最上義光歴史館
最上義光歴史館:[暦/] |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (8)】 このように、庄内の統治に関する実務の多くは進藤・原らが行っていたように見うけられるのであるが、対して、志村や新関ら城主達が直接庄内の統治に関わったことを示す書状史料は少ない。慶長八(1603)年に志村光安が飛島及び沿岸諸村の雑税を徴収している(注20)が、前述したように慶長十三年段階に進むとその役割は進藤但馬が果たしている(注30)。また新関因幡に関しても、永田勘十郎に預けていた米を売却したい旨を永田へ申し送った書状が見られる程度であり、残存している書状史料は少数である。だが、直接統治に関わった史料がほとんど見られないから城主達の権限は小さいと断定するのは誤りであろう。実務の多くは家老達が実行していたといえども、抱えた案件を「次右衛門殿申上」たり、「即伊豆守に申きかせ」たりしている訳であるから、もちろん義光が介入しない限り最終的な決定権は城主達が握っていたと見てよい。また、北館大学に宛てた最上義光書状でも、 昨日朔日ニ大志田下候、為知候ハんためニ態書状越候、態書状越候、 明日三日ニハ清河へ可下候間、此等之段志村伊豆・下治右衛門方へ、 無嫌夜中可申断候事候、恐々謹言 七月二日 義光(花押) 北館大学とのへ (注32) と、内容は不明であるが、義光は重要な事であるから夜間を厭わず志村・下らへ伝えよと北館大学へ申し送っている。このように、重要な案件は城主同士が通達し、決定していたであろうし、また連携も密であったと考えられる。さらに、由利の岩屋右兵衛へ米の輸送に関して言及した書状を差し送っている(注33)し、笹子山落事件の際も本城(当時は赤尾津)満茂の報告を「上様」つまり山形に差上げ、その返答を中継しているのである。由利地方との交信は志村伊豆守の役割であった。 <続> (注32) 「本間美術館文書」七月二日付最上義光書状 (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』) (注33) 「秋田藩家蔵文書」八月十七日付志村伊豆守光安書状 (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』) 志村光安(9)へ→ |
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (9)】 庄内統治の実情を家老等の持つ権限という切り口で見てきたが、以上確認してきた事実関係から一歩押し進め、仮説とするとしたら以下のようになるであろう。 庄内の各地は志村・新関といった譜代直臣や、新しく直臣層へと取り込んだ下対馬へと与えられた。進藤・原ら家老達は、志村光安ら各城主の配下として庄内の民政・警察権の管轄という実務を取り仕切ってはいたが、最上家内での立場は最上家から直接知行を受けた義光の直臣であった。つまり、庄内は山形から離れてはいたが、支配の中心は最上家直臣層によって行われていたのである。また、城主達も、各々連絡を取り合い、最終的な決定権を所持していたと考えられるがそれはあくまで庄内に限っての事であり、城主・家老それぞれ制限を受けた上で領国支配を行っていたように見うけられる。庄内衆の中でも最大の知行高を持ち、最上家中でも大身の部類に入る志村光安とてこれは例外ではなかった。 また、これらは、最上義光自身の意向が庄内支配へ大きく影響していたことを想起させ、進藤ら中級家臣が実務を遂行している点は、他藩に見られるような中低級家臣の藩政参画のテストケースとも捉えられるのではなかろうか。このような義光のコントロールは、大学堰を始めとした新堰開削と、慶長十六(1613)年から翌十七年にかけて行われた庄内・由利検地に象徴される。 北館大学が義光に願い出て、志村伊豆守などが反対したものの義光がゴーサインを出し始まった新堰普請は、反対した志村が担当する区画の遅れが目立つなど当初進展が捗々しくなかったらしい。そこで北館大学は再び義光に申請し、自らの裁量で工事が進められる事となった。この工事には、庄内・由利全域より人足が徴発された。その割り当ては各々二十石に一人の割合であり(注29)、この普請が最上家内での軍役の一つであること、従って義光主導の元進められたことは明確である。 最上家が庄内・由利を拝領して十年経った後に行われた検地は、一つに幕府による軍役負担の増大、第二に新田等低年貢地の年貢増徴、第三に新田開発による地主層の地位の相対的低下による検地の実施容易化を背景に押し進められたものだった。この検地に奉行として従事したのは、志村や本城といった大身の城主層ではなく、庄内河南は日野備中、河北は進藤但馬、由利は日野・進藤両名の千石前後を知行していた最上直臣達で、さらに請取役(点検役・実質責任者)はいずれも高三百五十~五百石の最上家中堅家臣であり、これら直臣を運用し総指揮をとっていたのは最上義光自身であったのである(注34) 。 <続> (注34) 井川一良「最上氏慶長検地の実施過程と基準」 (『日本海地域史研究 第11輯』日本海地域史研究会 1990、初出は1983) 志村光安(10)へ→ |
最上義光のこと♯4
【義光の戦いぶり】 戦国時代に生まれ生きた義光は、当然戦いはしなければならなかった。しかし、その戦いぶりには、明らかな特徴が見て取れる。 一つは、人命の損害をできるだけ少なくしようという努力である。もう一つは、降伏した敵の将兵をすべて許し、家臣団に編入したことである。 上山が伊達と最上義光の間にあって去就に迷っていたとき、義光はあえて武力に訴えなかった。上山の重臣層が内部分裂を起こして結局最上に従った後は、その地の支配を上山里見家の一族にゆだねている。 ことは天童家(里見氏か)との対戦でも同様である。天童を中心とした村山北部の勢力は同盟して最上に反抗した。義光は軍勢を差し向けたものの、力づくで殲滅しようとはしなかった。同盟の結束を政略結婚で弱体化し、そのうえで攻撃をしかけ、盟主天童頼澄が奥州へ逃亡するのを見逃したのであった。もし義光が天童家を完全に滅すつもりなら、いともたやすい情況だったにもかかわらず、彼はそれをしなかった。 天童氏が今なお宮城県内に名族として残っている背後にはこのような歴史事実があつたのである。 金山、真室川の領主、佐々木典勝が、最上に抵抗を続けていたのを、無駄に殺すなという義光の方針で生き延びて、後日最上義光に帰参して一万千石余の本領を安堵された例もある。 戦って敗れた寒河江一門や、降伏した上杉軍の将兵に対する扱いの寛大さも驚くほどだ。寒河江肥前は、二万七千石(異説あり)という高禄を与えられた。下次右衛門は、降参後は庄内攻めの先鋒とされて功績を賞され、一万二千石を与えられた。 慶長六年(1601)に、上杉領だった酒田東禅寺城を、最上軍は大挙して攻撃した。城将川村兵蔵、志田修理亮らは死力を尽くして戦うが、及ばずして降伏する。山形にいた義光は、降伏したものが最上家に仕えるならそれもよし、会津に帰るならそれもよしとした。まことに大らかな扱いだ。両将は、この扱いに感謝しながら素直に上杉家にもどつていく。 よく知られている白鳥十郎誘殺事件。これなどは、もし戦えば惨憺たる大戦になるところを、トップを討ち取るだけで済ました、という見方をすれば、残酷とか非道とかいうには当たるまい。多くの民衆にとつては、このほうが遥かにありがたいことだった。 なお、そのときも白鳥家の重臣(一門のものも含むか)は許されて現地の有力者となった。現にその子孫といわれる家が存続しているのは、何よりの証拠といってよいだろう。 ちなみに白鳥十郎をだまし討ちにしたときの血飛沫が散った桜樹が「血染めの桜」であるという、広く知られた物語は、江戸時代、明治時代を通して、山形の名所名木ないし物語としてまったく記録されたものが見当らない。明治最末期の明治四十四年『山形県名勝誌』、四十五年『山形略記』にもなく、私が見たかぎりにおいて、大正五年発行の『山形市誌』が最もはやいものだ。 その前後から、「血染めの桜」はその他の印刷物にも取り上げられるようになったのであろう。 更に兵営内で生活を送る兵隊たちは、上官から士気を鼓舞する趣意で繰り返しこの話を聞かせられたはずだ。「連隊にいるときよく聞かされたものだ」と語る人が、しばしばある。兵隊は、除隊して家に帰るとそれを親類知人に語って聞かせる。こういうことが終戦までの約三十五年、入営、除隊の度に継続されたために、あたかも史実であるかのように「血染めの桜」は、民間に広く深く行き渡ってしまったのだろうと、私は推定している。 ■■片桐繁雄 つづく 前をみる>>こちら ※「血染めの桜」は山形城二の丸(現霞城公園)にあった桜の老木。昭和32年に倒壊。明治31年から山形城二の丸には歩兵第三十二連隊が駐屯し、「血染めの桜」は連隊のシンボルとされ、その老木の前に連隊旗が安置されて、一般市民にも拝観が許されたという。 |
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先
【一 最上氏に仕えていた頃の佐竹内記】 元和八年(1622)最上氏没落による藩の解体は、それはあの大家臣団の消滅を意味するものである。だが武士の道を捨て難く、新たな主家を求めようと、全国に散っていった者達の数も、決して少なくは無かったのである。 この羽州最上時代の三種の分限帳から、佐竹姓を拾ってみよう。 A[最上義光分限帳] 土佐(物頭・655、7石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 忠次郎(100石) 内蔵允(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(30石) 雅楽助(20石) 宮内(30石) 弥五郎(10石) B[最上家中分限帳] 土佐(物頭・650石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 宮内(30石) 右次郎(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(40石) 雅楽助(20石) C[最上源五郎御時代御家中并寺社方在町分限帳] 内記(220石) 大八(160石) 源六(43石) 平内(74石) 宮内(15石) 忠二郎(42石) 喜八郎(47石) 雅楽丞(10石) 長十郎(5石3人) 五左衛門(30石) 半右衛門(16石) 藤右衛門(5石3人) 以上、最上氏直参の分限帳から佐竹氏を拾ってみたが、これに陪臣として仕える者達を加えたならば、更に多くの佐竹を名乗る者達が居たであろう。この分限帳の佐竹氏の内から、内記と関わりを持つ者が果たして居るのか、その接点を求めるのは困難である。ただ平内とある人物が、後の小泉平内なのだろうか。 ここで、物頭級の土佐・政右衛門・内記の三人を見ると、A・Bには共に土佐・政右衛門が有るが内記は見えず、Cは内記のみで他の二人は無い。土佐・政右衛門の二人は、Cの最上義俊の代には、もう姿を消していたのだろうか。当時の山形城下を措いた[最上家在城諸家中町割図]には、内記・土佐と別々に屋敷があるが、政右衛門は見当たらない。また城北の郊外の一画に、「佐竹内記下屋敷」と広大な区画が有るが、内記の禄高から考えてみると、少しは奇異な感じを覚えるのだが。 内記の最上時代の足跡を探し出すのは難しい。元和八年(1622)藩内騒動による藩の解体は、辛うじて近江・駿河の地に一万石を与えられ、何とか大名として息を継げた最上源五郎義俊(家信)であった。 しかし、この落差の激しい身辺の変化に耐えかねてか、寛永八年(1631)「長々相煩」の中で生涯を閉じることになる。 この失意の義俊に付随の家臣の内に、内記の姿があった。『最上家譜』や『最上家伝覚書』によると、幕閣に於いて、義俊亡き後の家名存続についての協議が為され際の、最上氏側の代表として、柴橋図書・鈴木弥左衛門と共に内記の姿がある。江戸の大手門前の広大な屋敷を明け渡し、向柳原の下屋敷に移った最上氏であった。江戸を一歩も出ない義俊を支え、藩の運営に携わっていた内記であったろう。 しかし、義俊の死により五千石の旗本身分となる最上氏が、禄高の半減に伴う家臣団の整理などに伴い、内記も柴橋図書と共に、最上氏を去ることになる。その経緯について『柴橋家由緒書』は次のように云っている。 源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時、壱万石(五千石)被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重而又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、法名花林春松居士佐竹末孫奥平氏山形之城主美作守方有之、 このように、知行半減の旗本身分の家中に於いては、先ずは家臣団の整理が急務であったろう。柴橋図書と共に最上氏を去った時期は、同じく柴橋氏の記録の[寛永拾一年諸御道具御改脹面人数]の十一名連署の内に、柴橋図書と共に内記の名もあるから、寛永の十二年以後のことであろう。また、この柴橋氏の記録から、内記の子の与二右衛門が、山形藩当時の奥平氏に仕えていたことも分かってくる。 ■執筆:小野末三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum