最上義光歴史館
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【はじめに】 羽州の地に五十有余万石の領国を築きあげた最上義光が、栄光に満ちたその生涯を終えたのは慶長十九年(1614)一月のことだった。それから八年後の仲秋の頃、孫の源五郎が何故に領国崩壊への道をえらばねばならなかったのか。 徳川恩顧の父家親早なる死の後は、家中の源五郎の排斥の気配も、さして感ずることなく幼年の源五郎に家督が許されたことは、それが家中の総意に適うものとは限らないにせよ、本領安堵に落ち着いた現状を見るとき、家中一同も一時の安堵の思いに身を馳せたことであろう。しかし、それも束の間のことであって、次第に高まる一族の重臣達を筆頭にしての抗争が、藩主義俊の家中統率の無能さを、表面に出しての論争に発展するところとなっていった。 義俊の五年余の山形藩主時代は、一片の自己主張すら藩政に反映させることは困難であったろう。それは若年の身に加えて、身辺に漂う悪しき風評の全てが、必ずしも自己の為せる業とは言えないまでも、己の意思の欠如を如実に物語ったものといえよう。祖父義光が営々として築き上げた大藩を守りきるには、若き藩主とそれを支える側の体制では、どうすることもできなかったのである。 元和三年(1617)五月の襲封から、三年後に起きた幕府監察の導入は、それは最上家内での醜聞を白日のもとにさらけだす結果となった。そして改易を迎えるまで、幕府の表向きの政治的な関与は無かったにせよ、絶えず監視下のもとに置かれていたのであった。そして藩内を二分しての対立の構図がやがては幕閣要人達の利害に絡む論争の場へと、発展して行ったという。 遠く中世の代に端を発した最上の家を、破滅の道に追い込んだ原因、そしてその責任は誰が取らねばならぬのか。若き源五郎義俊にその全責任を負わせるのは酷であろう。むしろ己の権力保持に汲々としていた重臣達に、義俊を満足に支え切れなかった責任を問うべきである。 ここでは、最上家側での義俊に関わる記録の希薄さから、その生きざまを満足に語る程に、充実したものを探しだすことは難しい。それでも、何とか義俊の痕跡を捜し求めながら、その生涯をたどって行ってみたい。なお源五郎が家信から義俊に改名したのは、改易後のことであるが、本稿では義俊に統一している。 ■執筆:小野末三 次をみる>>こちら |
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【あとがき】 本稿は、世に余り語り継がれて来なかった、最上義俊の短き生涯に視点を当て、僅かながらもその実像に迫るべくまとめ上げたものである。その生涯の最大の山場となった改易事件については、最上家自体が真実を語るに足る記録類の持ち合わせも無く、現今の多くの著作は、藩主の無能振りを柱に単なる政争として片付けている感がある。 その中でも、[最上氏の改易について](改稿、『慶長・元和期のお家騒動』福田千鶴)や、山形県下では[山野辺義忠公と最上家の改易](『山辺郷・2号』後藤禮三)などに見るように、この時期のお家騒動の特質を、武家諸法度の立場から武士道の世界にまで踏み込んだ、素晴らしい解釈を披露している。 現在、義俊に対する評価は全く芳しくない。元和五年(1619)の福島正則改易事件に際して、「秀忠公再び源五郎を召して、今後正則家人等野心を挟む処を、汝が才覚にて和議を繕ひ互いに異事無く、彼屋敷を受取る事神妙の至りなり、父祖に劣るまじき若者と褒させられ、長光の御脇差を賜ふ(『中興武家盛衰記』)」という記事から、『山形の歴史』は「彼は大器ではなかったが、小才に長けた人物であったことを伝えている」と表現している。これらが、世間の義俊を評価する一つの指針となっているのかも知れぬ。しかし、この記述のいずこに小才に長けた義俊の姿があるだろうか。このような見方が積み重なり、世間に誤った義俊観を広めた要因となったことは、否定できないだろう。 大沼浮島稲荷神社の石灯籠の銘文から、藩を牛耳る一族・重臣達の狭間に身を閉ざされ、如何ともしょうがない立場に置かれた、義俊の苦悩に満ちた真の姿を見ることができる。これが何故に江戸の町中で、酒食に溺れ不行跡な行為に走らねばならなかったのか。しかし、このような常軌を逸した行動を取り上げ、これから義俊の人格の全てを否定するのは酷であろう。その責任の大半は、義俊を支え藩の運営に当たらねばならない、一族を中心とする重臣達が負うべきであろう。 元和四年(1619)五月、幕政に関与するはどの異色の僧の大僧正天海は、立石寺一山の衰退に心を痛め七ケ条の「立石寺法度」を定めている。その法度状には天海と並び「最上源五郎」の著名が見られる。この年は、他にも慈恩寺本堂の再建、酒田の亀ヶ崎八幡神社の造立などにも名を止めているが、この義俊の天海との連署を別の視点から見ると、これは少年藩主義俊の存在を、公の場に改めて世間に周知せしめたともいえる。 しかし、四年後の元和八年(1622)四月、天海は義俊に立石寺の再興を重ねて委嘱する書状を送った(『東北の一山組織の研究』・『山寺名勝志』)。それは四年前の「立石寺法度」の送致にも拘らず、依然として一山の衰退は改められず、天海は重ねてその再興を求めたものであった。 しかし、この時期は江戸にて最上騒動の審議の最中であった。そこには天海自身の姿も有ったというから(『続々本邦史記』)、幕府と最上家との間の異常な雰囲気は、熟知し ていた筈である。それがこのような時期にも拘らず、何故に立石寺の再興を促すような行動をとったのだろうか。 先述した[細川家史料]を改めて見ると、七月廿八日に最上の公事(訴訟)も終り、国替で決着がついたようだと言っている。ということは、この公事が江戸表にて正式に審議の場に乗せられたのは、年が明けてからであろう。その審議半ばの四月の時点に於いて、天海がこのような措置を採ったことは、未だ審議もさほど進展も見せず、白紙に近い状態であったからではないだろうか。天海自身も、最上家が数ケ月後には羽州を失うとは、思いもよらなかったであろう。 国替で義俊を守り最上家の存続を望んだ「上意」であった。しかし、その意に反し服さなかった一部の重臣達の行動が、結局は「上意」に背く違反行為として、改易処分の決定を見るのである。言うなれば、この重臣達には当初から義俊を排斥し続け、もり立てる意思は全く持ち合わせは無かった。義俊の若き藩主の器量の欠如を補う責務は、当然のこと周りの重臣達にある。しかし、彼等はそれを放棄してしまった。そして羽州の地を失ってしまった。 もうこの辺で、義俊の真実の姿を見極めながら、羽州の大藩三代藩主として新しい義俊像を伝えて行くことが、研究者としての責務であろう。これが義光・家親に対する従来の史観をも併せて見直す機会ともなれば幸いである。 おわり ■執筆:小野末三 前をみる>>こちら はじめにもどる>>こちら |
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【六 赦免の沙汰ある日まで】 『大日本史料・12編47』の元和八年八月二十一日の条の内から、改易後に福山藩水野家に預けられた柴橋石見に関わる記事の中で、編者の注記として「義俊、家ヲ嗣グコト、元和三年六月ノ条ニ、幕府ヨリ目付ヲ付サルルコト、同六年三月十八日ノ条ニ、赦サレテ徳川家光ニ拝謁スルコト、寛永五年九月十二日ノ条ニ、卒スルコト、同八年十一月二十二日ノ条ニ見ユ」と記している。 現在、この史料の寛永年間の記録は、未だ刊本にはなってはおらず、編者は稿本の寛永年間の記録から義俊を拾い、参考のために柴橋石見の記事の中に、付記したものと思われる。義俊赦免を伝える根本史料については、管見の限りに於いては、この注記の記事のみである。引き続き調査を続けていきたい。 改易処分に付せられた義俊が、一定の期間中は定められた罰則に従わねばならなかったのは当然であり、赦免の日を迎える寛永五年(1628)九月の頃まで、蟄居謹慎の日々を過ごしていたことであろう。しかし、この改易後の義俊の消息については、現今の諸書は次のように述べている。 (イ)義俊は幕府の奏者番に取立てられ、桔梗門内下馬先の屋敷から出勤登城した。 (ロ)江州・参州で一万石の捨扶持を与えられ、幕府の交代寄合に任ぜられた。 (ハ)近江・参河の内で一万石を与えられ、幕府の奏者番に任ぜられた。義俊は封地に赴任せず江戸藩邸に居た。最上家上屋敷は江戸城桔梗門下馬先にあり、外に柳原河岸に中屋敷、本所石原大川端に抱え屋敷があった[注1]。 このような記事を読むと、とうてい事実を伝えているものとは思われないのである。先ずは改易処分を受けた咎人が、早々と将軍と接する奏者番の[注2]に就けるだろうか。また小なりとも一万石の大名が旗本身分の席である交代寄合に組入れられるのであろうか。最上家江戸屋敷は[慶長江戸絵図[注3]]などを見ても大手前に在り、桔梗門内ではない。そして義光が建設した広大な屋敷に、一万石に転落した最上家が引続き居住できるものなのか、常識的に考えてみても無理な話しである。これが現在に至るまでの間、語り伝えられて来ていたのである。 伊達家史料の[伊達秘鑑]は「江戸浅草ノ下屋敷逼塞仰付ラル」と伝えている。この江戸屋敷については、寛永年間の[武州豊嶋郡江戸庄図[注4]]には、大手前の最上屋敷には、最上家退散後の山形に入った鳥居左京忠政の子息の忠恒の名があり、神田川北岸の柳原の一角に、「最上源五郎」と義俊の名が見えている。義光が建設した広大な大手前の屋敷は、皮肉にも鳥居家の占めるところとなった。 それは寛永元年(1624)四月廿九日付の細川忠利書状[注5]を見ると、「井上主計殿へ鳥居左京殿屋敷を被達候、左京殿ヘハ最上屋敷を被遭候、又本上州屋敷をハ、酒井讃岐殿・稲葉右衛門両人被遣候事」と、鳥居家の最上屋敷への屋敷替えを伝えている。このように、最上家は大手前の屋敷を明け渡し、柳原河岸の屋敷に最上家一万石の居を定めた。義光在世当時の最上屋敷周辺には、松平忠輝、青山伯耆、鳥居土佐、土井利勝、板倉周防などの親藩・譜代の屋敷で占められていた。その中で、小大名に転落した最上家が、依然として居を構えて居られる筈はないのである。また当時は浅草川を挟んだ以東の本所・深川の地に、新しく町屋の成立と武家地の増投を見たのは、明暦の大火以後のことであり、義俊の頃までは、柳原河岸の屋敷と二ケ所であったと考えられる。大手前の屋敷を引払った義俊は、この屋敷で歳月を過ごし、そして「長々相煩」と不遇の生涯を閉じた。 改易から一年後の閏八月、先の藩主義俊を気遣ってのことであろうか、最上家の厚き庇護のもとにあった慈恩寺からの便りと進物に対し、義俊は喜びの返書を与えている[注6]。藩主時代の元和四年(1618)八月、「大堂建立山形源五郎殿義光公孫子也[注7]」と、短き藩主時代ではあったが、慈恩寺には大きな事跡を残していた。 以上 遠路態飛札、殊更白布一端給候、喜悦ニ候、何様重而登之節可申候、謹言 最源五 閏八月十三日 家信(花押) 慈恩寺 別当坊 まいる この書状から、義俊在世の頃の閏八月は元和九年(1623)にあたる。その署名が未だ家信であることから、義俊に改名するのは寛永に入ってからであろう。この改易後の間もない頃の、江戸に於ける義俊の動静を、僅かながらも寒松の日記から知ることができる。 (元和九年)正月小 廿五日 晴 遣益於最源第与野□十大夫、 (注、この年の正月十日、江戸入りした寒松は十二日に登城し恒例の年筮を献上した。そして、弟子の益子を最上邸に遣わした。謹慎中の義俊に対しては面会は許されず、弟子を遣わし恒例の年筮を献上したのであろう) (寛永元年)正月小 廿一日 快晴 最源五段子(緞子) (注、この日の記事を見ると、各所より多くの到来物があったことを記している。義俊も緞子を贈っている。おそらくは年頭の年筮献上に対しての礼であったのであろう) (寛永二年)正月大 十九日 雨 憑侶(託す)庵進年筮於最源、 (注、五日に江戸入りした寒松は、十日に登城し年筮を献上している。そして、十九日に友人で医師の侶庵に託し、義俊に年筮を献上した) 残存する寒松の日記からの、三年間に限られた間の記録ではあるが、罪を得た義俊の世聞から隔離された日々の中で、この一学僧との接触は大きな慰めになったであろう。しかし、寒松自身の直接の訪問は叶えられる筈もなく、周りの者に年筮を託すより外はなかった。父の家親との親交振りを想う寒松にしてみれば、その子の受けた社会的権威の失墜に対して、大いに心を痛めたことであろう。これ以後の死去に至る寛永八年(1631)まで、唯一残されている同七年(欠落箇所もあるが)の日記からは、義俊の姿を見つけることはできない。しかし、寒松を精神的な心の支えとして身近かに感じ、例年の如く寒松の献上する年筮に我が身を占い、明日の日に明るい期待を寄せながら、日々を過ごしていったのではなかろうか。 また日記には、義俊からの進物があった前日(寛永元年正月廿日)に、佐倉藩土井家に預けられた鮭延越前守秀綱から、「鮭庭越州有使侶庵案内、楮(紙)二扁二 一」と、贈物があったことを伝えている。秀綱には元和五年(1619)に屏風画に詩文を書き入れたことがあり、最上家を離れた後も親交を重ねていたようだ。 寛永初期の頃かと思われるが、本城豊前守満茂とその養子(満茂弟の子)主水宛の義俊書状[注8]がある。 改年之為祝儀、鱈給候、目出祝着存候、尚永可申候、恐々、かしく 最源五 正月七日 義俊(花押) 本城主水とのへ 尚々祝儀迄扇子二進之候 新春之為祝儀鴈給候、毎年心付祝儀存候、将亦弥無事之由、弥書二候、尚里見内蔵允申候、恐々謹言 最源五郎 義俊(花押) 正月廿二日 本城豊前殿 御返事 山形藩時代には、家臣として最高の四万五千石を食んだ満茂は、改易後は幕府要人の前橋藩主酒井雅楽頭忠世に預けられた。その多くの旧臣達もそのまゝ召抱えられている。この満茂が最上騒動の際には義俊排斥の側に属していたのか、中立の立場にあったのかは判らないが、零落し果てた若き旧主の現状を察する時、過ぎし栄光の日々に思いを馳せながら、何かと暖かき手を差しのべていたのであろう。義俊の心情いかばかりであったろう。また次の二通の書状[注9]は何を語っているのだろうか。 以上 今度御前相済候付而、書札令得其意候、上様江近日御目見へ可申候旨、必定之程推量有へく候、猶重而可申候、恐々謹言 長源五 九月廿一日 義俊(花押) 本城主水殿 御返事 以上 今度両御所様御目見得申候付而、為祝儀生鮭到来、目出祝着ニ存候、尚里見内蔵允可申候、恐々、かしく 最源五 義俊(花押) 十月十五日 本城主水殿 御返事 この二通の書状の発給年月は寛永五年(1628)であろう。この年の九月十四日は、前将軍秀忠の御台所浅井氏の三年忌であった。この月、幕府は「十二日、幕府、山口重政親子、天野康宗兄弟、故大久保忠隣ノ子教隆・孝信ノ罪ヲ赦ス[注10]」として、恩赦を施している。この中には義俊の名は無いが、この時期に赦されたものと思われる。この中の大久保氏は、忠隣が慶長十九年(1614)に罪を得て改易され、子息ともども諸家に預けられていたのである。この年に赦され旧地に服されるまで、十四年の歳月を要している。義俊の改易事情が異なるとは申せ、義俊の罪に服した期間は短かったようだ。 この九月の書状からは、前橋の本城主水に、勘気が解け将軍への御目見が近いことを伝え、十月の書状は、御目見を果たした後の主水よりの祝儀に対する返書であろう。このように、赦免の沙汰ある日までの間、「捨扶持一万石」の名ばかりの一大名に成り下がった義俊に対し、藩の運営に当たっていた嘗ての重臣連の内、誰がどのような気遣いを示していたであろうか。今のところ本城氏以外には見るべきものはない。 ■執筆:小野末三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら [注] 1、『山形市史・中巻』・『山形の歴史』(川崎浩良)・『やまがた歴史と文化』(後藤嘉一) 2、[明良帯録・前編](『古事類苑』) 「君辺第一之職にて、言語怜利、英邁の仁にあらざれば堪えず」とあり、『時代考証事典』(稲垣史生)には「多くは寺社奉行の兼務、諸大名や旗本が将軍に御礼拝謁する時、奏者番は陪席し姓名と献上品を披露する……将軍の権威を輝かすのが役目であった」とある。改易処分を受けた義俊が、このような役目に就ける訳がないだろう。「交代寄合」にしても、「壱万石未満なれども、身分格式は大名に准じ、その身は在所に居住し隔年江戸参勤交代をなす、ゆえに交代寄合と称す」とあるように、これは大名の地位を失い、五千石の旗本に転落した義智以後の最上氏のことである。山形の先人達は、[最上千種]などの「元和八年八月廿三日御身上相潰候事、江戸より申来ル、近江国五千石被下置、交代寄合衆被仰付候」などの記事から、これらを義俊と解したのではなかろうか。 3、[慶長江戸絵図] 都立中央図書館本のものが利用されている。図中の添書きに「慶長十一丙午年江戸御城立、云々」とあり、慶長十二、三年頃の様子を示すものという。義光在世の頃の江戸屋敷の位置を確認できる。 4、[武州豊嶋郡江戸庄図] 寛永年間の江戸の状況を明らかにしている。現存するものを大別すると、国立国会図書館本と都立中央図書館本の二系統がある。 5、[細川家史料](『大日本近世史料』) 6、[慈恩寺中世史料](『寒河江市史』) 7、[注6]に同じ 8、[本城文書](『山形市史・史料編1』) 9、[注8]に同じ 10、『大猷院殿御実紀・巻12』・『史料綜覧』 |
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【八 義俊の最期、そして家族たち】 寛永六年(1629)という年は、江戸城普請役を勤め上げた、晴れて公の場に復帰した記念すべき年であった。しかし、それまでの江戸での逼塞状態の生活から脱却できたとは申せ、私的な面をも含め、東西に二分された所領の実態については、明確にすることは困難なことである。ただ諸史は近江の大森に陣屋を置き、母子共に移りそこで没したなどと憶測するばかりである。しかし、義俊は一度も任地には足を踏み入れず、それぞれに陣屋を有しながらも、三河の梅坪村に見るように、その所領全域は幕府代官の関与する支配体系を採っていたのではなかろうか。 重ねて述べるならば、義俊の公の場に姿を見せたのは、この年限りであろう。これ以後の義俊の生きざまとは、家譜に「長々相煩」と伝える如く、肉体的にも精神的にも苦痛に満ちた日々であったであろう。思うに将軍に御目見を果たし後、江戸城普請役の勤めを果たしたことが、一万石大名としての義俊を語る全てではなかろうか。 寛永八年(1631)七月十五日、義俊は「一遍上人絵巻」を光明寺に寄進した[注1]。この絵巻は祖父の義光が文禄三年(1594)に求め、光明寺に納めたものであるが、後に故あって最上家に戻されていた。奥書きには「寛永八年七月十五日最上源五郎義俊新寄進之」とあることから、改めて寄進していたことが分かる。 文禄三年 七月七日 最上出羽守義光寄進之(印) 右十巻之縁起有様子手前在之 寛永八年 七月十五日 最上源五郎義俊新寄進之(印) 出羽国山形 光明寺 筆者 狩野法眼(印) この絵巻の寄進の時期が、義俊死去の四ケ月前のことである。義俊の直接の死因ははっきりしないが、ただ長く伏していた状態であったのかも知れぬ。推測すれば、義俊自身も我が身に迫る死期を覚悟しながらも、切羽詰まっての仏心への帰依を願ってのことであったのかも知れぬ。ただ々々義俊の心情を思いやるばかりである。 寛永八年辛未十一月廿二日、江戸にて没、享年二十七歳。〔最上源代々過去帖[注2]〕には「月照院殿華嶽英心大居士 寛永八辛未十一月一二十二日 源五郎義俊、家信トモ云」とある。山形市七日町の瑞雲山法祥寺墓地に、翌九年四月に建立された義俊の供養塔がある。誰の手になるものなのか、寒河江住人とあるのみである。義俊と深く関わった人物であったのか、没後僅か五ケ月後のことであり、この人物の義俊への思いの深さを知ることができる。 損館月照院殿前羽州華嶽英心大居士 後日為忌寒河江之住人以微力五輪造立之 干時寛永九壬申四月吉日 縁徒施主 敬白[注3] また鉄砲町の光禅寺墓地には、義光の供養塔の脇に、家親と共に義俊の供養塔も並んでいる。これは享保十五年(1730)義俊の百年忌に際し、住職が建てたものだという。また江戸で死去した義俊は泰平山万隆寺に葬られた。この寺は明暦の大火以前は湯島にあったが、その後は現在の台東区の浅草寺近くに移っている。明治二十三年(1890)に至り、旧臣たちの手により個々の墓を一基にまとめ再建している[注4]。以後、幾度かの震災などに遭いながらも持ちこたえてきた。現在の寺の基域は広くはないが、幾度か手が加えられてきたようだ。現在は墓域の片隅に追いやられた位置にある。正面には「旧山形城主最上家之墓」、側面には「明治廿三年六月 石川左兵衛敬建立之 楯岡小市朗久富 妻そら」とある。また墓段石にも「中祖以後八世之墓碑、云々」と、長文の刻印が見られるが、永い歳月の間に次第に摩耗してきており、判読するのも困難である。 次に残された家族たちについて述べてみたい。義俊の実母については、「梅室院妙董禅尼 元和三年丁巳十二月廿一日 源五郎義俊実母也」とあるように、義俊が家督を継いで間もない時期に没している。その戒名から見ても、父の家親の正室ではないようだ。過去帖などから家親を囲む女性については、この梅室院以外には確認できない。 慶長十六年(1611)七月、数え七歳の源五郎は、盛岡藩主南部利直の女、七子と婚約したことを『南部叢書』は伝えている。 十六辛亥年七月四日、公主七子姫、最上源五郎義俊ニ嫁シ玉フヘキ約ヲナシ玉フ、考、義俊ハ従四位上行左近衛権少将源義光ノニ男、従四位下侍従山形駿河守家親ノ男ナリ、元和三年六月家督、時二十二歳、同八年五月改易[注5]、 この七子の義俊との婚約について、南部利直は酒田の豪商加賀与助に対して、蝋燭進上に対しての礼を述べると共に、上意により源五郎との婚約を仰せつかったことを伝えている。書状の日付が七月六日とあり、これが婚約の決まった年とすれば、両家が姻戚関係に入ることをいち早く報じた私的な書状でもあったかも知れぬ。 尚々毎年心付候段満足申候、以上 田名部へ船被越仰付而音信見事成小蝋燭百挺令満足候、不相替無何事之由目出度候、京都へ上下之刻ハ毎年相候へとも、近年ハ不能面談候、以上意を最上源五郎殿縁篇ニ被仰付候、定而其方なと可為満足候、弥心易存似合候用も候ハゝ、可被申越候、 恐々謹言 南部信濃守 七月六日 (貼紙) 「利直(花王影)」 加賀与助殿[注6] このように、義俊の南部家との婚約が早々と成立したが、婚儀が執り行われた日時については、確かな記録を見ることはできない。ただ七子については、『寛政重修諸家譜』は「母は某氏、最上源五郎義俊が室、離婚してのち家臣中野吉兵衛元慶に嫁す」とある。また最上家の記録にも「室は南部信濃守利直が女」とあり、さらに [南部氏系図]には「為嫁最上源五郎義俊之約有罪改易、依再嫁中野吉兵衛元康」とあるから、南部利直の女が義俊に嫁したことは、時期ははっきりしないが事実であろう。 七子の再婚の相手の中野元慶(元康)とは二千石を領する重臣で、「室、利直公公女七姫君、始出羽最上城主最上源五郎義俊室、イマタ婚セスシテ最上氏閾除カル、後更ニ元康ニ下嫁ス、御化粧料五百石ヲ賜フ、寛文五年二月十一日卒ス[注7]」とあるが、改易直後のことか、また義俊没後のことなのか、その離婚の原因や時期などを特定するのは難しい。 義俊の嫡子、義智の実母については、家譜には「母某氏、慶安四卯七ノ十二死」とあり、過去帖には「清浄院殿直信宗心大姉」とある女性である。また次男の義長の母を「松平陸奥守忠宗女」とするのは誤りである。思うに、この二人の男子の内のいずれかが南部氏の所生であれば、七子は最上家を去る必要はなかったのではないか。七子は男子を儲けることができなかったのである。 義智の実母の断片的な記録が、[柴橋文書]に見えている。この柴橋図書正忠を祖として書き継がれた文書から、関連記事を拾ってみる。 最上源五郎十二歳之時、御父駿河守家親家督被仰付処、家老為其仲間申分有之、十七歳之時領知被召上為堪忍壱万石拝領、源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時壱万石被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重時又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、図書室辻氏娘妹最上源五郎御[ ]ヲス刑部御母也、 羽州を失い小大名の地位に落ち込んだ義俊の、その短い期間中の私的な消息を伝えるものは殆ど見当たらない。それでも、この柴橋図書の家系が伝える資料等により、当時の最上家内部の動きを僅かながら知ることができる。これから、家禄半減による家臣団の整理につながる論争を呼び、そのため義智母の申付けにより、柴橋・佐竹の両氏が退散したことが分かってくる。この義智母こそ慶安四年(1651)に没した清浄院に間違いないだろう。 義智の生れについては、家譜は寛永八年(1695)と記すのみで、月日ははっきりしていない。義俊が死を迎えた時は、満一歳に満たなかった幼児であったろう。当然のこと絶家となっても不思議ではなかったろう。所領半減とは申せ、旗本身分を確保できたこと は幸いであった。 次男の義長の生れは、義俊死去から四ケ月後の翌年三月である。過去帖には、後に別家となった義長家の記録は無く、その[畧譜]にも実母の記録は無い。またそれぞれ旗本家に嫁いだ三人の娘達についても実母の記録は無い。 長女は御書院番大嶋義当に嫁ぐ。義当は寛永十年(1633)五百石を知行、寛文十一年(1671)没。長女の生れは、元和末から寛永初期の頃であろう。 次女は大番役太田康重に嫁ぐ。康重は寛永十三年(1633)より仕え、後に三百石・廩米五十俵を知行する。元禄十二年(1699)没。 三女は交代寄合妻木頼次に嫁ぐ。頼次は承応二年(1653)七千石を継ぐ。万治元年 (1658)に嗣無くして没したため断絶[注8]、過去帖にある「晴光院殿室寿養大姉 元禄二己巳五月廿一日 駿河守義智姉」とは、実家に戻った三女のことかと思われる。 寛永九年(1696)八月、義智は新たに近江領五千石を賜り寄合に列せられる。同十三年(1636)八月、初めて将軍家光に拝謁を賜る。二十五歳にして初めて近江の采地に入る。元禄八年(1695)十二月、高家となり従五位下侍従に叙任、駿河守。翌九年十一月十四日、本院御所崩御により御使として京に赴く。同十三年(1700)三月九日没、六十七歳。 [吏徴別録] 高家 元禄八年乙亥十二月十五日、交代寄合最上刑部義智拝領、 十八日、侍従改駿河守、此為一代高家[注9]、 交代寄合とは格式は大名に准じ、「雖小身、何モ留守居仕之、大概之格式万石以上ニ准ジ、勿論老中支配也」として、常に無役とはいえず、大番頭などを勤めることもあった。 最上氏が高家に列せられたのは、義智一代限りである。また「交代寄合」から「交代御寄合表御札衆となり、この名称が使われだしたのは、元文六年(1741)の「武鑑」からであった[注10]。 義智は女性運には恵まれなかったようだ。家譜などには「妻は松平和泉守某が養女、後妻は奥平美作守忠義昌が女、また西三条右大臣実条が女を娶る[注11]」としているが、これらの室は相次いで死別しており、最後にもう一人の女性が居たのである。 1、西三条(三条西)右大臣実条女 将軍家光の乳母であった春日局が、幕府の使節として京入りの際に、局の斡旋により大奥に入ったという。十七歳のとき松平和泉守乗寿の養女となり、「慶安三寅年十一月従御城直ニ駿河守方江被下置([畧譜])として、義智に嫁したことが分かる。過去帖には「渓台院殿華揚日経大姉 寛文二壬寅六月二日 西三条右大臣実条女 義智内室也」とある。 2、継妻 てい 奥平美作守忠昌女 家譜には「寛文四辰閏五ノ廿四死、廿三歳、号知光院槐窓寿禅尼」、また過去帖には「智光院殿槐窓寿貞大姉 寛文四甲辰五月廿四日 駿河守義智室」とある。 3、後妻 西三条右大臣実条二女 家譜には「寛文十戌六ノ廿九死、号梅林院花室春光大姉」、また過去帖には「梅林殿屋春香大姉 寛文十庚戌六月廿七日 渓台院義智妹」とある。(渓台院義智妹とは渓台院妹のこと) 4、後妻 奈津 本多内蔵助昌長女 本多昌長は、福井藩主松平越前守光通に仕え、禄高四万石の大身である。奈津は藩主の養女となり、最初に嫁いだ相手は公家の広橋貞光である。藩主の生母が広橋氏であった関係からか、この重臣の娘を養女として嫁がせたのだろう。寛文六年(1666)秋に貞光に嫁いだ奈津であったが、何故に離縁になったのかははっきりしない。貞光は元禄十二年(1696)七月に死去しており、義智の死は翌年の三月である。やはり貞光生存中に、広橋家を離れたのではなかろうか。過去帖には「松林院殿奥華良操大姉 宝永七年庚寅正月六日 駿河守義智室 本多孫太郎娘」とある。 [福井藩史料]には、「秋(寛文六年)、本多内蔵助昌長娘奈津、光通君為御養女、広橋参議藤原貞光卿嫁、後、最上刑部源義智嫁、 正月(宝永七年)十六日、最上刑部少輔源義智室卒、葬于武江浅草勝光山万隆寺、松林院殿貞花良操大柿[注12]」とある。 次男の義長は、幸いにも新知三百石を賜り別家となった。幕府としても、それなりの配慮を示したのであろう。 寛永十酉年九月十五日二歳之時、被拝召、兄駿河守分知可仕之処、当時御頚リ高之儀ニ付、於出羽国新知三百石被下、兄駿河守分知配当被仰付、追々御立可被遊旨被仰渡、大膳生長仕御書院番、延宝五年六月十九日死四拾六歳、浅草万隆寺葬[注13]、 その所領地については、当初は出羽の地の内であったようだが、孫の義武が元禄十一年(1698)家督の際に、「山形ハ遠国二付御引替願置、依テ家督時御蔵米」として、速い羽州の地は不便であろうことから、これを蔵米取りに変えている。 ■執筆:小野末三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら [注] 1、『山形市史・史料編1』 2、[注1]に同じ 3、[注1]に同じ 4、『山形の歴史』(川崎浩良) 墓碑名について詳しく述べている。長文の刻印も永い歳月を重ねたせいか、満足に判読も難しくなっている。万隆寺本堂は立派に再建され、墓所も綺麗に整備されてはいるが、「旧山形城主最上家之墓」には、あまり人の訪れた気配もなく、一抹の侘しさを感じる。 5、[聞老遺事](『南部叢書』・『青森県史・史料編近世1』) 6、[利直公御事蹟](『山形県史・古代中世史料1』) 7、『南部藩参考諸家系図』 8、『寛政重修諸家譜』 9、[吏微別録](『古事類苑・官位部』) 10、西田真樹[交代寄合考](『宇都宮大学教育学部紀要・第一部36号』昭61年) 11、『山形市史・史料編l』 最初の室については、割合と許しく書かれてはいるが、これを徳川家綱の侍女として、義智が押しっけられ妻としたとかと、面白く書いているものもある。 12、[国事叢記](『福井県郷土叢書』) 13、[畧譜](『内閣文庫所蔵文書』) |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
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