第四十五話「マナー考える。お話」

「今年の夏は、いつまで続くのか?」と思わせるような、暑い日が続いています。私の様に外で仕事をしている人間は、夏の照りつける太陽の下で、冬の寒さを欲したり、また雪が降るような寒い季節が来れば、ぎらつく太陽の暑さを恋しがったりする事が往々にしてあります。
 それはただの『わがまま』だと解ってはいるのですが、決まりきった季節の中で、思わず「暑い」だの「寒い」だのと口にしている自分を見つけると、「俺はガマンの足りない、ワガママな人間だな」と思ってしまいます。しかし、それはそれで「人間らしくて好いのかな?」と、気ままな態度の自分を許している私も、反対側にいるのです。
「暑いの、寒いの」と仲間内で騒いでいるのは、他人様に迷惑を掛ける事もない些細な事ですが、場合によって自分の『わがまま』が見も知らぬ人に迷惑を掛けたり、不安な感情を持たせたりする事も有ります。それは大袈裟に言えば、その出来事だけで人間としての存在を問われる事なのかもしれません。
 もう半年くらいは経つと思いますが、『わがまま』と言う事では、私も大いに反省しなくてはならない出来事が有りました。その日の夕刻私は、利府から仙台までの電車に乗っていました。以前より楽しみにしていた『東方落語』の十五周年の記念講演会に行くために、近所に住む友人夫妻と私の妻との四人で、会場の仙台市シルバーセンターに向かっていたのです。仲の良い人達と電車で出掛けるのは滅多に無い事なので、私たちは子供の遠足みたいに、車両内で賑やかに談笑しておりました。
 傍から見れば何の事も無い景色ですが、問題は私の話声に合ったようです。自衛隊経験者の私は若い頃の訓練のおかげで地声が大きい事と、年に何度か講話のまね事をさせて頂いているせいか、周辺に『声』が響き通るのです。
 その時の話題は近所の出来事から最近の政治・経済まで、仲の好い人達で話す内容ゆえ独善的なことも含まれておりました。地声の大きいことは自分でも気付いていますので、辺りに気を配りながら話していたつもりでしたが、それでも周りの人達にとっては見ず知らずのおっさんの戯言なぞ聞きたくも無い話であり、その話声が大音量で耳に中に飛び込んで来る事位、不快な物は無いのかもしれません。
 仙台駅で電車から降りる間際に、私と同じ位の年恰好の男性から大きな声で「この、恥知らず。」と罵声を投げつけられたのです。私は唖然としました。と同時に前日の夜に観た映画に事を思い出したのです。
 それは『阪急電車―片道一五分の奇跡』と言う映画で、その物語の一場面に阪急電車の車内で騒ぐ、関西独特のおばちゃん達の無礼を、主人公の宮本信子が滾々と説教すると言うシーンが有るのです。
 映画の中では『おばちゃん達』の我儘・傍若無人な行動がちょっと大袈裟に描かれ、それが何故いけない事なのか、主人公によってドラマチックに語られます。観ていて「マナーは守らなあかん。」と大阪弁が頭の中で流れます。でもよく考えてみるとそれは、大阪に住んだ事の有る者にすれば結構見かける場面で、そんなおばちゃん達は有る面、鬱陶しくもあり、また、憎めない存在でもあるのです。思わず宮本信子はん「なんも、そこまで言わんでも。」と、私はつぶやくのです。
 するとこの映画の場面「住環境の違う東京に住む人が描いたモノではないか?」などと言う気もするのです。『わがまま』の何がいけないのかは、他人に迷惑を掛けるからです。迷惑を掛けるというのは、マナー違反なのです。でもそのマナー、住んでいる地域や、組織、個人の考え方などで結構変わってしまいます。確かに今回の事では、私も反省しなければならないでしょう。でも、私に罵声を投げかけた男性は、なぜ私に対し「恥知らず」と言ったのかの理由も言わずに、何処かに行ってしまいました。私は訳も解らず『おじさんの思うマナー』の為に『反省』しなければならないのです。
 それと同じように、葬儀や、お墓参りなどにも『理由の判らない、マナー』が多くあります。地域や宗派、同じ宗派でも住職によってもやり方が違う事も有ります。また、葬儀屋さんが、自分の都合で勝手に儀式の仕方を変える事も有るのです。
「本日は、参列された方が多いので、焼香は一回でお願いします。」おいおい待ってよ、それって礼儀に反している、と思いながらも言われたまま一回の焼香で済ませる。素直な我々は「誰かが、そう言っていたから」と理由も判らない約束事を守っているのです。
「お墓の、ついで参りはだめです」って誰が言ったの?「お墓は、死んでから建てるもの。」とか言って、じゃあ、誰がお墓を建てるの?それって自分の責任を果たさないで、誰か適当に責任を押し付けているだけでしょう。
 ほんと「マナー」って何なのでしょう?
2012.09.17:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]