今年になって県北気仙沼湾に浮かぶ島、大島に何度か行きました。環境省の実施する「みどり香るまちづくり」企画コンテストで、特別賞に入選した『かおりが結ぶ“椿”交流ガーデン』の敷地整備と、椿の苗木の植樹をするためです。
一般的に「大島」と聞くと、広島県出身の私としては、隣県山口県柳井市近くに有る、周防大島の事を思い出します。自然豊かな島で、友人の別荘(ただの古民家です)が有った島です。また、石屋と名乗って墓石を扱う者としては「しまなみ海道」が走る瀬戸内海の大島(愛媛県)で産出される銘石『伊予大島石』の名が頭にうかばない人は、まずいないと思います。
大島と言う名の島は日本国に五十カ所以上もあり、地名だけならもっと多く存在します。それゆえ『大島』と言う文字や地名は私達にとって、とても身近なものなのです。
そんな気仙沼大島に、何故「椿」を植えるのか?それは、椿と言う樹木は塩害に強く、津波の被害にも耐え得る樹木だからです。また、種子から採取される「椿油」を気仙沼大島の特産品として販売し、震災復興のシンボルとしたいと考える人達の想いに、自分なりに共感した事も大きな理由の一つでしょうか。
私の「植樹」に関する体験は、東日本大震災の数年前から始まっています。地球温暖化が叫ばれて久しいですが、日本ではそれに対する対策や運動を、国主導で行った事は無いと思います。自家用車やトラックなどの排気ガスの制限や工場の排煙の規制、それに対する技術開発などは有るのでしょうが、それは一部の大きな企業を対象としたもので、国民一人一人が行動して「地球の為に何かをしよう」と言うものでは無い様に思うのです。
毎年四月に、国連でも承認されているアースデイと言う日が有り、世界的な規模で「地球の環境を考える日」とされています。銀座から始まった「歩行者天国」の発想も、このアースデイに有るようですが、この事を知って居る日本人は、今は少ないと思います。
震災の二年前、仙台北山輪王寺の日置住職からの呼びかけで「未来(あした)を植えるプロジェクト」の実行委員会に参加し、「輪王寺アースデイ」「いのちの森づくりシンポジュウムin杜の都仙台」で実際に植樹をしたのが、私の植樹の始まりでした。植樹を指導してくださる横浜国立大学名誉教授 宮脇昭先生は、当時すでに八十歳になられるような高齢でしたが、八十五歳を超えた今も、日本全国の植樹に出向かれています。驚くことに、先生の活動は日本国内にとどまる事無く、ボルネオの熱帯雨林などにも行かれて、海外の植樹なども直接指導されているのです。
震災直後、津波の被害の大きかった地域で綿密な調査をされた先生は『いのちを守る森の防潮堤』を考案され、その土地に合った樹木、塩害や津波にも耐える事の出来る木々で森を造り、沿岸部を守る「森林の防潮堤」の構築を提唱されたのです。
世界一の防波堤と言われた釜石市の巨大コンクリート構造物は、東日本大震災で発生した津波で破壊されました。その事実を知りながら石巻市は、海岸線や北上川の河口部分から内陸までの数キロの川沿いに、高さ五メートル以上のコンクリートの防潮堤を建設するそうです。河口部分は川の中に建設するそうですが、稲井地区は川沿いの街並みを壊して建設するそうです。それによって、石巻稲井地区にある百年以上の歴史を誇る「石屋の街」の半数近くの石材店がバラバラの土地に移転することとなり、街自体が消滅する事になります。
石屋はお墓の基礎に、当然コンクリートを使います。基礎コンクリートの上に石材で出来た墓石が組み立てられますので、基礎部分が直接風雨にさらされる事は無く、コンクリートの寿命も長くなります。古代ローマの建築物も、ローマコンクリートの上に石材を張る事で、現代までその姿を残せているそうです。
東京オリンピックを前後にして作られた首都高速道路などの構造物は、その造り替えが大きな問題になっています。この防潮堤建設に関しては、五百年以上使用が可能なコンクリートも存在するようですが、ほとんどは百年以下、首都高と同様に五十年から六十年くらいで作り直さなければならないと思います。
もう来てほしくないと願っている津波。でも来るものを、拒むこともできない。想定される千年の間に、役所は何度コンクリートの防潮堤を造りかえるつもりなのでしょうか?
皆で植樹すれば、数年後に自力で十数メートルにも育ってくれる広葉樹。塩害や、津波にも耐え、一本だけ残して流された七万本の松林の様になることのない森が創られるのなら、千年育ち続ける森が出来るのなら、その方が私達も安心なのではないでしょうか?
大島の「植樹」に関しては、7月号の「島特集」で、関連記事が記載される予定です。