最上義光歴史館
最上義光歴史館
最上義光連歌の世界③ 名子喜久雄
最上義光連歌の世界③
83 さき立つをみちのしるべの雪のくれ 景敏
84 すみかの方は駒いばふなり 玄仍
85 程もなく賀茂のまつりや過ぬらん 義光
86 いまもみそぎにおもふそのかみ 昌叱
慶長三年(一五九八)四月十九日
賦何墻連歌 名残ノ折表
打越(義光の句の前句のさらに前句) の83の句は、「夕暮の雪中で道を失いつつある旅人が、すでにその道を歩んだ人の足跡を便りに、前に進もうとする」ほどの意。冬の旅の辛苦を描いている。
新古今・冬 藤原定家
671 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
の影響を受けていよう。
84の句が「駒いばふ」としているのは、この和歌を念頭に置いたがゆえのことであろう。ただし、この句の典拠として
胡馬は北風にいななき 越鳥は南枝に巣くふ (「古詩十九首」)
を加えることができる。馬が自分の故郷から吹く北風を慕っていななく風情である。
羇旅の流れが、85で王朝の夏の有様に転ずる。卯月の中の酉の日に賀茂祭(現在の葵祭)が行われた。その前の午の日または未の日に、賀茂社に奉仕する斎院(未婚の内親王または女王より卜定される)は、賀茂川で禊ぎを行うため、北野の斎館から、一条大路をパレードする。その折、勅使も行列に加わる。華やかなもので、貴顕も男女を問わず争って見物した。源氏物語・葵巻などを参照されたい。
勅使の男性貴族は、当然乗馬である。義光は「住まいの辺りに馬のいななきが聞える。賀茂祭の御禊の行列ももうすぐ終わろうとしている」ほどの付け合いを創造したのである。
ところで、この付け合いで、上記のような思いをめぐらしている作中の人物をどのように想定できるであろうか。
そのヒントとなるのが、86の「みそぎ・そのかみ」の表現である。昌叱は義光の創造した世界を引き継いで、(「みそぎ」は「賀茂祭」に依ること明白)その人物が御禊をかつてのこととして感慨にふける姿を描く。
御禊に最も深く関わる人物は、言うまでもなく賀茂社に奉仕した斎院となろう。昌叱の句により、85・86の付け合いの大意は、「もうすぐ終わってしまうであろう御禊のパレードを耳にしながら、かつて斎院であったころの自分を回想している。」ほどである。(斎院以外の人物との理解も可能である)
王朝文学に、ふさわしい人物を求めれば、光源氏の求愛を拒み通した朝顔斎院(桃園式部卿女)に行きつく。歴史上では、例外的に五代五十七年斎院を勤めた村上天皇皇女選子内親王などが比定される。いずれにしても、義光は、往時を念頭において作句し、昌叱がそれを受け止めたのである。
■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより№26」より
最上義光歴史館
:[
メモ
/
歴史館からのお知らせ
]
歴史館からのお知らせ
最上家と最上義光について
収蔵品の紹介
調査/研究報告
HOME
刊行案内
施設のご利用案内
歴史館周辺の見どころ
アクセスマップ
歴史館カレンダー
やまがた歴史年表
義光からの挑戦状
なんでも歴史相談室
歴史年表
歴史用語集
歴史リンク集
歴史マップ
歴史館だより
片桐繁雄執筆資料集
カテゴリー
メモ
メール
Q&A
暦
リンク
地図
ウィキ
特集
プラン
ケータイサイト
インフォメーション
プロフィール
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum
83 さき立つをみちのしるべの雪のくれ 景敏
84 すみかの方は駒いばふなり 玄仍
85 程もなく賀茂のまつりや過ぬらん 義光
86 いまもみそぎにおもふそのかみ 昌叱
慶長三年(一五九八)四月十九日
賦何墻連歌 名残ノ折表
打越(義光の句の前句のさらに前句) の83の句は、「夕暮の雪中で道を失いつつある旅人が、すでにその道を歩んだ人の足跡を便りに、前に進もうとする」ほどの意。冬の旅の辛苦を描いている。
新古今・冬 藤原定家
671 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
の影響を受けていよう。
84の句が「駒いばふ」としているのは、この和歌を念頭に置いたがゆえのことであろう。ただし、この句の典拠として
胡馬は北風にいななき 越鳥は南枝に巣くふ (「古詩十九首」)
を加えることができる。馬が自分の故郷から吹く北風を慕っていななく風情である。
羇旅の流れが、85で王朝の夏の有様に転ずる。卯月の中の酉の日に賀茂祭(現在の葵祭)が行われた。その前の午の日または未の日に、賀茂社に奉仕する斎院(未婚の内親王または女王より卜定される)は、賀茂川で禊ぎを行うため、北野の斎館から、一条大路をパレードする。その折、勅使も行列に加わる。華やかなもので、貴顕も男女を問わず争って見物した。源氏物語・葵巻などを参照されたい。
勅使の男性貴族は、当然乗馬である。義光は「住まいの辺りに馬のいななきが聞える。賀茂祭の御禊の行列ももうすぐ終わろうとしている」ほどの付け合いを創造したのである。
ところで、この付け合いで、上記のような思いをめぐらしている作中の人物をどのように想定できるであろうか。
そのヒントとなるのが、86の「みそぎ・そのかみ」の表現である。昌叱は義光の創造した世界を引き継いで、(「みそぎ」は「賀茂祭」に依ること明白)その人物が御禊をかつてのこととして感慨にふける姿を描く。
御禊に最も深く関わる人物は、言うまでもなく賀茂社に奉仕した斎院となろう。昌叱の句により、85・86の付け合いの大意は、「もうすぐ終わってしまうであろう御禊のパレードを耳にしながら、かつて斎院であったころの自分を回想している。」ほどである。(斎院以外の人物との理解も可能である)
王朝文学に、ふさわしい人物を求めれば、光源氏の求愛を拒み通した朝顔斎院(桃園式部卿女)に行きつく。歴史上では、例外的に五代五十七年斎院を勤めた村上天皇皇女選子内親王などが比定される。いずれにしても、義光は、往時を念頭において作句し、昌叱がそれを受け止めたのである。
■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより№26」より