最上義光歴史館

山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【六 赦免の沙汰ある日まで】

 『大日本史料・12編47』の元和八年八月二十一日の条の内から、改易後に福山藩水野家に預けられた柴橋石見に関わる記事の中で、編者の注記として「義俊、家ヲ嗣グコト、元和三年六月ノ条ニ、幕府ヨリ目付ヲ付サルルコト、同六年三月十八日ノ条ニ、赦サレテ徳川家光ニ拝謁スルコト、寛永五年九月十二日ノ条ニ、卒スルコト、同八年十一月二十二日ノ条ニ見ユ」と記している。
 現在、この史料の寛永年間の記録は、未だ刊本にはなってはおらず、編者は稿本の寛永年間の記録から義俊を拾い、参考のために柴橋石見の記事の中に、付記したものと思われる。義俊赦免を伝える根本史料については、管見の限りに於いては、この注記の記事のみである。引き続き調査を続けていきたい。
 改易処分に付せられた義俊が、一定の期間中は定められた罰則に従わねばならなかったのは当然であり、赦免の日を迎える寛永五年(1628)九月の頃まで、蟄居謹慎の日々を過ごしていたことであろう。しかし、この改易後の義俊の消息については、現今の諸書は次のように述べている。

(イ)義俊は幕府の奏者番に取立てられ、桔梗門内下馬先の屋敷から出勤登城した。
(ロ)江州・参州で一万石の捨扶持を与えられ、幕府の交代寄合に任ぜられた。
(ハ)近江・参河の内で一万石を与えられ、幕府の奏者番に任ぜられた。義俊は封地に赴任せず江戸藩邸に居た。最上家上屋敷は江戸城桔梗門下馬先にあり、外に柳原河岸に中屋敷、本所石原大川端に抱え屋敷があった[注1]。

 このような記事を読むと、とうてい事実を伝えているものとは思われないのである。先ずは改易処分を受けた咎人が、早々と将軍と接する奏者番の[注2]に就けるだろうか。また小なりとも一万石の大名が旗本身分の席である交代寄合に組入れられるのであろうか。最上家江戸屋敷は[慶長江戸絵図[注3]]などを見ても大手前に在り、桔梗門内ではない。そして義光が建設した広大な屋敷に、一万石に転落した最上家が引続き居住できるものなのか、常識的に考えてみても無理な話しである。これが現在に至るまでの間、語り伝えられて来ていたのである。
 伊達家史料の[伊達秘鑑]は「江戸浅草ノ下屋敷逼塞仰付ラル」と伝えている。この江戸屋敷については、寛永年間の[武州豊嶋郡江戸庄図[注4]]には、大手前の最上屋敷には、最上家退散後の山形に入った鳥居左京忠政の子息の忠恒の名があり、神田川北岸の柳原の一角に、「最上源五郎」と義俊の名が見えている。義光が建設した広大な大手前の屋敷は、皮肉にも鳥居家の占めるところとなった。
 それは寛永元年(1624)四月廿九日付の細川忠利書状[注5]を見ると、「井上主計殿へ鳥居左京殿屋敷を被達候、左京殿ヘハ最上屋敷を被遭候、又本上州屋敷をハ、酒井讃岐殿・稲葉右衛門両人被遣候事」と、鳥居家の最上屋敷への屋敷替えを伝えている。このように、最上家は大手前の屋敷を明け渡し、柳原河岸の屋敷に最上家一万石の居を定めた。義光在世当時の最上屋敷周辺には、松平忠輝、青山伯耆、鳥居土佐、土井利勝、板倉周防などの親藩・譜代の屋敷で占められていた。その中で、小大名に転落した最上家が、依然として居を構えて居られる筈はないのである。また当時は浅草川を挟んだ以東の本所・深川の地に、新しく町屋の成立と武家地の増投を見たのは、明暦の大火以後のことであり、義俊の頃までは、柳原河岸の屋敷と二ケ所であったと考えられる。大手前の屋敷を引払った義俊は、この屋敷で歳月を過ごし、そして「長々相煩」と不遇の生涯を閉じた。
 改易から一年後の閏八月、先の藩主義俊を気遣ってのことであろうか、最上家の厚き庇護のもとにあった慈恩寺からの便りと進物に対し、義俊は喜びの返書を与えている[注6]。藩主時代の元和四年(1618)八月、「大堂建立山形源五郎殿義光公孫子也[注7]」と、短き藩主時代ではあったが、慈恩寺には大きな事跡を残していた。

       以上
遠路態飛札、殊更白布一端給候、喜悦ニ候、何様重而登之節可申候、謹言
       最源五
    閏八月十三日  家信(花押)
   慈恩寺
     別当坊  まいる

 この書状から、義俊在世の頃の閏八月は元和九年(1623)にあたる。その署名が未だ家信であることから、義俊に改名するのは寛永に入ってからであろう。この改易後の間もない頃の、江戸に於ける義俊の動静を、僅かながらも寒松の日記から知ることができる。  

(元和九年)正月小 廿五日 晴 遣益於最源第与野□十大夫、
(注、この年の正月十日、江戸入りした寒松は十二日に登城し恒例の年筮を献上した。そして、弟子の益子を最上邸に遣わした。謹慎中の義俊に対しては面会は許されず、弟子を遣わし恒例の年筮を献上したのであろう)

(寛永元年)正月小 廿一日 快晴 最源五段子(緞子)
(注、この日の記事を見ると、各所より多くの到来物があったことを記している。義俊も緞子を贈っている。おそらくは年頭の年筮献上に対しての礼であったのであろう)
 
(寛永二年)正月大 十九日 雨 憑侶(託す)庵進年筮於最源、
(注、五日に江戸入りした寒松は、十日に登城し年筮を献上している。そして、十九日に友人で医師の侶庵に託し、義俊に年筮を献上した)

残存する寒松の日記からの、三年間に限られた間の記録ではあるが、罪を得た義俊の世聞から隔離された日々の中で、この一学僧との接触は大きな慰めになったであろう。しかし、寒松自身の直接の訪問は叶えられる筈もなく、周りの者に年筮を託すより外はなかった。父の家親との親交振りを想う寒松にしてみれば、その子の受けた社会的権威の失墜に対して、大いに心を痛めたことであろう。これ以後の死去に至る寛永八年(1631)まで、唯一残されている同七年(欠落箇所もあるが)の日記からは、義俊の姿を見つけることはできない。しかし、寒松を精神的な心の支えとして身近かに感じ、例年の如く寒松の献上する年筮に我が身を占い、明日の日に明るい期待を寄せながら、日々を過ごしていったのではなかろうか。
 また日記には、義俊からの進物があった前日(寛永元年正月廿日)に、佐倉藩土井家に預けられた鮭延越前守秀綱から、「鮭庭越州有使侶庵案内、楮(紙)二扁二 一」と、贈物があったことを伝えている。秀綱には元和五年(1619)に屏風画に詩文を書き入れたことがあり、最上家を離れた後も親交を重ねていたようだ。
寛永初期の頃かと思われるが、本城豊前守満茂とその養子(満茂弟の子)主水宛の義俊書状[注8]がある。
  
改年之為祝儀、鱈給候、目出祝着存候、尚永可申候、恐々、かしく
            最源五
   正月七日       義俊(花押)
     本城主水とのへ

   尚々祝儀迄扇子二進之候
新春之為祝儀鴈給候、毎年心付祝儀存候、将亦弥無事之由、弥書二候、尚里見内蔵允申候、恐々謹言
            最源五郎
              義俊(花押)
    正月廿二日
      本城豊前殿
          御返事
 
 山形藩時代には、家臣として最高の四万五千石を食んだ満茂は、改易後は幕府要人の前橋藩主酒井雅楽頭忠世に預けられた。その多くの旧臣達もそのまゝ召抱えられている。この満茂が最上騒動の際には義俊排斥の側に属していたのか、中立の立場にあったのかは判らないが、零落し果てた若き旧主の現状を察する時、過ぎし栄光の日々に思いを馳せながら、何かと暖かき手を差しのべていたのであろう。義俊の心情いかばかりであったろう。また次の二通の書状[注9]は何を語っているのだろうか。

     以上
今度御前相済候付而、書札令得其意候、上様江近日御目見へ可申候旨、必定之程推量有へく候、猶重而可申候、恐々謹言
            長源五
    九月廿一日     義俊(花押)
      本城主水殿
          御返事

     以上
今度両御所様御目見得申候付而、為祝儀生鮭到来、目出祝着ニ存候、尚里見内蔵允可申候、恐々、かしく
            最源五
              義俊(花押)
    十月十五日
      本城主水殿
          御返事

 この二通の書状の発給年月は寛永五年(1628)であろう。この年の九月十四日は、前将軍秀忠の御台所浅井氏の三年忌であった。この月、幕府は「十二日、幕府、山口重政親子、天野康宗兄弟、故大久保忠隣ノ子教隆・孝信ノ罪ヲ赦ス[注10]」として、恩赦を施している。この中には義俊の名は無いが、この時期に赦されたものと思われる。この中の大久保氏は、忠隣が慶長十九年(1614)に罪を得て改易され、子息ともども諸家に預けられていたのである。この年に赦され旧地に服されるまで、十四年の歳月を要している。義俊の改易事情が異なるとは申せ、義俊の罪に服した期間は短かったようだ。
 この九月の書状からは、前橋の本城主水に、勘気が解け将軍への御目見が近いことを伝え、十月の書状は、御目見を果たした後の主水よりの祝儀に対する返書であろう。このように、赦免の沙汰ある日までの間、「捨扶持一万石」の名ばかりの一大名に成り下がった義俊に対し、藩の運営に当たっていた嘗ての重臣連の内、誰がどのような気遣いを示していたであろうか。今のところ本城氏以外には見るべきものはない。
■執筆:小野末三

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[注]
1、『山形市史・中巻』・『山形の歴史』(川崎浩良)・『やまがた歴史と文化』(後藤嘉一)
2、[明良帯録・前編](『古事類苑』)
「君辺第一之職にて、言語怜利、英邁の仁にあらざれば堪えず」とあり、『時代考証事典』(稲垣史生)には「多くは寺社奉行の兼務、諸大名や旗本が将軍に御礼拝謁する時、奏者番は陪席し姓名と献上品を披露する……将軍の権威を輝かすのが役目であった」とある。改易処分を受けた義俊が、このような役目に就ける訳がないだろう。「交代寄合」にしても、「壱万石未満なれども、身分格式は大名に准じ、その身は在所に居住し隔年江戸参勤交代をなす、ゆえに交代寄合と称す」とあるように、これは大名の地位を失い、五千石の旗本に転落した義智以後の最上氏のことである。山形の先人達は、[最上千種]などの「元和八年八月廿三日御身上相潰候事、江戸より申来ル、近江国五千石被下置、交代寄合衆被仰付候」などの記事から、これらを義俊と解したのではなかろうか。
3、[慶長江戸絵図]
 都立中央図書館本のものが利用されている。図中の添書きに「慶長十一丙午年江戸御城立、云々」とあり、慶長十二、三年頃の様子を示すものという。義光在世の頃の江戸屋敷の位置を確認できる。
4、[武州豊嶋郡江戸庄図]
 寛永年間の江戸の状況を明らかにしている。現存するものを大別すると、国立国会図書館本と都立中央図書館本の二系統がある。
5、[細川家史料](『大日本近世史料』)
6、[慈恩寺中世史料](『寒河江市史』)
7、[注6]に同じ
8、[本城文書](『山形市史・史料編1』)
9、[注8]に同じ
10、『大猷院殿御実紀・巻12』・『史料綜覧』
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【八 義俊の最期、そして家族たち】

 寛永六年(1629)という年は、江戸城普請役を勤め上げた、晴れて公の場に復帰した記念すべき年であった。しかし、それまでの江戸での逼塞状態の生活から脱却できたとは申せ、私的な面をも含め、東西に二分された所領の実態については、明確にすることは困難なことである。ただ諸史は近江の大森に陣屋を置き、母子共に移りそこで没したなどと憶測するばかりである。しかし、義俊は一度も任地には足を踏み入れず、それぞれに陣屋を有しながらも、三河の梅坪村に見るように、その所領全域は幕府代官の関与する支配体系を採っていたのではなかろうか。
 重ねて述べるならば、義俊の公の場に姿を見せたのは、この年限りであろう。これ以後の義俊の生きざまとは、家譜に「長々相煩」と伝える如く、肉体的にも精神的にも苦痛に満ちた日々であったであろう。思うに将軍に御目見を果たし後、江戸城普請役の勤めを果たしたことが、一万石大名としての義俊を語る全てではなかろうか。
 寛永八年(1631)七月十五日、義俊は「一遍上人絵巻」を光明寺に寄進した[注1]。この絵巻は祖父の義光が文禄三年(1594)に求め、光明寺に納めたものであるが、後に故あって最上家に戻されていた。奥書きには「寛永八年七月十五日最上源五郎義俊新寄進之」とあることから、改めて寄進していたことが分かる。
     文禄三年
        七月七日   最上出羽守義光寄進之(印)
      右十巻之縁起有様子手前在之
     寛永八年
        七月十五日  最上源五郎義俊新寄進之(印)
      出羽国山形
         光明寺       筆者  狩野法眼(印)

 この絵巻の寄進の時期が、義俊死去の四ケ月前のことである。義俊の直接の死因ははっきりしないが、ただ長く伏していた状態であったのかも知れぬ。推測すれば、義俊自身も我が身に迫る死期を覚悟しながらも、切羽詰まっての仏心への帰依を願ってのことであったのかも知れぬ。ただ々々義俊の心情を思いやるばかりである。
 寛永八年辛未十一月廿二日、江戸にて没、享年二十七歳。〔最上源代々過去帖[注2]〕には「月照院殿華嶽英心大居士  寛永八辛未十一月一二十二日  源五郎義俊、家信トモ云」とある。山形市七日町の瑞雲山法祥寺墓地に、翌九年四月に建立された義俊の供養塔がある。誰の手になるものなのか、寒河江住人とあるのみである。義俊と深く関わった人物であったのか、没後僅か五ケ月後のことであり、この人物の義俊への思いの深さを知ることができる。

    損館月照院殿前羽州華嶽英心大居士
    後日為忌寒河江之住人以微力五輪造立之
      干時寛永九壬申四月吉日  縁徒施主    敬白[注3]

 また鉄砲町の光禅寺墓地には、義光の供養塔の脇に、家親と共に義俊の供養塔も並んでいる。これは享保十五年(1730)義俊の百年忌に際し、住職が建てたものだという。また江戸で死去した義俊は泰平山万隆寺に葬られた。この寺は明暦の大火以前は湯島にあったが、その後は現在の台東区の浅草寺近くに移っている。明治二十三年(1890)に至り、旧臣たちの手により個々の墓を一基にまとめ再建している[注4]。以後、幾度かの震災などに遭いながらも持ちこたえてきた。現在の寺の基域は広くはないが、幾度か手が加えられてきたようだ。現在は墓域の片隅に追いやられた位置にある。正面には「旧山形城主最上家之墓」、側面には「明治廿三年六月 石川左兵衛敬建立之  楯岡小市朗久富 妻そら」とある。また墓段石にも「中祖以後八世之墓碑、云々」と、長文の刻印が見られるが、永い歳月の間に次第に摩耗してきており、判読するのも困難である。
 次に残された家族たちについて述べてみたい。義俊の実母については、「梅室院妙董禅尼  元和三年丁巳十二月廿一日  源五郎義俊実母也」とあるように、義俊が家督を継いで間もない時期に没している。その戒名から見ても、父の家親の正室ではないようだ。過去帖などから家親を囲む女性については、この梅室院以外には確認できない。
 慶長十六年(1611)七月、数え七歳の源五郎は、盛岡藩主南部利直の女、七子と婚約したことを『南部叢書』は伝えている。
  
十六辛亥年七月四日、公主七子姫、最上源五郎義俊ニ嫁シ玉フヘキ約ヲナシ玉フ、考、義俊ハ従四位上行左近衛権少将源義光ノニ男、従四位下侍従山形駿河守家親ノ男ナリ、元和三年六月家督、時二十二歳、同八年五月改易[注5]、
 
 この七子の義俊との婚約について、南部利直は酒田の豪商加賀与助に対して、蝋燭進上に対しての礼を述べると共に、上意により源五郎との婚約を仰せつかったことを伝えている。書状の日付が七月六日とあり、これが婚約の決まった年とすれば、両家が姻戚関係に入ることをいち早く報じた私的な書状でもあったかも知れぬ。

       尚々毎年心付候段満足申候、以上
田名部へ船被越仰付而音信見事成小蝋燭百挺令満足候、不相替無何事之由目出度候、京都へ上下之刻ハ毎年相候へとも、近年ハ不能面談候、以上意を最上源五郎殿縁篇ニ被仰付候、定而其方なと可為満足候、弥心易存似合候用も候ハゝ、可被申越候、
  恐々謹言
              南部信濃守
      七月六日
                    (貼紙)
                    「利直(花王影)」
               加賀与助殿[注6]

 このように、義俊の南部家との婚約が早々と成立したが、婚儀が執り行われた日時については、確かな記録を見ることはできない。ただ七子については、『寛政重修諸家譜』は「母は某氏、最上源五郎義俊が室、離婚してのち家臣中野吉兵衛元慶に嫁す」とある。また最上家の記録にも「室は南部信濃守利直が女」とあり、さらに [南部氏系図]には「為嫁最上源五郎義俊之約有罪改易、依再嫁中野吉兵衛元康」とあるから、南部利直の女が義俊に嫁したことは、時期ははっきりしないが事実であろう。
 七子の再婚の相手の中野元慶(元康)とは二千石を領する重臣で、「室、利直公公女七姫君、始出羽最上城主最上源五郎義俊室、イマタ婚セスシテ最上氏閾除カル、後更ニ元康ニ下嫁ス、御化粧料五百石ヲ賜フ、寛文五年二月十一日卒ス[注7]」とあるが、改易直後のことか、また義俊没後のことなのか、その離婚の原因や時期などを特定するのは難しい。
 義俊の嫡子、義智の実母については、家譜には「母某氏、慶安四卯七ノ十二死」とあり、過去帖には「清浄院殿直信宗心大姉」とある女性である。また次男の義長の母を「松平陸奥守忠宗女」とするのは誤りである。思うに、この二人の男子の内のいずれかが南部氏の所生であれば、七子は最上家を去る必要はなかったのではないか。七子は男子を儲けることができなかったのである。
 義智の実母の断片的な記録が、[柴橋文書]に見えている。この柴橋図書正忠を祖として書き継がれた文書から、関連記事を拾ってみる。
  
最上源五郎十二歳之時、御父駿河守家親家督被仰付処、家老為其仲間申分有之、十七歳之時領知被召上為堪忍壱万石拝領、源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時壱万石被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重時又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、図書室辻氏娘妹最上源五郎御[  ]ヲス刑部御母也、
 
 羽州を失い小大名の地位に落ち込んだ義俊の、その短い期間中の私的な消息を伝えるものは殆ど見当たらない。それでも、この柴橋図書の家系が伝える資料等により、当時の最上家内部の動きを僅かながら知ることができる。これから、家禄半減による家臣団の整理につながる論争を呼び、そのため義智母の申付けにより、柴橋・佐竹の両氏が退散したことが分かってくる。この義智母こそ慶安四年(1651)に没した清浄院に間違いないだろう。
 義智の生れについては、家譜は寛永八年(1695)と記すのみで、月日ははっきりしていない。義俊が死を迎えた時は、満一歳に満たなかった幼児であったろう。当然のこと絶家となっても不思議ではなかったろう。所領半減とは申せ、旗本身分を確保できたこと
は幸いであった。
 次男の義長の生れは、義俊死去から四ケ月後の翌年三月である。過去帖には、後に別家となった義長家の記録は無く、その[畧譜]にも実母の記録は無い。またそれぞれ旗本家に嫁いだ三人の娘達についても実母の記録は無い。
 長女は御書院番大嶋義当に嫁ぐ。義当は寛永十年(1633)五百石を知行、寛文十一年(1671)没。長女の生れは、元和末から寛永初期の頃であろう。
 次女は大番役太田康重に嫁ぐ。康重は寛永十三年(1633)より仕え、後に三百石・廩米五十俵を知行する。元禄十二年(1699)没。
三女は交代寄合妻木頼次に嫁ぐ。頼次は承応二年(1653)七千石を継ぐ。万治元年 (1658)に嗣無くして没したため断絶[注8]、過去帖にある「晴光院殿室寿養大姉  元禄二己巳五月廿一日  駿河守義智姉」とは、実家に戻った三女のことかと思われる。
 寛永九年(1696)八月、義智は新たに近江領五千石を賜り寄合に列せられる。同十三年(1636)八月、初めて将軍家光に拝謁を賜る。二十五歳にして初めて近江の采地に入る。元禄八年(1695)十二月、高家となり従五位下侍従に叙任、駿河守。翌九年十一月十四日、本院御所崩御により御使として京に赴く。同十三年(1700)三月九日没、六十七歳。

[吏徴別録] 
高家  元禄八年乙亥十二月十五日、交代寄合最上刑部義智拝領、
十八日、侍従改駿河守、此為一代高家[注9]、

 交代寄合とは格式は大名に准じ、「雖小身、何モ留守居仕之、大概之格式万石以上ニ准ジ、勿論老中支配也」として、常に無役とはいえず、大番頭などを勤めることもあった。
最上氏が高家に列せられたのは、義智一代限りである。また「交代寄合」から「交代御寄合表御札衆となり、この名称が使われだしたのは、元文六年(1741)の「武鑑」からであった[注10]。
 義智は女性運には恵まれなかったようだ。家譜などには「妻は松平和泉守某が養女、後妻は奥平美作守忠義昌が女、また西三条右大臣実条が女を娶る[注11]」としているが、これらの室は相次いで死別しており、最後にもう一人の女性が居たのである。
 
1、西三条(三条西)右大臣実条女
将軍家光の乳母であった春日局が、幕府の使節として京入りの際に、局の斡旋により大奥に入ったという。十七歳のとき松平和泉守乗寿の養女となり、「慶安三寅年十一月従御城直ニ駿河守方江被下置([畧譜])として、義智に嫁したことが分かる。過去帖には「渓台院殿華揚日経大姉  寛文二壬寅六月二日  西三条右大臣実条女 義智内室也」とある。
  
2、継妻 てい   奥平美作守忠昌女
家譜には「寛文四辰閏五ノ廿四死、廿三歳、号知光院槐窓寿禅尼」、また過去帖には「智光院殿槐窓寿貞大姉  寛文四甲辰五月廿四日  駿河守義智室」とある。
  
3、後妻 西三条右大臣実条二女
家譜には「寛文十戌六ノ廿九死、号梅林院花室春光大姉」、また過去帖には「梅林殿屋春香大姉  寛文十庚戌六月廿七日  渓台院義智妹」とある。(渓台院義智妹とは渓台院妹のこと)
  
4、後妻 奈津   本多内蔵助昌長女
本多昌長は、福井藩主松平越前守光通に仕え、禄高四万石の大身である。奈津は藩主の養女となり、最初に嫁いだ相手は公家の広橋貞光である。藩主の生母が広橋氏であった関係からか、この重臣の娘を養女として嫁がせたのだろう。寛文六年(1666)秋に貞光に嫁いだ奈津であったが、何故に離縁になったのかははっきりしない。貞光は元禄十二年(1696)七月に死去しており、義智の死は翌年の三月である。やはり貞光生存中に、広橋家を離れたのではなかろうか。過去帖には「松林院殿奥華良操大姉  宝永七年庚寅正月六日  駿河守義智室  本多孫太郎娘」とある。
[福井藩史料]には、「秋(寛文六年)、本多内蔵助昌長娘奈津、光通君為御養女、広橋参議藤原貞光卿嫁、後、最上刑部源義智嫁、  正月(宝永七年)十六日、最上刑部少輔源義智室卒、葬于武江浅草勝光山万隆寺、松林院殿貞花良操大柿[注12]」とある。
 
 次男の義長は、幸いにも新知三百石を賜り別家となった。幕府としても、それなりの配慮を示したのであろう。
  
寛永十酉年九月十五日二歳之時、被拝召、兄駿河守分知可仕之処、当時御頚リ高之儀ニ付、於出羽国新知三百石被下、兄駿河守分知配当被仰付、追々御立可被遊旨被仰渡、大膳生長仕御書院番、延宝五年六月十九日死四拾六歳、浅草万隆寺葬[注13]、 

 その所領地については、当初は出羽の地の内であったようだが、孫の義武が元禄十一年(1698)家督の際に、「山形ハ遠国二付御引替願置、依テ家督時御蔵米」として、速い羽州の地は不便であろうことから、これを蔵米取りに変えている。
■執筆:小野末三
  
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 [注]
1、『山形市史・史料編1』
2、[注1]に同じ
3、[注1]に同じ
4、『山形の歴史』(川崎浩良)
 墓碑名について詳しく述べている。長文の刻印も永い歳月を重ねたせいか、満足に判読も難しくなっている。万隆寺本堂は立派に再建され、墓所も綺麗に整備されてはいるが、「旧山形城主最上家之墓」には、あまり人の訪れた気配もなく、一抹の侘しさを感じる。
5、[聞老遺事](『南部叢書』・『青森県史・史料編近世1』)
6、[利直公御事蹟](『山形県史・古代中世史料1』)
7、『南部藩参考諸家系図』
8、『寛政重修諸家譜』
9、[吏微別録](『古事類苑・官位部』)
10、西田真樹[交代寄合考](『宇都宮大学教育学部紀要・第一部36号』昭61年)
11、『山形市史・史料編l』
 最初の室については、割合と許しく書かれてはいるが、これを徳川家綱の侍女として、義智が押しっけられ妻としたとかと、面白く書いているものもある。
12、[国事叢記](『福井県郷土叢書』)
13、[畧譜](『内閣文庫所蔵文書』)
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【二 試練の元和六年】

 元和四年(1618)九月の、藩政監察を目的とした幕府検使の派遣が、果たして最上家内の不穏な空気を、どこまで察知し得たであろうか。そして、同六年(1620)三月、目付として今村伝四郎、石丸定政が山形に派遣された。「同十八日、今村伝四郎、石丸六兵衛監使トシテ羽州最上ニ赴ク、翌年四月、江戸ニ帰ル[注1]」、また「同日、最上源五郎家中申ふん有之ニ付而、両方之様子御聞可被成ため、今村伝四郎、石丸六兵衛、為御上使、羽州エ被遣[注2]」と、幕府監使派遣の目的を、具体的に家中騒動の調停のためとしている。
 この目付の派遣が、幕府独自の最上家内情の把握によるものなのか、それとも家中で相対峙する二つの勢力が、ともに幕府の介入により、諸案の解決を望んだものなのかは定かではない。いずれにせよ、数年後に訪れる最上家大破への決定的な第一歩を、確実に踏み出したことには間違いないであろう。
 この元和六年(1620)の目付導入という立場に置かれた最上家が、また一方では公的な勤めを果たすべく、江戸城普請手伝いを課せられた年でもあった。この年は江戸城の拡張工事と、大坂城修築が行われた年であり、江戸城の助役は大体は関東以北の大名に課せられた。この年の工事については、「其地御本丸御普請弥来々年之由、得其意事[注3]」と、既に二年前には決定していたようだ。

今年、築江戸城諸箇所石壁、平石壁者、自内桜田至清水門、升形者、外桜田・和田倉・竹橋・清水門・飯田町口・糀町口等也、米沢中納言景勝・松平陸奥守正宗・佐竹右京大夫義宣・松平下野守忠郷・最上源五郎義俊・南部信濃守利直、勤役之[注4]、
 
このように、江戸城の普請手伝いは、すべて東北諸大名に課せられている。その中から、(イ)米沢藩、(ロ)仙台藩、(ハ)秋田藩の三藩は、次のように伝えている。

(イ)[上杉年譜] 元和六年春二月五日、江城隍塹石壁ノ経営アルへキ旨アリ、コレニ依テ諸将二命シ御手伝アルヘキヨシ、
(ロ)[貞山公治家記録] 此日 (二月十一日)、江戸御二丸大手口升形ニ石壁御普請ノ義、公へ仰付ラルノ旨御触アリ、
(ハ)[梅津政景日記] 二月廿五日、江戸御普請、景勝様、正宗様、下野様、源五郎殿へハ御催促二候へ共、殿様へハ御触無之由、
 
 この三藩の記録を見るように、二月中には手伝いの命が下っている。この中で秋田藩については、どのような事情があったのか役を免ぜられており、事前に準備をしていた手伝衆を帰国させている。山形藩については、家譜の類いは何も語ってはいないが、惣奉行に任ぜられた和田左衛門に関わる書状などから、僅かながらも、その時の状況を知ることができる。

   「東根薩摩守景佐外連署書[注5]」
     以上
此度江戸御普請御本役ニ被仰付候、依之先達如申越候、貴殿乍御大義惣奉行ニ被仰付、随而貴殿少身と申、支度も成兼候ハンと被思召、為合力与銀子壱貫目、八木(米)弐百俵被下候、於其元ニ原美濃・中山七左衛門御請取候て、御支度をも御申尤候、右両人之衆へも様子申越候、尚江戸へ御立へ候定日者、重而可申入候、恐々謹言
    三月八目        東根薩摩守
                   景佐(花押)
                楯岡甲斐守
                   光直(花押)
    和田左衛門殿        
           人々御中

 この手伝いの惣奉行を命ぜられた和田左衛門が、少身が故に支度もままならぬだろうと、藩からの物品の援助を与えていたことを伝えている。左衛門の禄高については、慶長十七(1612)年五月発給の安堵状には「三百九拾石」、また最上義光分限帳には「四百拾壱、六石」とある。[和田氏系譜] によれば、父の越中守正盛(二千七百九拾五石)と共に勤仕していたが、正盛は慶長十九年(1614)の一栗兵部の乱で討死している。この折りに左衛門の妻女が兵部の女であった故に、父の遺領を継ぐこともできず、従来の自己の禄のままであった。改易後は庄内に入った酒井家に仕え、四百石を給され足軽頭となっている。[注6]
 この助役が山形藩五十余万石の表高通りに課せられた、「本役」に関わる財政的負担の大きさは、他の藩にしても同様であったろう。秋田藩に於いては、この年の手伝いが奥州大名に課せられるとの報に接すると、未だ催促を受けない内に命ぜられることを予想して、諸在郷の給人知行地と蔵入地に触を廻し、百五十石に一人、十九万六百石に千三百七十一人の人夫を割付け、また「おつなの御用」として「あおそ」を買い集める手筈を整えていた。実際に助役は任ぜられなかったが[注7]、普段からその方策は、油断なく立てられていたのであった。
 また仙台藩に於いても、他藩とは持ち場の広さなどの違いはあるだろうが、「此人夫四十二万三千百七十九人半、御入黄金二千六百七十六枚五両三分[注8]」と、莫大な出費があったことを報じている。山形藩も、これと似たような出費を強いられたことであろう。
 この工事の終了時はいつ頃であったろうか。各藩それぞれ持ち場が異なることから、終了時も一定してはいなかったであろう。その中で、伊達政宗と上杉景勝宛の、工事終了に対する将軍からの慰労の書状の日付が、十一月廿一日とあることから、各藩もこの月あたりまでには完了していたのではなかろうか。山形藩に於いては、このような書状は見あたらぬが、楯岡甲斐守と惣奉行の和田左衛門宛の、義俊よりの書状が残されている[注9]。

(イ) 以上
一書申候、仍其許就御普請、炎天之時分骨折共大儀之至候、併弥計行候由、御普請奉行衆被仰下候条、悦入候、迚之儀ニ候間、何も油断様、精を入可被申候、猶内膳・正兵衛可申候、
        七月廿一日          家信(判)
          和田左衛門とのへ  
(ロ) 以上
今度清水御門之御普請相究、上様御機嫌能、万々仕合共之由、満足不過之候、然者此方替儀無之候条、可心安候、猶重而可申候、かしく
        九月朔日           家信(判)
          和田左衛門とのへ
(ハ) 以上
今度清水御門和田蔵之丁場、仕合能早々出来候由、旁精入候故と大慶不過之候、日夜苦身共大儀候、猶朝比奈讃岐可申候、かしく
        九月廿六日          家信(判)
          和田左衛門とのへ

 この義俊の左衛門への心からの労いの言葉は、惣奉行として工事を統括し、無事その任を果たした左衛門にとっては、一栗兵部の乱での汚名挽回の意味をも含めて、最高の喜びであったに違いない。
 また義俊は、当時の江戸藩邸を取り仕切っていたと思われる楯岡甲斐守にも、次のような感謝を込めた書状を書いている。山形に在っては幕府目付の詮議が続いていたであろう。その中での江戸城普請手伝いの軍役を果たした喜びを、この書状から伺い知ることができよう[注10]。

今度清水御門之御普請相究候、上様御機嫌能、万々仕合之由、満足不過之候、随而御普請ニ付、日夜被人精候由、殊ニ其方手前雑作共之由、大儀ニ候、然者此方替儀無之候間、可心安候、猶重而可申候、恐々謹言
   九月朔日
        山源五
 楯岡甲斐守殿     家信(花押)

 この年の六月、将軍秀忠の女和子が後水尾帝の中宮として、入内する慶事があった。その上洛の際の供奉の列には、多くの譜代の衆が連なっていた。これに関して細川忠興が忠利宛の三月五日付の書状には、「御供ハ会津下野殿・もかみ殿・鳥居左京殿、御年寄衆ハ対馬殿・雅楽殿御上候ハんかと申候[注11]」と、義俊が供奉の列に加わるのではという、風聞があることを伝えている。この噂の根拠については知る由もないが、この時期に他家文書に取り沙汰されている義俊の姿があったのである。
 この幕府目付の受入れと、軍役の一端としての普請役を担った最上家にとっては、内外ともに多難な日々であったといえよう。目付を受入れての藩内情勢については、その詳細については知る由もないが、恐らく等しく身に迫る緊迫感の中で、ただゝゞ推移を見守っていたのであろう。この時点に於いて、藩内を二分しての内部抗争の実態については、これらを示す事例を見つけ出すことは難しい。
 ただ、この内部抗争の中で、義俊に好意を示していたと思われる東根薩摩守景佐が、その書き残した遺言状に、最上家の前途を明確に暗示した箇所がある。それは当時の藩重役としての景佐には、藩内抗争の渦の中に幕府の手が入った現状に、最上家の運命を決定づける程に、もう抜き差しならぬ事態までに追い込まれていることを、熟知していたのである。
 この元和六年八月七日付の、子息の源右衛門頼宜に宛てた、「金銀の覚」・「ゆい之物覚」から成る長文の遺言状[注12]から、主家に関わるものを抽出し、任意に箇条書きにして述べてみる。

(イ)我等相はて候ハゝ源五郎さまへつきめ(継目)の御札あがり可申候、
(ロ)源五郎さま御はうこう(奉行)返しさんましく候、よくゝゝ申上可申候、我等事ハ代々殿さま御第一ニ心かけ申事きゝつたへ候事もあるへく候、少成共ゝ殿さま御はうこういたし候て、御さたのかきりにて候やうニ心けかんやう(肝要)ニ候、
(ハ)殿様へ大くりげの馬さし上申可然候、
(ニ)此度身上の外ニ金銀をただ申事も、もかミの図三年と此分ニあるましく候、せめて御国かへニも候ヘハ、いつともにて候なんそ出入候て越後・ すわ・かしまなとのやうニ候ハん事がんぜん(目然)ニ候、

 このように、景佐は己の死後も代々仕えてきた最上家への、第一の奉公を忘れずにと懇々諭しながらも、主家の行く末を「もう三年ももたないだろう。せめて国替えで済まされればよいものを」と案じ、主家に迫っている危機を、身をもって感じていたことが判る。二年後の改易を迎える際、幕府の最上家の「公事」事の解決策は、最初は禄を減じての領地替えであったという。それが、山野辺義忠などの強固なる反対により、最悪の事態を迎えたのであった。若し景佐の望んでいた「せめて国替でも」の願いが適っていたならば、少身に甘んじながらも、義光の血を引く大名家として、天下にその名を残していたであろう。義光のもとで戦国を生き抜いた景佐にとっては、崩れゆく主家を支えきれなかった無念さを抱きながら、この世を去って行ったのであろう。
 景佐は最上家はもう三年はもたないだろうと言った。この最上家の元和六年は、課せられた軍役を果たしながらも、もう後戻りのできない程に、藩内抗争の輪が広がっていたことを、景佐の遺言状から知ることができる。景佐の死は、この年の暮れの十二月廿四日であった。
[元和年録[注13]]は、この年の九月十二日、義俊の江戸での不行跡を伝えている。しかし、この時期は在国していたことが、先の楯岡甲斐守宛の書状から判っており、その日時については疑問が残る。しかし、一年半後の八年三月に、佐竹義宣が家臣宛の書状に、義俊の江戸での不行跡を伝えていることから、この記述も半ば事実に近いものと思われる。しかし、このような世間の耳目を引くような、若き主君の行動を見逃した、江戸藩邸の重役達は誰であったのか。その責任の一端は重役達が担うべきであろう。

十二日、最上駿河守子息源五郎義俊、若輩故無行儀ニ而、家老之異見をも不用、我まま無申計、如此ハゝ、家可及破滅と難儀仕時分、遊君共数多船ニのせ、自船を漕、浅草川筋ニ而、御船手衆之船頭と口論いたし、令打擲、船を漕出し逃のき候間、跡をシタひ、屋敷へ申断候、此事諸人存知候間、如何様終ニは身代可為滅亡と沙汰有之、
■執筆:小野末三 (U)

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[注]
1、[東武実録] (『大日本史料・12編33』)

2、[元和年録] (『大日本史料・12編33』)

3、[細川家史料] (『大日本古記録』)

4、 [御当家紀年録]  (『東京市史稿・皇城篇1』)

5、[『鶏肋編』所収文書] (『山形市史・史料編1』)

6、『新稿・羽州最上家旧臣達の系譜』平10年・小野末三著(最上義光歴史館刊)

7、[梅津政景日記] (『大日本古記録』)

8、『貞山公治家記録・巻28』

9、 [注5]に同じ

10、[高宮氏所蔵文書] (『山形市史・資料編1』)

11、[注3]に同じ

12、『東根市史・通史編1』平7年

13、[注2]に同じ
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【七 寛永六年の江戸城普請役】

 前年九月、赦免の沙汰を受けた義俊が、晴れて公の場に名を連ねたのは、この年の江戸城普請手伝いを命ぜられた時であろう[注1]。前年の七月十一日、江戸を襲った大地震により、江戸城の石垣が所々で崩壊した。その修築のため全国の諸大名の動員となり、この手伝いは九月頃から予想はされてはいたが、実際に動員が下ったのは十一月であった。

十一日午刻、大地震あり、御城石垣方々崩、足利学校寒松物語被申ニハ、三十三年以前伏見ニ而今日大地震あり、三十年以前ニも今日大地震、今年又如斯波と之物語也[注2]、

 この年は大坂城の普請も行われ、両者併せて百六十家に及ぶ大名・旗本達が動員された。
この年の江戸城普請は、石垣を築き掘を掘る作業を主としたようで、石材を伊豆地方から切り出し江戸まで運ぶ「寄方」と、その石材を使用して石垣を築く「築方」とに分かれての作業であったようだ。
 義俊にとっては、山形時代の元和六年(1620)以来の普請役である。これが大藩当時の過大な経済的負担とは比べものにはならないだろうが、この度の最上家に課せられた一万石の「本役」での勤めは、ようやく表舞台に復帰した義俊としては、厳しい船出であったといえるかも知れぬ。しかし、この年の普請手伝いに於ける最上家に関わる記録を見出だすのは、なかなか困難である。知る限りでは水戸家史料から〔日次記拔書[注3]〕の寛永六年二月の条から、寛永五年辰十二月廿六日の日付のある「御普請之時役之覚」に、辛うじて最上源五郎の名が記載されていたのである。

      御普請之時役之覚
        三 河 衆    
 一 三万石     吉田    松平主殿頭
 一 五万千五百石  岡崎    本多伊勢守
 一 四万(千)石         水野遠江守
 一 三万五千石   西尾    本多下総守
 一 五千石           松平玄蕃頭
 一 五千石           松平庄右衛門
 一 壱万石           最上源五郎
 一 壱万石           水野大和守
     内五千右御番役ニ引之由、雅楽頭奉
    小以て拾五万五百石、内以五千石御番役引
    役高残而拾四万五千五百石、

     半役之衆     参 州 衆
     (以下、三河衆半役四家の記事は略す)

 関連記事の中から、義俊に関わる箇所のみを取り上げてみた。はじめの八家は知行高全てに係る「本役」での勤めであり、次の四家は「半役」での勤めで、三河衆十二家に割当てられたものである。この三河衆に続き残りの参加衆の記録が続き、この年の普請役の全体像を知ることができる。
 最上家が三河衆の内に編入されていることは、それは工事の持ち場の編成上のことばかりではなく、三河に所領地を有していたことを示す、一つの証しとなるだろう。最上家の作業区分の「寄方」とは、石の産地の伊豆(伊東市近在)の石場から、平石・角石に区分されたものを定められた大きさに切り、数を揃え舟で江戸まで運んだ。義俊としては公の場に復帰した最初の勤めであり、それはまた一万石の大名として、唯一の公的な勤めであったのではなかろうか。しかし、これが大地震に伴う必然的な普請手伝いであったとは申せ、義俊個人また最上家全体にとっても歓迎せざる出来事であったろう。だが「一万石・最上源五郎」を証明する証拠となることには間違いな心。最上家自体の記録の稀薄さの中で、この[日次記拔書]の存在はまことに貴重である。
 この普請手伝いが始まる寛永六年(1629)の二月頃、義俊が家臣達に「知行書出」を発給したと考えられる、重臣の柴橋図書宛のものが残されている。推察すれば、義俊の晴れて天下に復帰したこの時期に、改めて家臣団の禄高の見直しを行ったのではなかろうか。図書は柴橋石見の長男で、改易後も義俊の近臣として仕えた。

         知行書出シ之事
 一 今度何角万」奉公被申候儀」一意候、一角之」忍をもと恩召候
   へ共」未進之通ニ候故」無其儀候、定而」手前成間布候間」
         被申請」取可被申候、為其一筆」如此ニ候、巳上
     寛永六年
      巳ノ
      壬二月二日   (黒印)
          義俊
       柴橋図書とのへ[注4]

 この書出しの内容は難解で判読は難しい。しかし、これが図書個人のみに発給されたとも思われず、この年の二月を以て、全家臣の禄高の確認を改めておこなったのではないか。思うに義俊にとっての寛永六年は、とにもかくにも新しき船出の年であった。尤もそれも束の間の夢ごとに終り、僅か三年有余で終りを告げるのである。
■執筆:小野末三

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 [注]
1、松尾美恵子 [近世初期大名普請役の動員形態・寛永六年江戸城普請の場合](『徳川林政史研究所研究紀要・昭60年度』)
2、[江城年録](『東京市史稿・皇城篇』)
3、[注1]と同じ、この[目次記抜書](水戸彰考館所蔵)から、僅かながらも義俊の消息を掴むことができた。この年の普請役については、他にも関連文献をも参考にはしたが、義俊の記録は見出せなかった。「二月より江戸御石垣御普請有之」とあることから、工事は二月から始まったようだ。義俊が柴橋図書に与えた「知行書出」の発給も二月であった。
4、粟野俊之[柴橋文書](『駒沢大学史学論集・11号』昭56年)
柴橋図書は、改易後に福山藩水野家に預けられた石見の長男である。図書は引き続き義俊に仕えたが、義俊の死後は最上家を退散した。子孫は或る旗本に仕えている。
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【四 近江領分五千石の地】
    
 元和八壬戌八月二十一日、祖父義光が営々として築き上げた、山形藩五十七万石没収の憂き目を見た義俊ではあったが、辛うじて大名としての体面を保持得た、近江・三河の五千石宛の領地とは、どのような性格を有していたのであろうか。諸史に見る義俊の新領地についての大要を述べてみる。

(イ)[寛政重修諸家譜] 
 あらたに近江国蒲生・愛知・甲賀をよび三河国のうちにをいて、壱万石の地を義俊母子にたまひ、
(ロ)[最上家譜] 
 当分の内為扶持料、江州・三州ニテ一万石被下之、
(ハ)[譜牒余録後編]
 為御扶持方、江州・三州にて壱万石、源五郎に被下置候、
(ニ)[玉滴隠見]
 先当(当座)ノ御扶持方トシテ、高一万石下シ置レ候ノ処ニ、
(ホ)[東武実録]
 近江・参河二州ニ於テ、僅ニ采地一万石ヲ賜り、
(へ)[廃絶録] 
 於近江五千石源五郎へ被下、於三州五千石母儀へ被下、合一万石、
(ト)[伊達秘鑑] 
 源五郎ニハ近江国ニテ三千石、堪忍分トシテ下サル、江戸浅草ノ下屋敷ニ逼塞仰付ラル、

 この諸史の内容から察すると、東西に二分された所領の支配が、直接最上家の手によるものではなく、表高一万石[注1]の内容が扶持方・堪忍分という、「宛行扶持」に等しいものとしているようだ。実際に三河の内の一ケ村が、幕府代官の管轄下に在ったと思われる記録(後述するが)があることから、他の地域にも同じことがいえるのではなかろうか。ということは、大名家とは申せ自主性を失い、幕府の監視下に置かれていたことを意味するものであろう。推測すれば、この状態は寛永五年(1628)九月、義俊が晴れて赦されるまでは続いたのではなかろうか。
 そして翌六年、義俊が本役一万石で勤めた江戸城普請手伝いが、幕府から改めて一万石の大名として、認知された証しではなかったろうか。義俊が明らかに一万石の大名として、公の場に名を止めたのは、この普請手伝いの場のみで、他に例を見ることができない。
 そして、寛永八年(1631)義俊の死により、大名の地位を失った最上家は、そのまま近江領五千石のみを有する一旗本として生れ変わっていく。先ずは過去に於いて、この近江領五千石が、最上家とどのような経緯があり、義俊に引き継がれていったかを見てみたい。
 豊臣秀吉の天正の頃から、徳川家康の慶長の初めの頃にかけて、両者が諸大名達の上洛に際し、その滞在費用として、京近辺に「在京賄料」としての知行地を与えていた。義光に例をとれば、「その年(文禄元年)の正月、秀吉は征韓の帥を出し国内の領主にも出兵参加を命令したので、義光は正月二日山形を発し、京都で秀吉に面会した際、秣場として近江大森の地五千石を給与された[注2]」として、義光の近江での賄料の確保を伝えている。
 しかし、これが果たして事実であったのか。これを示す根本史料には未だ接することができない現状では、なかなか事実として肯定するのは難しい。
 この説の根源となったのは、おそらく『最上四十八館の研究』(丸山茂・昭和19年)の次のような記事であろう。

 近江・三河両国に各々五千石を賜ったのであるが、そのうち三河国の分五千石は遂に不払いに終わってしまった。豊臣秀吉肥前名護屋に陣、征韓の帥を統帥した時、義光も出陣したが、この時秀吉より秣場五千石を江州大森の地に得た。現在の滋賀県蒲生郡玉緒村で、これを契機に近江商人が山形に移住して、今日の山形商業の端緒を開いた。最上家が改易先を大森に選ばれたのも、この因縁に依るのである。
 
 そして、この先人の説が大きく膨らみを見せ、『山形市史・中巻』の「幕藩体制の確立と推移」の中の記事が、この説をさらに具体化して定着させている。

 豊臣秀吉が文禄年間に伏見城を築いた折、麾下の諸大名を城下に在住させるために、屋敷を分賜したが、その家来分までの土地が無かったから、隣国近江の各地を諸侯の秣場として宛て行い、そこに家来たちを居住させることにした。当時、義光もまた蒲生郡大森に五千石を給与されており、これが近江と山形の関係が深まる、直接の契機となったものと見られる。
 
 このように、これらの説を見る限り、義俊の近江領分五千石とは、祖父伝来の土地をそ
のまゝ引き継いだものと解される。しかし、これに関わる信ずべき史料を手にしない限り、安易に認めることはできない。ただ最上義光分限帳に、「御蔵人」の分としての出羽国内十万千二百石の外に、「右之外在之少宛之御蔵人別帳有之」として、別に小規模の蔵入地のあることを伝えている。
 東北諸大名に対しての賄料については、上杉景勝は天正十六年(1588)に、蒲生・野州・高嶋三郡のうちから一万石[注3]を、伊達政宗も蒲生郡内に五千石を与えられている[注4]
ので、義光への給与も考えられようが、これを先人の説に従い、そのまゝの形で義俊の領分とすることには、重ねて疑問を呈したい。ここに義俊以後の旗本最上氏五千石の所領十ケ村の変遷について述べてみる。

  「最上領村高」
 一 高五百六拾四石五斗三升  上大森村(東近江市)
 一 同八百四拾四石六斗七升  下大森村(  同  )
 一 同九百七拾四石壱斗八升  尻無村 (  同  )
 一 同弐百九拾壱石七斗七升  稲垂村 (近江八幡市)
 一 同五百七拾壱石九升    石原村 (  同  )
 一 同弐百七拾八石六斗五升  小御門村(  同  )
 一 同百四石壱斗壱升     野口村 (  同  )
 一 同千九石六斗五升     愛知郡 池之庄村(東近江市)
 一 同百六拾壱石弐斗九升   甲賀郡 市之瀬村(甲賀市)
 一 同百九拾九石二斗五升   同    上野村( 同 )
        五千石
             (注、( )内は現地域を示した)
 
 この「最上領村高[注5]」は、旗本最上氏家臣の鳥越氏の記録によるもので、この交代寄合御礼衆としての最上領五千石が、義俊代の近江領分五千石をそのまゝ引き継いだものなのか、この十ケ村の変遷の大要を述べてみる。
  
(イ)上大森村
 蒲生郡のうち、[寛永高帳](以下、高帳)では彦根藩領294石余、旗本寄合最上氏領564石。
(ロ)下大森村
 蒲生郡のうち、高帳では江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領844石余、元和八年最上義俊が近江・三河に於いて一万石を与えられたが、寛永九年義智のとき五千石を幕府に返上、以後大森に陣屋を構えた。
(ハ)尻無村
 蒲生郡のうち、江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領974石余。
(ニ)稲垂村
 蒲生郡のうち、元和八年旗本最上義俊の所領となり、以後、江戸期を通じて旗本最上氏領、高帳では291石余。
(ホ)石原村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、幕府領を経て寛永八年十二月まで、旗本最上義智五千石の支配、高帳では511石余。
(へ)小御門村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、慶長五年幕府領、同十年掘田正信領、寛永十年再び幕府領、寛永十九年以降旗本最上氏領五千石のうちとなる、高帳278石余。
(卜)野口村
 天正十二年より中村式部少輔、次いで豊臣秀次領、文禄四年より長束正家領、慶長五年より幕府領、寛永八年十二月より現八日市市大森に陣屋を置いた、最上義智領五千石となる、高帳104石余。
(チ)池庄村
 愛知郡のうち、旗本最上氏領、高帳1,009石余。
(リ)市之瀬村
 甲賀郡のうち、慶長五年旗本最上氏領となり、幕末に至る、高帳161石余
(ヌ)新宮村
 甲賀郡のうち、上野村と一村の扱いをしている、高帳は403石で幕府領、大森藩領、美濃部氏領。

 以上、十ケ村の領主の変遷についての概略は、『角川日本地名大事典』より関係箇所のみを拾い、できるだけ形を変えずに述べてみたものである。これらから判断すると、十ケ村すべて最上家に関わってはいるが、近江にて義光秣場五千石が在ったとしても、この十ケ村五千石をそのまゝ当てはめることは難しい。しかし、この十ケ村五千石が、義俊の近江領分五千石であり、旗本最上氏へと受け継がれていったものと考えよう。
(リ)の市之瀬村について、『土山町史』(昭36年刊)に次ぎのような記事がある。
  
 家康は豊臣氏の旧例にならって、京都に近い近江国を遠国大名の在京用途地として与えたために、他国の大名で近江国内に領地を有した者が多く、その数は二十数藩に及んでいる。関ケ原合戦の際、水口で破れた長束正家は領地を徳川方に没収され、直轄地に編入された。松下孫十郎が代官として瀬音・大野・黒川を除いた全土山を管治した。瀬音の残り(旧市ノ瀬村)は、同じく麾下の士最上源五郎の管治するところとなった。源五郎は名を義光といい、兼頼より十七世の孫に当たる。初め家康に仕え戦功あり、その功により出羽国数郡を領したが、近江国では蒲生・愛知・甲賀の三郡に五千石を有した。

 これを読むと、この記事の執筆者が、義光と義俊に共通する源五郎の名から、果たして二人を厳密に区別しての記述なのか、混同してのものなのか判らないが、慶長五年の関ケ原戦以後に与えられたとすれば、義光の在京賄料としての性格が強く感ぜられる。
 『近江蒲生郡志』(大正11年刊)は、「(大森陣屋最上氏)は近江国蒲生・愛知・甲賀三郡及び三河国に於いて壱万石の地を与えられる。時に元和八年八月なり。之れ最上家と本郡関係の創始なり」と、蒲生三郡と最上家との接点について述べている。
■執筆:小野末三

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[注]
1、[寛永元年大名禄高] (内閣文庫所蔵)
 奥書きに、明治十四年八月十五日華族徳川昭武蔵書ヲ写ス、とあり、当時の大名家を地域別に、東国、東山、北国、四国中国、九州衆に区分して記載している。最上源五郎は次のように見えている。

          東 山
  一 壱万石   三河近郷二而    最上源五郎


2、『山形の歴史』 (川崎浩良)

3、[上杉家文書] (『大日本古文書』)
 「為在京賄料、於江州蒲生野州高嶋三郡内、壱万石事、被宛行之訖、全可有領知之状如件」との、秀吉からの景勝宛ての判物がある。

4、新見吉治[近江における仙台領雑考] (『徳川林政史研究所研究紀要』昭42年度)
 『徳川家康文書の研究・下巻之1』 (中村孝也)
 慶長六年、片倉景綱に与えられた「知行宛行状」から、この五千石はもと秀吉より与えられた地であるが、「未だ果さ」れなかったので、改めて家康から与えられたものだという。また「中目文書」によれば、秀吉から天正十七年に下賜されたともいっている。
 また、天正十八年七月の秀吉による奥州仕置により、岩城・戸沢・南部の諸氏に与えた領地朱印状の文言の中にも「在京之賄」云々とでている。

5、『近江蒲生郡志』 (蒲生郡役所・大正11年)
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【三 改易への道】
   
 元和六年(1620)三月、先に述べたように、二人の目付派遣から始まった山形藩への監禁は、翌七年より「山形御横目衆として石丸六兵衛・稲村(今村)伝四郎」、またその翌八年三月より「華房弥左衛門・岡田新三郎」と、連続して目付派遣を見るに至った[注1]。改易の日を迎えるまでの二年五ケ月の間、家中騒動の調停を目的としながらも、幕府の監視下に置かたのも同然の山形藩では、藩主擁護の現状維持を訴える松根備前守光広と、山野辺義忠を頂点とする一派との力の相剋が、少しも衰えることなく拡大への道をたどっていたのである。
 同七年(1621)六月吉日、義俊は大沼浮島稲荷神社に二基の石灯篭を奉納した。この熊野宝前と大沼大明神の石灯篭銘文の内容は、ほとんど変わりはない。しかし、この銘文からは、家中の騒動の渕に身を沈め、如何とも仕難い自己無力さをさらけだした、苦衷に満ちた義俊の姿を、はっきりと汲みとることができるのである[注2]。
 その銘文の一節の、「伏して願はくは、神諦に遵ひ、哀納し、無二の懇志を以て、武運をして続かしめ、国家をして孫々に保たしめんことを、无(無)限の神明に丹祈し、知見を定めん」の字句からは、義俊の最上家の前途に危惧の念を抱きながらも、己の非力を自覚して神の力にすがるべく、真心から神に祈りを捧げ、知識と見識を定めようと、必死に願っていることが判る。
 この銘文に込められた、義俊の必死の願いから、家中に立ち込める暗雲の中で、それを打破するはどの己の力量の無さと、加えて藩内勢力の趨勢から我が身の立場の不利を悟り、ただ々々神仏にすがるより外はない程に、瀬戸際に負いつめられた、義俊の姿を垣間見ることができる。
 義俊はこの必死の祈願を終えた後に、江戸に向かったものか、近隣の佐竹義宣は二月末に、また伊達政宗も八月には江戸入りをしている。そして、秋から冬の時期にかけて、義俊は佐竹義宣と、茶の湯の席にて顔を会わせていたことが、梅津政景の日記[注3]から知ることができる。
  
 (イ) 十月十三日、最上源五郎殿へ来ル御数寄可有由、兼而御約束御申候へ共、御城御数寄相極候ハゝ、明後かや橋へ御出可有由候て、被仰分候御使ニ参候、
 (ロ) 十一月十日、朝、最上源五郎殿数寄ニて御出被成候、御相客近藤石見殿・牟礼郷右衛門殿、
 (ハ) 十二月十六日、晩、最上源五郎殿へ御振舞ニテ御出被成候、
 
 十月十三日、佐竹義宣は江戸城内での茶会に出席のため、義俊の招請を謝辞する。十一月十日、義俊は義宣の茶会の席に招かれた。合客の一人の牟礼郷右衛門は、一昨年九月に山形に検使して派遣され、義俊、義宣共に面識のあった人物である。十二月十六日、義宣は義俊の招待を受け最上邸に赴く。
 この時期の政景の日記には、義宣と諸大名や幕臣達との交流を示す記事が多く見られる。このように江戸での武家達の社交の一環として、茶席を設けて互いに親睦を図っていたことが判る。義俊にしても、喧騒の渦中にある国元を離れた江戸の地で、相手が義宣だけではなく、他の人物ともこのような席を設け、互いの親交を図っていたことと、十分に察することができる。この年かと思われる十二月廿二日付の義俊書状に、「一書申入候、仍明後日廿五日朝、藤堂和泉殿振舞申候、云々[注4]」と、津藩主藤堂高虎を朝の席に招待していることから、政景日記の記事とを併せ、義俊の江戸での私的な面の一端を、僅かながらも知ることができる。
 また、寒松の[日暦[注5]]によれば、十月十二日、足利より江戸に入った寒松は、廿三日には「快晴、午往最源相逢」と、最上邸を訪れ義俊と会ったことを書き残している。そして廿五日、江戸を離れる寒松に対して、義俊は贈物を届け謝辞を表した。このように、寒松との接触が絶えず保たれていたことは、この時期の義俊にとっては、寒松が多分に心の大きな支えになっていたものと察せられる。重ねて思うには、この時期あたりまでが、義俊にとっては僅かに残された安穏の日々であったであろう。
 明けて元和八年(1622)三月九日、佐竹義宣の家臣への書状から、最上家重役達の「公事」について、未だ解決していないことが判る。
 
 最早源五郎殿年寄共の公事、干今不相済候、源五郎殿ハ御かまいなき分にてハ候へ共、内々にて御指図なとも有やうニ沙汰候、又町屋なとに御座候而、傾城狂なと被成、不似合行儀之由、取さたにて候、御酒過候へハ、生もなく無行義之由、皆々御物かたりニ手、さやうニ候へハ、今般之公事之様子ニより、御身上あぶなきと、爰元にて皆御物かたりニ而候[注6]、

 この書状に見える年寄共の「公事」とは、一体何を意味するものなのか。恐らく国元での藩内抗争が決定的な局面を迎え、その決着を着けるべく、いよ々々その裁定を幕府の手に委ねるべく起こした裁判に違いない。政景日記からの昨年末の義俊の動きから見れば、この訴訟が江戸表に持ち込まれたのは、おそらく年明けてのことではなかったか。この訴訟を起こしたのは、義俊擁護の松根備前守光広だという。

 これ義俊若年にして国政を聴事を得ず、しかのみならず、つねに酒色をこのみて宴楽に耽り、家老どもこれを諫むといへども聴ざるにより、家臣大半は叔父義忠をして家督たらしむことを希ふ、しかるにひとり松根光広のみ肯はず、且家親が頓死せし体、毒殺にうたがひあり、義忠および小国日向光松・鮭延越前秀綱等逆意よりいたせるところなりと訴へ申せしにより、云々[注7]

 この最上家史料による言い分は、家中の大半が酒色に溺れ、周りの意見に耳を傾けない義俊を排し、人望のあった義光四男の山野辺義忠を、家督にと望む勢力に対し、ただ義光甥の松根光広のみが反対したという。そして、家親の死が義忠一派の毒殺によるものと、これを訴訟を起こした一因とした。
 しかし、この最上家内部の抗争の実態については、確たる史料も無く細部については知る由もない。また巷に流れる家親頓死説についても、これを全面的に認めることはできないのである。ただ、はっきりしていることは、元和六年(1620)三月に始まった目付派遣は、最上家内部の恥部を世に知らしめ、それが二年後の「公事」事として、完全に表面化したということである。
 諸史は松根光広が家親の死因に、山野辺一派が関わっていたと訴えた、という。しかし、これが光広が起こした主たる訴因ではなかろう。そこには、山野辺・楯岡、松根と同じ最上の血を引く者同志の、主導権争いに決着をつけるべく、藩主擁護の立場を表す光広が、幕府にその裁定を委ねたことにある。重ねて述べるならば、家親の死因については、これを裏付ける確実な史料も無く、いつまでも従来の説にこだわるべきではない。
 さらに、この三月九日付の書状からは、義俊の酒に溺れ傾城狂いに身を持たせた姿を伝え、今回の公事の成行きによっては、義俊の身上も危うくなるだろうと懸念している。このように、この度の最上家の一件が義俊には「御かまいなき分」とはいっても、義俊自身の身持ちの悪さが、災いのもとになるのではと示唆した。続いて四日後には、「山形之儀無落著候ハゝ御暇ハ出間敷候と見へ候[注8]」と、山形の公事が解決せねば、義宣自身の帰国もままならないだろうと、隣国に起きた不祥事の余波が、義宣にも及んで来たことが判る。
 続いて三月二十四日の書状には、「最上之くじ干今不相済候、源五郎殿身上、縦此度ハ何事なく候共、三年ハ続間敷由唱に而候、此中之行義之躰、更々人外之由にて候、酒ニ被酔候ヘハ、きちかいにて候由、各御前衆かくしたいなく、くかいにての取沙汰にて候間、きしきニて可有之候[注9]と、義俊の手に負えない酒乱の癖を伝え、義俊の身上ももう三年は続かないだろうと、若き藩主に対して深い憂慮の念を表している。先に東根景佐が遺言状に、「もかミの御国三年と此分ニあるましく候」と書き残したように、景佐の杞憂が現実となって目前に迫っていたのである。
 やがて改易の時を迎えるまでの間の動きを、[細川家史料]から関連箇所のみを拾い、列挙してみる。

 (イ) 七月廿八日、最上身上も近々可相果様ニ執沙汰仕候、見及申候躰も左様ニ御座候事[注10]、
 (最上義俊が近々改易されるとの噂があるが)
 (ロ) 七月晦日、当最上身上之事、一昨日相済申候、御意ニハ祖父、太閤御代より御心入を仕、其子駿河幼少より江戸二相詰致御奉公候間、此度之儀者、新敷郷御国被下候由ニ而、悉相済申候[注11]、
 (最上の公事も廿八日に終わったようで、祖父以来の忠節の家柄故に、幕府は国替えで決着を着けた。新知六万石という)
 (ハ) 八月十日、最前も身上候最上事、御前相済申候通被仰出候へとも、家中之者共色々儀申候而、むさと仕たる様子ニて、御礼も相済不申候事[注12]
 (この書状から知ることは、最上家重役達が国替えの決定に異議を唱え、それにより再び家中紛争の状態となり、義俊の将軍へのお目見ができなくなったという)
 (ニ) 八月十三日、最上身上可相果之由候、是者何之故候哉、便宜ニ可承候事[注13]、
 (細川忠興は最上家改易の噂を聞き、その訳を忠利に問うている)
 (ホ) 八月十六日、最上事も被成御免、今度新敷御国を被下候と恩召候段、被仰出候へ共、年寄共両人申候ハ、任御綻国へ参候共、又色々の儀可在候間、最上を守立申儀ハ罷成間敷之由、申上由候、何と可被成も知不申候[注14]
 (十日の時点で、重臣達の国替えの裁定に不服を唱えたことが判っており、その理由が国替えとなっても家中の対立は続き、最上の家を守ることは出来ないと、あくまで国替えを拒否した。この「年寄共両人」とは、山野辺義忠と蛙延越前と思われる)

 この多分に真実性のある史料から、改易直前の慌ただしい空気に包まれた、幕府対最上家の対立の構図を見ることができる。しかし、そこには藩主義俊の姿は見えないままに、二十一日、遂に破局を迎えたのであった。[梅津政景日記]は次のように伝えている。
 
 去廿二日之御日付ニ而江戸より御飛脚辰刻ニ参着、半右衛門所へ之御状之趣致拝見候、様子ハ、もかミ源五郎殿御下衆公事之事御前公事ニ罷成、公方様被仰出ノ分ハ、出羽守・駿河守御奉公致候間、此度之儀ハ被御免候間、如前ニ年寄共国之仕置可仕由被仰出候所ニ、罷成間しき由御請申上候由、就之、御直ニ御仕置可被仰付旨、公方様被仰出、云々
■執筆:小野末三

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[注]
1、[最上氏収封諸覚書] (『大日本史料・12編47』)

2、阿部酉喜夫[最上家信奉納石灯篭の銘文について] (『羽陽文化111号』昭45年)
 阿部氏は、大沼浮島稲荷神社所在の二基の石灯篭に刻まれた、風化の進みつつある銘文の解読に力を注いだ。藩内抗争の最中に巻き込まれ、如何とも仕難い立場に置かれた義俊の姿を、この銘文から見ることができる。

3、[梅津政景日記] (『大日本古記録』)

4、[蜷川文書] (『山形市史・史料編1』)

5、[日暦] (『川口市史・近世資料編3』)
 寒松は足利学校から芝(現川口市)の長徳寺、そして江戸へと絶えず行き来をしていた。この年の十月、数日前に江戸入りした寒松は、十五日に登城し将軍に謁見、その帰路には幕閣の酒井雅楽頭を訪ねている。寒松の江戸での日程は多用を極めていた。

6、[天英公御書写] (『大日本史料・12編44』)

7、『寛政重修諸家譜・巻八十』

8、[注6]と同じ

9、[注6]と同じ

10、[部分御旧記] (『大日本史料・12編47』)

11、[注10]に同じ

12、[細川家史料] (『大日本近世史料』)

13、[注12]に同じ

14、[注10]に同じ