事件への指示を本城(赤尾津)満茂に返答している(注23)。また事態が進展した八月には、光安が満茂に対し佐竹からの連絡があったこと、それを「殿様へそれかしより書状さし上」と山形へ伝達したことを報じている(注24)。笹子山落事件は庄内・由利・秋田を巻き込む大事件へと発展したのであり、佐竹・本城・山形の間に立ち、情報の即時伝達を仲立ちした光安の動静は、重要度の高いものであったと位置付ける事ができる。

 前述したように、この笹子山落事件から二年後の慶長十六年、光安は没しているようである。その後の亀ヶ崎城主には嫡子志村九郎兵衛光惟が就いたが、慶長十九(1614)年一栗兵部の手にかかって家老進藤但馬共々殺されており、志村の血は途絶えてしまったようで、その後亀ヶ崎は蔵入地となったようだ(注25)。

 以上、義光の腹心として早期から付き従った志村光安の動向を検討した。史料的限界もあり、制約が多い中での考証であった為、詳細な動向が見えなかったのは残念である。しかし、軍記物史料の記述や動向を示す数少ない書状史料にある程度の傾向は見えており、この考証を踏まえた上で次項の考察を進めたい。
<続>

(注16) 「狩川八幡神社文書」慶長十七年十一月二十七日付進藤但馬他連署書状
   (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注17) 「鶏肋編 所収文書」四月二十二日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注18) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注19) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付進藤但馬書状(『同上』)
(注20) 「永田文書」慶長八年十二月十三日付志村伊豆守光安請取状(『同上』)など
(注21) 「同上」十一月五日付新関因幡守久正書状(『同上』)
(注22) 「笹子山落事件」に関しては、長谷川誠一「慶長・元和期における出羽国の社会状況」
   (『「東北」の成立と展開―近世・近現代の地域形成と社会―』岩田書院 2002)に詳しい。
(注23) 「秋田藩家蔵文書」六月二十五日付進藤但馬書状
   (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注24) 「同上」八月六日付志村伊豆守光安書状(『同上』)
(注25) 「伊達家文書」最上氏収封諸覚書(『同上』)


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【志村光安 (4)】


 さて、慶長五年以降の志村光安の動向はどのようなものだっただろうか。
 慶長五(1600)六月、徳川家康は諸大名に対し上杉氏攻めを命じた。奥羽諸大名は庄内・最上口に配備され義光は先手となったが、一転八月には諸大名へ対し引き上げが命ぜられた。これに対し上杉は最上領進撃を計り、庄内よりは志駄修理亮を始めとした庄内衆に陣触れがなされ、寒河江・谷地ら河西諸城を陥落させた。また米沢からは直江兼続を主将とした一軍が出陣し、九月十三日には畑谷城を攻め落として九月十五日には山形城にほど近い長谷堂城を囲んだ(注11)。この時長谷堂城の守将が志村光安であったことは諸書に全く一致する所であり、間違いはないだろう。この長谷堂合戦における志村光安の活躍は様々な書物で取り上げられており、ここで改めて紹介はしないが、ともあれ光安は寡兵よく防衛し、上杉勢の突破を許さなかった。九月末に至って、直江兼続は関ヶ原の敗報に接し、最上領よりの撤兵を開始した(注12)。最上義光はこれを追撃し、上杉方に奪われた谷地・寒河江等の諸城を奪還し、庄内尾浦城へ迫った。尾浦城は降将下吉忠を先導とし開城したが、東禅寺城に籠もる志田修理亮は頑強に抵抗し、時期も冬となった為最上勢は一旦撤兵した。しかし、降雪の間にも東禅寺城攻略の軍備は着々と進められ、下吉忠が「山形の御意」に従って藤島・余目・狩川の各城へ鑓を配備した事を安部兵庫が光安に申し送っている(注13)。『最上記』を始めとしたいくつかの軍記物史料にも、谷地で下治右衛門を降伏させた事や、東禅寺城を攻める際の活躍が詳らかに記されており、また上記の書状に見えるよう諸城へ対する鑓の配備を綿密に把握していた事を考慮すれば、光安は慶長五年から翌六(1601)年にかけて実行された庄内奪還を企図した一連の軍事行動の中で、主導的役割を果たしていたと想定してよいだろう。結果として慶長六年四月に、下吉忠の勧告により東禅寺城は開城、城将志田修理亮は米沢へと帰還した。この年の冬には最上家に対し庄内と由利郡の領有が追認され、名実ともに庄内は最上家の所有するところとなったのである。義光は下対馬守(治右衛門吉忠)を尾浦一万石、新関因幡を藤島七千石、そして志村光安を東禅寺三万石に封じて庄内の経営を行った(注14)。

 慶長七年には、光安が坂紀伊守と連署で大津助丞・須佐太郎兵衛らに知行を宛がっており、この頃には志村の知行地もほぼ確定していたと見てよいだろう。このように比較的早期に三万石という大規模な知行地が確定した背景には、天正年間から継続して行われた、上杉家による(豊臣政権の意向をうけた、と言い換えてもよいだろう)検地成果が、下対馬を始めとした上杉家降将らの影響下の元、新たに最上家領国化された庄内へと反映された事が大きな要因として挙げられるだろう。

 翌慶長八(1603)年に、酒田湊に大きな海亀がはいあがったという事件があったらしく、義光は此れを瑞兆とし東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城、尾浦城を大山城と改めた。しかし、天正十九(1591)年に成立したとされる『浄福寺由緒記』に袖浦より天文年間に酒田津亀ヶ崎に移り、亀崎山と号したという記述があり、一考を要する(注15)。
<続>

(注11)「小山田文書」九月十八日付上泉泰綱條書(『山形県史 古代中世史料1』)
(注12) 『伊達治家記録』『上杉家御年譜』など
(注13) 「鶏肋編 所収文書」十二月十七日付安部兵庫助書状
(注14) 『寛政重修諸家譜』。ただし、各城主の石高に関しては諸説ある。
(注15) 『酒田市史 改訂版 上巻』(酒田市 1987)


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