最上義光歴史館

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (6)】


 前述したように、慶長六年に東禅寺城(亀ヶ崎城、以下亀ヶ崎城に統一)に志村が移封されて後の庄内の統治は、志村・下・新関らの各城主が連携しあい、また進藤但馬・原美濃ら各城の家老と比定されてきた者達がある程度の実務を遂行していた形跡が見られる。その関係性の実情を探るにあたって、各々が発給した書状史料に注目して検討を試みる。
 考察を進めるにあたり、前提としてこれら城主と家老たちの関係、そして主君最上義光との関係を見ておかねばならないだろう。進藤ら家老達は、最上家臣としてどのような位置にあったのだろうか。
 『山形県史』ならびに『酒田市史年表』は、原美濃を大山城主下対馬守(治右衛門)の家老、進藤但馬を亀ヶ崎城主志村光安・光惟の家老であるとしている。まず、この事実関係についての確認を行いたい。

   貴札并作右衛門殿御口上之通、即伊豆守に申きかせ候、
   さてヽヽ越国之金鑿衆、篠子と仙北境にて山落つかまつり、
   十二・三人討捨申由被仰下候、驚入申され候、…(後略)
   (注23)

 右の一文は、慶長十四(1609)年六月に、由利郡東部の笹子において発生した笹子山落事件に関して、進藤但馬が赤尾津(本城)満茂に対し山形へ連絡したこととその返答を申し送っている書状の一部であるが、傍線部「即伊豆守に申きかせ候」とあるのが見える。進藤但馬は、かかる重要事案に関して「即」「申し聞かせる」事ができる立場にあったのであり、志村光安と共に亀ヶ崎城に居って職務に携わっていた、つまり家老的立場であったとするのが妥当であろう。
 原美濃は、上記のように直接的に志村や下ら城主とのやり取りを記した書状史料は見当たらないが、以下に挙げる史料によってその立場を検討しえよう。

   無音村年具之覚
  一、 高四百四拾四石七斗九升者
    (中略)
  右地所相渡者也、仍如件
   慶長十七年      進藤但馬 印
      十一月二十七日    安清(花押)
              原 美濃 印
                 頼秀(花押)
     北館大学殿  (注16)

 とあり、両名が連署して年貢覚を北館大学に通達している事が分かる。また、元和元年頃発給されたと推定される(注26)書状群においても両者の連携が見られる。

   追而、彼飛脚一人、人留無相違御通可有之候、猶々□有かせきの由、
   次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候 已上

   先日亀崎より走申候故、貴殿御念故、小俣村ニてとらへ申候、
   忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候、又大嶋手柄被申候由、
   我等所へも被越候、(略)(注18)
 

 原美濃守が、有沢采女に対し亀ヶ崎から欠け落ちた者を召捕った大嶋某と言う者を賞する事を報じた書状であるが、これと同日付で同じ懸案を記した進藤但馬発給の書状が存在する。

   一書令啓上候、此方より牧野安芸武井内之者闕落申候ニ付、
   濃州様より貴殿へ被仰遣候ヘハ、程々御念被入候而御穿鑿被成、
   越後之内小俣村ニ而とらへ申事、(略)(注19)

 上記二つの書状実線傍線部を参照すると、原美濃・進藤但馬双方が書状を発給した事を双方が把握し、亀ヶ崎よりの欠落という事件に対して連絡をとりつつ「各々へさうたん(相談)」しながら対処していることが判明する。また、点線傍線部を見ると、原美濃書状は「亀崎より」進藤但馬書状は「此方より」と自らの在所が区別されているように見て取れることから、原美濃は亀ヶ崎城に在城してはおらず、また「次右衛門殿」へ申上げるとあって次右衛門は治右衛門と同音であり、これは下治右衛門を指すものであろうか(時期的に見て下吉忠の継嗣下秀実であろう。慶長十七年八月十五日付下秀実宛行状(注27)において、下秀実が治右衛門を称していることが確認される)。同事件に関わるもう一通の書状にも、

   (前略)亀崎より闕落申候弐人之者、小俣村にて搦申候事、
   貴殿無御油断御念入候故と存候、(中略)貴殿より我等所へ
   御越候書状をも、今朝亀崎へもたせ越候、(後略)(注17)
 

 とあり、「我等所」と「亀崎」を明確に他所と区別している。これらいくつか挙げた書状の内容を検討する限り、原美濃が下対馬守の家老である可能性は高く、進藤但馬と原美濃は異なる居所、恐らく亀ヶ崎と大山において同等の家老的立場とそれに伴う権限を持って統治に当たっていたと考えるのが妥当だ。
<続>

(注26) 『鶴岡市史』(鶴岡市 1962)
(注27) 「鶏肋編所収文書」(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (7)】


 それでは、進藤・原達は最上家臣の中でいかなる立場にあったのであろうか。〈最上義光分限帳〉を参照してみよう。分限帳には、「高千五百石 原美濃」とあり、同様に進藤但馬は、〈最上家中分限帳〉に知行高八百七十六石と記載されているのが確認される。〈最上義光分限帳〉でも近藤但馬なる人物が同じく八百七十六石の知行高を受けており、進藤と近藤を混同したのであろうか、恐らく同一人物であると推定できる。進藤但馬は、上記の知行を最上氏から受けてはいたが、同時に進藤楯千五百石をも宛行われていたともされる(注28)が確証はない。これら家老達は、本城氏における家老原田大膳や、鮭延氏における庭月理右衛門ら陪臣城主層とは最上家から直接知行を受けているという点で性格を異にしており、城主指揮下にありながらも義光の直臣という側面を併せ持っていたことがわかる。これら進藤等の上司であった志村・新関の各城主達は、最上譜代の直臣層出身の城主であり、鮭延氏ら国人衆出身の城主に比べれば自らの家臣団はごくごく小規模であったと考えられる。これを考慮すれば、進藤らは庄内に移封され、地域支配を行うにあたっての人的資源補強という観点から、義光より与力として派遣された者等であったろうと推定できる。

 さて、これら家老的立場にいた者たちは、庄内を統治する上で如何なる範囲に影響を及ぼしていたのであろうか。まず目に付くのが、先に挙げた亀ヶ崎より「闕落申候弐人之者」に関わる書状群である。前記した原美濃書状を再び挙げる。

   追而、彼飛脚一人、人留無相違御通可有之候、猶々□有かせきの由、
   次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候 已上

   先日亀崎より走申候故、貴殿御念故、小俣村ニてとらへ申候、
   忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候、又大嶋手柄被申候由、
   我等所へも被越候、又大嶋手柄被申候由、我等所へも被仰越候、
   将又村上長老□衆へ、御領分ニ而とらへ申候事、忝由飛脚御越候、
   小俣村へ御人留衆御馳走の由、我等も御年寄中へ申入候、
   其元より足軽衆一人、小俣まてさしそへ候て、
   其自分御馳走忝由可被仰候、又彼使越後不案内之由申候間、
   様子をも御おしへ可然存候、恐々謹言
            原 美濃
   卯月廿六日        頼秀(花押)
       有沢采女殿  
           参(注18)

 亀ヶ崎より逃散した者を越後村上の小俣村で捕らえたことを賞し、また村上の家老衆にその事を謝したこと、そして受け取りに足軽一人を派遣することを報じ、そして不案内であろう足軽の案内を要請したい、というのがこの書状の大意であろう。「小俣村へ御人留衆御馳走の由、我等も御年寄中へ申入候」とあり、原美濃と村上藩の家老レベルで折衝が持たれたようで、また同時に、原は「次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候」と下次右衛門をはじめ進藤但馬や新関因幡等と相談をしていたことが推測される。下対馬守の居した大山城は川南の要衝であり、下対馬守は配下を鼠ヶ関・小鍋・関川の三道の守衛として置いていたというから(注29)、越後への往還に関する案件は大山城の管轄であったのだろう。原美濃は、領内で起きた逃散を取り締まり、その事後処理を他藩の者と折衝する公的権力を下対馬守に代わって行使できる立場にあったとみてよい。

 また、進藤らが司ったのは領内の警察権のみではなく、民政にもその範囲は及んでいたようである。前掲した北館大学へ対する年貢覚は両名の連署であるし、慶長十三(1608)年十二月には進藤但馬が雑税の徴収を管轄している(注30)。ただし、城主が志村光惟に代わってからは、租税の徴収の管轄は酒田商人の永田勘十郎が行っているようである。また、慶長十九(1614)年には原美濃が加茂に新設された新岡町の諸役を三ヵ年免ずることを同町肝煎に通達している(注31)。
<続>

(注28) 『庄内人名辞典』(庄内人名事典刊行会 1986)
(注29) 『山形県史 巻1』(山形県 1973)
(注30) 「永田文書」進藤但馬請取状、ただし、城主が志村光惟に代わってからの租税の
徴収は酒田商人の永田勘十郎が行っているようである。
(注31) 「鶏肋編所収文書」原美濃書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


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『歴史館だより No.17』

最上家信奉納の神馬図 
執筆:宮島新一 (山形大学教授/日本絵画史)  

昨年のボランティア活動をふりかえり、今後の活動におもうこと   
執筆:阿部久照 (最上義光歴史館サポーターの会「義光会」会長)

参加者の声 こども講座  
執筆:武田真依/伊関光彬/谷口奈生

研究余滴「義光文書と古語辞典」  
執筆:長谷勘三郎

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