第五話「遺言を想う時代」

 一年で一番華やかな時、桜の頃になりました。寒く厳しい冬を耐えて迎える春、桜花はその春の象徴的な花です。桜木はその華やかな咲き具合から人々の心を引き付けるのか、またその散り際の良さから我々の心に残るのか。映画「おくりびと」の中でも、桜の花で、北国の春をより感動的に描写していました。
 かの映画は『散り際の良さ』を表す方法とし「桜」を利用したのかもしれません。いかに綺麗に人生の終焉を表すことができるか、それが映画の、重要なテーマの一つだったと思います。しかし、あの様にきれいな最後を誰もが迎えることができるのでしょうか。
 私はまだ春遠き2月上旬、所属している会の研修会で、富士山の麓の研修所に行ってきました。その研修所で、私の年齢の半分位の若い教官に、箸の上げ下ろしから、布団の整理、靴のそろえ方に至るまで指導され、まるで学生時代に戻ったような楽しい二日間を過ごしてきました。
 その中の講義のひとつ、二百人近くの講習生の入った講義室で、ある教官が「皆さんは、遺言を書いていますか?遺言書を用意されている方は手を上げてください」と言いました。誰一人手を上げないのを見た教官は、「あなた方は、お幾つのつもりなのですか。まだ二十歳ぐらいのつもりですか?五十歳を過ぎた人間は、この世に感謝をする上でも、残される家族の為にも、ちゃんと遺言は書いてください。」
 そうです、遺言書は残される家族に紛争の種を残さない様にする為にも大切なことですが、いま現状の自分を見詰め直す良いきっかけにもなります。遺言を書いたからといって明日すぐに死んでしまう訳ではありませんし、それを直ちに実行しなくてはならない事もありません。今まで自分が積み上げてきた人生の整理の為と思って書いて見るのも良いのかもしれません。
 以前、息子の通っていた中学校の校長先生と在校生の親御さんの葬儀に参列した時の事でした。帰りの車の中で校長が「あなたの荷物を整理しておいてくれと母親に話しているのですが、なかなかしてくれなくて」と突然のように話し始めました。
 何の事かと、校長先生の話を聞いていると、「自分もそうだが、現代人は意外と多くの物を持っている、本当に必要な物は少しなのに、なぜあんなに荷物があるのだろうか。いつかは私の母も亡くなる、其の時、私は母の荷物をちゃんと整理できないと思う。悲しみも有るが、それ以上に、母の人生の重さを考えると、何も捨てることが出来無いかも知れない。だから自分で荷物の整理をしておいて欲しいと言っているのです。」との事でした。
 遺言書とは、この荷物の整理と同じなのかもしれません。自分の人生の中で積み上げられた荷物を、整理する時期がいつかは来るのです。自分が大切にしていたものを、誰に残すのか、または、捨ててしまって良い物なのか、その判断は誰でも無い、あなたがしなくてはならないのです。
 私の知り合いの、司法書士・行政書士の先生方は、定期的に『無料相談会』を開催しています。相談を受ける内容は、それはもう様々だそうです。グループの中に、税理士や福祉関係の方、ファイナンシャルプランナーなどもおられるので、あらゆる相談に乗ってもらえます。その先生方から聞いた話です。「残す財産なんかありません」と言われるお年寄りが多い様ですが、「経験的に言うと、どんなに少しでも、残っている物が有ればそれなりに揉める事になる。」との事です。
 またこれは、ある弁護士さんから覗った話ですが、同一の場所にある家と土地を、家は弟、土地は兄と言う様に、二人の息子に残す遺言を残された方があり、後日その家土地をどうするかで大変お困りになったようです。詳しくお話をお聞きすることは出来ませんでしたが、親にしてみれば「仲の良い兄弟が、仲良く一緒に暮らせば良い。」と云う事だったのか、「ちゃんと話し合いで、どうするかを、二人で決めなさい」ということだったのか、どちらにしても、それぞれに家庭を持っている兄弟が、一つの家土地を共同で使う訳には行かなかったようです。
 この様に、遺言書を残さなくても大変、残しても実効性の無い物なら、なおさら大変。きれいにこの世と「おさらば」する為にも、今から準備しても早くは無いと思います。それも、出来ればきちんとした形の物を。
 それともうひとつ大切なことですが、遺言書はあなたの財産だけを残すのもでは有りません。
 あなたの『こころ』をも、連れ合いや、お子さん・お孫さんのために残す、大切なものなのです。
2009.04.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]