最上義光歴史館
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (5)】 さて、ここで今一度前記した系図類を参照したい。その中には楯岡因幡守満英の名は無く、満茂の父は義郡となっている。同様に、過去に楯岡城主であったとされる二代河内守満正、三代和泉守満次らの名は無い。果たして満茂は、楯岡一族の中で如何なる位置に居たのであろうか、少し考察を加えてみたい。双方とも初代は満国であり、その祖は同一の者と考えて差し支えはなかろう。その満国を除いて二代満正から満英まで、その城主の座にあった人間は五人である。対して「本城氏系図」を参照すると、(満国)―頼家―家泰―満良―芳国―義輔―義郡とその人数は6人である。さらに官職名も記されておらず、双方の名前を見比べてみても共通する点はほぼ無い。まずこれらの点を鑑みる限り、満茂が楯岡領を襲封したからと言ってそのまま楯岡主流の流れを汲む血筋であると断定するのはいささか早計であるように感じられる。 それでは、義光が攻め滅ぼした国人領主達の後継領主には、いかなる者が据えられていったのであろうか。楯岡氏の場合と共通点を持つモデルとして、若干時代は下るが寒河江氏のケースが想起される。 寒河江氏は大江一族である。最上氏とは四代満家の頃には協力関係にあったらしく、その娘を満家に嫁し、婚姻関係を結んでいることが見える。しかし、天正期になると義光へ敵対する動きを見せ、谷地の白鳥氏や八沼の貴志(岸)氏らと同様に義光の侵攻を受け、天正十二年(1584)には寒河江氏は滅ぼされてしまった。白鳥領であった谷地はそのまま最上家の蔵入地となったようであるが、対して寒河江は、その後寒河江氏の庶流であった寒河江肥前・寒河江外記らが登用されて彼等に遺領が与えられたという(注9)。寒河江肥前・寒河江外記はその後最上家の中でも比較的上位の扱いを受けたと見え、肥前は「最上義光分限帳」に「寒河江 高弐万七千石 五十四騎 鉄砲百三十七挺 弓三十張 鑓三百廿五本 寒河江肥前」とあって、家臣団の中でも大身の部類であった。最上義光が亡くなった際には同族の寒河江十兵衛らと共に殉死しており、義光の側近であったことがうかがえる。また外記は、天正十八年の秀吉による出羽検地の際、鮭延秀綱と共に先導を務めて湯沢に進駐している(注10)。 このように、寒河江氏と楯岡満茂は、最上家の傘下に属した後重用されていること、また大身として取りたてられ、遺領をそのまま安堵されていることが共通点として見うけられる。とすれば、寒河江氏と同様、楯岡満茂も楯岡氏の庶流であり、義光によって取りたてられ、楯岡城主の座に据えられた可能性がある。一つの仮説として提示しておきたい。 寒河江遺領はその庶族へと相続されたが、東根・上山などでは、元領主の在地家臣の内でも大身の者をその後釜に据えた。また、小国の細川氏の遺領は蔵増安房守へと与えられ、その後安房守は小国氏を名乗った。白鳥氏のように遺領を蔵入地とした例も存在するものの、基本的に、義光は攻略した地域を改めて新領主へ安堵する事によって大名(=義光)との関係を再定義し最上家領国へ取り込みながらも、元々その家臣・庶族らが保持していた地縁性を領国支配の手段として使用していたのである。 <続> (注9) 『寒河江市史 上巻』(寒河江市 1994) (注10) (天正十八年)十月二十二日付寒河江光俊・鮭延愛綱書状(「色部文書」) 本城満茂(6)へ→ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (4)】 ともあれ、最上氏が最上・村山両郡に勢力を進展させていく十五世紀始めの段階において、最上氏は庶子たちを積極的に郡中における交通・経済の要所へと分封し、大規模な惣領制を展開してその支配権を固めていった。最上家三代の最上満直の子満国も應永十三(1406)年に楯岡へと封じられ(注6)、天童氏や中野氏らと同様に周辺地域の支配を進めて行ったと考えられる。だが、その支配体制も、時を経るに連れて一族の宗家からの分立・台頭が激しくなる。最上氏は、斯波兼頼を始祖とする一族の宗家という権威を振りかざして領国支配を行っていたものの、例えば天童氏は同じ斯波一族として最上家と同等の格を以って大崎氏に相対しており、次第にその独立性を強めていったようだ。 楯岡の地に入部した後の楯岡城主は、初代伊予守満国のあと、二代河内守満正、三代和泉守満次、四代豊後守満春、五代長門守満康、六代因幡守満英と変遷したようであるが(注6)、その動向に関しては、十六世紀前半段階に至るまでそれを直接的に語る史料が存在せず、その詳細な動向を探ることはきわめて困難である。信頼のおける史料の上で、その名が登場するのは『伊達正統世次考』永正十一(1514)年二月条で、「(上略)春二月十五日最上兵と羽州村山郡長谷堂に戦う、楯岡・山辺式部已下敵一千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川中務親朝を留めてこれを守る」とあり、伊達稙宗と最上義定との争いに、楯岡は最上方の一部将とし出陣していたようである。なお、この戦死した「楯岡」が上記した城主の誰を指すものであるかは判然としない。 十六世紀も半ばを越え天正年間に入ると、最上宗家の内訌を克服した最上義光が、最上・村山地域の確固たる領国化を強行せんと北進の気配を見せ始める。義光がまず打倒しなければならなかったのは、比較的早い段階から最上家との家格的分立を強め、最上諸族の中でも頭一つ抜きんでた形で独立色が強い天童氏であった。天童氏は元亀末から天正初期にかけて発生した最上家内紛の際も反義光の急先鋒であり、最上宗家に対する対立姿勢を明確に示していた。当時天童氏は険阻な山城の天童城に居を構え、四方に支城を設けて重臣たちを配置し防御線を構築していた。さらに、天童の周辺地域の国人領主達とは同盟関係にあり、「最上八楯」として地域的党的結合を為していた。「最上八楯」は天童・延沢・飯田・尾花沢・長瀞・六田・成生そして楯岡であり、楯岡氏も天童方の一翼として、押し寄せる最上勢を幾度か撃退しているようである。 対する最上義光は、延沢満延の嫡子又五郎に娘を嫁がせ、婚姻関係を結ぶ事によって二家の間に和議を成立させた。その衝撃はかなりのものであったようで、天童勢は瓦解への道をたどった。天童落城の時期に関しても、天正五年(1577)説と天正十二年(1584)説があるが、近年は十二年説が有力である(注7 他)。ともあれ、延沢氏が最上方へと転向した結果、中心的存在を失った最上八楯の結束は完全に崩れた。義光はその余勢を駆って北進し、最上八楯を含む国人領主達を制圧し、領国化して自らの支配権を拡大していった。もちろん楯岡氏も例にもれず、最上氏の侵攻を受けた。当時の城主は楯岡因幡守満英であったとされるが、満英がいかなる抵抗をしたかを示す史料は存在しない。東根の後詰に出向いた満英が、落城の報を聞いて絶望し自害して果てたという話が残っている(注8)ようだが、確証は無い。ただ、その後の楯岡領は豊前守満茂へと襲封された事は確かなようである(注6)。 <続> (注6) 『村山市史 原始・古代・中世編』(村山市 1991) (注7) 『山形県史 第一巻』(山形県 1982) (注8) 川崎浩良『山形の歴史(前篇)』(出羽文化同交会 1948) 本城満茂(5)へ→ |
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【本城満茂 (3)】 「本城系譜」では、最上貞家の官職は修理太夫、法号は金勝寺月潭光公と表記され、没年は応永十七年としている。同様に満貞の官職は修理太夫、法号は法祥寺念叟観公、没年は応永二十年となっている。それでは、他の系図の兼頼の次代・次次代はどうなっているだろうか。前述した通り、兼頼の次代は直家、その次代は満直である。『山形市史 史料編1』に記載されている各系図における二人の法号・没年をまとめると下表のようになるが、これを見る限りでは、「本城家譜」における貞家と満貞は他の系図の直家と満直と同一人物としてとらえる事ができ、さらに没年を見る限りでは「本城氏系図」は「最上家譜」を原本として編まれているように見うけられる。 ![]() これは、恐らく編纂作業の途中で「直」の字が「貞」と読み間違えられ、そのまま誤記されてしまったのであろう。また、楯岡氏三代目が「本城氏系図」では家泰、「本城系譜」では満定となっているが、双方とも法号が「巨岳」であることを見ても、これら二人は同一人物と想定してよいだろう。また、「最上・天童・東根氏系図」には最上豊前守光俊として義光の末弟とされているが、他の系図のどれにもそのような記述は見られず、また系図自体の信憑性に疑問が呈される史料でもあることから、これは誤った記述と見てよいだろう。 <続> →本城満茂(4)へ |
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【本城満茂 (2)】 本城満茂に関して諸史料を元に時期を追って動向を検討していくが、前述の通り、文書史料が慶長中期以降に集中しており、楯岡城主時代あるいは湯沢城主時代の動向に関しては、諸記録や軍記物史料の記述に頼らざるを得ない状況にある。史料の性格上、内容に統一性が無くやや信頼性に欠ける史料群ではあるが、各市町村史の先行研究や周辺史料の裏付けをとりつつ検討を進めていきたいと考える。 まず、本城氏の家系に関しては、享和二年(1802)に成立した「本城系譜」と成立年代は不詳であるが「本城氏系図」が存在し、その全貌を知る上での基礎史料として位置付けることができる。内容は、源義家の子義国を始祖として歴代の事績を記載し、寛政六年に本城満主が小姓頭に就くまでを記録している。また、本城満茂の時期から記事内容が詳しくなっていることが特徴である(注4)。 ![]() ![]() 「本城氏系図」や、「寛永諸家譜」「最上家譜」(注5)等諸系図を見る限りでは、満茂の出身である楯岡家は、斯波兼頼から数えて二代目、満直の四男満国が祖となって興っているように見うけられる。各々の系図で、没年の記載を始め不合理な点がいくつか見えるものの、兼頼から満家までの最上家当主はどの系図でも兼頼―直家―満直―満家と全く合致している。従って、「本城氏系図」における初代兼頼から四代満家までの記述は信頼性が比較的高いと考えてよいだろう。 しかし「本城系譜」は、兼頼の次代を貞家、次次代を満貞とし、楯岡満国をはじめ中野満基らを最上満家の弟ではなく子としている。かかる違いはいずこから生まれたものであろうか。 <続> (注4) 『本荘市史 史料編1下』(本荘市 1985) (注5) 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』(山形市 1973) →本城満茂(3)へ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (1)】 本稿では、本城満茂に関わる考察を展開していく。本城満茂は、最上氏支族楯岡氏の出身で、義光の傘下に加わった後は最上勢の中核として各地を転戦し、特に仙北地方の係争において功績が大であった最上家家臣である。関ヶ原合戦後、最上家は庄内・由利地方を加増されたが、本城満茂は由利地方の統括者として同地に転封され、由利郡の統治並びに近隣大名の佐竹氏との折衝の窓口となった。由利郡に入封されるにあたって本城満茂は最上家最大である四万五千石の知行を配当されており、最上家中の重鎮としての機能を最上義光から期待されていた人物と捉えることができよう。なお、本城満茂は時期によって楯岡・湯沢・赤尾津と名字を変更しているが、本稿では原則的に「本城」で統一した。 さて、本城満茂に関する先行研究は、前述した鮭延秀綱・志村光安に比べ蓄積が大きい。しかし、そのほとんどが関ヶ原後由利郡へ移封された後のもので、本城氏の家系に関する諸問題や本城氏が最上家家臣団へ組み込まれ、由利へと移るまでの動向はおざなりにされ、先行研究にも疑問点が多い。再検討を行うべき余地は大きいと言えるだろう。 本城氏に関する研究に先鞭をつけたのが姉崎岩蔵氏である。姉崎氏はその著書『由利郡中世史考』(注1)で、古代から近世にかけての由利の歴史に関わる史料を収集、考察検討を加えたが、その収集作業のなかで本城氏の子孫と交流を持ち、残存していた古記録・系図・書状史料を見出し、世に出した。姫路酒井家の家臣本城氏が由利本城氏の後裔であることを決定付け、最上家統治時代の由利郡に関して本城城の築城時期を慶長十五(1610)年であるとし、新出の古地図を元に城下町の区画を検討した。また、楯岡氏と由利郡本城の地名についても触れ、楯岡氏の本姓が本城であり、これを在地名にした可能性を示唆している。 姉崎氏以後、北国日本海沿岸地域の政治状況と中央政権・地方大名政権との関連を中心に据えた検討を押し進め、本城氏に関する問題を包摂したいくつかの優れた論証を発表したのが長谷川成一氏である。氏は『本荘市史』(注2)において、姉崎氏の行った考察の矛盾点を解消しつつ、元来由利郡に割拠していた国人衆がどのように最上氏領国へ組み込まれていったか、また移封された本城満茂が由利支配をどのように実行したかを検討し、由利本城氏に関する基礎研究に多大な成果をあげた。さらに、氏の論考で注目されるのが、幕藩体制成立期における出羽国の社会状況について考察した「慶長・元和期における出羽国の社会状況 ――山落・盗賊・悪党の横行と取り締まり――」(注3)である。慶長十四(1609)年に発生した越後「金鑿衆」(かねのみしゅう、金掘職人の意)が山落(やまおとし、山賊・盗賊の意)の手によって大量に殺害された事件をモデルケースにして、最上と佐竹の連携を示す書状史料を軸に、領主の司法警察権力と、山中に盤踞している武力小集団とのせめぎ合いを浮き彫りにしたこの論考は、本城氏の政略動向を検討しようとする本稿に大きな示唆を与えるものである。 ただし、長谷川氏の論考はあくまで由利郡の支配を中心に据えたものであるから、本城氏が由利に入部する以前の動向や諸問題に関する検討は比較的手薄である。ゆえに、検討の余地があると思われる。 <続> (注1)『由利郡中世史考』(姉崎岩蔵 矢島町公民館 1970) (注2) 『本荘市史 通史編1』(本荘市 1987) (注3) 『「東北」の成立と展開 : 近世・近現代の地域形成と社会』所収 (沼田哲 編 岩田書院 2002) →本城満茂(2)へ |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
【本城満茂 (6)】
このようにして、満茂は楯岡領を継いでその城主になったが、その後しばらくの満茂の動向に関しては軍記物史料の記述に頼る他は無い。もとより信憑性に疑問のある史料群ではあり、細部にわたって記述が正確であるかというとそうではないだろうが、ある程度満茂の活動の傾向を掴む事はできるであろう。
最上氏の傘下に属した満茂は、義光が最上川河東・河西地域を領国化せんと軍を催した際に、それに参加しているようだ。天正十二(1584)年前後に行われたとされる、寒河江・谷地を攻撃した際も、「最上出羽守義光ハ大勢ヲ引具シ山形ヲ出馬ス(中略)先手ハ氏江尾張守五百余人喚テカヽル、二陣最上豊前守、三陣志村九郎兵衛・山辺六郎、」(注11)とその名が見え、天正九年の真室鮭延氏攻めにおいても、「(前略)山形豊前守・山辺・氏江・志村ヲハシメ七百余騎を引率シ、鮭登ノ城ヘオシ寄セ、」(注12)と一手の大将としての名がみえる。『奥羽永慶軍記』の記述を見ると、真室攻めは義光自らが出向いてそれを成し遂げたように著述されている。だが、義光が真室攻めを氏家守棟主導の元行わせたことは書状史料の面から明白であり(注13)、この記事自体の信頼性には大きな疑問符がつく。だが、真室攻略は祖父義定からの宿願であったとされ(注14)、また庄内へと進出する足掛かりとしても、真室地方の領国化は当時の最上家にあって至上命題だったであろう。故に、可能な限りの戦力を以って真室侵攻に当たったとしてもなんら不思議ではない。楯岡満茂を含む諸領主達の軍勢が、かなりの規模で動員されたと見てよいのではなかろうか。
また、同書・武藤駿河守光安滅亡ノ事条においても、義光が庄内へと攻め入る陣立ての中にその名が見えるが、これ自体の内容は天正十一(1583)年の前森蔵人(東禅寺筑前)による武藤義氏襲殺事件と、天正十五(1587)年に最上氏が東禅寺筑前の動きに呼応し庄内の武藤義興を攻めて庄内をその支配化に置いた事とを混同しており、実際に満茂が庄内へと出陣したとすれば後者の時であろう。
<続>
(注11) 「奥羽永慶軍記」谷地・白鳥落城ノ事条
(注12) 「奥羽永慶軍記」鮭登落城ノ事
(注13) 「楓軒文書纂所集文書」五月二日付庭月宛最上義光書状
(注14) 『山形市史』(山形市 1973)
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