第四話「儀式を考える時代」

 先日、息子がお世話になった高校の卒業式に行ってきました。息子は昨年卒業してしまいましたので、この日に卒業する私の身内は誰もいません。ですが、今もPTAのお世話をしています関係上、一応、来賓として招待されたのです。しかし、この手の儀式は、同じ来賓でも、祝辞を述べさせて頂く位の『先生』なら、それなりの緊張感を持って、粛々と進行される儀式を見守ることも出来るのでしょうが。その『先生』方の後方で寒さに足をがたがたさせている私などは、ただ頭のなかで色々な考えがよぎって行くばかりであります。自分の卒業式はどうだったかな、などと考えていますと、自分には直接関係無くとも、必ず出席しなければならない『儀式』が生きている内に、幾つかは有るなと思いました。
 入学式・卒業式・成人式・結婚式そして葬式。その他にも色々な『式』が有りますが、葬式以外のいずれの『儀式』に出席しても、主役である子供や若者は活き活きとしていて、見ていて愉しいものです。しかし、そのような儀式の中でも『葬式』は唯一「主役」不在の儀式です。主役不在と言うよりは、主役が不明と言ったほうが良いのでしょうか?
 その昔結婚式は、新郎と新婦の結婚のみならず両家族の婚儀の様な所があり、その地域の重要な儀式であり、未来につながる大切な行事であったような気がします。それに対して葬式は、今のように僧侶が「引導」を渡す様な事もせず、ただ遺体を村はずれの空き地に埋めに行くだけの事だったのです。では、いつ頃から今のような『葬式』が行なわれる様になったのでしょうか。
 かつて日本における仏教は、国の定める宗教であり、すべての人がいずれかのお寺の檀家として登録されていました。各地のお寺が現在の村役場の住民課の機能をしていたのです。ご住職は役場の住民課の係りであり、相談員でもあり、時としては親代わりでもあったのです。しかしその役割は明治に入ると共に終わることになります。政府機関から収入を得られなくなったお寺は自らの力で生計を立てなくてはならなくなりました。その為、「読経・戒名(法名)」に『お気持ち(?)』と言う判りにくいお布施を頂くようになると共に、僧侶は積極的に、『葬式』に参加・運営をするように成って行ったのです。同様に、村の人たちが協力して運営した葬式にも専門の業者が現れ、現在のような、『葬儀』になっていったと思われます。
 私は、両親を高校生のころに亡くしました。葬儀は、喪主である兄がすべてを執り行いましたので、はっきりとしたことは覚えておりませんが、そのとき身内の誰かが「結婚式は赤字だけど、葬式は黒字になるものよ。」と言っていたことを鮮明に覚えております。風習の違いが有りますので、何処でもそうだとは思いませんが、自宅で葬式をしていた頃はそうだったのではないかと思います。以前はその余ったお金を、お墓の準備に利用したり、しばらくの間の生活費にしたりしたのです。でも今は、頂いた香典のほかに二百万円以上の出費があるのが普通だといいます。
 また、友人から聞いた話ですが、ご遺体を病院より自宅などに運ぶ寝台車の中から遺族に対する葬儀社の営業は始まります。彼らは必ず会館葬を進めてきます。会館で葬儀をすることが現在では一般的ですので、ほとんどの遺族は了解しますが中には「自宅で」と強く要望される遺族もあるようです。すると営業員は、『ぜひ、会館で・・・』を繰り返すのです。でも、それが無理だとわかると手の平を反したような態度をとる事が有ると言います(一部の葬儀社のお話だと思いますが)
 何にしても『通夜・火葬・葬儀・告別式・法要』という流れで『儀式』は進んでいきます。地方によって風習の違いがありますので、同じ宗派のご住職でも、地域毎に作法が違うことがあります。すると、親戚の中でもちょっとうるさ型の人が「何で、そうなるのか」と異議を申される事も有ります。(金も出さないのに)
 また、弔辞の順番や、お花の位置で文句を言って来る「友人代表」も居たりすると、収拾がつかなくなります。そのような中で遺族は『式』を厳粛に進めていかなければならないのです。悲しんでいる間さえ無いのが現実でしょう。
亡くなった方とゆっくりお別れをする為にも、生前から家族の中で『葬儀』についてお話をしておくのが良いのではないかと、私は思います。
 私は石屋ですので、生前建墓(寿陵)を提案した時に「縁起でも無い!」とお客様から言われることが、たまに有ります。ですが、葬儀に対する姿勢と同様に、生前にお話し合いされることが『おくられる』者が『おくるひと』に残せる、ささやかではあるが、確かな愛情だと思います。
2009.03.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]