最上義光歴史館
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山形城趾霞城公園は、東北を代表するさくらの名所である。この城を大改修したのは、ほかならぬ最上義光であるが、彼は武人であると同時にすぐれた文人だった。特に連歌(れんが)においては、同時代諸侯のなかではトップクラスの作者と目されている。
さくらを詠じた作品も、もちろんある。『最上義光連歌集』(最上義光歴史館発行)からいくつかひろってみよう。ただし、連歌は五七五/七七/五七七と句ごとに作者が交替し唱和するものだから、二人の句で「一首の和歌の形」になる。作者名は、義光の一字名「光」と、唱和した人物名を括弧内に記し、参考までに私案としておよその大意を付してみた。 ●面影の花をたびたびかえりみて/ 過ぎ行くあとの関ぞ霞める (光/里村玄仲) なつかしい人の面影をしのばせる桜の花を、幾度も振り返り見ると、あの人と別れ過ぎて来た関所の建物も、うっすらと霞んでいる。あの人も霞の中に立って、こちらを見送っているのだろうか。 ●変わらじとのみ契りつる仲/ 花ゆへに馴れ初めけるも縁(えにし)あれや (飛鳥井雅庸/光) お互いに心変わりをしまいと固く契りあった二人の仲。美しく咲いた花がきっかけで愛しあうようになったのも、何か深い縁があったからだろう。 ●暮るるまで帰さ忘るる花の下/ そことも知らず鐘かすむなり (光/光高〈姓未詳〉) 日が暮れるまで帰ることさえ忘れてしまう花の下。どこで鳴るのか、夕方の鐘の音もぼんやりと霞んで聞こえてくる。のどかな春の日暮れよ。 ●散るあとも尋ぬる花の山深み/ 帰りも絶えぬ鶯の声 (光/里村唱叱) 里の桜が散った後も、もっと花を見たいと尋ね入った山深く、帰りの路でも鶯の声が絶えず聞こえていた。名残り惜しい花の季節もそろそろ終わりか。 ●誰もただ花に心や浮かるらん/ 出(い)で入りしげき九重の春 (光/里村景敏) だれもが花に浮かれて、たくさんの人が行き交う。都はまさにらんまんの春。 ![]() 花ざかりの霞城公園も、これと同じだ。花を愛した最上義光が、二十一世紀のこの様子を見たら、どんなに喜び、満足することだろう。 ■執筆:片桐繁雄氏(元最上義光歴史館事務局長) ※美しい山形・最上川フォーラム「夢の桜街道(さくら物語) 平成18年10月 第8号」より筆者の許可を得て転載しました。 |
ワシが最上義光(もがみよしあき)ダ!!
いまから自己紹介(じこしょうかい)をするゾ! ワシは約450年前の天文15年(1546)1月に山形城で生まれた。山形城は知っているか?いまは霞城公園になっているところダ!! ワシの父は義守(よしもり)といって、最上家の10番目の殿様ダ。ワシはその長男として生まれたのダ!!子供のころは「白寿丸(はくじゅまる)」という名前で呼ばれておった。 ワシは永禄3年(1560)という年に15才で「元服(げんぷく)」したゾ!「元服」は知っているか?大人として認めてもらうための儀式ダ!これでワシも一人のサムライとして認めてもらったのダ!それから、その時日本で一番えらいサムライだった将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)から「義(ぎ)」という字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ることにしたのダ!!まあ、親しい人間からは源五郎(げんごろう)と呼ばれておったがな。 ワシが25歳になった元亀元年(1571)に、父の義守が引退(いんたい)したので、11番目の殿様になったゾ!! 11番目の殿様という意味はわかるか?ワシの先祖はいまから約650年前に山形に来て山形城を作った斯波兼頼(しばかねより)という人だが、その人から数えて11番目の最上家の殿様であり、11番目の山形城の殿様ということダ!! 殿様になってから、ワシは山形に住んでいるたくさんの人たちが、平和で幸せにくらせるように、たくさんいろいろな事をしたゾ。その事は、また別のページで教えよう!! ワシはたくさん戦争をしたが、ムダな命はとらなかった。降参(こうさん)した人やかしこい人は自分の家来(けらい)にしたりしたゾ!「だましてあいてを殺したズルイ殿様」だって?ノー!!ノー!!そのやりかたが一番死ぬ人が少ないんだゾ!!たくさんの兵隊があつまって戦うよりも、あいてのえらい人だけやっつけた方が、死ぬ人の数が少くないし、大切な町や田畑がこわされなくてすむのダ!!そんなことも知らないのか!?ワシは人の命が一番大切なものだと思っている。 約400年前の慶長5年(1600)に、山形で大きな戦争(慶長出羽合戦/けいちょうでわかっせん)があったが、そのとき無敵(むてき)の軍隊(ぐんたい)からワシの軍隊が勝ったのダ!だれの軍隊に勝ったかわかるか?そう最強の軍隊上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の直江兼続(なおえかねつぐ)の軍隊ダ。どうだ、すごかろう!! そのあとワシは、そのすごさが認められて、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)という広い土地を管理する大大名(だいだいみょう/大名よりもすごい大名)になったのダ。 ワシも66才になった、慶長16年(1611)に従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)という位(くらい)をもらったゾ。ワシのことをみんな「虎将(こしょう)」というニックネームで呼ぶが、どうやらその位である近衛少将⇔虎賁郎将(こほんろうしょう)が関係しているらしい!!「虎将」という文字もかくれているゾ!! ![]() 残念ながらワシも人間ダ、慶長19年(1614)1月18日、69才のときに病気で死んでしまった。69才…昔はそれでも長生きしたほうだと思うゾ!! ワシのお墓は山形市の光禅寺(こうぜんじ)というお寺にあるゾ。ぜひお参りにきてくれ!! それではひとまずお墓にもどるとしよう… |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum










その兼頼から数えて11代目の当主(城主)が義光です。義光は慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)の活躍で57万石という広大な領地をもつようになりました。
現在の山形県のうち置賜地方を除く全部と秋田県の南の一部です。また、義光は57万石を治める城として、これまで住んでいた山形城を三重の濠(ほり)で囲まれた大変大きな城につくり直し、家臣や商人・職人たちが生活する城下町を整備しました。
この時に山形市の原型がつくられたといわれています。義光は現在の山形市の繁栄の礎を築いたといえます。