最上義光歴史館
最上義光歴史館
館長の写真日記 令和6年10月17日付け
前回、前々回と他館の展覧会の紹介が続いてしまいましたが、ここで当館の企画展示の紹介も。10月2日から来年1月5日の期間、「最上義光と連歌 〜文化人たちの集い〜」と題して連歌資料を展示しています。最上義光は連歌を得意としており、義光および連歌会で一座した文化人たちも紹介しています。
とは言え、連歌を読み下し、その背景までを理解するのは、なかなか大変でありまして、当館学芸員も、どう展示解説したらいいのか苦労していました。先日、「歴史探偵」という番組で最上義光をとりあげていただき、そこで、ある連歌にある「変わらじとのみ 契りつる仲」という句が紹介されていました。この句に続けて義光が詠んでいるですが、現在その原書を展示しています。それを見ると「可ハらしと乃ミち起り津る中」と書きつけてありまして、変体仮名などが暗号のように並び意味を読み取るだけでもなかなか難儀です。そこから、この元歌はもしかして、源氏物語の松風あたりのあの句かしらん、などと推測していくわけです。資料研究の醍醐味ではありますが、これを一巻につき100句、まさしく100本ノックという感じで、それなりの気力と体力が求められます。
何路連歌百韻「変わらじと〜」部分
連歌巻、連歌写本、連歌新式 等を展示
ということで今回は、本来ならば連歌をネタに引っ張りたいところではありますが、まずは読書の秋ということで、江戸時代の本のご紹介でも。とりあげるのは「可笑記」、「土芥寇讎記」、「松平大和守日記」の3冊で、いずれも江戸時代の史料としてはよく知られた本ではあります。正直、私自身としては斜め読み程度での紹介で、しかも内容的には最上義光とあまり関係ないのですが、多少、山形と関係のある本であります。
まずは、「可笑記」。ちょっと変わった表題ですが、その由来は序文に「浮世という川の波に漂うひょうたんの、浮きに浮いた心にまかせ、よしあしの分別なしに、難波入江の藻塩草をかき集めたような冊子」、「読者の笑い、手を拍つことは必至。ゆえに名づけて『可笑記』と呼ぶ次第」とあります。自分の著作を卑下するとともに、時の権力者への批判の言説をくらまそうとしたのでは、とのことです。
著者は如儡子(にょらいし)とありますが、本名は斎藤清三郎親盛といい、父の盛広は最上義光に仕え、親盛自身は義光の子・家親の近習衆となります。親盛という名は、元服のとき家親から一字を与えられたものでしたが、最上家の国替により、父子とも浪人となってしまいました。その生活は安定せず、本作では、「浪人払い」という新たな法度に対し批判的に書かれるなどしており、浪人の苦労が偲ばれるものともなっています。
この「可笑記」は全5巻280段からなり、「徒然草」の近世版ともいわれ評価されています。武士のみならず一般市民にまで多くの人に読まれ、その後、多くの追随作品を生み、井原西鶴も本書に倣い「新可笑記」というものを発刊しています。この活字本は、「仮名草子集成」第十四巻(1993年東京堂出版)に所収されています。また、140段程度を選抜し「可笑記」の解説も付いている本も1979年に教育社から出版されており、中古で千円程度で入手できます。
続いて「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」ですが、この書名は「孟子」卷之八にある「君の昆を視ること土芥の如ければ、則ち臣の君を視ること寇糧の如し(殿が家来をゴミのように扱えば、家来は殿を親の仇(かたき)のようにみる)」からとられています。ただその内容は、元禄3(1690)年頃の諸大名242人について書かれた紳士録のようなもので、単なるプロフィールにとどまらず、文武の素養、近親・世間の評判、性癖、領土の産品まで記されています。全国諸藩を同時期に調査し、その町中の噂すら採取されていることから、複数の著者によるものらしいですが、それが時の幕府や徳川綱吉の命によるものなのかは定かではなく、前書きも奥付も全くない史料のため、目的などいまだ不明の史料とのことです。
「土芥寇讎記」の記載項目は、その出生、官歴、家族縁者、家臣、居城、領土、特産物、行状(才知、文学、武道・武芸、人遣い、仕置、性傾向、智愚、逸話、世評)などです。内容的にはなんとなく「ミシュランガイド」と「地球の歩き方」を足したような感じでしょうか。この活字本も出ていて、新人物往来社刊で定価6,500円です。古書店ではこの定価以上の値で販売されているようです。
山形城主としてこの「土芥寇讎記」に載っているのは松平直矩(なおのり、1642〜95)で、徳川家康の男子直系の曾孫です。父の直基(なおもと、1604〜48)も山形城主(1644〜48)になったことがあるのですが、直基からそのまま直矩に引き継がれたものではなく、直矩は直基の長男ではありますが、山形城主(1686〜92)となるまでに、別の城主が3代も交代しています。直矩は父の代から7度もの転封があり「引越し大名」とまで言われるほどですが、その親子がそれぞれ山形に着任しているわけで、そこは脈絡もなく次々と城主が変わる山形城たる由縁というか、面目躍如というべきか、よくわかりませんが。
また、直矩は17歳から54歳で亡くなるまで、とにかく日記をマメにつけていた人で、その「松平和守日記」は、江戸の武家文化を知る上では、知る人ぞ知る貴重な史料とされます。特に能や狂言などの観劇記録は、近世演劇の第一級資料とのこと。日記のうち越後長岡にいる時分の日記が活字化されていて、上中下の3冊組で各巻定価5千円ですが、中古で3冊1万円でこれを入手しました。
日記の内容ですが、日々の来訪者や贈答品、観劇、参勤交代の経由地などが事細かに記録されていますが、その良し悪しなどの評価は一切なく、また、領地や藩政、治世などの内容についてもありません。当館学芸員によると、政(まつりごと)について記録しなかったということは、賢い人であったな、とのことです。参勤交代で江戸にいる期間が長く、転居も多い人だったため、このようなものになっているのかもしれません。人の往来や物の行き来、舞台演目などがたんたんと書いてあるだけなのですが、見れば見る程、じわっと面白みがわいてくる本で、その沼に入っていきます。
さあ皆様も、古書の沼に立ち寄ってみませんか。
( → 館長裏日誌に続く)
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(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
とは言え、連歌を読み下し、その背景までを理解するのは、なかなか大変でありまして、当館学芸員も、どう展示解説したらいいのか苦労していました。先日、「歴史探偵」という番組で最上義光をとりあげていただき、そこで、ある連歌にある「変わらじとのみ 契りつる仲」という句が紹介されていました。この句に続けて義光が詠んでいるですが、現在その原書を展示しています。それを見ると「可ハらしと乃ミち起り津る中」と書きつけてありまして、変体仮名などが暗号のように並び意味を読み取るだけでもなかなか難儀です。そこから、この元歌はもしかして、源氏物語の松風あたりのあの句かしらん、などと推測していくわけです。資料研究の醍醐味ではありますが、これを一巻につき100句、まさしく100本ノックという感じで、それなりの気力と体力が求められます。
何路連歌百韻「変わらじと〜」部分
連歌巻、連歌写本、連歌新式 等を展示
ということで今回は、本来ならば連歌をネタに引っ張りたいところではありますが、まずは読書の秋ということで、江戸時代の本のご紹介でも。とりあげるのは「可笑記」、「土芥寇讎記」、「松平大和守日記」の3冊で、いずれも江戸時代の史料としてはよく知られた本ではあります。正直、私自身としては斜め読み程度での紹介で、しかも内容的には最上義光とあまり関係ないのですが、多少、山形と関係のある本であります。
まずは、「可笑記」。ちょっと変わった表題ですが、その由来は序文に「浮世という川の波に漂うひょうたんの、浮きに浮いた心にまかせ、よしあしの分別なしに、難波入江の藻塩草をかき集めたような冊子」、「読者の笑い、手を拍つことは必至。ゆえに名づけて『可笑記』と呼ぶ次第」とあります。自分の著作を卑下するとともに、時の権力者への批判の言説をくらまそうとしたのでは、とのことです。
著者は如儡子(にょらいし)とありますが、本名は斎藤清三郎親盛といい、父の盛広は最上義光に仕え、親盛自身は義光の子・家親の近習衆となります。親盛という名は、元服のとき家親から一字を与えられたものでしたが、最上家の国替により、父子とも浪人となってしまいました。その生活は安定せず、本作では、「浪人払い」という新たな法度に対し批判的に書かれるなどしており、浪人の苦労が偲ばれるものともなっています。
この「可笑記」は全5巻280段からなり、「徒然草」の近世版ともいわれ評価されています。武士のみならず一般市民にまで多くの人に読まれ、その後、多くの追随作品を生み、井原西鶴も本書に倣い「新可笑記」というものを発刊しています。この活字本は、「仮名草子集成」第十四巻(1993年東京堂出版)に所収されています。また、140段程度を選抜し「可笑記」の解説も付いている本も1979年に教育社から出版されており、中古で千円程度で入手できます。
続いて「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」ですが、この書名は「孟子」卷之八にある「君の昆を視ること土芥の如ければ、則ち臣の君を視ること寇糧の如し(殿が家来をゴミのように扱えば、家来は殿を親の仇(かたき)のようにみる)」からとられています。ただその内容は、元禄3(1690)年頃の諸大名242人について書かれた紳士録のようなもので、単なるプロフィールにとどまらず、文武の素養、近親・世間の評判、性癖、領土の産品まで記されています。全国諸藩を同時期に調査し、その町中の噂すら採取されていることから、複数の著者によるものらしいですが、それが時の幕府や徳川綱吉の命によるものなのかは定かではなく、前書きも奥付も全くない史料のため、目的などいまだ不明の史料とのことです。
「土芥寇讎記」の記載項目は、その出生、官歴、家族縁者、家臣、居城、領土、特産物、行状(才知、文学、武道・武芸、人遣い、仕置、性傾向、智愚、逸話、世評)などです。内容的にはなんとなく「ミシュランガイド」と「地球の歩き方」を足したような感じでしょうか。この活字本も出ていて、新人物往来社刊で定価6,500円です。古書店ではこの定価以上の値で販売されているようです。
山形城主としてこの「土芥寇讎記」に載っているのは松平直矩(なおのり、1642〜95)で、徳川家康の男子直系の曾孫です。父の直基(なおもと、1604〜48)も山形城主(1644〜48)になったことがあるのですが、直基からそのまま直矩に引き継がれたものではなく、直矩は直基の長男ではありますが、山形城主(1686〜92)となるまでに、別の城主が3代も交代しています。直矩は父の代から7度もの転封があり「引越し大名」とまで言われるほどですが、その親子がそれぞれ山形に着任しているわけで、そこは脈絡もなく次々と城主が変わる山形城たる由縁というか、面目躍如というべきか、よくわかりませんが。
また、直矩は17歳から54歳で亡くなるまで、とにかく日記をマメにつけていた人で、その「松平和守日記」は、江戸の武家文化を知る上では、知る人ぞ知る貴重な史料とされます。特に能や狂言などの観劇記録は、近世演劇の第一級資料とのこと。日記のうち越後長岡にいる時分の日記が活字化されていて、上中下の3冊組で各巻定価5千円ですが、中古で3冊1万円でこれを入手しました。
日記の内容ですが、日々の来訪者や贈答品、観劇、参勤交代の経由地などが事細かに記録されていますが、その良し悪しなどの評価は一切なく、また、領地や藩政、治世などの内容についてもありません。当館学芸員によると、政(まつりごと)について記録しなかったということは、賢い人であったな、とのことです。参勤交代で江戸にいる期間が長く、転居も多い人だったため、このようなものになっているのかもしれません。人の往来や物の行き来、舞台演目などがたんたんと書いてあるだけなのですが、見れば見る程、じわっと面白みがわいてくる本で、その沼に入っていきます。
さあ皆様も、古書の沼に立ち寄ってみませんか。
( → 館長裏日誌に続く)