最上義光歴史館

最上義光のこと♯2

【今までの最上義光評価】
 
 大正二年(1913)は、最上義光没後三百年に当たっていた。
 山形城を築き、山形市の原型をつくりあげた英傑ということで、山形市民は盛大な記念行事を行なった。
 その総括として翌年に発行された記念誌では、次のように最上義光をたたえている。読みにくい文体だが、一部を抜き出してみよう。

 「国民にして尚武の気風甚だ貧弱なるに於ては到底宇内列強の競争場裡に立ちて対峙的態度を取ること能はざるを知らざる可らず、由来英雄栄拝が日本国民性として意義あるも亦た以なきにあらざるなり、我が山形中興の最上義光公の如きは此意味に於て最も崇仰すべきグレートマンたると同時に山形市が今日に於て東北地方の一都市として雄を競ふに足れるも亦た要するに公が遺徳と遺績の之が因たらざる可らず」

 このように、西欧に追い付き追い越そうとする時代風潮を反映して、高い評価がなされている。
 戦後は武人的な面は強調されず、単純に 「山形の城や町をつくった大名」となり、義光祭もまた商店街に活気をもたらすイベントとなったのだった。
■■片桐繁雄

前をみる>>こちら
次をみる>>こちら
最上義光のこと♯1

【人間評価のむずかしさ】
 
 ひとりの人物をどう評価するかということは、なかなかむずかしい問題である。
 戦時中私たちは、足利尊氏は乱臣逆賊の典型のように教えられた。戦後では、田沼意次が贈収賄に明け暮れて、腐敗政治の元凶のように教えられたこともある。
 しかし、その後聞いたり読んだりしたところでは、尊氏にしても意次にしてもなかなかすぐれた人物であり、その業績も高く評価される面があるとのことだ。
 時代が変わることで判断の基準が変わり、従来目の向けられなかった面が脚光を浴びたりして、人物評価はさまざまに変わるのだろう。
 さらには、史料の取り上げ方によって実像から離れた人物像が形成され、それが広く流布してしまい、一般の評価がなされてしまうというような場合もある。
 実は、最上義光に対する現今世上の評価は、どうもこれらしいのだ。
■■片桐繁雄

次をみる>>こちら
最上義光に殉じた寒河江十兵衛
                 
(一)
 慶長十九年(1614)一月十八日、最上出羽守義光は病により生涯を閉じた。その際、寒河江肥前、山家河内、長岡但馬、寒河江十兵衛の四人は、二月六日に義光墓前にて腹を切り主の死に殉じた。これが世間に取り沙汰され、後世に語り伝えられてきた。この話しの誕生は、元和八年(1622)の最上家改易から十二年後の寛永十一年(1634)に、最上の旧臣と思われる人物が書き残した『最上義光物語』(原本が『続群青類従』に収録)に日く、「慶長十九年寅の正月十八日、六十九歳にて逝去したまひけり、法名玉山白公大居士とそ申ける、然に寒河江肥前守、同十兵衛、長岡但馬、山家河内は内々御供可仕と存ける故、妻子に暇乞し諸事懇に申置、光禅寺にて切腹致けり」とあるのが話しの発端であろうか。それに何かと解釈を加え世上に喧伝されてきた。しかし、それら全てを事実を伝えるものとして受入れてよいのか。ここに、寒河江十兵衛の後裔が伝えた『寒河江家文書』(以下、『文書』)から当時の記録を拾い、少しでも真実を知る手立てを探っていきたい。なお、『文書』は「拾兵衛」とあるが、ここでは「十兵衛」に統一した。

(二)
 「寒河江家略系」
十兵衛元茂−親清−勝昌−勝弘−広政−範勝−元清−元澄
 十兵衛の没後は、草苅薩摩二男の織部(親清)が、娘の婿養子に入り跡を継ぐ。織部は鶴ヶ岡に在勤、最上家改易の際には城内の諸道具引渡役を勤めた。最上家退散後は会津蒲生家に三百石で仕官、主家破綻の後は加藤家に仕え寛永十九年(1642)に没、行年五十五歳。三代・勝昌の時に加藤家没落後の慶安元年(1648)に、松平大和守家に再仕官を果たすと以後、主家の重なる転封に一度は禄を離れたこともあったが、前橋藩にて寒河江の名跡を維新まで伝えた。
 『文書』から四代・勝弘の「勝弘聞書」(以下、「聞書」)に、十兵衛の貴重な生前の姿を垣間見ることができる。その主な箇所を拾い、原文を多少、現代文に書き改め述べてみよう。 日く、「十兵衛ハ義光公二仕エ、武頭鉄砲預リ弐百六捨石ヲ賜ル、義光公折紙黒印有、近所居御心易被召之由、アル時、近習ノ若輩者卜争イガ起キタ、家老達ハ十兵衛ノ非ヲ責メ、切腹ヲ申シツケタ、シカシ義光ノ温情ニヨリ、兎角命御貰御暇被下候由、夫ヨリ仙台在中エ夫婦ハ引篭、義光公ヨリ年々金子給り露名送由、ソノ後、文禄ノ役二義光ノ出陣二際シ、コノ事ヲ遅レテ知ツタ十兵衛ハ、其頃道中筋食物等モ不自由ノ折柄ナレバ、煎粉具足肩懸ヲ支度、義光ノ後ヲ退ツタノデアル、ソシテ御陣小屋参御供支度旨願、則義光公御出有テ御勘気御免、夫ヨリ前々通リ御心易被召仕由、高麗陣ヨリ帰還ノ後、長岡但馬守、寒河江肥前守、寒河江十兵衛三人、面々日頃忍深キ故、追腹御物語申上由、義光公老病六拾九歳、慶長十九甲寅正月十八日御逝去、同二月六日ニ右三人者光禅寺ニテ切腹ス、十兵衛行年五拾五歳、則最上山形三日町光禅寺義光公御廟并三人者墓今有、最上山寺中坊ニモ右之通廟三人者共墓有、十兵衛義光公御在世時、数度取合之砌武功モ有由、委ハ我幼少ニシテ父親類離不具事計也」
 このように、十兵衛の生前を僅かながらも知ることができる。特に義光から目をかけられ、切腹を免れ最上家を退散後の浪人時代、義光から年々扶助を受けていたという事実、そして文禄の役に降し帰参を許されたことなどから人一倍、義光に対して深く恩義を感じていたのであろう。寒河江肥前、長岡但馬にしても、十兵衛と共通したものを持っていたことから、義光の生前中に共に主の死に殉じようと、誓い合った仲間であったのだろう。               

(三)
 しかし、「聞書」に山家河内の名が見えないのは何故か。勝弘は十兵衛の死から五十五年後の寛文二年(1669)に生まれ、元文二年(1737)に没した。父からは寒河江の由緒や曾祖父の殉死の話しを、目を輝かせながら聞き入ったであろう。だが、特に寒河江の家の特筆に値いする殉死物語の内に、山家河内の姿が無かった。勝弘の意識の中に河内は存在しなかったのだろうか。
 光禅寺が七日町から現在地に移ったのは、最上家の後に山形に入った鳥居忠政が、寛水五年(1628)に死去の後、長源寺を前任地の岩城から移すため、光禅寺を現在地に移したのだという。その際、旧臣達が義光などの遭骸・石塔などを掘り出し、運んだという。しかし、殉死者の墓についての記録は無い。日く、「…(光禅寺)ニ義光・家信(家親)・義俊三代ノ石塔并殉死四人ノ石塔アリ、殉死ノ石塔ハ百年忌之立申トアリ…」と、百年忌にあたる正徳三年(1713)に、四人の墓が建てられたという。それは従来の粗末な墓を新たに建て直したものなのか。「聞書」は三日町光禅寺に義光と三人(河内を除く)の墓があったことを伝えいる。七日町に在った光禅寺が、三日町(現在鉄砲町二)に移ったことは承知していたのである。
 勝弘の白河藩時代の松平家は東根に飛地を有し、勝弘は代官として元禄十二年(1699)から三年間、東根に在勤していた。山形城下はさして遠くはない。また職務として本藩白河に出向くこともあったろう。その際には光禅寺を訪れ、曾祖父の墓前に手を合わせることもできたであろう。それは正徳三年(1713)以前の、古いまゝの姿であった筈だ。そこには、山家河内の基は無かったのだろうか。若し有れば、勝弘は河内を忘れることはなかった筈だ。また、新しく建てられた墓についての情報は、勝弘周辺には伝えられてはいなかったのだろうか。
 河内を除いた三人は、義光より受けた共通した恩義に報いるため、生前に話し合い腹を切ったと伝えている。仮に河内が三人とは別行動で腹を切ったとしても、同輩の河内を殉死者から除いて伝えていくだろうか。この「聞書」から、山家河内の名が除かれているということは、勝弘が見聞した限りに於いて、正徳三年(1713)以前の様子を、「聞書」に書き残したのであろう。また幕末に生きた七代・元清の「覚書」も、「聞書」を踏襲しており河内の名は無い。

(四)
 現在、この殉死の話しが色々な形で語り伝えられている。話しの多くは十兵衛と肥前の二人の寒河江氏であろう。日く、「肥前守ははじめ義光に強く反抗したが和解し、後に協力したため義光も大いに報いた。  十兵衛も肥前守と同じく義光に反抗したが後に和解、十兵衛は肥前守の子で父と共に義光に反抗、和解後は義光の信任を得る。  中野義時が義光との一戦に滅亡、この戦いに四人は義時に味方したが、以外にも家臣に取り立てられた」などである。
 このように、何ひとつ風聞の域を出ない話しばかりが、世上を賑わし伝えられてきている。しかし今回、僅かながらも十兵衛の生前の姿を知ることができた。また「聞書」は肥前についても書き残していた。日く、「寒河江肥前守卜云者、最上村山郡中野村エ義光公鷹場ニテ、同村安楽寺御休之節小僧有、生付発明故御貰有テ御側坊主勤、段々御意ニ入、壱万五千石迄被下置、肥前守江寒河江苗字被下置由、地下人子卜聞并越前大守仕官寒河江甚右衛門卜云者有、此者肥前守家来跡絶ニ付名乗、云々」とある。これが福井藩の記録では、寒河江監物の子の甚右衛門の系統と、肥前の子の新次郎俊長の子、惣右衛門との二系統の寒河江氏として仕えている。
 このように、十兵衛の一族とは直接の血縁関係は無さそうである。ただ三代・勝昌(延宝七年没)頃までは文通していたようで、故郷を離れてからある時期まで、互いにその消息は分かっていたようだ。山家河内については、山家城主であったという。そして子の勝左衛門が楯岡(本城)豊前守の家臣となったという。長岡但馬についても、はっきりしたことは分からないが、子の伴内が庄内藩酒井家に仕えている。
 天明八年(1788)、幕府巡見史に随行し東北の地を歩いた古川古松は、『東遊雑記』に荒れ果てた最上家墓地の有様を書いている。日く、「……山形に光禅寺という禅院あり、最上氏墳墓の地にて百万石領し給う節建立あり、その節は堂塔魏然として結構なりしに、物替わり星移りて今は破壊の古跡となれり、境内広く、最上義光その外の塚など苔むして残れり…」
■■小野未三著
最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【六 [土肥家記]を解いて】

 この[家記]の編者は、加賀藩前田家に仕える有沢永貞(俊貞)である。永貞は最上家の旧臣有沢采女長俊の孫にあたる。采女は土肥氏の越中弓庄以来の旧臣で、半左衛門と行動を共にし最上の臣となる。最上時代は下次右衛門の配下として、小国の城を預かる。元和二年(1616)四月、半左衛門の死後に、自ら最上を退去する。有沢氏の[先祖由緒]に、「微妙院(利常)様御代元和二年、於金沢被召出、知行千石拝領仕金之番鳥ニ被仰付……寛永八年六月廿三日病死仕候」と、幸いに前田家に仕えた。
 延宝九年(1681)二月、孫の永貞は無残にも果てた旧主を回顧、天正以来の土肥の事跡を書き残す。ここに半左衛門の半生の一端を探求、その知られざる部分に光を当て、真実に迫って行きたい。
 まず、[家記]は旧主の汚点とされる二大事件を、どのような扱い方をしていたであろうか。
 
…然るに慶長年中出羽守殿の嫡子修理亮に家督を譲り、其後悔敷成候哉、修理亮不幸之旨申上而押籠、三男駿河守家親に国を渡さる、出羽守殿死去以後、駿河守殿以外驕悪の行跡共にて、家中諸侍も疎ミ、果修理殿をしたふゆへ是を気遣、終に修理殿を殺し、其方人として大名十余人殺さる、
…二男ハ清水大蔵少輔とて三万石計領知せられしか、駿河守殿仕置やすからす思はれ、一栗兵部と云侍に密談をなし、庄内三郡をかたらひ、駿河守殿を押倒すへき心さし有処に、早く是を察して大蔵少輔を不時に殺さる、
 
 このように、[家記]は事件の概要のみの記述に終始し、これに加わって相対峙する勢力は誰と誰なのかは、全く触れてはいない。そこには半左衛門を始めとする下一党の影は無い。永貞は旧主を始めとする勢力の、不名誉に近い行為を書き残すことはできなかったのであろうか。
 慶長十九年(1614)は義光の死から家親への襲封へと幕が開く。それは、里見一族の誅罰、一栗兵郎の乱、そして清水義親襲撃事件へと続き、藩内で抱える不安な材料の積もり重なった時期であった。続いて大坂の陣に於いては、家親は江戸留守居の任を勤め、その時には半左衛門も江戸へと出陣している。

…其時庄内の人数ヲハ土肥半左衛門殿下知たるへしとて、最上殿と供奉し、両度共庄内の人数をハ半左衛門殿引率して江戸へ在城、誠に威勢有し事共也、
 
 しかし、この晴れがましい行動などが、半左衛門の命取りの一因ともなったのかも知れぬ。それは、次のような記述からある程度、知ることができよう。
 
…爰に下対馬が取立召遣し、原美濃と云者、本ハ上方武士にて、加州なとにも小身にて居たりし由なるか、□才を以立身し、対馬より老分になりしゆへ、此時節陣代をも可相勤と存候処に、半左衛門殿に権をとられ不安思ひ、最上殿へ次而を以て密に訴へ申けるハ、云々

 このように、半左衛門の栄達を妬み密告に及んだのは、、計らずも越後以来の同輩であった原美濃だという。続いて[家記]は云うには、一栗兵部の乱にて死亡した下次右衛門の後は、自然と半左衛門の支配下となり、越中以来の譜代の者達を集め謀反の兆しがある。また清水義親にも心を寄せているなどと、讒訴に及んだとしている。そして、これらを真に受けた家親は、

…さらハ土肥を絶すへし、乍去いかにもして不意に討へしとて、先佐賀井(寒河江)と云処へ所替可有之由にて、云々

 として、所替の途中に追手を差し向け、倉津にて一行の襲撃を命じた。そして、ここに半左衛門とその一党の最期を見るのである。

…扠半左衛門殿ハ、四月六日に下対馬養子分たりし下長門と云者と共に、佐賀井へ可被越旨にて、其支度をなし、其時半左衛門殿、若党三十人、弓五張、鉄砲五挺、長柄五本、馬五疋ひかせ、以上八、九十人計にて御越候、此内、藤田丹波、采女方などより添たる者も有之、くら沢と云所にて、下長門ハ先へ通り、半左衛門殿ハ古堂の内へ入、下々ハ昼飯を食し候処へ、近郷に大勢討手を云付置、俄に出て取囲む、半左衛門殿、此程の為体、加様之事可有之と覚悟の上なれば、たばかれぬる事無念千万なから、此期に至りて不及了見次第とて、久敷家人に石黒忠兵衛・島田兵太夫と云者を使にして、我等儀ハ是にて切腹可仕候、下々の事ハ故も無之者ニ候間、助られ候様ニ願所ニ候旨両人行向、云はつるやいなや、大勢鑓にて突すゝめ候を見給ひ、扨ハ是非なき事、下々迄助間敷体也、何も覚悟極候へとて、半左衛門殿長刀を取出、向四人切倒し、今一人柳木の傍に居けるを木共ニ切付、長刀折てたゝよはるゝ候処を、鉄砲にて両股を打抜候故、今ハ叶はしと堂の内へ入、静に切腹したまふ也、行年五十歳計に成給ふと、云々

 このように、半左衛門は己を取り巻く異様な雰囲気を、事前に察知していたようだ。しかし、最期の場にあたり己の死のみの願いは適わずと知ると、僅かな抵抗を示しながらも切腹し果てていった。そして[家記]は続けて云うには、「上下八、九十人も不残討れし也、采女方より遣したるハ、河島三太郎と云者、是も則同死せし也、元和二年四月六日の事也、半左衛門殿御子息十歳に成給ふ男子も此時生害也、女子二人幼少なりしか、何方へ哉覧、逐電有由也」という。
 また同じ日に、他所にて弟の次郎兵衛も討たれ、「是にて土肥殿一家悉く断絶也、天正十一越中弓庄を退去有しより、元和二年迄三十四年の間、主従辺土に流浪し、終に安堵の事もなく一家被果候儀、誠に申も甲斐なき次第也」と、弓庄以来、上杉、最上へと苦楽を共に歩んできた有沢氏は、ここに旧守の悲壮な最期の時を書き残した。
 思うに、この事件の最大の目的は、半左衛門一族の抹殺のみに絞られ、現場に居合わせていなかった弓庄以来の者達には、手を回さなかったことだ。そして事件の後に、有沢采女・栃屋半右衛門・有沢多左衛門、また下氏一族も最上家を退去したことだ。 
■執筆:小野未三

前をみる>>こちら
次をみる>>こちら
最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【二 増田出身の土肥氏(増田土肥)】

 室町・戦国の世を経て、秋田仙北の増田周辺の勢力の一つに、増田城(土肥館)に入っていたのは土肥氏であった。秀吉の「奥羽仕置」の後に、半左衛門の父の次郎道近は最上義光の配下となり、増田地方はその支配下となる。先の天正十年(1582)八月の由利諸衆と小野寺氏との大沢合戦に於いて、小野寺氏の配下に増田播磨守とあるのは、土肥道近が初めて確認された姿であろうか。同十四年(1586)に義光が八口(印内)を攻めた時、道近は小野寺勢として加わっている。
 この土肥氏が義光に従属したのは何時の頃であったろうか。奥州仕置による出羽領主達の勢力圏の変化に伴い、それに反発して、増田地方にも検地反対の一揆が起こる。この一連の騒動の中で、「文禄四年七月二十六日の義光との合戦に於いて、家臣の山田貞久は土肥道近を背負い城中から逃れた」([増田東海林旧記])や、また「東海林隼人をはじめ討死し、土肥氏は城を明け渡した」([五郎兵衛書伝覚])などと伝えられており、道近はその頃から主筋の小野寺氏から離れ、義光に従属していったのではなかろうか。
 慶長五年(1600)の関ケ原の役以後は、小野寺義道が石田三成方に組していたとして、最上勢に攻められた時、その合戦の案内役として、「先年最上ニ降シケル土肥二郎道近(道近カ)、山北旧功ノ者ナレハ伝へ聞、義光ノ前二出テ披露ス……案内ニハ土肥二郎道成・嫡子半左衛門……」([奥羽永慶軍記])と伝えている。ここに小野寺氏の記録の内から、土肥氏の動静の一端を拾ってみる。小野寺氏とは姻戚関係にあったことが分かる。
   
 [西馬内小野寺氏系図]

八之丞  
小野寺佐渡守式部ト号ス、父肥前守同道ニテ庄内へ走り、光安寺と云寺ニ故アリテ逗留シ、其姉婿土肥氏(半左衛門)ヲ因リテ最上義光ニ属ス、後讒言ノ為ニ半左衛門君命ヲ蒙り切腹、拠ナク八之丞おやつヲ伴ヒ、戸沢右京カ元ニ走り、寛文三年死去、

おやつ  
父半左衛門切腹ノ後、叔父八之丞ト共ニ最上戸沢右京方ニ退去、おやつ子ナシ、源八兵衛ヲ養子トシテ戸沢二仕フ、
    
 [戸沢家中分限帳・土肥家系図]

女(おやつ) 
最上家没落後、尼ニ成テ酒田ニ居住シ、後新庄へ来リ長松院へ御奉公仕、老年迄相勤、土肥ノ家断絶ノ義ヲ甚悲ミ、土肥ノ名字相立申度由願ニヨリ、北条六兵衛四男源八兵衛ニ土肥ノ名字名乗可申由被仰付、

源八兵衛 
香雲寺様御代、土肥ノ名字ヲ名乗可申出被仰付、新知四五十石(四百五十石カ)被成下、御広間番相勤享保八年八十一歳ニテ卒、
 
 慶長六年(1601)正月、小野寺義道は徳川家康により改易処分を受け、一族は離散の憂き目を見る。義道の庶兄の西馬内茂道は庄内へ去り、子の八之丞は姉婿の土肥半左衛門を頼り義光に仕える。だが半左衛門亡き後は、その一女(おやつ)を連れ戸沢氏に身を寄せ、その系譜は後に秋田の佐竹氏に仕える。そして戸沢家中に残されたおやつに養子を迎え、増田「土肥」の家名を残した。
 [語伝仙北小野寺氏之次第]には、「義光公上意にて半左衛門殿切腹被成候時分、八之丞知行被召上候而、おやつ殿御同道にて最上戸沢右京殿御頼し……」の記述もあり、これらを集約した『増田郷土史』などは、「……慶長八年に義光は義康を殺した。直接手掛けたのは半左衛門であったが、幾ばくもなくして半左衛門は、関ケ原の役に大坂方と密諜したことが露見、一族ことごとく成敗された」と、軍記類などからの記事をも取り上げ、半左衛門の生涯を語っている。しかし、これらが果たして増田土肥の、真の姿を語っているのだろうか。
■執筆:小野未三

前をみる>>こちら
次をみる>>こちら
最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【七 伝承の中の半左衛門】

 土肥半左衛門については、現今の多くの刊行物は、越中出身で元は上杉の家臣であったと認識しているようだ。それは今に伝わる多くの軍記類からも知ることができる。その中で増田土肥の半左衛門とする記述は、[奥羽永慶軍記]からの、義光の関ヶ原の役後の小野寺勢攻めに先導役として父と共に参加した時と、翌年春の酒田の上杉勢を攻めた際の、下一党の奮戦の最中に於ける「爰ニ山北ヨリ来リシ土肥半左衛門一陣ニ進ミ」と、二ケ所に見られる。しかし、その後の酒田の攻防戦に度々見られる半左衛門とは、越中土肥の半左衛門のことで増田土肥ではない。
 先に取り上げてはいるが、増田地方の諸資料に云う、「義光公上意ニ而半左衛門殿切腹」とは、どんな落度があって切腹に至ったのか。増田土肥の半左衛門が、義康・義親への襲撃事件のいずれかに、関わりを持っていたからであろうか。しかし、決定的な証しとなるものは何も無い。そして、残された一女は新庄藩戸沢家で土肥の名跡を継ぎ、家名を伝えた。片方の越中土肥は元和二年(1616)四月、子息と共に相果て断絶した。この二つの流れを汲む土肥半左衛門が、それがどのような曲折を得ながら、別人格の半左衛門像を生みだし、どのような形で伝承されてきたのであろうか。
 越中土肥の半左衛門の最期の地の倉津は天童市蔵増の内、当時の蔵増村蔵増楯の内に館址がある。天正の昔、天童氏に仕え後に最上氏に降った倉津安房守守俊の領地であった。子の日向光忠(親信)の時、最上郡小国に移り小国を姓とする。その一族かと思われる小国摂津が、「蔵増 高八千石」と分限帳に見えており、半左衛門の最期の地は、小国氏の勢力圏の内であったのだ。
 この地に、「土肥半左衛門」にまつわる伝説が残っている。その墓と称される石塔などが現存している。その語りとして『最上四十八館の研究』(丸山茂・昭十九年)から、少し拾ってみよう。

…天正八年最上郡小国城主細川三河守が滅亡した時、その封土の全部を安房守嫡子が頂戴、小国日向守光基と称したが……西常得寺の境内に倉津家家老土肥半左衛門の供養塔がある。その由来を寺伝に聞くと、天童落城の時、家老土肥は身を以て安房の背信を責め、諌死したのだという。土肥半左衛門といえば慶長八年、父の義光の勘気に触れた義康が、高野山への逃避行路を六十里越街道に選んだ時、田川郡山添一里塚に於いて、義光の命により…義康を亡き数に入れた者と同名である。天正十二年に自滅した人が、慶長八年に生きている道理はないから、両者のいずれかが間違っているのか、又は後者の土肥氏は前者の子孫であったかのいずれかである。

 このように、この筆者は土地の古伝などを基にして書き上げたのだろうが、土肥半左衛門に就いての認識とは、この程度のものであったのだろう。蔵増の西常得寺には、寛永二年(1625)建立の半左衛門の供養塔がある。その案内板に書かれた「解説文」(天童市教育委員会・平成九年)を読んでみよう。

…この杉の木の下には、倉津安房守の家老職土肥半左衛門の供養塔といわれる石像五輪塔がある。土肥半左衛門は最上義光によって倉津安房が、小国に転封される時、これを止めようとして聞き入れられず、この杉の木の下で切腹したといわれ、供養塔はその時に建立されたと伝えられている。
 
 このように、蔵増の地で寛永の昔から伝えられてきた半左衛門像を見ると、[家記]に描かれた半左衛門達の悲惨な最期の様子を、真近かで知った蔵増の人々が、その一族の非業な最期を哀れみ、この地に供養塔を建て密かに供養し続けて来たのではないか。もう旧主の最上家は遠く去っては行ったが、反逆人の汚名を著せられ葬られた者達である。供養塔の建立は事件から九年後のことであり、表だっての供養も出来なかったであろうが、人々の記憶の中に生き続けてきた出来事は、時の移りと共に形を変えながら、今のような半左衛門像を造り上げたのではなかろうか。
■執筆:小野未三

前をみる>>こちら
次をみる>>こちら