最上義光歴史館
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (4)】 2、仙北紛争期(天正末)における鮭延秀綱の動向 天正十八年は最上家にとって一つのターニングポイントとも言うべき年であった。小田原攻略を以って抵抗勢力を沈黙させた秀吉は、その後奥羽諸大名に対する知行割を行った。最上家はその時点で所領を安堵されたと見られるが、それは最上家が全国的な統一政権組織の一部に組み込まれた事を意味した。さらに秀吉は、前田利家・上杉景勝らに奥州仕置を命じ、奥州の内陸中央道沿い、日本海岸沿い、太平洋岸沿いの三手に分けて仕置軍を進発させた。最上家は中央道の先鋒を命ぜられ、鮭延は中央道仕置軍を先導する事になった。仙北情勢に精通し、幾度も仙北地方に攻め入った経験のある鮭延秀綱は、仕置軍の先導役として最適の人物であっただろう。 九月に入ると、検地に反対した庄内・由利・仙北の国人・土豪衆が一揆を起こして検地の推進を阻む事態となった。仙北進出の機会を窺っていた義光にとって、この一揆鎮圧は恰好の大義名分となったのである。そもそも、惣無事令下にありながら天正十六年に庄内を上杉に切り取られた上、天正十八年に上杉景勝に対して秀吉の朱印状(注20)が与えられ上杉家の庄内支配が追認された事で、最上家の庄内領有は事実上不可能となっていた。ゆえに、最上家がこれ以上領土を拡張するためには、当時未だ支配体制が脆弱であった仙北小野寺領に食いこむ必要があったのである。 仙北検地における鮭延秀綱の動向及びその周辺の事態の推移を簡単に追ってみると、まず鮭延は一揆鎮圧を名目に寒河江光俊を伴って湯沢城に入城したようだ。十月廿二日付の文書に鮭延の湯沢在陣が記されているので、湯沢入城はそれ以前に行われたものとみられる。 別而申上候、明日豊後・大和方可指越申候へ共、一刻も急申度候間、 申事候、湯澤地ニ鮭延殿在陳条、就之地下之者共、機遣令申候、 色邊殿より御音信候而被罷帰候様ニ御取成可被成之候、 萬々重而可申上、恐惶謹言、 横手宿老中 十月廿二日 惣判 康道様へ 参人々御中 (注21) それと前後して、日本海側を進んだ上杉・大谷軍も庄内から由利を経て仙北に入った。上杉勢は大森城に入城し、色部長真がその責任者となっている。最上勢の湯沢在陣に危機感を抱いた小野寺家老達は、当主小野寺義道の弟康道をして色部長真に鮭延の退去を働きかけたことがこの書状から読み取れる。なお、小野寺は寛永十年に幕府に対して提出された書き上げにおいてその不当性を主張しているが、その書付によれば、鮭延は「湯沢城の城番が一揆を起こした」という大谷吉継の言を根拠として湯沢城に入ったようである。ともあれ、小野寺からの通達を受けた色部長真は、鮭延に幾度か退去する旨伝えたようであるが、残念ながらその書状は残存していない。ただ、その伝達に対する鮭延の返答が計三通残っている。十月廿三日付の返答(注22)においても「大谷吉継の指図によってやむなく在陣した」との主張があり、実際にそういった命令があったかどうかは不明であるが、鮭延が検地代官の権威を大義名分とし湯沢に駐留したことは確かなようである。 この数度にわたる色部の働きかけに鮭延は態度を軟化させ、同月廿五日付の色部長真に対する返答(注23)では「近く帰国する」と伝えるに至った。この頃になると仙北の一揆も下火になったと見られ、湯沢在陣の理由を失いかけた鮭延ら最上勢はほどなく帰国の途についたようである。しかし、その後、上洛中の義光による工作が効を奏したとみえ、翌天正十九年一月に発給された小野寺氏に対する宛行状(注24)には「上浦郡三分二、三万千六百石」との記述があり、のこり三分の一は最上氏に対して与えられたものと考えられる。秀綱はこの新領地の管轄を義光から任せられていたようで、上浦一郡が最上氏の所領になった旨郡内に伝達する事を色部に対して知らせている(注25)が、色部は京都及び大谷吉継よりその報が無いとしてそれを否定した(注26)。当地の土豪衆もその報せに驚き、小野寺領内に退去する者が少なくなかったという。それに対して鮭延秀綱・氏家守棟は、色部長真にその対策を講じるよう主張している(注27・28)。公権力を背景に交渉を進める最上に対し、ついに色部は屈し、その土民達の帰還を約定したのである(注29)。だが、この強硬な上浦郡(雄勝・平鹿郡)領有が火種となってしばらくの間仙北地域は最上軍と小野寺軍の衝突の舞台となるに至った。 ここにおいて、鮭延秀綱は奥州検地紛争において一貫して主責任者の立場にあった事が注目される。最上家にとって仙北問題は当時の最重要案件とも言うべきものであり、一連の紛争において一時的とはいえ小野寺氏の重要拠点であった湯沢城を占拠し、翌年には上浦郡の領有を色部―上杉氏に認めさせた功績は最上家にとって多大なものだったと推測される。鮭延秀綱は、この時点で仙北問題のスペシャリストとして最上家内に大きな存在感を示していたと見てよいのではないだろうか。 その後幾度かに渡って繰り返された仙北侵攻においてもその認識は継続しているように見える。文禄以後、最上勢は数度にわたって仙北へ侵入している。根本史料は存在せず、『奥羽永慶軍記』の記述を頼りにせざるをえないが、 最上義光は山北小野寺義道を討んと、幾度か勢を催し攻るといへども、 (中略) 左あらば勢を指向んと、三男清水大蔵大輔義之・楯岡豊前守義満ヲ 大将として、相従ふ兵には一族延沢遠江守光信・長瀞内膳忠・ 上野山越後守・鮭延典膳・(後略)(注30) (前略)去程に最上の先手鮭登典膳四ッ目ノ旗押立、(後略)(注31) 天正末か文禄初めかは判然としないが、いずれにせよ清水・楯岡の最上一族衆が大将を務め、鮭延が先陣を承っていたことがわかる。年次は下って文禄四年の最上勢による湯沢攻めの記事には、 文禄四年八月最上義光の臣鮭登先達て下りけるが、 (中略)先是を攻んとて、最上よりの大将に楯岡豊前守、 先手は鮭登典膳其外小国・延沢(後略)(注32) とあり、文禄四年の仙北攻めにおいても楯岡が大将、鮭延が先陣という形は変わっておらず、数度に渡ったとされる仙北侵攻では、かかる人材運用が固定化された可能性を指摘できる。この点から見ても、文禄年間に義光は、鮭延秀綱に対して、最上家の仙北問題における最重要家臣の一人として位置付けを認めていたと考えられるのである。 余談となるが、興味深い記述が『奥羽永慶軍記』「最上義光・伊達政宗閉門事」に存在する。豊臣秀次に連座させられた駒姫の死を恨みに思った最上義光が、伊達政宗と語らって秀吉に対して謀反を起こそうとしているという讒言があり、最上・伊達が閉門させられたという記事であるが、その中で、「両家の郎等延沢能登守・鮭登典膳・遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎等の傍若無人の者共一揆を起し、所々の手を定め京・大坂を焼払ひ、」(注33)という噂が京・大坂の民衆達の間に流れた、という記述がある。この記述が事実かどうかは定かではないが、遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎といえば伊達政宗の側近であるから、もし実際にこのような噂が流布していたとすれば、鮭延は当時の世間一般の認識として「最上家屈指の家臣」であると同時に「延沢能登と並ぶほどの剛勇の持ち主」と見られていたのであろう。 <続> (注20) 「上杉家文書」八月一日付豊臣秀吉朱印状(『山形県史史料編1』) (注21) 「色部文書」 天正十八年十月廿二日付横手宿老中書状案(『同上』) (注22) 「同上」 天正十八年十月廿三日付鮭延愛綱書状(『同上』) (注23) 「同上」 天正十八年十月廿五日付鮭延愛綱書状(『同上』) (注24) 「神戸・小野寺文書」天正十九年一月十七日付豊臣秀吉宛行状(『秋田県史史料 古代・中世編』) (注25) 「色部文書」 天正十九年二月八日付鮭延愛綱書状(『山形県史史料編1』) (注26) 「同上」 天正十九年二月十一日付色部長真書状(『同上』) (注27) 「同上」 天正十九年二月二十六日付氏家守棟書状(『同上』) (注28) 「同上」 天正十九年二月二十八日付鮭延愛綱書状(『同上』) (注29) 「同上」 天正十九年二月晦日付色部長真書状(『同上』) (注30) 『復刻 奥羽永慶軍記』 最上勢、山北境を攻破るの事(無明舎出版 2005) (注31) 同上 (注32) 『同上』 湯沢落城の事(同上) (注33) 『同上』 最上義光・伊達政宗閉門の事(同上) 鮭延秀綱(5)へ→ |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (3)】 鮭延が、永禄の中頃から大宝寺武藤氏の強い影響力の元にいた事は前述した。その経歴から考えても、武藤氏及び庄内の国人と鮭延氏の間には、ある程度強い結びつきがあったようだ。義光が庄内へと勢力を伸張させようと目論んだ天正十(1582)年から天正十一(1583)年にかけた一連の軍事行動の準備段階として、鮭延は、庄内の有力国人衆へ対して調略を仕掛けている。下に挙げた書状は、鮭延が来次氏等に対して最上方に翻意するように勧めていた事が窺える書状である。 自鮭延殿御音信被申上候間、御使今朝其表へ相送申候つる、 定而参着可申哉、野拙処江も書状ヲ差越被申候、為可入御覧差挙 申候、何共不聞得文書ニて候、以分別可致返章事難弁候間、 當座之挨拶迄ニ而令返酬候、如何様近日中以参上、 心事可申述候間、令省略候、恐々謹言、 菊月廿一日 来次 氏秀(花押影) 砂越次郎殿 御宿所 (注16) 結果として、情勢は最上方優位に展開した。 如翰計之、未令啓書候處ニ、急度之御到來祝着之至候、 随而((這カ))定般鮭延へ、從庄中致亂入候条、 彼口爲引立之勧騎之支度候キ、然處ニ白岩八郎四郎、 大寳寺方へ以縁約之首尾、甚別心候条、爲退治向彼地令發向、 先々属本意之形候、至春中者、清水・鮭延以相談、庄中可押詰候、 雖無申迄候、於時者、爲引汲三庄境目へ可被責入事肝要候、 毎事砂宗入道方へ及細書候条、不能腐書面候、恐々謹言、 霜月廿五日 源義光(花押) 謹上 下國殿 (注17) 上の書状は義光が武藤氏を挟撃する為に下国(秋田)愛季と申し合わせた文書であるが、砂越氏が最上方についたと解釈できる記述が見られる。恐らく来次氏と共に寝返ったのであろう。どうやら、鮭延は調略を成功させたようだ。 また、義光は、天正末〜慶長初期に平鹿・雄勝郡を領する小野寺氏へ対して幾度か軍勢を催しているが、そこでも鮭延秀綱は外交手腕を発揮したようだ。根本となる書状史料には欠けるが、 湯沢落城の事 (注18) (前略) 鮭登思ひけるは、「関口も我に中違うて有けれども、 何とぞして彼を語らひ味方となさば、山北を攻るに心安かるべし。」 と、密に飛檄を以て是を語らふ。折ふし春道も小野寺に野心を 挟めば何の異論もなく、一味をぞしたりける。夫より春道が 計らひとして、西馬内肥前守茂道・山田民部少輔高道・ 柳田治兵衛尉・松岡越前守・深堀左馬の五人心替りして最上に組す。 そもそも、鮭延氏(佐々木氏)は前述した通り小野寺氏の被官であった時期が長く、最上地域の他の領主に比べ小野寺氏と仙北国人衆への外交的繋がりは比べ物にならないほど強いものであった。義光は仙北の国人衆に対して揺さぶりをかけ、小野寺氏との関係において大方主導権を握っているが、鮭延も何らかの形でその調略戦に関与していたと考えるのが自然であろう。 ともあれ、鮭延氏は最上義光の圧迫に屈してその家臣となったが、そこには、鮭延秀綱が果たすであろう役割に対する大きな期待感が最上義光の中に存在していたのである。事実、最上家参入直後における鮭延の立場は既に比較的高いものであった。前述の最上義光書状においても「清水・鮭延以相談、庄中可押詰候、」とあるように、最上地域における義光与党の重鎮的立場にいた清水氏と併記される扱いをうけている。まさにこれは、最上地域において清水氏に匹敵する勢力、あるいは立場を最上義光が認めていた証左となろう。また、天正十五年三月十三日発給とみられる瀧沢主膳正維助書状(注19)においても、秀綱は義光の腹心であり最上家中の中核にほど近い位置にいたと推測される志村伊豆守とほぼ同格に扱われている。最上家中において、秀綱は志村伊豆守と同等に扱われる立場を既に天正十五年の時点で築いていた事が見て取れるのだ。 前記の通り庄内の国人衆や雄勝郡の国人領主を最上方につける事に成功した折衝手腕はもちろん、『奥羽永慶軍記』等の軍記物によれば、仙北侵攻時には一手の主将として小野寺勢を打ち破る等、槍働きにおいても最上家の勢力伸長に寄与したようである。もちろんその史料的性質から多少の誇張を含む記述と見るべきであろうが、ある程度評価には値するものであろう。義光の期待に、鮭延は存分に応える働きをしたようである。 <続> (注16) 「筆濃余里所収文書」 十月二十一日付来次氏秀書状(『山形県史 史料編1』) (注17) 「湊文書」 十一月二十五日付最上義光書状(『山形県史 史料編1』) (注18) 『復刻 奥羽永慶軍記』(無明舎出版 2005) (注19) 「筆濃余里所収文書」 三月十三日付瀧澤主膳正書状(『山形県史 史料編1』) 鮭延秀綱(4)へ→ |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (2)】 本章では、鮭延秀綱が天正九年に最上家に降ってより後、最上家内での立場をどのように変化させていったかをテーマとして論を進めていく。 なお、論述の重きを置くポイントとしては、比較的文書史料の残存状況が良好な天正期、鮭延の働きが顕著な仙北紛争期、南出羽に最上家勢力が確立した関ヶ原の戦後〜元和期の三つの段階に分けて検討していきたい。 1、天正期の鮭延秀綱 最上地域(現在の最上地方)は、内陸から庄内、あるいは秋田へと続く交通の結節点であり、同時に南出羽の大動脈とも言うべき最上川を押える要地であった。また同時に、北に仙北小野寺氏、西に大宝寺武藤氏、南に最上氏と強大な三勢力がこの要衝を欲して干戈を交える地勢でもあった。そこに割拠した鮭延秀綱は、一体どのような意図の元に最上家勢力内に組み込まれていったのであろうか。 鮭延氏は、元々仙北の領主小野寺氏の勢力下にいた。だが、鮭延秀綱の父貞綱が鮭延郷に移った大永・天文年間には、小野寺家中の内訌の影響もあって、鮭延氏に対する小野寺氏の影響力は薄れる一方であったようだ(注8)。しかし、その後鮭延氏は独立独歩の道を歩んだわけではない。他の中小規模国人領主の例にもれず、常に強大な勢力の影響を受ける立場にあった。秀綱が家督を継ぐ以前から、庄内の武藤氏は最上地方領有の望みを持って幾度も鮭延郷をはじめ最上地方の各郡へと兵力を繰り出している。特に大規模な戦いとなったのが永禄六年と同八年の侵攻である(注9)。その結果最上地方の大部分は武藤氏の手に帰し、鮭延氏も武藤氏の強い影響下に置かれていたようである。秀綱は当時幼少期であったが、『鮭延城記』に、「茲に又永禄六年の役典膳(秀綱の父貞綱)の次子源四郎當歳なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられるを〜」、『鮭延越前守系図』(注10)によれば、「永禄ノ役ニ荘内ニ虜トナリ彼地ニ成長シ幼ニシテ逃レテ城ニ皈リ主トナル、」とあり、秀綱は永禄六年の戦の結果人質として庄内に連れ去られたという記述がいくつか見える。 この二つの資料は、あくまで明治後期〜大正期にかけて鮭延瑞鳳氏によって著述された郷土研究資料で、それ以上の価値を見出す事は難しい資料である(注11)為この記述がそのまま真実であるかどうかという事を断定はできない。だが、鮭延氏遺臣の著した『鮭延越前守公功績録』ではかなり念入りに鮭延源四郎(秀綱)が庄内にいた描写がなされており、興味をそそられる内容ではある(注12)。 最上地方が武藤氏の勢力圏となったことを座視している最上義光でもなかった。天正三年頃には、家中の抵抗勢力をある程度排除して最上家の主導権を掌握した義光だったが、さらに地歩を固めようと上山・東根・楯岡らの周辺諸地域を勢力下におさめた。さらに、天童八楯の繋がりを背景に強固な勢力を誇っていた天童氏に対しては和議を結ぶ一方、その裏で八楯に対する切り崩し工作を行い、その力を弱める事に余念がなかった。そうしてひとまず近隣の安定化を達成し、将来的に庄内地方の領有を望んでいたであろう義光にとって、次の目標が最上地域となるのは当然の事だったのである。天正八年、義光は攻略の手を小国(現在の最上町)へと伸ばした。当該史実に関する根本史料は無いに等しいが、『奥羽永慶軍記』によれば、 天正八年ノ頃、小国領主細川三河守モ天童頼澄ノ舅也ケレハ、 天童ニ力ヲ合セ本望ヲ達セント、計畧ヲ廻ラスヨシ聞エケルハ、 山形ヨリ大勢ヲ差向終ニ退治ヲセラレケリ、此時蔵増安房守 軍功ヲハゲマスニ依テ、小国ヲゾ賜ヒケリ、依テ蔵増ガ嫡子 小国日向守光基ト名ノリケリ(注13) とあり、この侵攻は最上地域における拠点確保と天童氏の弱体を一挙に行う事を意図したものであったと推測される。さらにこの翌年の天正九年、義光は一連の最上地方経略計画を完遂するために鮭延郷へと侵攻した。 鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、 其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、 今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並袴 指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、 返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、 万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、 五月二日 義光(鼎形黒影印) 庭月殿 (注14) とあるように、義光は鮭延氏の家老格であった庭月氏を懐柔して、鮭延氏周辺の切り崩しを図っている。なお、鮭延氏攻略の責任者には氏家尾張守が充てられた。氏家尾張守といえば当時の最上家での宿老的存在であり、またこの文書中でも「氏家尾張守為代職指遣」「氏尾所へ被罷越可然候」としているように、庭月に対して「氏家は義光の代理である」事を殊更に強調している。氏家尾張守は義光の期待に十二分に応え、鮭延城を攻略し鮭延氏を臣従させる事に成功した。また同時期に、新庄の日野氏をも降して、最上地域のほとんどを最上家領国化している(注15)。 ここで注目したいのは、「鮭延就致我侭」と義光に対して抵抗の姿勢を見せていたにも関わらず、前年に攻略された細川氏と異なり、鮭延氏は降伏後その所領を安堵されている事だ。細川氏がどのようにして攻め滅ぼされたかは前述した通り判然とはしないが、細川氏が領主の座から追われて最上派の国人領主(蔵増氏)がその後釜に据えられている事に比べると、鮭延は非常に厚遇され最上家に迎え入れられたと見て間違いないだろう。これには、義光が、地勢的理由のみならず、鮭延を傘下に取りこむ事に対して様々な価値を認めていたであろう事が理由の一つとして考えられるのだ。その利用価値の大きな部分を占めていたのは、鮭延が持っていたであろう他勢力へ対する影響力だったと推察される。 <続> (注8) 『真室川町史』(真室川町 1997) (注9) 『同』 (注10) 「正源寺文書」(『山形県史史料編 2』) (注11) 前掲 粟野氏論文(1983) (注12) 「早川家所蔵文書」(『新庄市史史料編 上』) (注13) 『奥羽永慶軍記』 谷地・寒河江落城ノ事 (『新庄市史史料編 上』) (注14) 「楓軒文書纂所集文書」 天正九年五月二日付最上義光書状写 (『山形県史 史料編1』) (注15) 『新庄市史』(新庄市 1989)など 鮭延秀綱(3)へ→ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (1)】 本稿において、最初に取り上げる最上家家臣は「鮭延秀綱」である。 鮭延秀綱は、最上家家臣の中でも比較的史料の残存状況がよい人物であると同時に、長谷堂合戦での活躍や、海音寺潮五郎『乞食大名』などの出版物で広く名前が流布している。 『最上義光分限帳』(注1)を見る限りでも「一、高壱万千五百石」と最上家内でも有数の知行地を、現在の真室川町周辺に領していた事が伺え、最上家領北方の押さえとして厚遇されていた人物であることが読み取れる人物だ。 さて、本論を進める前に、鮭延氏に関する代表的な先行研究をいくつか紹介しておきたい。 本格的な鮭延氏研究の嚆矢としては、『増訂最上郡史』(注2)が挙げられるだろう。著者の嶺金太郎氏は大正年中に最上郷土史関係の書物をいくつか世に送り出しているようだが、その集大成ともいうべきものがこの『増訂最上郡史』である。『増訂最上郡史』は、基本的に文書史料・軍記物史料を中心的に用いた編年的な記述スタンスをとっている。鮭延氏に関しての記述を見ると、まず天正年間の周辺の小野寺・武藤そして最上との関係を描き出すことに力を注ぎ、その後最上家の動向に沿ってその改易までの最上郡、とりわけ鮭延について史料を分析・考察している。当時ではまだ未出の文書史料もあり、現在の研究段階から見れば疑問に思う点も少なくはないが、史料の収集のみならず、それを分析したという点において、それ以前に出版された郷土史関係出版物とは一線を画すものであった。 『増訂最上郡史』出版以前にも松井秀房氏『最上郡史』や鮭延瑞鳳氏『鮭延城記』等の郷土史出版物において同様な郷土史史料が扱われているが、『最上郡史』はあくまで収集・分類に終始したものであったらしく、『鮭延城記』は記述に疑問点が多いという問題を抱えている。 昭和期の中頃になると県市町村史の出版が盛んになる。山形県内で出版された県市町村史の中でも、特に『山形県史』『山形市史』『新庄市史』『真室川町史』が鮭延についての記述に詳しい。内容的には『増訂最上郡史』の記述を押し進めた形の記述となっているが、新出の史料もあり、最上家という枠組の中で鮭延の動向を概観する状況が整った時期であるだろう。なお、『新庄市史』では「鮭延越前守侍分限帳」を用いて、鮭延氏の領国支配形態を探ろうとしている点が興味深い。 個々の論文に関しては、粟野俊之氏『出羽国鮭延郷について ―鮭延氏関係史料の再検討― 』上・下(注3)が秀逸である。『山形県史』における中世最上地域の具体的な記述の欠如を踏まえて、最上地域の中でも史料の残存状況がよい鮭延郷をフィールドとして中世最上地域の考察をした論文である。上編では、その考察の前段階として鮭延氏関係史料の再検討を試み、とりわけ鮭延氏の出自に関する史料検討に力が注がれている。鮭延氏の成立に関する史料からは鮭延氏が近江佐々木氏を租とする決定的な証拠は見つけられず、また大正期に鮭延瑞鳳氏の手によって書かれた鮭延氏系図を始めとする鮭延氏の出自に関する史料は矛盾点が多く、基礎史料として扱うことは難しいと断じている。その上編を踏まえて、下編では南北朝・室町期から鮭延秀綱が最上氏に降る天正期までの鮭延郷、特に鮭延氏の動向を通観して問題点を拾い、鮭延氏の出自・最上入部時期・最上氏鮭延経略戦時の隣国陸奥大崎氏との関係を考察している。 奥山譽男氏「鮭延佐々木氏の成立について ―小野寺義道文書から―」(注4)も鮭延氏の成立について論じたものであるが、この論文においても史料の不足というジレンマは表れており、論者自身が「鮭延佐々木氏の成立に関する根本史料の無い現在、いろんな見方が許されるだろうし」と断りをつけた上での論述という形をとっている。『最上記』『奥羽永慶軍記』『奥羽軍談』などの軍記物史料と「小野寺遠江守書状」という限られた書状史料を用い、鮭延氏が佐々木家の数多い分流のどこから出て出羽に移り住んだのか、との論を積極的に展開しており、「もともと鮭延郷は小野寺氏の馬産地であった」と結論付けている。 松岡進氏「最上郡域における城館跡の類型論的考察」(注5)にも鮭延に関する記述が存在する。表題の通り最上地域の中世城館を類型論的に分類し、そこから最上地域における最上家の影響を読み取ることに主眼を置いた論文である。鮭延氏に関して、考古学的見地と歴史学的見地をすり合わせた考察を行った点は斬新な切り口と思われる。 小野寺彦次郎氏『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』(注6)の中にも鮭延氏に関する記述が多少存在する。横手に割拠した小野寺氏に対して、鮭延氏は元々従属関係にあった故にその繋がりは深い。ゆえに、横手小野寺氏の動向を論じる上で切っても切り離せない間柄であるということで鮭延氏が取り上げられている。佐々木氏が小野寺氏を頼って下向し、鮭延郷に土着した時期についての解説や、永禄〜天正初期における鮭延・武藤・最上の動向について小野寺氏に主眼を据えた視点で論を展開しており、他の論文と違った着眼点から鮭延氏を論じている点は興味深い。 最上家改易後、鮭延秀綱が多くの陪臣達と共に「御預」となった佐倉藩土井家(後に古河へ転封)において、如何に遇されたかを追跡したのが小野末三氏(注7)である。最上家改易に関わる先行研究を参照しながら、鮭延が五千石という厚遇で土井家に仕官した背景やその後の陪臣の処遇などを紹介している。 また氏は、同著において、鮭延のみならず他の最上家家臣が改易後どのように身を処したかを詳細に考証している。改易後の最上家旧臣団に関わる考察を行う場合の基礎文献として、高い評価をすべきであろう。 <続> (注1) 『山形市史』最上家関係史料編。 (注2) 嶺金太郎『増訂最上郡史』(最上郡教育会・新庄市教育委員会 1972 原刊 1929) (注3) 『山形県地域史研究』8・9号(山形県地域史研究協議会 1983) (注4) 『同』23号 (同 1998) (注5) 『さあべい』16号 (さあべい同人会 1999) (注6) 小野寺彦次郎『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』 (創栄出版 1993) (注7) 小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998) 鮭延秀綱(2)へ→ |
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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【はじめに】 十六世紀初期から十七世紀前半期にかけて情勢が激変する中で、地方大名が直面した問題や克服しなければならない状況がどのように変化したかを考えてゆく場合、その家臣が主家に及ぼした影響を追う考察の切り口は、一定の成果を期待できる方法論であると筆者は考えています。 また近年、いわゆる「戦国ブーム」の中で、大名のみならず有名家臣の持つキャラクター性やエピソード等が注目されている事は見逃せない事実です。実例を挙げるならば、伊達家家臣の片倉景綱や上杉家家臣の前田利益は、ゲームやマンガ等様々なメディアに取り上げられて戦国ブームの牽引役となりましたし、上杉家家臣の直江兼続や武田家家臣の山本勘助は大河ドラマにもなって人気を博しました。戦国大名の有力家臣は、研究の題材としてのみではなく、観光資源として、あるいは生涯学習・歴史普及の一コンテンツとしても非常に優秀であるという位置づけができるのではないでしょうか。 さて、最上家臣に関わる研究の現状に目を向けた時、大きな壁となって立ちはだかるのが「史料の残存状況」です。最上家は元和8年(1622)年に御家騒動を契機として57万石から1万石(後に5000石に減知)へと所領を削減された上で国替えされましたが、その際山形城に保管されていた書状・記録類の大部分は処分されてしまったと見え、現存していません。また、その際に家臣団も解散してしまったため、他家に仕えたりなどしてその後も存続した家臣に関わる史料はわずかながら残存しているものの、断絶した家の史料はほぼ散逸してしまいました。ゆえに、家臣個人を検討する場合においては、数少ない書状史料と二次・三次史料(軍記物史料など)を手がかりとして使うほかない現状にあります。 端的に言うならば、「根本史料が決定的に不足している」のです。 また、かかる状況が副次的に生み出した現象として、軍記物史料からのアプローチが、その人物の持つキャラクターイメージの大半を形作っている事は否めません(もちろんこれは最上家に限ったことではありませんが…)。最上家の有名家臣と言えば、「氏家守棟」「志村光安」「鮭延秀綱」などが挙げられましょうが、彼らとてそれは例外ではありません。例えば、志村光安は、 ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵 トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ…(『奥羽永慶軍記』) と評価されています。また、慶長出羽合戦時に、長谷堂城の守将として数倍の上杉軍を相手取って半月間守り通した功績も近年かなり広く知られる事となったため、永慶軍記に記されているような「戦上手」「弁舌豊か」であるとの評価が共通認識として固まりつつあるように思われます。 また、鮭延秀綱は、最上義光が勢力を北進させる過程で最上氏勢力下に加わった国人領主ですが、やはり長谷堂城の合戦での活躍や、最上家が改易されるきっかけとなった内紛において山野辺義忠を支持して家中に混乱を招いた人物である事がクローズアップされがちな現状にあります。 筆者は、それが全ての面において悪い事だとは思いません。 しかしながら、その人物が持っていたであろうキャラクター性が、「一般的評価」の裏に埋もれてしまっている事もまた否定できない事実なのです。 そこで、本稿では、数少ないながらも残された書状史料を中心とし、軍記物史料や家譜等諸記録を補助的に用いながら、最上家有力家臣を再評価してみたく考えています。本稿が、僅かながらでも最上家研究の進展に寄与すれば幸いです。 ■■執筆:内野 広一 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum




【鮭延秀綱 (5)】
3、慶長〜元和元年における鮭延秀綱の立場
「奥羽の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦と、それに付随した一連の庄内奪回戦・仙北救援において、鮭延秀綱は目覚しい活躍を挙げた。最上領内深く上杉軍に侵攻され、山形城が危機に陥った事態にあっては長谷堂城に援軍として赴き、上杉軍の侵攻を阻んだ。長谷堂における鮭延の活躍は、様々な書籍ですでに詳らかにされており、ここで改めて触れることはしないが、軍記物史料が根本史料となりがちなことには十分留意せねばならないだろう。
上杉撤退後に発生した、最上家による小野寺氏へ対する反攻においては、湯沢満茂の麾下として先陣を務めたとされる(注34)が、根本史料がなく記述に全幅の信頼を置くことはできない。『永慶軍記』では、仙北出陣を十月半ばの事としており、長谷堂合戦が十月初旬に終息した事を勘案すれば、慶長五年に鮭延が仙北へ出陣し、作戦行動を遂行できたかどうかは疑問だ。『永慶軍記』の記述は、文禄期〜慶長初期、または慶長六年に行われた最上と小野寺の交戦を混同している可能性があると見るべきだろう。
翌年の庄内攻めにおいては、北口の大将として志村伊豆守と共にその任にあたり、由利郡国人衆の仁賀保擧誠と合力して菅野城を落とすなど庄内攻略に尽力した(注35)。ともあれ、慶長五・六年において秀綱はまさに大車輪の槍働きをしている。
しかし、槍働き以上に、関ヶ原以後の鮭延秀綱を論じる上で最も留意すべきは、慶長末年から元和元年にかけて起こった最上家家督相続に関連する騒動であると考えられる。
その当時、発給されたと考えられる二つの書状を挙げる。
尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、うつしを申て、
其地へ被遣候、これを御手前にをかせられ申へく候由御意候、已上、
大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、
其段令披露候ヘハ、不及是非候、先々其分ニ被成候而、
可被指置候由、上意ニ候、左候へ者、秋田(より)の書面ニ、
与左衛門尉下人にてハ無之候、頼候而大坂へ罷立候由之條、
是非此方之者ニハ無之事一定ニ候条、依之重而右之使にて候、
尤慥なる使を可被遣之由、被仰出候様子之義、具ニ此使者へ申渡候、
秋田人之義、委口上ニ可被仰候由、御意候、書状をハ大かた申宣候、
恐々謹言、
日野備中守
十一月十二日 光(花押影)
里見薩摩守
景(花押影)
安食太和守
光(花押影)
鮭延備前守
直(花押影)
本豊州様
御報人々御中 (注36)
谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、
條々承候、秋田へ之御理共無残所候、此上之義、
人頭共相捨候外無之候、其付而、理之様子共書面難申候條、
具彼高寺新左衛門方ニ申渡候、能々被聞召届、御尤ニ候、恐々謹言、
東薩摩守
十一月廿八日 景佐(花押影)
安太和守
光(花押影)
鮭越前守
本城豊州様 愛(花押影)
御報 (注37)
大坂の陣において落ち延びてきた者共の処遇について秋田とやり取りしたことについて、その経過を本城満茂に報告した書状であるが、注目する点は、その発給者と受給者の構成がいかにして形作られたかということであろう。慶長末年から元和元年における最上家中の動静をふりかえってみたい。
事の発端は慶長八年、最上義光の嫡子義康が庄内において殺害された時にさかのぼる。義康は、義光により嫡子の座を追われて高野山へと追放されたが、高野山へ向かう道中庄内にて殺害された。代わって後嗣と定められた家親は小姓として徳川家康の元に居た時期があり、徳川家との繋がりを重視した結果、かかる事態となったものであろう。一説には、豊臣の恩顧を重視した一派が、義康を擁して義光を隠居させようとする動きが見られたため、機先を制して義光が義康を廃嫡したともされる(注38)。義康廃嫡は、最上家内の親豊臣派と親徳川派との相克が表層化したものととらえる事ができよう。
この義康廃嫡・殺害事件は最上家中に大きな亀裂を残す結果となった。その後しばらく、その亀裂は新体制への適応、庄内・由利の新領土経営の影に隠れてなりを潜めていたが、慶長十九年一月に最上義光が没し、家親が家督を相続したのを契機として親豊臣派と親徳川派の対立がふたたび表面化した。家親の家督相続からわずか半年足らず、六月に起こった田川郡添川館主一栗兵部の乱がそれである。
一栗兵部は、「家親の家督相続は最上家を危うくする元であり、その異母弟清水光氏(義親)を擁立すべき」との考えの元、その意を酒田城主志村光惟(光安の子)に諮った。光惟の返答は定かではないが、その後鶴岡城主新関因幡守が自邸に光惟らを招いたことで一栗兵部は疑心暗鬼に陥り、光惟・下対馬守らを襲撃して殺害してしまった。新関因幡守によってすぐに一栗兵部は討たれたものの、その後ろ盾として疑いをかけられたのが、かつて豊臣秀吉の元で人質生活を送り、秀頼の近侍を勤めた経験のある(注39)清水光氏であった。
時あたかも大坂の役直前で、最上家にも動員命令が下ってきており、家親は江戸留守居役を家康から命じられていた。自らが出陣しているそのすきに、光氏が大坂方に呼応して反乱を起こす危険性を考慮した家親は、延沢遠江守・日野将監らに清水光氏討伐を命じたとされる。同年十月に両将は清水城を攻め、光氏を自刃に追いこんだというのが慶長十九年に起こった一連の騒動のアウトラインである。
さて、この騒動時に鮭延秀綱はいかに身を処したのであろうか。事態を静観していたのか、あるいは積極的に家親について活動していたのか確たる史料が無い為判然としないが、その後大阪の役や一栗・清水氏討滅の事後処理を掌握したと見られる重臣として名を連ねている事を考慮すれば、家親派として積極的に運動していたのではなかろうか。
ともあれ、家中の反家親派を沈黙させた家親にとって家中の立てなおしは急務であった。家親は江戸詰めの機会が多かったゆえに、領国経営の中枢を担う者を登用せねばならなかったが、氏家尾張守・志村伊豆守の両巨頭は既に亡かった。その後継であった氏家左近は家内を統括するのには若く、志村光惟は一栗の反乱で死亡していた。また、最上家における重鎮清水氏は前述の通り排除されたし、本城満茂は由利本城にあって由利郡の統治と佐竹氏との連絡を担っていて最上本家の中枢運営に関わることは難しかった。そこで、上級城持家臣の中で家老級として登用されたのが東根・日野・安食そして鮭延らであったと考えられる。
さて、元和元年にはこの四人を中核とする家中意思決定集団があったと見られるが、最上家中の序列が上記の書状より垣間見える。家老連から本城満茂への宛名は「本城豊州様」あるいは「本豊州様」だから、鮭延ら4人よりは本城満茂が格上でとして認識されていたことが分かる。本城満茂は、元は最上家親類衆の楯岡氏であり、最上家中で最も多い四万五千石の知行を由利郡にて給されていた。湯沢に在陣(湯沢豊前守と名乗った時期もあった)して仙北地方の経略に尽力した経歴から見ても、最上家臣筆頭の位置にふさわしい人物だったのであろう。「大坂落人之事」や「谷地之者人質」に関わる秋田佐竹氏との折衝を行う際にも、山形家老連・本城満茂が密に連絡を取り合って対応していた事が上記の書状から読み取れる。さらに言えば、この序列は一朝一夕に形成されたものではなく、義光存命中から既に形作られつつあったのだろう。
ともあれ、鮭延秀綱は、この時点で最上家非親族系家臣の中では最上級に位置し、家親参勤中の留守居として領国経営を担っていたと想定して間違いなかろう。
その後、最上氏の改易騒動が起こるが、その時点の鮭延の詳細な立場、動向については他稿に譲りたい(注40)。
<続>
(注34) 『復刻 奥羽永慶軍記』など
(注35) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985)
(注36) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『山形県史史料編1』)
(注37) 「同」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』)
(注38) 『山形県史 第二巻』(山形県 1985)
(注39) 『上山市史』
(注40) 福田千鶴「最上氏の改易について」『日本史研究 361』(日本史研究会 1992)など
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