第三十九話「復興を考えるお話、其の二」

 宮城県石巻市は古くからの石屋の街です。一般的には港町・漁師町として名前が通っていますが、私たち石材屋の業界では岡山県の北木島、香川県の庵治・牟礼地区、愛知県の岡崎市、茨城県の真壁・笠間に続くような『古くから稲井石を産出している、石屋の街(石巻市稲井・大瓜地区には、今でも四十軒近い石材店があります)』と表現したほうが、何となくしっくりします。
 昨年の初秋、所用で鎌倉に行った折にお寺や神社を巡った時も、その敷地の何処かには必ず『稲井石』の記念碑や石碑が建っていました。そのように『稲井石』は東日本各地ではもちろんですが、西日本の一部地域でも見つけることが出来ます。
 稲井石の様に薄い板状に、そして長く割れる粘板岩特有の素性は、花崗岩(みかげ石)には望めない事で有り、同じ粘板岩でも硯石で有名な『雄勝石』や、東京駅の屋根材に使用されている登米市の『天然スレート』とも違う硬度と強度が有り、日本各地から記念碑用の石としての需要が高かったのです。
 少し前の事ですが、大阪の石材店から「仙台石(西日本では稲井石の事を、こう呼びます)手にはいらへんけ?」と言う問い合わせが有ったり、新潟の石材店からは「役所から来ている記念碑の見積もり条件に『稲井石』って有るんやけど、この石の事、教えて頂けますか?」と言った問い合わせが有ったりもしました。
 その昔、牧山の採掘場で切り出された石は、記念碑やお墓として加工された後、職人の手できれいに文字彫刻され、北上川を船で遡り、宮城県の北部、岩手から青森に至る各地に運び込まれました。弘前城址公園に建っている記念碑は、私が仲良くしている石材店の先々代の店主が刻んだものです。また、貞山運河で松島まで運ばれた稲井石は、宮城平野で産出されたお米と共に、長南氏一族の操る千石船で江戸に、そして遠くは上方まで運ばれたはずです。品川駅近くの泉岳寺に赤穂浪士のお墓参りに行くと、稲井石の墓標が有ります。京都の円山公園付近でも見かけた記憶があります。
 その石屋の街がいま、無くなってしまうかも知れない危機に瀕しています。
 昨年、あの震災から半年も経たない八月初め、旧北上川河口はいつもの様に『川開き祭り』で賑わいました。その祭りの舞台の北上川の河口から、津波の被害があったところまで、巨大なコンクリートの構造物を作ろうと言う計画が、持ち上がっているというのです。その地域に住んでいる友人の話では、川岸から幅五十メートルの帯状の範囲内にある住宅を全て立ち退きさせるというのです。そうなると、現在ある大瓜・稲井地区の石材店の店舗の殆どが、石巻市の蛇田地区・渡波地区に移転となり、現在の石屋の街は無くなってしまう事になります。確かに、その地域に何代にも渡って住んでいる人達から聞いた話では、今度の震災は今までに経験した事の無いものだったそうです。
 1960年、2010年の二度も襲われた「チリ地震津波」の時も、これ程の被害は受けなかったそうです。それが、東日本大震災によって引き起こされた今回の津波では、自宅一階の床上50センチ位までは浸水し、震災直後の数日の間は他の場所に避難もしたようです。それでも数日後には自宅に戻り、自宅の掃除をしながら、津波で泥だらけになった石屋の道具の整備をし、震災で傷んだお墓の修理に取り掛かったのです。昔から住み続けている石屋さんたちは、今現在も誰一人として、自宅を移転した人は居ません。
 確かに北上川河口の中洲に有った岡田劇場は、最初の一波目の津波で、跡形も無く破壊されたそうです。石巻大橋の手前の住宅は、数多く壊されてしまいましたが、それ以北の住宅は充分生活できる状態に有る物も多く存在しています。それを全て撤去させてまで、巨大なコンクリート構造物で街を取り囲んでしまわなければならないのでしょうか?
 これまで営々と築き上げた『伝統』や『文化』『産業』の全てを取り壊してまでも、しなくてはならない事業なのでしょうか?
 それが『復興』と言うものなのでしょうか?
2012.03.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]