上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

団塊の世代から上の方に「昭和の喜劇俳優と言えば・・・」とお伺いすると殆んどの方が「伴淳三郎」「ばんじゅん」とお答えになると思います。そんな伴淳三郎さんこと本名鈴木寛定さんは山形県米沢市のご出身でした。高度成長期まっただ中、「あじゃぱぁ~」の流行語を生み出しお茶の間を笑いの渦に巻き込んだ伴淳三郎さんですが、昭和56年(1981年)10月26日、73歳でこの世を去られています。お墓は米沢の極楽寺にございます。(お墓の画像はご遠慮申し上げました。本堂の左手(北側)にございます。)

伴淳三郎さんの故郷米沢市では「伴淳の会」が結成され、懐かしの銀幕公開イベントが開催されています。

2008年の映画祭パンフレット。


2009年の映画祭パンフレット。


2010年の映画祭パンフレット。


2011年も開催され多くのファンで賑わいました。2012年の開催も今から
とても楽しみです。

関連ニュース記事 → 山形新聞 Yamagata News online
伴淳三郎の故郷を歩く → 山形新聞 Yamagata News Online

伴淳三郎の墓 - 極楽寺の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
昭和の喜劇俳優 伴淳三郎 さんの映画祭が今年も米沢で開催されます。年を追うごとに盛り上がりをみせている映画祭ですが、今年は更に内容がボリュームアップし 8月24日(金)~26日(日) までの堂々の3日間開催となりました。まち歩きワークショップ・トークショー・ゲストとの交流会・映画6本上映とまさに伴淳づくしの3日間です。この機会に現代のエンタメとはひと味違った笑いの壺にあなたもはまってみませんか。



【米沢偉人伝】 伴淳三郎の墓 - 極楽寺



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
龍師火帝(りょうしかてい)の碑は、猿尾堰堀立川 の守り神として直江兼続公によって作られた石碑です。
「龍師」は水神、「火帝」は火の神のことで、水害と日照り干ばつからの守護を願い文字が刻まれています。高さ約1.6m、横幅約2.7m、厚さ約1.4m、推定重量10tにも及ぶこの安山岩の巨石は、かつてその存在こそ知られていたものの発見には至っていませんでしたが、河川工事の際に偶然川の中から発見され現在は平成の猿尾堰の側に置かれています。
長年に渡り水の流れにさらされていたため、石碑右側の「龍師火帝」の文字は辛うじて判読出来るものの、左側に書かれていたであろう碑文は残念ながら全く読み取りことが出来ません。











龍師火帝の碑の地図




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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
直江家の菩提寺「徳昌寺」にあった直江兼続公夫妻のお墓と霊牌を、春日山林泉寺に奪われた直江兼続公の家臣団「与板衆」は、元初代米沢奉行平林正恒(元武田勝頼公の家臣)の支援を受け、直江兼続公の生母方である信濃泉衆の菩提寺「東源寺」(とうげんじ)を米沢に招き揃って檀家となりました。そしてこの「東源寺」で直江兼続公夫妻と長男景明様の菩提を弔ったのです。今も直江兼続公の命日には法要が執り行われています。境内は平林家屋敷跡で平林正恒も東源寺に眠っています。

今も直江兼続公の命日には法要が執り行われる「東源寺」。


直江兼続公ご夫妻と長男景明様の御位牌。


東源寺様は拝観を行っておりません。どうぞご命日にお参り下さい。

東源寺の地図



上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
川が史跡なの? と思われるかも知れませんが、実は直江兼続公が米沢に遺した一番大きな史跡が 堀 立 川(ほったてがわ) なのです。上杉時代館の記憶の中に「直江兼続公」の名前が刻まれたのもこの「堀立川」がきっかけで、それは小学校の授業の時にまでさかのぼります。

直江石堤(谷地河原堤防)蛇 堤(へびつつみ) を完成させ城下南部と東部の安全を確保した直江兼続公は、南部の広大な土地と西部の更なる開墾を目指しこの地域に新しい水路を通す計画を立てました。松川上流部の 猿 尾 堰(さるおぜき) で取水され2つの地域を通り城下北部で再び松川に戻る新しい水路は 堀立川(堀楯川) と名付けられました。人口的に掘って造った川ですが、「掘る」の「掘」ではなく「お堀」の「堀」の字が使われています。











松川(最上川)の水が猿尾堰で取水され堀立川として城下を流れます。


お堀の目的がない城下の外では川幅は広くありません。


三の丸の堀の代用 となる林泉寺手前から川幅が広くなります。


三の丸の堀の代用は 林泉寺から法泉寺(禅林寺)まで 続きました。


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昭和42年(1967年)8月28日から29日にかけての記録的な大雨は、米沢市内に大きな被害を及ぼしました。「羽越水害」と名付けられたこの水害以降、堀立川は全域に渡り護岸工事が施工され、掘削当時の面影はほとんど見られなくなってしまいました。
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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
鳳台寺(ほうだいじ)は、もともと越後国府中(現在の新潟県上越市直江津)に「至徳寺」という寺号であった寺です。ところが上杉謙信公が急逝された際に起きた2人の養子(上杉景勝公と上杉景虎)による家督相続の争い 御館の乱 の戦火に巻き込まれ至徳寺は全てを焼失してしまいました。その後越後の地に再建されることなく至徳寺は僧のみが上杉家の会津移封、米沢減封に伴い米沢の地に入ります。その時の住職は豊山能達という和尚で、直江兼続公の義母(直江景綱(実綱)室)の甥にあたる方だったため、直江兼続公はこれを加護し米沢の地に至徳寺を再建しました。この時豊山能達和尚は、直江景綱(実綱)室の法名から2字をとり、寺号を「至徳寺」から「鳳台寺」に改号され現在に至っています。

今も新潟から沢山の方が訪れる鳳台寺。


米沢に旧町名として残る「与板町」の名称。(鳳台寺北側)


鳳台寺の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)