第五十二話「知る事の大切さを考える ③」

 大切なお話を、聴かせて頂いた。
 石巻など沿岸部のお墓もずいぶん補修されてきて、お寺や共同墓地もずいぶんときれいになりましたが、所々で震災の時のままに見捨てられた様なお墓が有ります。所用で訪れた共同墓地で、そんなお墓を見たあるお寺の住職が、檀家の方に「どうして、あのお墓は修理をしないのですか?お墓を世話される方が居ないのですか?」と訊かれたそうです。
 「いえ、家の人は居ますが、どうせ近いうちに宮城県沖地震が来て、またお墓が壊れるくらいなら、そのままでいいと言っているのです。」との事。その話を聴いた住職は、こんなお話をされたそうです。
 昔、あるお寺の住職が、小坊主に「境内の掃き掃除をする様に」と言いました。境内に出向いた小坊主は、大きな銀杏の木を見上げて「どうせ明日も葉が落ちて、また掃き掃除をしなくてはいけないのなら、後日まとめて掃除をしよう」と言うと、箒を持って帰ってしまったそうです。その寺の住職はその夜、その小坊主の夕食を出さなかったそうです。「どうせ、また腹が減るのだから、夕飯は要らんだろう。そのうちまとめて食わしてやる」と言ったそうです。
 毎日、その日の内にすべき事が有る。やらずにほって置けば、前に進むことが出来ない。この話を聞いて、「そのうち」は「いつまでも」と同義語だなと私は思いました。そして住職は「墓を倒れたままにすると言う事は、祖先に対する『敬い』の心さえも、捨ててしまっているのと同じです。今の自分がここに有る事の意味さえ、知ろうとせずに、ただ日々を過ごして居る事になる」とお話しを続けました。「祖先への『感謝の心』の表れは、毎日あるべき事なのです。」
 またあるお寺では、こんな話を聞きました。檀家の方が寺に来て「私ども夫婦には、他家に嫁いだ娘だけしかおりませんので、遺灰は墓には入れずに、海にでも『散骨』してもらおうかな、と考えております。ですので、近いうちに墓地のお墓は撤去させて頂きます」と。
 その話を聞いた住職は、しばらく考えてこう言われたそうです「そうなさるのは構いませんが、あなた方が亡くなった後、嫁いだ娘さんは何処に『お参り』に行けばいいのですか?」と。「お墓参りと言うのは、親の事を思いだす為にだけするのではなく、親の面影を通して祖先を敬う行為です。過去から今に、永遠につながる祖先が有るから、自分が有る事を知るための作業が『お墓参り』なのですよ」と。
 住職はそう話しながら「人の一生は、時の移り変わりとともに、どんどん変化します。あなた方が亡くなった後の事は、娘さんが考えます。娘さんの人生もどう変わっているかもわからんじゃないですか。慌てて何でも決める事は無い。」と続けたそうです。
 お寺のお話しではないのですが、こんな話もありました。先日の朝の勉強会での、ファイナンシャルプランナーの講話です。「素敵な人生をデザインするための第一歩!お金の将来設計チェック8」と言うものです。
 その八項目は『教育』『結婚』『出産』『住宅』そして『貯金』『老後』『年金』『保険』のお金の話です。どれも活きて行く上で必ずと言っていいほど必要になるお金、または必要で、すでに支出したお金のお話しです。私も前半の四項目はすでに済ませ、後半の四項目を考えなくてはならない時期に来ていますが、お話を聞くまでは強く意識した事が有りませんでした。
 結局は頭の中で「まあ、その時が来れば、それなりになんとかなるさ。」と思っているのです。ファイナンシャルプランナーの話では、「お金の事に無頓着では『自己防衛』は出来ない。明確な金額設定が、人生のゴールに向かう幸せの道なのです」と。何度もこの講話をされたそうですが、聴きに来られた方が必ず言うのは「判ってはいるのですがね」と言う言葉の様です。みなさん『気付いてはいるが、知ろうとしない』そうです。
 私も「確かに、そうだ」と思いました。『有り余るほどのお金』は必要なくとも、『困らない程度のお金』は有った方が良い。
 でも、ただこの八つの項目だけでは、人生のゴールには入れません。私に言わせればもう一つ、大切なものが有ります。それは『葬儀・御墓』に関わるお金です。講話の後、会員のみなさんと朝食を採りながら、その事をお話しすると、「もしかすると、それが一番肝心な事かもしれませんね」と講師の方も納得なさっていました。
 ある精神科医の言葉に、「知識は予防であり、安心につながる。わからないが、不安の原因である」と言う言葉が有ります。これは、『知る事の大切さ』を、短い文章で的確に言い表しています。
2013.04.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]