第二十四話「お墓の必要性を考える時②」

「生きているうちにお墓を建てると、早死にするんだよね!」
「縁起でもねぇ!家のばあさん、まだまだぴんぴんしているのに、葬式や墓の話なんかするんじゃねぇ。」
 誰がいつ頃から、そんな事を言い出したのでしょうか?生きているうちにお墓を建てると、誰かに呪われるのでしょうか。『縁起』って悪い事ばかりじゃなく、良い事が起こる事も有るんですよね。
 中国の皇帝・エジプトの王も、古代日本の天皇も皆、王位や皇位に付いてすぐ、お墓の準備を始めたはずです。そうしなければあれほど巨大な構造物は、出来ないと思います。それなのに、いつ頃からか、誰か一部の人達が墓を『呪い』の重要なアイテムの様な存在に祭り上げました。それが理由も知らない人々に伝わり、知らぬうちに皆が、それを口にするようになったのでは無いのでしょうか?
 近畿地方の一部の地域で、墓地を『ケガレ』の対象とする集落があるそうです。
 各々の一族のお墓は、ちゃんと地域の墓地に有るので、その村で誰かが死に、葬儀が終わり、焼骨になった遺骨は墓に埋葬されるそうですが、埋葬が終ったら、誰も二度とお墓参りには行かないそうです。なぜなら『墓地は穢れ(ケガレ)ている場所』だからだそうです。
 では『ケガレ』とは何なのでしょうか?一般的?に、古代日本語のヤマト言葉では『ケ』とは日常生活を指す言葉の様です。普通に有るべき日常生活が枯渇する事、『カレテ』来る事、非日常に陥ろうとしていることが『ケガレ』だそうで、そのケガレを癒すために、神を迎え、神に触れて生命力を奮い起こすための『まつり』が必要になるそうです。
 そうなると、祭りを執り行う神官は、神様にお仕えする者なのですから、基本的に穢れていてはいけません。ですから死にまつわる事はしない、墓地にも近づかないのです。古くから神道を精神の中心として生活する地域や、それに順ずる場所には、こうした風習が見られるそうです。
 それに比べ東北の一部地域では、その墓地の周辺に住む家々の家族が皆で墓地に行き、酒やビールを酌み交わし、まるで死者と宴会をしている様に見える地域もあると言います。これは沖縄の墓所でも普通に行われる事ですし、香港や中国・福建省の一部地域でも同様の風習が有るようです。こうした風習は、仏教的と言うよりも、儒教の影響を強く受けているようです。そう言えば、孔子は高度な葬儀業者だったと言う説があるそうです。
 しかし『祭』と言う物もただ単に『穢れ』を癒す為だけに有ったのではなく、「良い事の先取り」と言った面も有ったようです。
『御田植の神事』などは、豊作になることを祈願したわけですし、『豊年祭』と言ったものも、実際の収穫の前に豊作を祈願して行われる様な処があります。
 そうした行動(祭り)の内には、人間は自分が信じた方に進みたいと云いますか、自分の望む方向に進みたいと言う願望のようなものが、その(祭りの)内側に存在するのです。そういう意味では、古代の王や皇帝も、偉大な存在に成ることを望んで、大きな墓所を造営したのかもしれません。
 人は在るべき姿を自らの中に画いて生きて行った方が、より良い人生が送れる事になると思います。確固たる自我を持ち、明確な目標が有る事によって充実した人生が送れるのです。その最終的な目標として「お墓」が有るのではないのでしょうか。
 先日、数年前お墓を建てさせて頂いたお客様と談笑していたとき、その方がこんな事を言われました
「私は、今からお墓に入るのが楽しみなのですよ。」
 石屋の私が驚いた様な顔をすると「いえいえ、今直ぐ死ぬと言う訳ではなく、しっかり生きた後、あそこに行けると思うと、安心して仕事も出来るし、 何か有っても、慌てる事が無い。」と言われるのです。
 自分の人生を肯定的に語る事が出来るのは、自分に自信が有るからです。
 私もこれから残された人生、その様に語れるよう、日々勉強したいと思います。

*新谷尚紀著「お葬式」・一条真也著「知ってビックリ!日本三大宗教のご利益」を参考にさせて頂きました。
2010.11.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]