最上義光歴史館
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先
【『親類書』から探る一族の消息】 近世諸藩の大名家に於いて、下層に位置する一部の者達を除く士分達は、自己の素性・姻戚等を明らかにする『由緒書・先祖書』などを、藩に提出しなければならなかった。また独自の『親類書』などの作成もあり、これらが一人の藩士の戸籍簿として、代々、書き継がれていっている。 ここに取り上げたのは、元和八年(1622)八月、家内騒動を理由に改易を受け消滅した羽州の大藩最上氏の、旧臣の一人であった佐竹内記に関わる『親類書』である。いわば現代の『戸籍簿』に通じるものであり、各藩士の家族構成を把握する上に於いて、不可欠な材料の一つである。 佐竹内記を筆頭とする佐竹氏一系が、どのような形で最上の地を去り、別天地で生きる道を開拓して行ったのか。それらを明確にできる程のものは何も無い。ただ『親類書』を足掛かりに、調査の広がりを求める他はないようだ。 武州忍藩阿部豊後守忠秋の家臣、佐竹伝右衛門書上げの『寛文五年 御家中親類書』(以後、『親類書』とする)が、この調査の中核を為すものである。先ずはこれから取り上げてみよう。 一 本国羽州最上 佐竹伝右衛門 生国武蔵江戸 年廿三 奥平美作守殿家来 一 古主 掘田上野介殿 一 同 佐竹儀左衛門 一 寄親 松井勘左衛門 太田備中守殿家来 一 巳二月被召出候 一 同 小泉平内 掘田上野介殿家来十年前相果 北見久大夫殿家来 一 親 佐竹伝兵衛 一 伯母婿 小川十郎左衛門 同断今□浪人 久世大和守殿家来 一 兄 佐竹伝兵衛 一 従弟 佐竹新五郎 松平伊賀守殿家来 掘田市郎殿家来 一 伯父 佐竹市右衛門 一 同 佐竹辰之助 同 松平伊賀守殿家来 一 同 佐竹与二右衛門 同 佐竹市大夫 奥平美作守殿家来 一 同 佐竹左五右衛門 この『親類書』書上げの佐竹伝右衛門は、本国を羽州最上、生国を江戸とする二十三歳の若き藩士である。今は亡き父を伝兵衛と云い、先の主が掘田上野介正信であったことが分かる。ここに記載のある縁者とは、実父・実兄と四人の伯父達と一人の伯母婿、そして四人の従兄弟達の十一人である。しかし、この『親類書』からは、本論の柱となる佐竹内記の姿を見ることはできない。この佐竹氏一系の棟梁としての内記が、その姿を見せたのは、『親類書』の伯父の一人の小泉平内が伝える『佐竹家譜・元小泉』 (以後、『家譜』とする)である。この『家譜』の発見が無ければ、佐竹氏一系の内記を頂点した流れを、掴むことはできなかったであろう。先ずは『家譜』から、内記と平内に関わる記述を拾ってみよう。 「佐竹家譜 元小泉」 最上出羽守家土 佐竹内記某五男 初代 某 五左衛門 四郎兵衛 平内 致仕是心 母不知 一 出生月日出地初名等不詳、 一 妻不知 一 寛永年中月日不知、瑞華院様御代、北見久太夫殿肝煎を 以御馬廻被召出、知行百五捨石拝領候、 一 年月日不知五捨石御加増拝領候、 一 寛文五乙巳年、物頭被仰付、弓組御預被仰付候、 一 同十一辛亥年、鉄砲組御預被仰付候、 一 延宝六戌午年八月十一日、五捨石音御加増拝領候、番頭 被仰付候、 一 同八庚申年十月十一日、病気ニ付役儀御免、願之通隠居 被仰付、 御扶持方拾人扶持被下候、隠居名是心ト改、 一 貞享三丙寅年十一月十三日、於駿州田中死去、葬同所大慶寺、 小泉平内に関しては改めて後述するが、『家譜』の冒頭の「佐竹内記某五男」から、内記が最上義光の家臣であったこと、さらに『親類書』に登場する人物達の、棟梁であったことが判ってきた。本論は、この二点の史料を基にして、あの羽州の地で栄光に満ちた最上の時代を生き抜き、そして新たな道へと歩を進めた者達を追っての、いわば追跡調査というべきものである。 ■執筆:小野末三 次をみる>>こちら |
最上義光のこと♯1
【人間評価のむずかしさ】 ひとりの人物をどう評価するかということは、なかなかむずかしい問題である。 戦時中私たちは、足利尊氏は乱臣逆賊の典型のように教えられた。戦後では、田沼意次が贈収賄に明け暮れて、腐敗政治の元凶のように教えられたこともある。 しかし、その後聞いたり読んだりしたところでは、尊氏にしても意次にしてもなかなかすぐれた人物であり、その業績も高く評価される面があるとのことだ。 時代が変わることで判断の基準が変わり、従来目の向けられなかった面が脚光を浴びたりして、人物評価はさまざまに変わるのだろう。 さらには、史料の取り上げ方によって実像から離れた人物像が形成され、それが広く流布してしまい、一般の評価がなされてしまうというような場合もある。 実は、最上義光に対する現今世上の評価は、どうもこれらしいのだ。 ■■片桐繁雄 次をみる>>こちら |
最上義光のこと♯2
【今までの最上義光評価】 大正二年(1913)は、最上義光没後三百年に当たっていた。 山形城を築き、山形市の原型をつくりあげた英傑ということで、山形市民は盛大な記念行事を行なった。 その総括として翌年に発行された記念誌では、次のように最上義光をたたえている。読みにくい文体だが、一部を抜き出してみよう。 「国民にして尚武の気風甚だ貧弱なるに於ては到底宇内列強の競争場裡に立ちて対峙的態度を取ること能はざるを知らざる可らず、由来英雄栄拝が日本国民性として意義あるも亦た以なきにあらざるなり、我が山形中興の最上義光公の如きは此意味に於て最も崇仰すべきグレートマンたると同時に山形市が今日に於て東北地方の一都市として雄を競ふに足れるも亦た要するに公が遺徳と遺績の之が因たらざる可らず」 このように、西欧に追い付き追い越そうとする時代風潮を反映して、高い評価がなされている。 戦後は武人的な面は強調されず、単純に 「山形の城や町をつくった大名」となり、義光祭もまた商店街に活気をもたらすイベントとなったのだった。 ■■片桐繁雄 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
最上義光のこと♯3
【「悪人」義光を定着させたもの】 義光についての評価が大きく変わったのは昭和四十年代、きっかけとなったのは『山形市史』である。この浩瀚な通史は、戦国奥羽の諸侯のなかでもリーダー格であった義光を、まことにつまらぬ人物として叙述した。 『市史』では、中世末から近世初期における義光時代に多くのページを割き、多方面にわたる彼の業績を紹介しながらも、義光の人間像については、傲慢で残忍、冷酷、一族を根絶やしにし、謀略をこととし、権威におもねる人物というような性格づけで貫いている。 「義光の強引にして不遜な態度には義守も怒り」(中巻 近世編 P8) 「義光は武勇のみならず、謀略にも長じ…」(中巻 近世編 P18) 「ここに義光は、残忍とも言える態度で、一族等の根絶やしにかかった。」(中巻 近世編 P13) 「谷地を屠った義光は、勢いに乗じて川西地方の掃討を断行した。」(中巻 近世編 P22) 文章記述だけでなく、「義光の追従外交」(中巻 近世編 P37)という見出しを設けて、豊臣・徳川に臣従したのは義光の権威にへつらう「追従」であるとした。だが、そもそもこの時代はどこのどんな大名にしても、豊臣や徳川に反抗できる情況ではなかったのだ。 このような文言でもって、義光の人間性を、俗な言い方をすれば、引きずりおろしてしまったのであつた。 昭和五十二年に山形城址に義光像を建立しようとしたとき、文化人の間からは猛烈な反対運動が起きた。 「血で血を洗う武力闘争と、権謀術数でもって地域を制覇した最上義光のような人物の銅像を、平和都市山形の市民憩いの場に建てるとはなにごとか。」 反対者の意見はつまるところ、こういうことだった. そしてそれは、ほかならぬ 『山形市史』が作り上げた義光の人間像を、鵜呑みにした考え方だった。 『市史』が信頼すべき公的出版物として大量に発行され、全国の都道府県や大学の図書館に頒布されたのだから、戦国時代を研究する人たちや、戦国に主題をとる文筆家は、たいていこれに従うこととなる。 「羽州の狐」「狡猾無慈悲」「冷酷残忍」式の枕詞が義光を形容する言葉となった。某女流作家などは 「私のもっとも嫌いな人物」と一刀両断するにいたる。 本来なら客観記述を要請されるはずの歴史辞典でさえ「冷酷、最上義光」を潜めた記述になっているものがあって(戦前発行の辞典類はそうではない。)、『山形市史』の影響の根深く強いことに驚いてしまう。 だいぶ前のNHKの大河ドラマ『独眼龍政宗』では、主人公政宗に光をあて、彼を愛すべき尊敬すべき大人物とするために、対照的な役まわりにされたのが最上義光であった。時には競争相手となり、時には敵対して小競り合いを起こしたこともある義光が、その損な役にされたのも、劇の構成上は仕方がなかったのかもしれない。 しかし、多くの人は、このフィクションを、史実であるかのように受け取ってしまった。 「山形の殿様最上義光とは、あんなふうに陰気で残忍な、暗い人間だったのか。そうだったのか。わかった。」 多くの人がそう思い込んでしまったところがある。そして、その余波は今以て消すことがむずかしい。わたしの狭い経験でも、いろんな人からそういう意味のことをまともに言われた。 このことは、やや大げさに言えば、山形人の精神にまで影響を及ぼしているような感じがするのだが、どうだろうか。 出羽の国が成立してからまさに千四百年。その長い歴史のなかで、最大の業績を成し遂げた出羽の人、現山形県の最上川流域の発展に絶大な功績を残した山形人武将が、陰険で狡猾、卑小な人物だったとなれば、山形人としてはふるさとの歴史そのものに自信を失いかねない。 たいせつな故郷と、山形人自らのプライドを失うことにつながっていくだろう。 それならば、本当に最上義光はその程度の、つまらぬ人物に過ぎなかったのか。 かれが武人としてなした仕事、ひとりの人間として残した文学作品や近親知人にあてた手紙類、領国の支配者としてなした地域発展のための業績、もたらした文化的な遺産等々をつぶさに見ていけば、今世上に行き渡っている義光像は、大きな誤解から生まれたものだと言って間違いあるまい。 ■■片桐繁雄 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
午前9時から午後6時まで
※午後6時までご入館の方は午後6時30分までご覧いただけます。