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上杉二十五将 -史実-

  • 上杉二十五将 -史実-

上杉謙信公に仕えた武将のうち、特に評価の高い25名を選出したもの。寛文9年(1669年)、幕府に提出された『上杉将士書上』に表記されている。

中でも「柿崎景家」「直江景綱(実綱)」「宇佐美定満」「甘粕景持」の四人は上杉四天王と呼ばれており、謙信公をよくささえたとされる。

▼上杉二十五将
長尾政景、長尾景秋、宇佐美定行、新津義門、金津義舊、北条長国、色部長実、本庄慶秀、本庄繁長、甘糟清長、杉原親憲、斎藤朝信、安田順易、高梨頼包、柿崎景家、千坂清風、直江実綱、竹股朝綱、岩井経駿、中条藤資、山本寺孝長、吉江定仲、志田義分、大国頼久、加地春綱

米沢上杉まつり[武てい式・川中島合戦]では
当初より上杉二十八将として構成し演じられてきた。
 

2007.03.10:事務局:[上杉まつり用語集]

毘沙門天

  • 毘沙門天

毘沙門天(びしゃもんてん, 梵 Vai?rava??a)は仏教の護法神である天部の1つ。別名を多聞天(たもんてん)。

日本では俗に勝負ごとの神とされ、七福神の1つとして庶民の信仰を集めてきた。 戦国武将の上杉謙信は自身を毘沙門天の生まれ変わりと信じていた。

像容は甲冑を着け、片手に宝棒、あるいは三叉戟、片手には小さな宝塔(仏舎利を収める器)を持ち、邪鬼を踏む姿で表現されるのが一般的である。ただし、中には宝塔を持たず、片手を腰に当て、片手に三叉戟を持つ姿の像もある(京都・三室戸寺像など)。

ウィキペディア

2007.03.10:事務局:[上杉まつり用語集]

川中島合戦の歴史

NHKの大河ドラマ「天と地と」で火がついた謙信ブームは、上杉まつりを全国的なものに押し上げた。そうしたなかで昭和48年「川中島模擬合戦」が誕生した。
この合戦演出に一番苦慮したのは事務局であるが、合戦を提案した実行委員たちには明治38年の川中島合戦(模擬)や戦時中の同様のイベントが印象に残っていたので、容易に実施できるものと考えていた。
その時代はいずれも戦争遂行に必要な士気の高揚のための催しであった。
 48年の川中島模擬合戦の再現は、その点まったく背景を異にしていた。
また、そのための特別要員を獲得することも出来ず、予算も現行のままでの実施を余儀なくされた。
 上杉行列を相生橋東口で一時ストップし、その下の東側の河原で、30分の時間を使っての合戦であった。
 武田軍は信玄を入れて5人、騎馬の謙信は佐藤幸四郎(蹄鉄師:現在の謙信公役である民謡一家佐藤仁氏の父)が引き受け、稲富流砲術隊の火縄銃や槍組に支援されての、豪快な切り込みとなったが、5人の武田勢は文字通り青ざめた。事務局の苦肉の策であった。
しかしその反響は予想外に大きく、観衆は相生橋に鈴なりとなり、声援を送った。
 翌49年5月3日、この催しは松川河川敷にその会場を設け、行列の一部のコースを短縮して要員を確保、合戦場面を再現した。演出は米沢女子短大の上村教授、武てい式に続いての陣頭指揮であった。
 しかし、武田軍になり手がなく、市役所職員と実行委員長の会社の沖正宗(浜田酒造)社員で辛うじてその体裁を整えたのである。
 現在のこの合戦の演出や参加人数に比べれば、極めて零細な規模で、演技も稚拙であった。
 上杉勢は上杉行列の参加者をそのまま投入し、武てい式(略式)や騎馬のデモンストレーション、稲富流砲術隊の火縄銃の発砲、車懸りの戦術、三太刀七太刀の名場面を見せ場にシナリオが書かれた。
 対する武田勢は、三献の儀(武田軍の出陣式)や赤備軍団による鶴翼の布陣を見せ場にした。最近になって武田軍の主力となった米沢市役所職員により「川中島合戦保存会」が結成され、演出も円熟を見るようになった。
 この合戦への参加者は上杉勢400名、武田勢260人と規模も膨らんだ。
昭和49年の合戦は日本テレビで初放映され、以来マスコミの人気も高まり、春のゴールデンウィークを飾る東北のまつりとして全国に知られるようになる。
 武てい式、川中島合戦の演出も時代に合わせて創意工夫がほどこされ、見るものに一層の歴史感を漂わせている。
2007.03.08:事務局:[上杉まつりの歴史]

上杉行列の歴史

 上杉行列は、5月3日午前9時30分から市内の特定コースを行進、その参加者は1000人、行列は延々2キロにおよぶ。
川中島合戦が導入されてからは、行列参加のメンバーがそのまま川中島合戦に投入されることから午前中のみの行進となるが、その前の時代は午後4時ごろまで行進が続いた。
 神輿渡御は伝統にのっとった編成で続いているが、上杉軍団行列は、毎年編成を変え、近年は上杉軍団のみ市内中央のまちの広場で上杉軍団出発式をおこない、駅に向かって行進、途中鼓笛隊やそのほかの行列隊と合流し米沢駅にてパフォーマンス、火縄銃の発砲、その後川中島へ行進。
 近年は次の編成で定着、コースは交通事情や川中島合戦の関連等で縮小されている。
 ◇神輿渡御 南部小前9時30分スタート
  上杉太鼓車-小学校鼓笛隊-ミスモーゼスレイク-稚児太鼓車-上杉節舞台車
  -上杉神社神輿-上杉鉄砲隊-直江兼続公山車

 ◇上杉軍団行列 まちの広場 10時30分スタート
  上杉騎馬隊-稲富流砲術隊-先手軍団-前備軍団-二の見軍団-右備軍団
  -本陣-左備軍団-後備軍団-後押軍団-少年28将-女子薙刀隊

このなかの、上杉軍団編成は謙信公時代のものに準じている。
イベント一般参加者は、近年上杉まつりが全国的に有名なイベントとなってから増えてきたもので、体験観光として人気を博している。
なお、「神輿渡御」の編成についてはあまり知られていないので次に記しておく
(昭和39年の編成)

  先駆-大麻-鉄棒-猿田彦-太鼓-大榊-神職-行列総指揮-錦旗(小)
  -五色旗-神職-稚児-伶人-神紋旗(小)-社号旗(松岬)-神職
  -楯-薙刀-翳-賽銭箱-稚児神輿-例大祭副委員長-信仰会青年部長
  -神職-巫女-社号旗(上杉)-神紋旗(大)-神馬-例大祭委員長
  -禰宜-賽銭箱-車童子-副牛-牛飼長-車副-綱引児童-神輿-車副
  -副棒-翳-薙刀-五色旗-裃供奉-少年武者-宮司馬車-幼稚園神輿
  -信仰会長-敬神婦人会長-上杉家-信仰会総代-鷹徳会代表
  (車両・騎馬別は省略)

 
2007.03.08:事務局:[上杉まつりの歴史]

武てい式の歴史

 上杉まつりに「武てい式」が加わるのは昭和39年。その前は米沢要鑑会(宮坂善助会長)によって上杉神社の境内で奉仕されていた。当初は米沢連合青年団などの協力でささやかなものであったが、NHKの大河ドラマ「天と地と」放映以来高まった謙信ブームで、昭和46年のまつりから上杉28将を配した武てい式が、米沢女子短大上村良作教授の考証・脚本・演出によって現在の原型がつくられた。
 この「武てい式」は、上杉謙信が戦いに赴く際に必ず行ったという上杉軍の「出陣の儀式」で、五沾水の儀を中心に組み立てられたもの。
上杉28将は主として川中島合戦に臨んだ武将たちである。この武てい式は次のような順序で進められる。

 開式宣言-軍団集結-軍神勧請(上杉火縄銃の発砲)-五沾水-賜旗-出陣。

この式にはその後少年武者による「青龍隊」や「馬廻組槍舞い」「上杉太鼓」「詩吟」などが加わって色づけをし、54年には「武てい式保存会」も発足して定着を見る。
 また主役の謙信役は主として上杉家の一門が務めている。
 武てい式が行われるのは5月2日の午後6時から、会場は「おまつり広場」に定着、開会前には上杉家廟所参拝、市中行進なども組まれている。
2007.03.08:事務局:[上杉まつりの歴史]