鈴鳴草子 〜鈴の宿 登府屋旅館〜
勝天35 『これぞ天下の上杉節 4番』
兼続 「殿、本日は4番でございます。」
景勝 「あと2つじゃな。」
・・・これぞ天下の上杉節 4番・・・
天下分け目の関ヶ原
たもとをわかつ西東
上杉武士の面目に
景勝直江と意地で立つ
景勝 「景勝・直江とは・・・われらのことではないか。」
兼続 「左様でございます。この歌は、まさにわれらの人生におけるクライマックスが表現されております。」
景勝 「興味深いのぉ。」
兼続 「慶長3年(1598)、天下人・豊臣秀吉さまがこの世を去りました。
翌慶長4年(1599)には、前田利家どのが亡くなりました。
利家は、五奉行の一人で家康と対等に渡り合える唯一の存在。
慶長5年(1600)に入ると、徳川家康が天下取りへ向け、活発な活動を開始します。」
景勝 「前田家との悶着じゃな。」
兼続 「標的となったのは、加賀100万石の前田家です。
藩主・前田利長や浅野長政らが、家康暗殺計画を企てたとの嫌疑をかけ、加賀征伐を検討します。
利長は、最初交戦するつもりでした。
城を増強し、迎え撃つ準備をしていましたが、母の芳春院のとりなしにより、戦を回避します。
芳春院自身が人質になることを条件に家康と和議を結び、領国を安堵されます。」
景勝 「そして、次なる標的が、会津120万石の我ら上杉家だったわけじゃ。」
兼続 「上杉の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として景勝に逆心有りと家康は糾弾します。
家康は、上洛して釈明せよ、わが臣下になれと再三要求しました。」
景勝 「上杉にも意地がある。加賀の前田のように簡単に軍門に下るわけには、まいらぬ。」
兼続 「おっしゃる通り、この要求を上杉家は、頑として拒否しつづけました。
家康は、兼続と親しい僧・承兌に最後通告といえる書状を書かせます。
その返書で私は、上杉家の潔白と家康の不義理を追求しました。」
景勝 「世に言う『直江状』じゃな。」
兼続 「激怒した家康は、上杉討伐軍を編成し、会津へと攻め上ります。
徳川軍が、小山に差し掛かった頃、上方で石田三成どのが挙兵。
家康は、上杉討伐を止め、軍を西へと進めます。
そして、運命の関ヶ原の合戦が繰り広げられました。」
景勝 「あれはまさに運命の一日であった。」
兼続 「関ヶ原の合戦前夜、世の武将は徳川方と豊臣方に別れ、派閥のようになっていました。
東北でも、上杉は豊臣方(西軍)、伊達・最上は徳川方(東軍)でした。
長いものには巻かれろとばかり徳川に味方する大名や徳川の力を恐れ生母を差し出した前田家があるなかで、上杉家は徳川家康に対して、敢然と立ち向かいました。」
景勝 「謙信公以来の武家としての意地じゃ。」
兼続 「残念ながら、徳川軍と直接対決することはかないませんでしたが、その後、上杉軍は最上氏の居城を攻め、東北の関ヶ原へと発展していきます。」
景勝 「うむー、まさに意地で立ったものの、結果は簡単ではなかったな。」
兼続 「さようですな。」
景勝 「意地で立ったが、イージーではなかったということか。」
兼続 「これはしたり。殿に突っ込むのもイージーではございませぬな。」
2009.02.08:
tofuya
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兼続 「左様でございます。この歌は、まさにわれらの人生におけるクライマックスが表現されております。」
景勝 「興味深いのぉ。」
兼続 「慶長3年(1598)、天下人・豊臣秀吉さまがこの世を去りました。
翌慶長4年(1599)には、前田利家どのが亡くなりました。
利家は、五奉行の一人で家康と対等に渡り合える唯一の存在。
慶長5年(1600)に入ると、徳川家康が天下取りへ向け、活発な活動を開始します。」
景勝 「前田家との悶着じゃな。」
兼続 「標的となったのは、加賀100万石の前田家です。
藩主・前田利長や浅野長政らが、家康暗殺計画を企てたとの嫌疑をかけ、加賀征伐を検討します。
利長は、最初交戦するつもりでした。
城を増強し、迎え撃つ準備をしていましたが、母の芳春院のとりなしにより、戦を回避します。
芳春院自身が人質になることを条件に家康と和議を結び、領国を安堵されます。」
景勝 「そして、次なる標的が、会津120万石の我ら上杉家だったわけじゃ。」
兼続 「上杉の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として景勝に逆心有りと家康は糾弾します。
家康は、上洛して釈明せよ、わが臣下になれと再三要求しました。」
景勝 「上杉にも意地がある。加賀の前田のように簡単に軍門に下るわけには、まいらぬ。」
兼続 「おっしゃる通り、この要求を上杉家は、頑として拒否しつづけました。
家康は、兼続と親しい僧・承兌に最後通告といえる書状を書かせます。
その返書で私は、上杉家の潔白と家康の不義理を追求しました。」
景勝 「世に言う『直江状』じゃな。」
兼続 「激怒した家康は、上杉討伐軍を編成し、会津へと攻め上ります。
徳川軍が、小山に差し掛かった頃、上方で石田三成どのが挙兵。
家康は、上杉討伐を止め、軍を西へと進めます。
そして、運命の関ヶ原の合戦が繰り広げられました。」
景勝 「あれはまさに運命の一日であった。」
兼続 「関ヶ原の合戦前夜、世の武将は徳川方と豊臣方に別れ、派閥のようになっていました。
東北でも、上杉は豊臣方(西軍)、伊達・最上は徳川方(東軍)でした。
長いものには巻かれろとばかり徳川に味方する大名や徳川の力を恐れ生母を差し出した前田家があるなかで、上杉家は徳川家康に対して、敢然と立ち向かいました。」
景勝 「謙信公以来の武家としての意地じゃ。」
兼続 「残念ながら、徳川軍と直接対決することはかないませんでしたが、その後、上杉軍は最上氏の居城を攻め、東北の関ヶ原へと発展していきます。」
景勝 「うむー、まさに意地で立ったものの、結果は簡単ではなかったな。」
兼続 「さようですな。」
景勝 「意地で立ったが、イージーではなかったということか。」
兼続 「これはしたり。殿に突っ込むのもイージーではございませぬな。」