最上義光歴史館

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜

【鮭延秀綱 (2)】

 本章では、鮭延秀綱が天正九年に最上家に降ってより後、最上家内での立場をどのように変化させていったかをテーマとして論を進めていく。
 なお、論述の重きを置くポイントとしては、比較的文書史料の残存状況が良好な天正期、鮭延の働きが顕著な仙北紛争期、南出羽に最上家勢力が確立した関ヶ原の戦後〜元和期の三つの段階に分けて検討していきたい。


1、天正期の鮭延秀綱

 最上地域(現在の最上地方)は、内陸から庄内、あるいは秋田へと続く交通の結節点であり、同時に南出羽の大動脈とも言うべき最上川を押える要地であった。また同時に、北に仙北小野寺氏、西に大宝寺武藤氏、南に最上氏と強大な三勢力がこの要衝を欲して干戈を交える地勢でもあった。そこに割拠した鮭延秀綱は、一体どのような意図の元に最上家勢力内に組み込まれていったのであろうか。
 
 鮭延氏は、元々仙北の領主小野寺氏の勢力下にいた。だが、鮭延秀綱の父貞綱が鮭延郷に移った大永・天文年間には、小野寺家中の内訌の影響もあって、鮭延氏に対する小野寺氏の影響力は薄れる一方であったようだ(注8)。しかし、その後鮭延氏は独立独歩の道を歩んだわけではない。他の中小規模国人領主の例にもれず、常に強大な勢力の影響を受ける立場にあった。秀綱が家督を継ぐ以前から、庄内の武藤氏は最上地方領有の望みを持って幾度も鮭延郷をはじめ最上地方の各郡へと兵力を繰り出している。特に大規模な戦いとなったのが永禄六年と同八年の侵攻である(注9)。その結果最上地方の大部分は武藤氏の手に帰し、鮭延氏も武藤氏の強い影響下に置かれていたようである。秀綱は当時幼少期であったが、『鮭延城記』に、「茲に又永禄六年の役典膳(秀綱の父貞綱)の次子源四郎當歳なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられるを〜」、『鮭延越前守系図』(注10)によれば、「永禄ノ役ニ荘内ニ虜トナリ彼地ニ成長シ幼ニシテ逃レテ城ニ皈リ主トナル、」とあり、秀綱は永禄六年の戦の結果人質として庄内に連れ去られたという記述がいくつか見える。
 この二つの資料は、あくまで明治後期〜大正期にかけて鮭延瑞鳳氏によって著述された郷土研究資料で、それ以上の価値を見出す事は難しい資料である(注11)為この記述がそのまま真実であるかどうかという事を断定はできない。だが、鮭延氏遺臣の著した『鮭延越前守公功績録』ではかなり念入りに鮭延源四郎(秀綱)が庄内にいた描写がなされており、興味をそそられる内容ではある(注12)。

 最上地方が武藤氏の勢力圏となったことを座視している最上義光でもなかった。天正三年頃には、家中の抵抗勢力をある程度排除して最上家の主導権を掌握した義光だったが、さらに地歩を固めようと上山・東根・楯岡らの周辺諸地域を勢力下におさめた。さらに、天童八楯の繋がりを背景に強固な勢力を誇っていた天童氏に対しては和議を結ぶ一方、その裏で八楯に対する切り崩し工作を行い、その力を弱める事に余念がなかった。そうしてひとまず近隣の安定化を達成し、将来的に庄内地方の領有を望んでいたであろう義光にとって、次の目標が最上地域となるのは当然の事だったのである。天正八年、義光は攻略の手を小国(現在の最上町)へと伸ばした。当該史実に関する根本史料は無いに等しいが、『奥羽永慶軍記』によれば、

  天正八年ノ頃、小国領主細川三河守モ天童頼澄ノ舅也ケレハ、
  天童ニ力ヲ合セ本望ヲ達セント、計畧ヲ廻ラスヨシ聞エケルハ、
  山形ヨリ大勢ヲ差向終ニ退治ヲセラレケリ、此時蔵増安房守
  軍功ヲハゲマスニ依テ、小国ヲゾ賜ヒケリ、依テ蔵増ガ嫡子
  小国日向守光基ト名ノリケリ(注13)

 とあり、この侵攻は最上地域における拠点確保と天童氏の弱体を一挙に行う事を意図したものであったと推測される。さらにこの翌年の天正九年、義光は一連の最上地方経略計画を完遂するために鮭延郷へと侵攻した。

  鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
  其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
  今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並袴
  指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、
  返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、
  万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、
   五月二日   義光(鼎形黒影印)
       庭月殿 (注14)

 とあるように、義光は鮭延氏の家老格であった庭月氏を懐柔して、鮭延氏周辺の切り崩しを図っている。なお、鮭延氏攻略の責任者には氏家尾張守が充てられた。氏家尾張守といえば当時の最上家での宿老的存在であり、またこの文書中でも「氏家尾張守為代職指遣」「氏尾所へ被罷越可然候」としているように、庭月に対して「氏家は義光の代理である」事を殊更に強調している。氏家尾張守は義光の期待に十二分に応え、鮭延城を攻略し鮭延氏を臣従させる事に成功した。また同時期に、新庄の日野氏をも降して、最上地域のほとんどを最上家領国化している(注15)。
 ここで注目したいのは、「鮭延就致我侭」と義光に対して抵抗の姿勢を見せていたにも関わらず、前年に攻略された細川氏と異なり、鮭延氏は降伏後その所領を安堵されている事だ。細川氏がどのようにして攻め滅ぼされたかは前述した通り判然とはしないが、細川氏が領主の座から追われて最上派の国人領主(蔵増氏)がその後釜に据えられている事に比べると、鮭延は非常に厚遇され最上家に迎え入れられたと見て間違いないだろう。これには、義光が、地勢的理由のみならず、鮭延を傘下に取りこむ事に対して様々な価値を認めていたであろう事が理由の一つとして考えられるのだ。その利用価値の大きな部分を占めていたのは、鮭延が持っていたであろう他勢力へ対する影響力だったと推察される。
<続>

(注8) 『真室川町史』(真室川町 1997)
(注9) 『同』
(注10) 「正源寺文書」(『山形県史史料編 2』)  
(注11) 前掲 粟野氏論文(1983)
(注12) 「早川家所蔵文書」(『新庄市史史料編 上』) 
(注13) 『奥羽永慶軍記』 谷地・寒河江落城ノ事 (『新庄市史史料編 上』)
(注14) 「楓軒文書纂所集文書」 天正九年五月二日付最上義光書状写 (『山形県史 史料編1』)
(注15) 『新庄市史』(新庄市 1989)など


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【鮭延秀綱 (3)】


 鮭延が、永禄の中頃から大宝寺武藤氏の強い影響力の元にいた事は前述した。その経歴から考えても、武藤氏及び庄内の国人と鮭延氏の間には、ある程度強い結びつきがあったようだ。義光が庄内へと勢力を伸張させようと目論んだ天正十(1582)年から天正十一(1583)年にかけた一連の軍事行動の準備段階として、鮭延は、庄内の有力国人衆へ対して調略を仕掛けている。下に挙げた書状は、鮭延が来次氏等に対して最上方に翻意するように勧めていた事が窺える書状である。

   自鮭延殿御音信被申上候間、御使今朝其表へ相送申候つる、
   定而参着可申哉、野拙処江も書状ヲ差越被申候、為可入御覧差挙
   申候、何共不聞得文書ニて候、以分別可致返章事難弁候間、
   當座之挨拶迄ニ而令返酬候、如何様近日中以参上、
   心事可申述候間、令省略候、恐々謹言、
     菊月廿一日     来次
                氏秀(花押影)
        砂越次郎殿
            御宿所 (注16)

 結果として、情勢は最上方優位に展開した。

   如翰計之、未令啓書候處ニ、急度之御到來祝着之至候、
   随而((這カ))定般鮭延へ、從庄中致亂入候条、
   彼口爲引立之勧騎之支度候キ、然處ニ白岩八郎四郎、
   大寳寺方へ以縁約之首尾、甚別心候条、爲退治向彼地令發向、
   先々属本意之形候、至春中者、清水・鮭延以相談、庄中可押詰候
   雖無申迄候、於時者、爲引汲三庄境目へ可被責入事肝要候、
   毎事砂宗入道方へ及細書候条、不能腐書面候、恐々謹言、
     霜月廿五日     源義光(花押)
         謹上 下國殿 (注17)

 上の書状は義光が武藤氏を挟撃する為に下国(秋田)愛季と申し合わせた文書であるが、砂越氏が最上方についたと解釈できる記述が見られる。恐らく来次氏と共に寝返ったのであろう。どうやら、鮭延は調略を成功させたようだ。

 また、義光は、天正末〜慶長初期に平鹿・雄勝郡を領する小野寺氏へ対して幾度か軍勢を催しているが、そこでも鮭延秀綱は外交手腕を発揮したようだ。根本となる書状史料には欠けるが、

  湯沢落城の事 (注18)
   (前略) 鮭登思ひけるは、「関口も我に中違うて有けれども、
   何とぞして彼を語らひ味方となさば、山北を攻るに心安かるべし。」
   と、密に飛檄を以て是を語らふ。折ふし春道も小野寺に野心を
   挟めば何の異論もなく、一味をぞしたりける。夫より春道が
   計らひとして、西馬内肥前守茂道・山田民部少輔高道・
   柳田治兵衛尉・松岡越前守・深堀左馬の五人心替りして最上に組す。

 そもそも、鮭延氏(佐々木氏)は前述した通り小野寺氏の被官であった時期が長く、最上地域の他の領主に比べ小野寺氏と仙北国人衆への外交的繋がりは比べ物にならないほど強いものであった。義光は仙北の国人衆に対して揺さぶりをかけ、小野寺氏との関係において大方主導権を握っているが、鮭延も何らかの形でその調略戦に関与していたと考えるのが自然であろう。

 ともあれ、鮭延氏は最上義光の圧迫に屈してその家臣となったが、そこには、鮭延秀綱が果たすであろう役割に対する大きな期待感が最上義光の中に存在していたのである。事実、最上家参入直後における鮭延の立場は既に比較的高いものであった。前述の最上義光書状においても「清水・鮭延以相談、庄中可押詰候、」とあるように、最上地域における義光与党の重鎮的立場にいた清水氏と併記される扱いをうけている。まさにこれは、最上地域において清水氏に匹敵する勢力、あるいは立場を最上義光が認めていた証左となろう。また、天正十五年三月十三日発給とみられる瀧沢主膳正維助書状(注19)においても、秀綱は義光の腹心であり最上家中の中核にほど近い位置にいたと推測される志村伊豆守とほぼ同格に扱われている。最上家中において、秀綱は志村伊豆守と同等に扱われる立場を既に天正十五年の時点で築いていた事が見て取れるのだ。

 前記の通り庄内の国人衆や雄勝郡の国人領主を最上方につける事に成功した折衝手腕はもちろん、『奥羽永慶軍記』等の軍記物によれば、仙北侵攻時には一手の主将として小野寺勢を打ち破る等、槍働きにおいても最上家の勢力伸長に寄与したようである。もちろんその史料的性質から多少の誇張を含む記述と見るべきであろうが、ある程度評価には値するものであろう。義光の期待に、鮭延は存分に応える働きをしたようである。
<続>


(注16) 「筆濃余里所収文書」 十月二十一日付来次氏秀書状(『山形県史 史料編1』)
(注17) 「湊文書」 十一月二十五日付最上義光書状(『山形県史 史料編1』)
(注18) 『復刻 奥羽永慶軍記』(無明舎出版 2005)
(注19) 「筆濃余里所収文書」 三月十三日付瀧澤主膳正書状(『山形県史 史料編1』)


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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【四 近江領分五千石の地】
    
 元和八壬戌八月二十一日、祖父義光が営々として築き上げた、山形藩五十七万石没収の憂き目を見た義俊ではあったが、辛うじて大名としての体面を保持得た、近江・三河の五千石宛の領地とは、どのような性格を有していたのであろうか。諸史に見る義俊の新領地についての大要を述べてみる。

(イ)[寛政重修諸家譜] 
 あらたに近江国蒲生・愛知・甲賀をよび三河国のうちにをいて、壱万石の地を義俊母子にたまひ、
(ロ)[最上家譜] 
 当分の内為扶持料、江州・三州ニテ一万石被下之、
(ハ)[譜牒余録後編]
 為御扶持方、江州・三州にて壱万石、源五郎に被下置候、
(ニ)[玉滴隠見]
 先当(当座)ノ御扶持方トシテ、高一万石下シ置レ候ノ処ニ、
(ホ)[東武実録]
 近江・参河二州ニ於テ、僅ニ采地一万石ヲ賜り、
(へ)[廃絶録] 
 於近江五千石源五郎へ被下、於三州五千石母儀へ被下、合一万石、
(ト)[伊達秘鑑] 
 源五郎ニハ近江国ニテ三千石、堪忍分トシテ下サル、江戸浅草ノ下屋敷ニ逼塞仰付ラル、

 この諸史の内容から察すると、東西に二分された所領の支配が、直接最上家の手によるものではなく、表高一万石[注1]の内容が扶持方・堪忍分という、「宛行扶持」に等しいものとしているようだ。実際に三河の内の一ケ村が、幕府代官の管轄下に在ったと思われる記録(後述するが)があることから、他の地域にも同じことがいえるのではなかろうか。ということは、大名家とは申せ自主性を失い、幕府の監視下に置かれていたことを意味するものであろう。推測すれば、この状態は寛永五年(1628)九月、義俊が晴れて赦されるまでは続いたのではなかろうか。
 そして翌六年、義俊が本役一万石で勤めた江戸城普請手伝いが、幕府から改めて一万石の大名として、認知された証しではなかったろうか。義俊が明らかに一万石の大名として、公の場に名を止めたのは、この普請手伝いの場のみで、他に例を見ることができない。
 そして、寛永八年(1631)義俊の死により、大名の地位を失った最上家は、そのまま近江領五千石のみを有する一旗本として生れ変わっていく。先ずは過去に於いて、この近江領五千石が、最上家とどのような経緯があり、義俊に引き継がれていったかを見てみたい。
 豊臣秀吉の天正の頃から、徳川家康の慶長の初めの頃にかけて、両者が諸大名達の上洛に際し、その滞在費用として、京近辺に「在京賄料」としての知行地を与えていた。義光に例をとれば、「その年(文禄元年)の正月、秀吉は征韓の帥を出し国内の領主にも出兵参加を命令したので、義光は正月二日山形を発し、京都で秀吉に面会した際、秣場として近江大森の地五千石を給与された[注2]」として、義光の近江での賄料の確保を伝えている。
 しかし、これが果たして事実であったのか。これを示す根本史料には未だ接することができない現状では、なかなか事実として肯定するのは難しい。
 この説の根源となったのは、おそらく『最上四十八館の研究』(丸山茂・昭和19年)の次のような記事であろう。

 近江・三河両国に各々五千石を賜ったのであるが、そのうち三河国の分五千石は遂に不払いに終わってしまった。豊臣秀吉肥前名護屋に陣、征韓の帥を統帥した時、義光も出陣したが、この時秀吉より秣場五千石を江州大森の地に得た。現在の滋賀県蒲生郡玉緒村で、これを契機に近江商人が山形に移住して、今日の山形商業の端緒を開いた。最上家が改易先を大森に選ばれたのも、この因縁に依るのである。
 
 そして、この先人の説が大きく膨らみを見せ、『山形市史・中巻』の「幕藩体制の確立と推移」の中の記事が、この説をさらに具体化して定着させている。

 豊臣秀吉が文禄年間に伏見城を築いた折、麾下の諸大名を城下に在住させるために、屋敷を分賜したが、その家来分までの土地が無かったから、隣国近江の各地を諸侯の秣場として宛て行い、そこに家来たちを居住させることにした。当時、義光もまた蒲生郡大森に五千石を給与されており、これが近江と山形の関係が深まる、直接の契機となったものと見られる。
 
 このように、これらの説を見る限り、義俊の近江領分五千石とは、祖父伝来の土地をそ
のまゝ引き継いだものと解される。しかし、これに関わる信ずべき史料を手にしない限り、安易に認めることはできない。ただ最上義光分限帳に、「御蔵人」の分としての出羽国内十万千二百石の外に、「右之外在之少宛之御蔵人別帳有之」として、別に小規模の蔵入地のあることを伝えている。
 東北諸大名に対しての賄料については、上杉景勝は天正十六年(1588)に、蒲生・野州・高嶋三郡のうちから一万石[注3]を、伊達政宗も蒲生郡内に五千石を与えられている[注4]
ので、義光への給与も考えられようが、これを先人の説に従い、そのまゝの形で義俊の領分とすることには、重ねて疑問を呈したい。ここに義俊以後の旗本最上氏五千石の所領十ケ村の変遷について述べてみる。

  「最上領村高」
 一 高五百六拾四石五斗三升  上大森村(東近江市)
 一 同八百四拾四石六斗七升  下大森村(  同  )
 一 同九百七拾四石壱斗八升  尻無村 (  同  )
 一 同弐百九拾壱石七斗七升  稲垂村 (近江八幡市)
 一 同五百七拾壱石九升    石原村 (  同  )
 一 同弐百七拾八石六斗五升  小御門村(  同  )
 一 同百四石壱斗壱升     野口村 (  同  )
 一 同千九石六斗五升     愛知郡 池之庄村(東近江市)
 一 同百六拾壱石弐斗九升   甲賀郡 市之瀬村(甲賀市)
 一 同百九拾九石二斗五升   同    上野村( 同 )
        五千石
             (注、( )内は現地域を示した)
 
 この「最上領村高[注5]」は、旗本最上氏家臣の鳥越氏の記録によるもので、この交代寄合御礼衆としての最上領五千石が、義俊代の近江領分五千石をそのまゝ引き継いだものなのか、この十ケ村の変遷の大要を述べてみる。
  
(イ)上大森村
 蒲生郡のうち、[寛永高帳](以下、高帳)では彦根藩領294石余、旗本寄合最上氏領564石。
(ロ)下大森村
 蒲生郡のうち、高帳では江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領844石余、元和八年最上義俊が近江・三河に於いて一万石を与えられたが、寛永九年義智のとき五千石を幕府に返上、以後大森に陣屋を構えた。
(ハ)尻無村
 蒲生郡のうち、江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領974石余。
(ニ)稲垂村
 蒲生郡のうち、元和八年旗本最上義俊の所領となり、以後、江戸期を通じて旗本最上氏領、高帳では291石余。
(ホ)石原村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、幕府領を経て寛永八年十二月まで、旗本最上義智五千石の支配、高帳では511石余。
(へ)小御門村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、慶長五年幕府領、同十年掘田正信領、寛永十年再び幕府領、寛永十九年以降旗本最上氏領五千石のうちとなる、高帳278石余。
(卜)野口村
 天正十二年より中村式部少輔、次いで豊臣秀次領、文禄四年より長束正家領、慶長五年より幕府領、寛永八年十二月より現八日市市大森に陣屋を置いた、最上義智領五千石となる、高帳104石余。
(チ)池庄村
 愛知郡のうち、旗本最上氏領、高帳1,009石余。
(リ)市之瀬村
 甲賀郡のうち、慶長五年旗本最上氏領となり、幕末に至る、高帳161石余
(ヌ)新宮村
 甲賀郡のうち、上野村と一村の扱いをしている、高帳は403石で幕府領、大森藩領、美濃部氏領。

 以上、十ケ村の領主の変遷についての概略は、『角川日本地名大事典』より関係箇所のみを拾い、できるだけ形を変えずに述べてみたものである。これらから判断すると、十ケ村すべて最上家に関わってはいるが、近江にて義光秣場五千石が在ったとしても、この十ケ村五千石をそのまゝ当てはめることは難しい。しかし、この十ケ村五千石が、義俊の近江領分五千石であり、旗本最上氏へと受け継がれていったものと考えよう。
(リ)の市之瀬村について、『土山町史』(昭36年刊)に次ぎのような記事がある。
  
 家康は豊臣氏の旧例にならって、京都に近い近江国を遠国大名の在京用途地として与えたために、他国の大名で近江国内に領地を有した者が多く、その数は二十数藩に及んでいる。関ケ原合戦の際、水口で破れた長束正家は領地を徳川方に没収され、直轄地に編入された。松下孫十郎が代官として瀬音・大野・黒川を除いた全土山を管治した。瀬音の残り(旧市ノ瀬村)は、同じく麾下の士最上源五郎の管治するところとなった。源五郎は名を義光といい、兼頼より十七世の孫に当たる。初め家康に仕え戦功あり、その功により出羽国数郡を領したが、近江国では蒲生・愛知・甲賀の三郡に五千石を有した。

 これを読むと、この記事の執筆者が、義光と義俊に共通する源五郎の名から、果たして二人を厳密に区別しての記述なのか、混同してのものなのか判らないが、慶長五年の関ケ原戦以後に与えられたとすれば、義光の在京賄料としての性格が強く感ぜられる。
 『近江蒲生郡志』(大正11年刊)は、「(大森陣屋最上氏)は近江国蒲生・愛知・甲賀三郡及び三河国に於いて壱万石の地を与えられる。時に元和八年八月なり。之れ最上家と本郡関係の創始なり」と、蒲生三郡と最上家との接点について述べている。
■執筆:小野末三

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[注]
1、[寛永元年大名禄高] (内閣文庫所蔵)
 奥書きに、明治十四年八月十五日華族徳川昭武蔵書ヲ写ス、とあり、当時の大名家を地域別に、東国、東山、北国、四国中国、九州衆に区分して記載している。最上源五郎は次のように見えている。

          東 山
  一 壱万石   三河近郷二而    最上源五郎


2、『山形の歴史』 (川崎浩良)

3、[上杉家文書] (『大日本古文書』)
 「為在京賄料、於江州蒲生野州高嶋三郡内、壱万石事、被宛行之訖、全可有領知之状如件」との、秀吉からの景勝宛ての判物がある。

4、新見吉治[近江における仙台領雑考] (『徳川林政史研究所研究紀要』昭42年度)
 『徳川家康文書の研究・下巻之1』 (中村孝也)
 慶長六年、片倉景綱に与えられた「知行宛行状」から、この五千石はもと秀吉より与えられた地であるが、「未だ果さ」れなかったので、改めて家康から与えられたものだという。また「中目文書」によれば、秀吉から天正十七年に下賜されたともいっている。
 また、天正十八年七月の秀吉による奥州仕置により、岩城・戸沢・南部の諸氏に与えた領地朱印状の文言の中にも「在京之賄」云々とでている。

5、『近江蒲生郡志』 (蒲生郡役所・大正11年)
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (4)】

2、仙北紛争期(天正末)における鮭延秀綱の動向


 天正十八年は最上家にとって一つのターニングポイントとも言うべき年であった。小田原攻略を以って抵抗勢力を沈黙させた秀吉は、その後奥羽諸大名に対する知行割を行った。最上家はその時点で所領を安堵されたと見られるが、それは最上家が全国的な統一政権組織の一部に組み込まれた事を意味した。さらに秀吉は、前田利家・上杉景勝らに奥州仕置を命じ、奥州の内陸中央道沿い、日本海岸沿い、太平洋岸沿いの三手に分けて仕置軍を進発させた。最上家は中央道の先鋒を命ぜられ、鮭延は中央道仕置軍を先導する事になった。仙北情勢に精通し、幾度も仙北地方に攻め入った経験のある鮭延秀綱は、仕置軍の先導役として最適の人物であっただろう。

 九月に入ると、検地に反対した庄内・由利・仙北の国人・土豪衆が一揆を起こして検地の推進を阻む事態となった。仙北進出の機会を窺っていた義光にとって、この一揆鎮圧は恰好の大義名分となったのである。そもそも、惣無事令下にありながら天正十六年に庄内を上杉に切り取られた上、天正十八年に上杉景勝に対して秀吉の朱印状(注20)が与えられ上杉家の庄内支配が追認された事で、最上家の庄内領有は事実上不可能となっていた。ゆえに、最上家がこれ以上領土を拡張するためには、当時未だ支配体制が脆弱であった仙北小野寺領に食いこむ必要があったのである。

 仙北検地における鮭延秀綱の動向及びその周辺の事態の推移を簡単に追ってみると、まず鮭延は一揆鎮圧を名目に寒河江光俊を伴って湯沢城に入城したようだ。十月廿二日付の文書に鮭延の湯沢在陣が記されているので、湯沢入城はそれ以前に行われたものとみられる。

   別而申上候、明日豊後・大和方可指越申候へ共、一刻も急申度候間、
   申事候、湯澤地ニ鮭延殿在陳条、就之地下之者共、機遣令申候、
   色邊殿より御音信候而被罷帰候様ニ御取成可被成之候、
   萬々重而可申上、恐惶謹言、
         横手宿老中
    十月廿二日  惣判
       康道様へ
        参人々御中 (注21)

 それと前後して、日本海側を進んだ上杉・大谷軍も庄内から由利を経て仙北に入った。上杉勢は大森城に入城し、色部長真がその責任者となっている。最上勢の湯沢在陣に危機感を抱いた小野寺家老達は、当主小野寺義道の弟康道をして色部長真に鮭延の退去を働きかけたことがこの書状から読み取れる。なお、小野寺は寛永十年に幕府に対して提出された書き上げにおいてその不当性を主張しているが、その書付によれば、鮭延は「湯沢城の城番が一揆を起こした」という大谷吉継の言を根拠として湯沢城に入ったようである。ともあれ、小野寺からの通達を受けた色部長真は、鮭延に幾度か退去する旨伝えたようであるが、残念ながらその書状は残存していない。ただ、その伝達に対する鮭延の返答が計三通残っている。十月廿三日付の返答(注22)においても「大谷吉継の指図によってやむなく在陣した」との主張があり、実際にそういった命令があったかどうかは不明であるが、鮭延が検地代官の権威を大義名分とし湯沢に駐留したことは確かなようである。

 この数度にわたる色部の働きかけに鮭延は態度を軟化させ、同月廿五日付の色部長真に対する返答(注23)では「近く帰国する」と伝えるに至った。この頃になると仙北の一揆も下火になったと見られ、湯沢在陣の理由を失いかけた鮭延ら最上勢はほどなく帰国の途についたようである。しかし、その後、上洛中の義光による工作が効を奏したとみえ、翌天正十九年一月に発給された小野寺氏に対する宛行状(注24)には「上浦郡三分二、三万千六百石」との記述があり、のこり三分の一は最上氏に対して与えられたものと考えられる。秀綱はこの新領地の管轄を義光から任せられていたようで、上浦一郡が最上氏の所領になった旨郡内に伝達する事を色部に対して知らせている(注25)が、色部は京都及び大谷吉継よりその報が無いとしてそれを否定した(注26)。当地の土豪衆もその報せに驚き、小野寺領内に退去する者が少なくなかったという。それに対して鮭延秀綱・氏家守棟は、色部長真にその対策を講じるよう主張している(注27・28)。公権力を背景に交渉を進める最上に対し、ついに色部は屈し、その土民達の帰還を約定したのである(注29)。だが、この強硬な上浦郡(雄勝・平鹿郡)領有が火種となってしばらくの間仙北地域は最上軍と小野寺軍の衝突の舞台となるに至った。

 ここにおいて、鮭延秀綱は奥州検地紛争において一貫して主責任者の立場にあった事が注目される。最上家にとって仙北問題は当時の最重要案件とも言うべきものであり、一連の紛争において一時的とはいえ小野寺氏の重要拠点であった湯沢城を占拠し、翌年には上浦郡の領有を色部―上杉氏に認めさせた功績は最上家にとって多大なものだったと推測される。鮭延秀綱は、この時点で仙北問題のスペシャリストとして最上家内に大きな存在感を示していたと見てよいのではないだろうか。

 その後幾度かに渡って繰り返された仙北侵攻においてもその認識は継続しているように見える。文禄以後、最上勢は数度にわたって仙北へ侵入している。根本史料は存在せず、『奥羽永慶軍記』の記述を頼りにせざるをえないが、

   最上義光は山北小野寺義道を討んと、幾度か勢を催し攻るといへども、
   (中略)
   左あらば勢を指向んと、三男清水大蔵大輔義之・楯岡豊前守義満ヲ
   大将として、相従ふ兵には一族延沢遠江守光信・長瀞内膳忠・
   上野山越後守・鮭延典膳・(後略)(注30)
  
  (前略)去程に最上の先手鮭登典膳四ッ目ノ旗押立、(後略)(注31)

 天正末か文禄初めかは判然としないが、いずれにせよ清水・楯岡の最上一族衆が大将を務め、鮭延が先陣を承っていたことがわかる。年次は下って文禄四年の最上勢による湯沢攻めの記事には、

   文禄四年八月最上義光の臣鮭登先達て下りけるが、
  (中略)先是を攻んとて、最上よりの大将に楯岡豊前守
   先手は鮭登典膳其外小国・延沢(後略)(注32)

 とあり、文禄四年の仙北攻めにおいても楯岡が大将、鮭延が先陣という形は変わっておらず、数度に渡ったとされる仙北侵攻では、かかる人材運用が固定化された可能性を指摘できる。この点から見ても、文禄年間に義光は、鮭延秀綱に対して、最上家の仙北問題における最重要家臣の一人として位置付けを認めていたと考えられるのである。

 余談となるが、興味深い記述が『奥羽永慶軍記』「最上義光・伊達政宗閉門事」に存在する。豊臣秀次に連座させられた駒姫の死を恨みに思った最上義光が、伊達政宗と語らって秀吉に対して謀反を起こそうとしているという讒言があり、最上・伊達が閉門させられたという記事であるが、その中で、「両家の郎等延沢能登守・鮭登典膳・遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎等の傍若無人の者共一揆を起し、所々の手を定め京・大坂を焼払ひ、」(注33)という噂が京・大坂の民衆達の間に流れた、という記述がある。この記述が事実かどうかは定かではないが、遠藤文七郎・原田左馬介・片倉小十郎といえば伊達政宗の側近であるから、もし実際にこのような噂が流布していたとすれば、鮭延は当時の世間一般の認識として「最上家屈指の家臣」であると同時に「延沢能登と並ぶほどの剛勇の持ち主」と見られていたのであろう。
<続>

(注20) 「上杉家文書」八月一日付豊臣秀吉朱印状(『山形県史史料編1』)
(注21) 「色部文書」 天正十八年十月廿二日付横手宿老中書状案(『同上』)
(注22) 「同上」 天正十八年十月廿三日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注23) 「同上」 天正十八年十月廿五日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注24) 「神戸・小野寺文書」天正十九年一月十七日付豊臣秀吉宛行状(『秋田県史史料 古代・中世編』)
(注25) 「色部文書」 天正十九年二月八日付鮭延愛綱書状(『山形県史史料編1』)
(注26) 「同上」 天正十九年二月十一日付色部長真書状(『同上』)
(注27) 「同上」 天正十九年二月二十六日付氏家守棟書状(『同上』)
(注28) 「同上」 天正十九年二月二十八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注29) 「同上」 天正十九年二月晦日付色部長真書状(『同上』)
(注30) 『復刻 奥羽永慶軍記』 最上勢、山北境を攻破るの事(無明舎出版 2005)
(注31)  同上
(注32) 『同上』 湯沢落城の事(同上)
(注33) 『同上』 最上義光・伊達政宗閉門の事(同上)


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