最上義光歴史館
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【鮭延秀綱 (1)】 本稿において、最初に取り上げる最上家家臣は「鮭延秀綱」である。 鮭延秀綱は、最上家家臣の中でも比較的史料の残存状況がよい人物であると同時に、長谷堂合戦での活躍や、海音寺潮五郎『乞食大名』などの出版物で広く名前が流布している。 『最上義光分限帳』(注1)を見る限りでも「一、高壱万千五百石」と最上家内でも有数の知行地を、現在の真室川町周辺に領していた事が伺え、最上家領北方の押さえとして厚遇されていた人物であることが読み取れる人物だ。 さて、本論を進める前に、鮭延氏に関する代表的な先行研究をいくつか紹介しておきたい。 本格的な鮭延氏研究の嚆矢としては、『増訂最上郡史』(注2)が挙げられるだろう。著者の嶺金太郎氏は大正年中に最上郷土史関係の書物をいくつか世に送り出しているようだが、その集大成ともいうべきものがこの『増訂最上郡史』である。『増訂最上郡史』は、基本的に文書史料・軍記物史料を中心的に用いた編年的な記述スタンスをとっている。鮭延氏に関しての記述を見ると、まず天正年間の周辺の小野寺・武藤そして最上との関係を描き出すことに力を注ぎ、その後最上家の動向に沿ってその改易までの最上郡、とりわけ鮭延について史料を分析・考察している。当時ではまだ未出の文書史料もあり、現在の研究段階から見れば疑問に思う点も少なくはないが、史料の収集のみならず、それを分析したという点において、それ以前に出版された郷土史関係出版物とは一線を画すものであった。 『増訂最上郡史』出版以前にも松井秀房氏『最上郡史』や鮭延瑞鳳氏『鮭延城記』等の郷土史出版物において同様な郷土史史料が扱われているが、『最上郡史』はあくまで収集・分類に終始したものであったらしく、『鮭延城記』は記述に疑問点が多いという問題を抱えている。 昭和期の中頃になると県市町村史の出版が盛んになる。山形県内で出版された県市町村史の中でも、特に『山形県史』『山形市史』『新庄市史』『真室川町史』が鮭延についての記述に詳しい。内容的には『増訂最上郡史』の記述を押し進めた形の記述となっているが、新出の史料もあり、最上家という枠組の中で鮭延の動向を概観する状況が整った時期であるだろう。なお、『新庄市史』では「鮭延越前守侍分限帳」を用いて、鮭延氏の領国支配形態を探ろうとしている点が興味深い。 個々の論文に関しては、粟野俊之氏『出羽国鮭延郷について ―鮭延氏関係史料の再検討― 』上・下(注3)が秀逸である。『山形県史』における中世最上地域の具体的な記述の欠如を踏まえて、最上地域の中でも史料の残存状況がよい鮭延郷をフィールドとして中世最上地域の考察をした論文である。上編では、その考察の前段階として鮭延氏関係史料の再検討を試み、とりわけ鮭延氏の出自に関する史料検討に力が注がれている。鮭延氏の成立に関する史料からは鮭延氏が近江佐々木氏を租とする決定的な証拠は見つけられず、また大正期に鮭延瑞鳳氏の手によって書かれた鮭延氏系図を始めとする鮭延氏の出自に関する史料は矛盾点が多く、基礎史料として扱うことは難しいと断じている。その上編を踏まえて、下編では南北朝・室町期から鮭延秀綱が最上氏に降る天正期までの鮭延郷、特に鮭延氏の動向を通観して問題点を拾い、鮭延氏の出自・最上入部時期・最上氏鮭延経略戦時の隣国陸奥大崎氏との関係を考察している。 奥山譽男氏「鮭延佐々木氏の成立について ―小野寺義道文書から―」(注4)も鮭延氏の成立について論じたものであるが、この論文においても史料の不足というジレンマは表れており、論者自身が「鮭延佐々木氏の成立に関する根本史料の無い現在、いろんな見方が許されるだろうし」と断りをつけた上での論述という形をとっている。『最上記』『奥羽永慶軍記』『奥羽軍談』などの軍記物史料と「小野寺遠江守書状」という限られた書状史料を用い、鮭延氏が佐々木家の数多い分流のどこから出て出羽に移り住んだのか、との論を積極的に展開しており、「もともと鮭延郷は小野寺氏の馬産地であった」と結論付けている。 松岡進氏「最上郡域における城館跡の類型論的考察」(注5)にも鮭延に関する記述が存在する。表題の通り最上地域の中世城館を類型論的に分類し、そこから最上地域における最上家の影響を読み取ることに主眼を置いた論文である。鮭延氏に関して、考古学的見地と歴史学的見地をすり合わせた考察を行った点は斬新な切り口と思われる。 小野寺彦次郎氏『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』(注6)の中にも鮭延氏に関する記述が多少存在する。横手に割拠した小野寺氏に対して、鮭延氏は元々従属関係にあった故にその繋がりは深い。ゆえに、横手小野寺氏の動向を論じる上で切っても切り離せない間柄であるということで鮭延氏が取り上げられている。佐々木氏が小野寺氏を頼って下向し、鮭延郷に土着した時期についての解説や、永禄〜天正初期における鮭延・武藤・最上の動向について小野寺氏に主眼を据えた視点で論を展開しており、他の論文と違った着眼点から鮭延氏を論じている点は興味深い。 最上家改易後、鮭延秀綱が多くの陪臣達と共に「御預」となった佐倉藩土井家(後に古河へ転封)において、如何に遇されたかを追跡したのが小野末三氏(注7)である。最上家改易に関わる先行研究を参照しながら、鮭延が五千石という厚遇で土井家に仕官した背景やその後の陪臣の処遇などを紹介している。 また氏は、同著において、鮭延のみならず他の最上家家臣が改易後どのように身を処したかを詳細に考証している。改易後の最上家旧臣団に関わる考察を行う場合の基礎文献として、高い評価をすべきであろう。 <続> (注1) 『山形市史』最上家関係史料編。 (注2) 嶺金太郎『増訂最上郡史』(最上郡教育会・新庄市教育委員会 1972 原刊 1929) (注3) 『山形県地域史研究』8・9号(山形県地域史研究協議会 1983) (注4) 『同』23号 (同 1998) (注5) 『さあべい』16号 (さあべい同人会 1999) (注6) 小野寺彦次郎『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』 (創栄出版 1993) (注7) 小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998) 鮭延秀綱(2)へ→ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【はじめに】 十六世紀初期から十七世紀前半期にかけて情勢が激変する中で、地方大名が直面した問題や克服しなければならない状況がどのように変化したかを考えてゆく場合、その家臣が主家に及ぼした影響を追う考察の切り口は、一定の成果を期待できる方法論であると筆者は考えています。 また近年、いわゆる「戦国ブーム」の中で、大名のみならず有名家臣の持つキャラクター性やエピソード等が注目されている事は見逃せない事実です。実例を挙げるならば、伊達家家臣の片倉景綱や上杉家家臣の前田利益は、ゲームやマンガ等様々なメディアに取り上げられて戦国ブームの牽引役となりましたし、上杉家家臣の直江兼続や武田家家臣の山本勘助は大河ドラマにもなって人気を博しました。戦国大名の有力家臣は、研究の題材としてのみではなく、観光資源として、あるいは生涯学習・歴史普及の一コンテンツとしても非常に優秀であるという位置づけができるのではないでしょうか。 さて、最上家臣に関わる研究の現状に目を向けた時、大きな壁となって立ちはだかるのが「史料の残存状況」です。最上家は元和8年(1622)年に御家騒動を契機として57万石から1万石(後に5000石に減知)へと所領を削減された上で国替えされましたが、その際山形城に保管されていた書状・記録類の大部分は処分されてしまったと見え、現存していません。また、その際に家臣団も解散してしまったため、他家に仕えたりなどしてその後も存続した家臣に関わる史料はわずかながら残存しているものの、断絶した家の史料はほぼ散逸してしまいました。ゆえに、家臣個人を検討する場合においては、数少ない書状史料と二次・三次史料(軍記物史料など)を手がかりとして使うほかない現状にあります。 端的に言うならば、「根本史料が決定的に不足している」のです。 また、かかる状況が副次的に生み出した現象として、軍記物史料からのアプローチが、その人物の持つキャラクターイメージの大半を形作っている事は否めません(もちろんこれは最上家に限ったことではありませんが…)。最上家の有名家臣と言えば、「氏家守棟」「志村光安」「鮭延秀綱」などが挙げられましょうが、彼らとてそれは例外ではありません。例えば、志村光安は、 ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵 トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ…(『奥羽永慶軍記』) と評価されています。また、慶長出羽合戦時に、長谷堂城の守将として数倍の上杉軍を相手取って半月間守り通した功績も近年かなり広く知られる事となったため、永慶軍記に記されているような「戦上手」「弁舌豊か」であるとの評価が共通認識として固まりつつあるように思われます。 また、鮭延秀綱は、最上義光が勢力を北進させる過程で最上氏勢力下に加わった国人領主ですが、やはり長谷堂城の合戦での活躍や、最上家が改易されるきっかけとなった内紛において山野辺義忠を支持して家中に混乱を招いた人物である事がクローズアップされがちな現状にあります。 筆者は、それが全ての面において悪い事だとは思いません。 しかしながら、その人物が持っていたであろうキャラクター性が、「一般的評価」の裏に埋もれてしまっている事もまた否定できない事実なのです。 そこで、本稿では、数少ないながらも残された書状史料を中心とし、軍記物史料や家譜等諸記録を補助的に用いながら、最上家有力家臣を再評価してみたく考えています。本稿が、僅かながらでも最上家研究の進展に寄与すれば幸いです。 ■■執筆:内野 広一 |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (9)】 慶長五(1600)年の関ヶ原合戦時には、小野寺氏は一旦東軍へ付いたものの、家康が上杉征伐を中止し引き返すと、失地を回復せんと上杉へ呼応し、湯沢城一帯を攻撃する構えを見せた。『奥羽永慶軍記』長谷堂口会津勢敗北事条には、「同九月廿五日、最上出羽少将義光長谷堂表ノ敵イマタ退カス、陣ヲ堅ク張テ在シカハ後詰シテ追払ハント発馬シ給ヘハ、相従フ人々嫡子修理太夫義安・三男清水大蔵大輔・仙台ノ加勢伊達壱岐守・進藤弥兵衛尉・一族ニハ湯沢豊前守」とあるように、長谷堂合戦に満茂は参加した如く書かれているが、これは明らかな誤りである。この情勢下において遠路湯沢から山形表まで引き返してくることは到底無理な話であって、小野寺氏へ釘付けであったろう。同地域は、前述したように中小規模の国人領主が林立する状態であって、それらが完全に最上家へ服していたかというとそうではなく、状況如何では小野寺方へと鞍替えする危険も十分にあった。混乱した状況の中、孤立した湯沢一帯を確保するのに必死であったと思われる。 一旦は窮地に陥った満茂であるが、関ヶ原での東軍戦勝が報じられると、上杉勢は山形より退却した。頼みの上杉勢が撤退した以上、小野寺氏が最上氏、その背景にある徳川氏に抵抗する事は事実上不可能であり、湯沢一帯を切り取ろうとする動きは無意味な事となった。小野寺氏は、その後の戦後処理で東軍に反したかどで改易され、石見に配流されている。東軍勝利の報に接した最上義光は、上杉勢によって奪取された寒河江・谷地等の諸城を奪還し、翌慶長六(1601)年三月には志駄修理亮が篭る東禅寺城を攻めた。この時満茂は、「(前略)又酒田ノ城北ノ方ヨリ湯沢豊前守満茂大将トシテ、山北勢を催シ打寄ル、」とあるように、山北の国人領主や自らの家臣等を引きつれ、庄内平定に参加している可能性がある (注18)。 直接的な軍事行動によって、天正十六(1588)以降上杉氏の手に渡っていた庄内を奪還した最上家であったが、関ヶ原合戦後の戦後処理によって公的にその領土が認められ、さらに由利郡が加増された(注19)。新給された由利は、元来由利の国人であった岩屋氏(二千三百石)と滝沢氏(一万石)、そして本城満茂(四万石)へと与えられた。由利における満茂の支配体制、あるいは本城氏の家臣団管理を包括する給地の経営や軍役に関する考察は、前述したように『本城市史』を始めとした先行研究において十分な検討がなされているため、本稿ではこれ以降の動向の概略を記するに留めたい。また、由利入部後における本城氏と主家最上の関係と、その権力限界に関する考察と指摘は次稿に譲る。 <続> (注18) 『奥羽永慶軍記』義光切取田川・飽海事 (注19) 『寛政重修諸家譜』 本城満茂(10)へ→ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (8)】 また、その遠因として注目すべき点が、小野寺義道の腹心八柏大和守が義道によって誅された事件である。『奥羽永慶軍記』では、これを最上方の謀略としてえがいている。八柏が内通しているという内容の楯岡満茂が発した偽書状を、宛先を間違えたかのごとく義道の舎弟に届けた結果、義道は八柏大和守が裏切ったと信じこんでついに大和守を殺害したというのである。『奥羽永慶軍記』は、その偽書状を全文転載しているが、そもそも早くに改易され、石見に配流された小野寺氏の元に、しかも偽の書状がそのまま残存しているとは考えにくく、八柏大和守が本当に最上方の謀略によって殺害されたものか疑問ものこる。ただ、何らかの理由で忠臣八柏が誅殺されたことによって義道の信望が地に落ち、次は我が身と佐々木春道・西馬音内茂道ら周辺の国人領主達が態度を翻す契機になったとも考えられようか。 だが、要地湯沢城の城主小野寺孫七郎・孫作兄弟は最上方へと降せず、徹底抗戦の構えを見せた。乱戦の後湯沢城は最上方の手へ落ちたが、城自体のダメージも大きかったようで最上勢は駐留できなかったらしい(注16)。満茂は家臣原田大膳らを周辺に配置して自らは最上へと帰陣した。残った家臣達は周辺の諸城を手に収め、それに呼応する形で十月には六郷兵庫頭政乗が小野寺義道に反旗を翻し、小野寺勢との小競り合いが発生した。ここにおいて、義光は再び満茂を湯沢へと遣わし、湯沢城主として周辺の統治を預けた。 湯沢における、満茂の給地・その統治手段は詳らかでない。ただ、小野寺の本城横手は目と鼻の先であるから、小野寺勢に対する軍事行動の必要はあったと考えられる。原田大膳を始めとした家臣達を周囲の出城に配置し、また最上方に属した近隣の国人領主達と連携をとりながらその任を果たしたのであろう。同時に、湯沢城落城時の城施設のダメージは大きく、防御施設の復旧は急務であった。満茂は、冬の内にそれを完遂したと伝えられる。また、湯沢城のある上浦郡(雄勝郡)は、天正十九(1591)年に秀吉から公式に最上家の領有が認められており(注17)、公儀権力を背景に同郡の支配権力を確固たるものにしていったのではなかろうか。 <続> (注16) 『湯沢市史』(湯沢市教育委員会 1965) (注17) 二月廿六日付氏家守棟書状(「色部文書」) 本城満茂(9)へ→ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (7)】 さて、このように各地を転戦したと見られる楯岡満茂であるが、天正の末期以降特に仙北の小野寺氏との抗争において、最上勢の中でも重要な位置を占めていた。天正十四(1586)年五月に、仙北横手城主小野寺義道は、真室地方を奪還せんと最上境の川井・役内に布陣した。これに対し義光は、長男義康を総大将に、楯岡満茂を副将につけて有屋峠へ出陣させたという。この時義康は未だ若年であったろうから、既に三十を越え、実戦経験豊富な満茂が実際に指揮を取っていたと思われる。その後天正十八(1590)年から翌天正十九年には仙北検地が実行され、義光の政治工作の結果仙北上浦郡が最上家に与えられた。しかしこれには小野寺氏を始めとした仙北の諸氏は不満であったようで、仙北の情勢は緊迫した。 このような情勢下で、文禄四(1596)年九月最上義光は仙北への本格的な侵入を企図する。この時の総大将は楯岡満茂、副将に鮭延秀綱が配され、また小国・延沢・天童・東根に仙北降参の軍勢及び由利衆以上合わせて八百余騎が動員されたという。由利・仙北衆を除けば、動員されているのは河東地域かつ山形以北の城主達であることが注目されるであろうか。鮭延秀綱はもともと小野寺の勢力下にあった国人領主で、仙北の諸国人、地下人とはある程度太いパイプを持っていたと推測される。『奥羽永慶軍記』の記述を見ると、「(前略)中ニモ関口ノ城主小野寺カ一族佐々木喜助春道トイフ者アリ、鮭登思ヒケルハ、(中略)彼ヲ語ラヒ味方トナサハ、山北ヲ攻ルニ心安カルヘシト、密ニ飛檄ヲ以テ是ヲ語ラフ、折シモ春道モ小野寺ニ野心ヲ挟メハ何ノ異論モナク一味ヲソシタリケル、夫ヨリ春道カ計ラヒトシテ、西馬音内肥前守茂道・山田民部小輔高道・柳田治兵衛尉・松岡越前守・深堀左馬の五人心替リシテ最上ニ組ス、」とあり、鮭延秀綱が仙北の諸氏を懐柔し、最上方へ引き込んだことがわかる。実際このように単純に懐柔されたかどうかはわからないが、彼ら小野寺の城持ち家臣は独立性の強い小領主の連合体のような様相を呈していたようで、小野寺氏自体の支配権力はそう強いものではなかった(注15)。故に、最上氏の動向に対応してこれら小領主が最上方へついたのであろう。 (注15) 『秋田県史』(秋田県 1961) 本城満茂(8)へ→ |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
【鮭延秀綱 (2)】
本章では、鮭延秀綱が天正九年に最上家に降ってより後、最上家内での立場をどのように変化させていったかをテーマとして論を進めていく。
なお、論述の重きを置くポイントとしては、比較的文書史料の残存状況が良好な天正期、鮭延の働きが顕著な仙北紛争期、南出羽に最上家勢力が確立した関ヶ原の戦後〜元和期の三つの段階に分けて検討していきたい。
1、天正期の鮭延秀綱
最上地域(現在の最上地方)は、内陸から庄内、あるいは秋田へと続く交通の結節点であり、同時に南出羽の大動脈とも言うべき最上川を押える要地であった。また同時に、北に仙北小野寺氏、西に大宝寺武藤氏、南に最上氏と強大な三勢力がこの要衝を欲して干戈を交える地勢でもあった。そこに割拠した鮭延秀綱は、一体どのような意図の元に最上家勢力内に組み込まれていったのであろうか。
鮭延氏は、元々仙北の領主小野寺氏の勢力下にいた。だが、鮭延秀綱の父貞綱が鮭延郷に移った大永・天文年間には、小野寺家中の内訌の影響もあって、鮭延氏に対する小野寺氏の影響力は薄れる一方であったようだ(注8)。しかし、その後鮭延氏は独立独歩の道を歩んだわけではない。他の中小規模国人領主の例にもれず、常に強大な勢力の影響を受ける立場にあった。秀綱が家督を継ぐ以前から、庄内の武藤氏は最上地方領有の望みを持って幾度も鮭延郷をはじめ最上地方の各郡へと兵力を繰り出している。特に大規模な戦いとなったのが永禄六年と同八年の侵攻である(注9)。その結果最上地方の大部分は武藤氏の手に帰し、鮭延氏も武藤氏の強い影響下に置かれていたようである。秀綱は当時幼少期であったが、『鮭延城記』に、「茲に又永禄六年の役典膳(秀綱の父貞綱)の次子源四郎當歳なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられるを〜」、『鮭延越前守系図』(注10)によれば、「永禄ノ役ニ荘内ニ虜トナリ彼地ニ成長シ幼ニシテ逃レテ城ニ皈リ主トナル、」とあり、秀綱は永禄六年の戦の結果人質として庄内に連れ去られたという記述がいくつか見える。
この二つの資料は、あくまで明治後期〜大正期にかけて鮭延瑞鳳氏によって著述された郷土研究資料で、それ以上の価値を見出す事は難しい資料である(注11)為この記述がそのまま真実であるかどうかという事を断定はできない。だが、鮭延氏遺臣の著した『鮭延越前守公功績録』ではかなり念入りに鮭延源四郎(秀綱)が庄内にいた描写がなされており、興味をそそられる内容ではある(注12)。
最上地方が武藤氏の勢力圏となったことを座視している最上義光でもなかった。天正三年頃には、家中の抵抗勢力をある程度排除して最上家の主導権を掌握した義光だったが、さらに地歩を固めようと上山・東根・楯岡らの周辺諸地域を勢力下におさめた。さらに、天童八楯の繋がりを背景に強固な勢力を誇っていた天童氏に対しては和議を結ぶ一方、その裏で八楯に対する切り崩し工作を行い、その力を弱める事に余念がなかった。そうしてひとまず近隣の安定化を達成し、将来的に庄内地方の領有を望んでいたであろう義光にとって、次の目標が最上地域となるのは当然の事だったのである。天正八年、義光は攻略の手を小国(現在の最上町)へと伸ばした。当該史実に関する根本史料は無いに等しいが、『奥羽永慶軍記』によれば、
天正八年ノ頃、小国領主細川三河守モ天童頼澄ノ舅也ケレハ、
天童ニ力ヲ合セ本望ヲ達セント、計畧ヲ廻ラスヨシ聞エケルハ、
山形ヨリ大勢ヲ差向終ニ退治ヲセラレケリ、此時蔵増安房守
軍功ヲハゲマスニ依テ、小国ヲゾ賜ヒケリ、依テ蔵増ガ嫡子
小国日向守光基ト名ノリケリ(注13)
とあり、この侵攻は最上地域における拠点確保と天童氏の弱体を一挙に行う事を意図したものであったと推測される。さらにこの翌年の天正九年、義光は一連の最上地方経略計画を完遂するために鮭延郷へと侵攻した。
鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並袴
指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、
返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、
万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、
五月二日 義光(鼎形黒影印)
庭月殿 (注14)
とあるように、義光は鮭延氏の家老格であった庭月氏を懐柔して、鮭延氏周辺の切り崩しを図っている。なお、鮭延氏攻略の責任者には氏家尾張守が充てられた。氏家尾張守といえば当時の最上家での宿老的存在であり、またこの文書中でも「氏家尾張守為代職指遣」「氏尾所へ被罷越可然候」としているように、庭月に対して「氏家は義光の代理である」事を殊更に強調している。氏家尾張守は義光の期待に十二分に応え、鮭延城を攻略し鮭延氏を臣従させる事に成功した。また同時期に、新庄の日野氏をも降して、最上地域のほとんどを最上家領国化している(注15)。
ここで注目したいのは、「鮭延就致我侭」と義光に対して抵抗の姿勢を見せていたにも関わらず、前年に攻略された細川氏と異なり、鮭延氏は降伏後その所領を安堵されている事だ。細川氏がどのようにして攻め滅ぼされたかは前述した通り判然とはしないが、細川氏が領主の座から追われて最上派の国人領主(蔵増氏)がその後釜に据えられている事に比べると、鮭延は非常に厚遇され最上家に迎え入れられたと見て間違いないだろう。これには、義光が、地勢的理由のみならず、鮭延を傘下に取りこむ事に対して様々な価値を認めていたであろう事が理由の一つとして考えられるのだ。その利用価値の大きな部分を占めていたのは、鮭延が持っていたであろう他勢力へ対する影響力だったと推察される。
<続>
(注8) 『真室川町史』(真室川町 1997)
(注9) 『同』
(注10) 「正源寺文書」(『山形県史史料編 2』)
(注11) 前掲 粟野氏論文(1983)
(注12) 「早川家所蔵文書」(『新庄市史史料編 上』)
(注13) 『奥羽永慶軍記』 谷地・寒河江落城ノ事 (『新庄市史史料編 上』)
(注14) 「楓軒文書纂所集文書」 天正九年五月二日付最上義光書状写 (『山形県史 史料編1』)
(注15) 『新庄市史』(新庄市 1989)など
鮭延秀綱(3)へ→