鈴鳴草子 〜鈴の宿 登府屋旅館〜

当方見聞録 essay
温泉王国 やまがたウェブ合戦に参加するべく、
小野川温泉のフェイスブックページを作ってみました。

http://www.facebook.com/pages/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B7%9D%E6%B8%A9%E6%B3%89/200565053360244

↑イイね!お願いします。^^
直江兼続の愛のかぶと、せっかくですからお土産にどうぞ。^^

当館売店にて、販売しております。

米沢市のペーパークラフトよりも組み立てやすく、丈夫なウレタン製です。

お子様のお土産として、喜ばれますよ。

また、イベントなどで大人がかぶってもよいと思います。

遠くの方には、発送もいたします(送料別)ので、お気軽にお問い合わせください。

 → 電話: 0238-32-2611
先日泊まられた河北仙販さま。

5人で定額給付金プランをご利用になり、お米20kgをお持ち帰りになりました。

お米は、2人に10kg。

4人で20kg。

8人で40kgです。

うれしい重みです。^^
かねたんのおきあがりこぼしです。

直径4cmくらいで、城史苑で販売しています。

木でできていて、手触りもいいし、お子様のお土産にはオススメです。

ちゃんと立つから偉いです。^^
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本日、定量給付米プランで初めてご宿泊をいただきました。

気になるNo.1は、新潟の野崎様。

記念品として、お米によく合う『ラジウム玉子』をプレゼントいたしました。


景勝公が守り、兼続公が愛した米沢の『米』を新潟のご本家さまにお渡しでき、光栄でございます。

『天地人』のご縁を感じずにはいられません。

天の時・・・定額給付金が支給される、まさに今

地の利・・・歴史とお米でつながった米沢に

人の和・・・インターネットで再びつながり、宿泊していただける幸運


ズッシリ重い10kgのお米には、地元農家の想いも込められています。

  重いよね 米の袋を渡されて 作り込めたる想い感じて


10kgといえば、1歳児の平均体重。

農家の方が1年かけて育てたわが子のようなお米をお楽しみください。
お米10kgと米沢牛!をうたい文句に定額給付金プラン、作りました。

おかげさまで、マスコミでたくさん報道していただきました。

登府屋旅館 公式サイトで詳細確認

お米がなくなり次第、終了ですので、ぜひブログを応援してくださっているみなさまもいらしてください。

お待ちしております。


FNNニュース(動画も)

TUY

河北新報

サンスポ

ヤフーニュース

夕刊フジ

本日は、講談師の神田織音さまがお泊まりになりました。

愛の鎧兜の前で記念撮影。

せっかくですので・・・、直江兼続紙芝居のときのユニフォームである陣羽織を来ていただきました。

和服にビシッと「愛」!
お似合いです。^^

お忙しい日程のなか、当館にお立ち寄りいただき、どうもありがとうございました。


神田織音さんのウェブサイト
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兼続 「殿、先日われわれが行ってきた米沢の天地人博2009ですが・・・」

景勝 「うむ。どうした?」

兼続 「来場者数が、1万人を突破したようにございます。」

景勝 「そうか、それはよかった。目標は20万人じゃからな。」

兼続 「はい、今週末は上杉雪灯篭まつりですし、また来場者数が増えまする。」

景勝 「それはよいな。冬ならではの雪の祭典じゃ。天地人博とセットで見た方がよいな。」


山形新聞  天地人博2009 1万人突破
兼続 「殿、本日は4番でございます。」

景勝 「あと2つじゃな。」


・・・これぞ天下の上杉節 4番・・・

 天下分け目の関ヶ原

 たもとをわかつ西東

 上杉武士の面目に

 景勝直江と意地で立つ


景勝 「景勝・直江とは・・・われらのことではないか。」

兼続 「左様でございます。この歌は、まさにわれらの人生におけるクライマックスが表現されております。」

景勝 「興味深いのぉ。」

兼続 「慶長3年(1598)、天下人・豊臣秀吉さまがこの世を去りました。
翌慶長4年(1599)には、前田利家どのが亡くなりました。
利家は、五奉行の一人で家康と対等に渡り合える唯一の存在。

慶長5年(1600)に入ると、徳川家康が天下取りへ向け、活発な活動を開始します。」

景勝 「前田家との悶着じゃな。」

兼続 「標的となったのは、加賀100万石の前田家です。
藩主・前田利長や浅野長政らが、家康暗殺計画を企てたとの嫌疑をかけ、加賀征伐を検討します。

利長は、最初交戦するつもりでした。
城を増強し、迎え撃つ準備をしていましたが、母の芳春院のとりなしにより、戦を回避します。
芳春院自身が人質になることを条件に家康と和議を結び、領国を安堵されます。」

景勝 「そして、次なる標的が、会津120万石の我ら上杉家だったわけじゃ。」

兼続 「上杉の元家臣・藤田信吉の出奔を契機として景勝に逆心有りと家康は糾弾します。
家康は、上洛して釈明せよ、わが臣下になれと再三要求しました。」

景勝 「上杉にも意地がある。加賀の前田のように簡単に軍門に下るわけには、まいらぬ。」

兼続 「おっしゃる通り、この要求を上杉家は、頑として拒否しつづけました。
家康は、兼続と親しい僧・承兌に最後通告といえる書状を書かせます。
その返書で私は、上杉家の潔白と家康の不義理を追求しました。」

景勝 「世に言う『直江状』じゃな。」

兼続 「激怒した家康は、上杉討伐軍を編成し、会津へと攻め上ります。
徳川軍が、小山に差し掛かった頃、上方で石田三成どのが挙兵。
家康は、上杉討伐を止め、軍を西へと進めます。
そして、運命の関ヶ原の合戦が繰り広げられました。」

景勝 「あれはまさに運命の一日であった。」

兼続 「関ヶ原の合戦前夜、世の武将は徳川方と豊臣方に別れ、派閥のようになっていました。
東北でも、上杉は豊臣方(西軍)、伊達・最上は徳川方(東軍)でした。

長いものには巻かれろとばかり徳川に味方する大名や徳川の力を恐れ生母を差し出した前田家があるなかで、上杉家は徳川家康に対して、敢然と立ち向かいました。」

景勝 「謙信公以来の武家としての意地じゃ。」

兼続 「残念ながら、徳川軍と直接対決することはかないませんでしたが、その後、上杉軍は最上氏の居城を攻め、東北の関ヶ原へと発展していきます。」

景勝 「うむー、まさに意地で立ったものの、結果は簡単ではなかったな。」

兼続 「さようですな。」

景勝 「意地で立ったが、イージーではなかったということか。」

兼続 「これはしたり。殿に突っ込むのもイージーではございませぬな。」

兼続 「今日は・・・。」

景勝 「3番じゃろう。」


・・・これぞ天下の上杉節 3番・・・

 信玄死すとの報を聞き

 涙にくれて声もなく

 雪どけ待って上洛の

 雄図はむなしく春に散る


兼続 「まず、信玄死すとの報を聞き 涙にくれて声もなく、ですが・・・。」

景勝 「元亀4年(1573)4月12日、武田信玄は、この世を去った。」

兼続 「左様でございます。
武田信玄は、三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の軍勢に大勝しました。
さらに攻め続けようとした矢先、信玄は体調を崩し、進軍は止まってしまいます。」

景勝 「信玄は、病に冒されておった。」

兼続 「喀血するなど病状が回復しないため、信玄は甲斐への撤退を決断をしました。
撤退の途中、武田信玄は三河街道にて亡くなりました。53歳。」

景勝 「長く敵として戦ったとはいえ、謙信公にとってライバルの急死はショックだったであろうな。」


兼続 「そして、雪どけ待って上洛の 雄図はむなしく春に散る、と続くわけですが・・・。」

景勝 「雄図とは、なんじゃ?人気デュオか?」

兼続 「それは、ゆずでございます。」

景勝 「うむ。続けよ。」

兼続 「信玄の死から4年後、上杉軍は越中に侵攻します。
七尾城を落とし、七尾城の援軍にかけつけた柴田勝家率いる織田信長軍までも手取川の合戦で打ち破ります。

越中を平定した謙信は、いったん春日山城に帰還し、再度軍備を整えます。
次は、加賀を攻め、織田信長を倒し、京へ上洛するという大規模な計画が待っていました。

当時、織田信長は、京都から将軍・足利義昭を追放し、天下統一を目指していました。
義理がたい謙信公は、自らが天下を取ることより、将軍足利義昭(写真の人物)を奉じて幕府を再興することを目標としました。

武器や糧食、兵の準備をして、さぁ京都へ攻めのぼろうという矢先、謙信公は春日山城で急死しました。
天正6年(1578)3月13日、享年49歳でした。

雪がとけたら、京へ向け、兵馬を率いて向かうはずが、不運にもお亡くなりになってしまいました。」

景勝 「信玄が死に、謙信公がお亡くなりになった。激動の時代じゃな。」

兼続 「そして、我らの人生も激動の時代でした。」

景勝 「『雄図』は、信長を打倒し、足利幕府の再興を手助けしたいという謙信公の夢のことじゃな。」

兼続 「謙信公の思いとはうらはらに、時代は足利幕府の滅亡と天下統一へ向け動き出しました。
川中島で戦った2人が世を去り、群雄割拠の時代から天下統一の時代へと変わっていきます。」

景勝 「上杉家では、家督相続を巡り、わしと三郎景虎による戦となった。」

兼続 「御館の乱でございますな。我らは勝利し、今に至りまする。」

景勝 「謙信公の雄図、見てみたかったものじゃ。」
兼続 「殿。今日は、2番ですな。」

景勝 「おぬしもしつこいのぉ。」

兼続 「5番までお付き合いください。」


・・・これぞ天下の上杉節 2番・・・

 川中島は霧のなか

 戦機は熟せり乱れ龍

 宿敵信玄なにものぞ

 長蛇を逸する七つ太刀


兼続 「川中島は霧のなか 戦機は熟せり乱れ龍 宿敵信玄なにものぞ、ですが・・・。」

景勝 「いうまでもない。謙信公と甲斐の武田信玄のいくさではないか。」

兼続 「戦国史上、最大の激戦といわれる第4次 川中島の合戦の八幡原の戦いでございます。」

景勝 「謙信公は、一万三千の兵を要し、川中島を見下ろす妻女山に陣を置き、対する武田信玄は二万の兵を率いて、ふもとの海津城におった。」

兼続 「武田の軍師・山本勘助が提案したのが、『啄木鳥(キツツキ)戦法』でございます。
軍を二手に分け、別働隊を夜中のうちに密かに妻女山に移動させ、夜明けに一斉攻撃。
上杉軍が山から逃げ降りるであろう川中島に予め布陣し、待ち構えた本隊が挟み撃ちをするという作戦です。
ところが、謙信公は、海津城の飯炊きの煙が多いのを見て、武田軍の動きを察知。
かがり火や旗さしものをそのままにして妻女山を下り、夜の闇に乗じ、ひそかに千曲川を渡り、八幡原に陣を置きました。謙信公の天才的な戦のセンスがでた瞬間です。」

景勝 「そのような話は、日本中が2年前の『風林火山』で知っておる。」

兼続 「上杉軍が妻女山に布陣したのは、20日以上も前のこと。
つまり、ひと月近く海津城の武田軍とにらみ合っていたわけです。
謙信にしてみれば、濃い霧と武田軍の動きに『これを待っていた。今だ!』という思いだったことでしょう。」

景勝 「それはよいが、次の歌詞の長蛇とはなんじゃ?」

兼続 「長蛇を逸する七つ太刀、でございますが・・・。
まずは、川中島の続きをお聞きください。

夜明けとともに武田軍の別働隊は、上杉軍がいるはずの妻女山を奇襲します。
しかし、そこはもぬけの殻でした。

川中島で待つ武田本隊。
霧が晴れ、見たものは・・・なんと、いるはずのない上杉の軍勢でした。

上杉軍は『車懸りの陣』で攻め込み、武田本軍は『鶴翼の陣』でなんとか応戦します。

相手の裏をかき、戦術で上回った上杉軍は、一気呵成に武田の陣内へ攻め入ります。

混乱のなか、武田の軍師・山本勘助や信玄の弟・左馬助信繁はじめ大物武将が討ち死にをしてしまいます。

手薄となった武田信玄の本陣に、萌黄色の衣服に黒糸緘の具足をつけ、白頭巾を被った騎馬武者が単騎、切り込みます。
謙信公です。
三尺余りの大太刀『小豆長光』を振りかざし、馬上から信玄めがけ切りつけます。

謙信は、三太刀斬りつけ、信玄は軍配でこれを防いだものの、肩先を負傷してしまいます。

もはやこれまでか!と思ったとき・・・

間一髪で駆けつけたのが、武田方の原大隅。

信玄の槍『青貝』を使い、馬上の謙信をめがけて突き出したが逸れ、謙信の馬を傷つけ、驚いた馬は跳ね上がり、謙信は去ったといわれています。

九死に一生を得た信玄が、刀を受けた軍配を見ると三度しか受けていないはずの軍配には七つの刀傷がありました。
これが、有名な三太刀七太刀のシーンです。」

景勝 「それはわかるが、長蛇とは何じゃ?」

兼続 「最後までお聞きくださいませ。

昼過ぎ、妻女山にいた武田軍の別働隊が、八幡原に到着すると形勢は逆転。
上杉軍は、挟み撃ちをされる形となり、犀川を渡って善光寺に退き、激戦は幕を閉じます。」

景勝 「・・・。」

兼続 「武田軍の裏の裏を読み、山を降りて戦を仕掛ける様を江戸時代の陽明学者・頼山陽が漢詩にしています。」

景勝 「おぬし、知らぬからといって、上杉節から漢詩へ逃げる気か?」

兼続 「そうではございませぬ。
まずは、漢詩をお聞きください。


『題不識庵撃機山図』

 鞭聲肅肅夜河を過る
   べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる

 曉に見る千兵の大牙を擁するを
   あかつきにみる せんぺいの たいがをようするを

 遺恨なり十年一劍を磨き
   いこんなり じゅうねん いっけんをみがき

 流星光底長蛇を逸す
   りゅうせいこうてい ちょうだをいっす


さらに、うれしい解説です。

不識庵は上杉謙信の法号、機山は武田信玄の法号です。

謙信は馬の鞭の音も控えつつ千曲川を渡り、信玄の陣中近くまで押し迫った。
夜が明けて信玄がみたものは謙信率いる大群。
遺恨を胸に十年に亘り剣を磨いてきた。
今まさに信玄に対して奇襲攻撃をしかけた謙信であったが、まるで流れ星のように信玄が危機一髪で逃れ、又しても謙信は長蛇(信玄)を逸した。」

◆字解
鞭聲 馬に当てるむちの音
肅肅 静かなさま
大牙 将軍のたてる旗
遺恨 残念、無念
流星光底 流星の飛ぶ光のごとく剣を抜きて切り下げた時の光をいう
長蛇 目指す大敵、ここでは信玄を指す

景勝 「つまり、長蛇とは信玄ということか。」

兼続 「左様でございます。この漢詩と三太刀七太刀のエピソードから、『長蛇を逸する七つ太刀』という歌詞につながります。」

景勝 「・・・長い!」

兼続 「申し訳ございませぬ。」

景勝 「というか、重い!」

兼続 「ちゃんと説明したかったゆえ、申し訳ございませぬ。」

景勝 「長蛇だけに・・・ヘビーじゃ!」

兼続 「・・・。」

景勝 「おっ?いつもの これはしたり は出ぬのか。」

兼続 「・・・。」

景勝 「なんじゃ、何とか言わぬか。」

兼続 「蛇だけに・・・まぁ 無視(まむし)してみました。」
兼続 「殿、今日はお唄の稽古でございます。」

景勝 「何の唄じゃ?どじょっこ、ほいか?」

兼続 「違いまする。上杉節でございます。」

景勝 「それは、昔から知っておる。何を今さら。」

兼続 「今日は、一番でございます。」


・・・これぞ天下の上杉節 1番・・・

 毘沙門天の旗じるし

 われに勝利をたれたまえ

 のろしは上がる春日山

 謙信出陣 武てい式


兼続 「毘沙門天の旗じるし われに勝利をたれたまえ、ですが・・・。」

景勝 「上杉の旗印じゃ。決まっておろう。」

兼続 「念のため、他の旗の解説もいたしまする。」

景勝 「上杉の旗印じゃ。決まっておろう。」

兼続 「左様でございます。1番隊が持つのが『毘』の旗。上杉の守護神である毘沙門天の頭文字にございます。」

景勝 「先陣を勤める者は、毘と決まっておる。」

兼続 「では、2番隊は?」

景勝 「わしを試す気か。『八幡の御弓』。関東管領上杉家の重宝じゃ。」

兼続 「では、3番隊は?」

景勝 「お主もしつこいのぉ。朝廷から拝領した「紺地日の丸」の旗が、3番隊の持ち物じゃ。」

兼続 「では、毘とともに有名な『龍』の旗は?」

景勝 「懸かり乱れの龍。あの旗は、敵陣への総攻撃のときに使うのじゃ。むやみに出すものではない。」

兼続 「ちなみに、龍は、仏教において不動明王を表します。不動明王の持つ倶梨伽羅剣には龍が巻きついていて、この龍が仏敵を倒すと言われておりまする。ここでも神とつながるのでございます。」

景勝 「ほかにも、『刀八毘沙門』と書かれた旗がある。おぬしの前立てと同じく、『愛』と書かれた旗もあるのぉ。」

兼続 「左様でございます。話を本題に戻しまして・・・。のろしは上がる春日山、謙信出陣武てい式、でございます。さて、この武てい式とは?」

景勝 「謙信公が、合戦に出かける前に必ず行っていた儀式じゃ。」

兼続 「はい。謙信公は、自ら護摩行を行いまする。春日山城内の護摩堂にて五壇護摩を行い、炎で煩悩を焼き尽くすのです。
次に、不識庵という建物に入って座禅を組み、これから行う戦が本当に義に基づく正しい戦いかを自問するそうです。
そして、毘沙門堂にて決意を固め、戦勝を祈願し、神前の霊水を水筒に納めます。」

景勝 「そうじゃ。その一連の行事が、武てい式じゃ。」

兼続 「では、のろしは?」

景勝 「戦の前、城下では『お立ち飯』と呼ばれる大盤振舞いが行わる。その煙じゃ。」

兼続 「はい、山盛りに米が炊かれ、山海の珍味と酒が所狭しと並びまする。
普段は質素な食事をしている謙信公が、合戦に出かける前だけは『大いに酒を飲み、大いに食らうべし』と士気を高めるイベントです。
遠征のための陣中食も作られますので、かまどでは絶え間なく米が炊かれ、その煙がもうもうと立ち上り、のろしがあがる状態となるわけです。」

景勝 「大盤振る舞いをするあたり、まるで石原軍団じゃ。」

兼続 「いきなり石原軍団とは・・・。」

景勝 「そうであろう。石原軍団にもおるではないか、おたちめしが。」

兼続 「殿、それをいうなら、たちひろしでございます。ボケが過ぎますぞ。」

景勝 「与六、くるしゅうないぞ。くるすーない。クールスだけに。」

兼続 「これはしたり。ある年代にしかわからないボケですぞ。」

兼続 「殿、どうしていつも縁側で・・・」

景勝 「なんじゃ?」

兼続 「刀をポンポンなさるのですか?」

景勝 「刀の手入れじゃ。知っておろう?」

兼続 「手入れは、わかりますが・・・余りにもそのシーンが多すぎます。」

景勝 「武士の基本じゃ。」

兼続 「米沢の天地人博2009では、殿ご愛用の小道具・刀の手入れセットが展示されていました。米沢の民も気になっております。」

景勝 「わしは刀が好きじゃ。」

兼続 「なぜでございますか?」

景勝 「負けそうな戦に勝つためじゃ。」

兼続 「殿が直接前線で戦うことは、そう滅多にありませんぞ。」

景勝 「そうではない。」

兼続 「は?」

景勝 「そなたも負けそうな時、心で唱えよ。」

兼続 「なんとでしょう?」

景勝 「かったな・・・、と。」

兼続 「殿、相変わらずの駄洒落。かったるいな・・・。」


実際、上杉景勝は、かなりの愛刀家であったそうです。

卓越した鑑定眼を持ち、特に気に入ったものから選抜した「上杉景勝御手選三十
五腰」と呼ばれるコレクションには国宝や重要文化財が多数含まれています。

たしか、今まで35本全てを一堂に展示したことはないはずです。

どれほどのものか、ぜひ見てみたいものです。
先日、小野川温泉に新潟県の女将会の皆様がいらっしゃいました。

そのときいただいた、おみやげがこちら。

『お六饅頭』

お六とは、与六、すなわち直江兼続のこと。

与六の生まれ故郷の南魚沼市では、与六のことを「お六」と呼ぶそうです。

さらに、『お六甚句』という歌まであるそうです。

1番
送りましょうか 送られましょうか 寺が鼻まで 時雨にぬれて 昔やお六と昔やお六と桂姫

2番
月が出たぞえ 木影に入ろか ままよ渡ろか 坂戸の橋を お六甚句でお六甚句で水鏡

3番
吹雪く窓なりゃ 届かぬ想い 心細かな 縮のあやを 織って着せたや織って着せたや主が肩

4番
百姓大名じゃ 兼続様は 尻をからげて 田草もとりゃる 峰にゃ松風 峰にゃ松風玉日和

5番
おらが娘の 器量を見やれ 燃えて溶かした 高峰の雪を 袖にすくって 袖にすくって玉の肌

6番
お六恋しや 姫様桂 会えぬこの身が 川瀬をこがす 蛍呼ぶなら 蛍呼ぶなら 寺が鼻


若き日の兼続と景勝の妹・桂姫との想像上の恋物語が謡われています。

桂姫は、のちの上条政繁の奥様。

事実ではないとしても、どうしてこの歌が生まれたかという背景が気になりますね。
景勝 「冬じゃのぉ。」

兼続 「今年は、例年より雪が少のぉございますな。」

景勝 「雪とは、やっかいなものじゃな。降らねば降らぬで困るし、降れば降ったで困る。」

兼続 「御意にございます。」

景勝 「雪国にとって、雪はお金と同じ。」

兼続 「降らぬとお金も動きませぬ。」

景勝 「暖冬は、雪いじりがなくて楽じゃが。よしあしじゃな。」

兼続 「そんななか、少ない雪を集めたものどもがおります。」

景勝 「ほほぉ。」

兼続 「小野川温泉では、本日より かまくらがオープン。ちょうど登府屋旅館の裏の公園でございます。」

景勝 「いつものアレができるわけか。」

兼続 「どこでも出前でございますな。雪の中、かまくらにラーメンを出前できまする。」

景勝 「雪といえば、あの祭もあるのぉ。」

兼続 「上杉雪灯籠まつりですな。2月14日・15日でございます。」

景勝 「昼は天地人博2009、夜は雪灯籠まつり。盛り沢山じゃのぉ。」

兼続 「今年は、『天地人』効果もあり、宿の予約は取りにくくなっておるそうでございます。お早めにご決断を。」

景勝 「うむ。いざカマクラへならぬ、いざ小野川へじゃな。」

兼続 「まさに武士の鑑。御恩と奉公でございますな。兼続もお供させていただきます。」



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