最上義光歴史館
最上義光歴史館:[暦/] |
最上義光の甲冑ペーパークラフトに引き続き、「大ふへんもの」の甲冑がペーパークラフトになりましたのは既報の通りでございます。
歴史館でも、ひとつ完成させねばなるまい! との下命のもと、私こと職員Hが作ることに相成りました。 当方「超」のつく不器用ですので、ちゃんと完成するか不安(;´Д`) とりあえず、さくさくっと印刷を。硬めの紙に印刷しませう。 ![]() 全13枚。 お使いのPC・プリンタ環境によっては、発色が異なる場合があります。 次は切り抜き作業。 ただひたすらに切るべし!( ゚∀゚)o彡 切るべし!( ゚∀゚)o彡 使う道具は、カッター・はさみ・定規。 曲線を切るときは、インクのなくなったボールペンで線をなぞって、 溝をつけておくと、切りやすいと思いますですっ。 ![]() し、しかし…変則的な曲線も多く、細かい中抜きも頻出…… 集中力も切れt あっ ( ゚д゚)… ( ゚д゚ ) …つづきます。 |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (8)】 また、その遠因として注目すべき点が、小野寺義道の腹心八柏大和守が義道によって誅された事件である。『奥羽永慶軍記』では、これを最上方の謀略としてえがいている。八柏が内通しているという内容の楯岡満茂が発した偽書状を、宛先を間違えたかのごとく義道の舎弟に届けた結果、義道は八柏大和守が裏切ったと信じこんでついに大和守を殺害したというのである。『奥羽永慶軍記』は、その偽書状を全文転載しているが、そもそも早くに改易され、石見に配流された小野寺氏の元に、しかも偽の書状がそのまま残存しているとは考えにくく、八柏大和守が本当に最上方の謀略によって殺害されたものか疑問ものこる。ただ、何らかの理由で忠臣八柏が誅殺されたことによって義道の信望が地に落ち、次は我が身と佐々木春道・西馬音内茂道ら周辺の国人領主達が態度を翻す契機になったとも考えられようか。 だが、要地湯沢城の城主小野寺孫七郎・孫作兄弟は最上方へと降せず、徹底抗戦の構えを見せた。乱戦の後湯沢城は最上方の手へ落ちたが、城自体のダメージも大きかったようで最上勢は駐留できなかったらしい(注16)。満茂は家臣原田大膳らを周辺に配置して自らは最上へと帰陣した。残った家臣達は周辺の諸城を手に収め、それに呼応する形で十月には六郷兵庫頭政乗が小野寺義道に反旗を翻し、小野寺勢との小競り合いが発生した。ここにおいて、義光は再び満茂を湯沢へと遣わし、湯沢城主として周辺の統治を預けた。 湯沢における、満茂の給地・その統治手段は詳らかでない。ただ、小野寺の本城横手は目と鼻の先であるから、小野寺勢に対する軍事行動の必要はあったと考えられる。原田大膳を始めとした家臣達を周囲の出城に配置し、また最上方に属した近隣の国人領主達と連携をとりながらその任を果たしたのであろう。同時に、湯沢城落城時の城施設のダメージは大きく、防御施設の復旧は急務であった。満茂は、冬の内にそれを完遂したと伝えられる。また、湯沢城のある上浦郡(雄勝郡)は、天正十九(1591)年に秀吉から公式に最上家の領有が認められており(注17)、公儀権力を背景に同郡の支配権力を確固たるものにしていったのではなかろうか。 <続> (注16) 『湯沢市史』(湯沢市教育委員会 1965) (注17) 二月廿六日付氏家守棟書状(「色部文書」) 本城満茂(9)へ→ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【本城満茂 (9)】 慶長五(1600)年の関ヶ原合戦時には、小野寺氏は一旦東軍へ付いたものの、家康が上杉征伐を中止し引き返すと、失地を回復せんと上杉へ呼応し、湯沢城一帯を攻撃する構えを見せた。『奥羽永慶軍記』長谷堂口会津勢敗北事条には、「同九月廿五日、最上出羽少将義光長谷堂表ノ敵イマタ退カス、陣ヲ堅ク張テ在シカハ後詰シテ追払ハント発馬シ給ヘハ、相従フ人々嫡子修理太夫義安・三男清水大蔵大輔・仙台ノ加勢伊達壱岐守・進藤弥兵衛尉・一族ニハ湯沢豊前守」とあるように、長谷堂合戦に満茂は参加した如く書かれているが、これは明らかな誤りである。この情勢下において遠路湯沢から山形表まで引き返してくることは到底無理な話であって、小野寺氏へ釘付けであったろう。同地域は、前述したように中小規模の国人領主が林立する状態であって、それらが完全に最上家へ服していたかというとそうではなく、状況如何では小野寺方へと鞍替えする危険も十分にあった。混乱した状況の中、孤立した湯沢一帯を確保するのに必死であったと思われる。 一旦は窮地に陥った満茂であるが、関ヶ原での東軍戦勝が報じられると、上杉勢は山形より退却した。頼みの上杉勢が撤退した以上、小野寺氏が最上氏、その背景にある徳川氏に抵抗する事は事実上不可能であり、湯沢一帯を切り取ろうとする動きは無意味な事となった。小野寺氏は、その後の戦後処理で東軍に反したかどで改易され、石見に配流されている。東軍勝利の報に接した最上義光は、上杉勢によって奪取された寒河江・谷地等の諸城を奪還し、翌慶長六(1601)年三月には志駄修理亮が篭る東禅寺城を攻めた。この時満茂は、「(前略)又酒田ノ城北ノ方ヨリ湯沢豊前守満茂大将トシテ、山北勢を催シ打寄ル、」とあるように、山北の国人領主や自らの家臣等を引きつれ、庄内平定に参加している可能性がある (注18)。 直接的な軍事行動によって、天正十六(1588)以降上杉氏の手に渡っていた庄内を奪還した最上家であったが、関ヶ原合戦後の戦後処理によって公的にその領土が認められ、さらに由利郡が加増された(注19)。新給された由利は、元来由利の国人であった岩屋氏(二千三百石)と滝沢氏(一万石)、そして本城満茂(四万石)へと与えられた。由利における満茂の支配体制、あるいは本城氏の家臣団管理を包括する給地の経営や軍役に関する考察は、前述したように『本城市史』を始めとした先行研究において十分な検討がなされているため、本稿ではこれ以降の動向の概略を記するに留めたい。また、由利入部後における本城氏と主家最上の関係と、その権力限界に関する考察と指摘は次稿に譲る。 <続> (注18) 『奥羽永慶軍記』義光切取田川・飽海事 (注19) 『寛政重修諸家譜』 本城満茂(10)へ→ |
さて、切り抜き作業の続きです。
全13枚ですから、それなりの数のパーツになります。 満智羅↓ ![]() 肩当て↓ ![]() なんという再現の細かさ…素晴らしい(;´Д`) ![]() この籠手の柄なんて凝りまくっちゃってますよコレ。 そのこだわりにシビれる憧れる。 前回のようなことがないように、慎重に慎重に… で、一通り切り終わった結果がこれ↓ ![]() すごく…多いです… 次回は折ったり張ったりしますっ! |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum