第四十話「復興を考えるお話、其の三」

 もう、卒業してから三十年以上になる大学の校友会から、私ども夫婦二人に『義援金』が届きました。この地に住まいして二十数年、宮城県にも立命館大学の校友会が有るのは知っていましたが、忙しいのと「今更、校友会なんて?」と言う思いとの半々で、毎年の様に校友会からは総会・懇親会の招待状が届くのですが、震災が起こるまでは一度も出席したことが有りませんでした。
 その校友会から、登校拒否の私たちに『義援金』がなぜ届いたのかと言うと、昨年の夏前のある日、大学から『震災に関するアンケート』の様なものが届いたのが話の始まりでした。封筒が届いてから暫くの間、封も開けずそのままにしていましたが『この大きな災害に対し、立命館大学として何かの行動を起こそう』としている事をネット知った私は、少しでも役に立てばと思い、アンケートに答えた葉書を投函したのです。
 その数カ月後、突然私ども夫婦二人それぞれに、現金書留に入った『義援金』が届いたのです。その封筒を見た時の驚きと感激、また感謝と言う気持ちが複雑に絡まった状態で、私の心の片隅に、今でも残っています。
 思えば、震災直後は利府町の小高い場所に行くと、大きな津波被害を受けた仙台新港辺りから立ち昇る黒煙を見る事が出来ました。風向きによっては鼻につく、鋭い臭いさえしました。その煙が立ち上がる付近を見ながら「あそこにあった墓石の在庫は、もう駄目だろうな」とも思いました。
 あの日に我が家の三男が講義を受けていた大学のキャンパスでも、数百メートルの所まで津波が来ました。アパート住まいの息子の級友の多くが、津波の被害を受けたのを知ったのは、震災から随分日にちが経った頃でした。水道・電気・ガスの全てが止まり、家族三人、寒さの中で震えて過ごしたのは、あの震災を経験した全ての人たちと同じです。
 それでも自宅は、少しの破損と食器類が全損したのを除けば、崩れることもなく、丈夫な姿で建ちつづけていました。震災後数日の間は、すこし興奮した精神状況では有りましたが、私たち家族は普通に生活がしていたのかもしれません。電気が通じ、映像を伴った情報が我が家に戻って来た頃から『想定外』とか『被災』『救助』等と言う言葉と共に『援助』『支援金』『義援金』と言う言葉もマスメディアから聞こえて来るようになりました。
 私たち夫婦は西日本に沢山の親族が居ますので、普通に電話連絡が取れるようになった頃から、安否の確認と共に「今何が不足しているの?」「どんなものが必要なの?」と言う電話が掛かって来るようになったのです。本当に必要としている物を少しだけ伝えると、その倍も三倍もの荷物が、いろいろの場所から届きます。私たち家族だけでは余ってしまうほどの『物資』なのです。
 少ないガソリンと相談しながら、沿岸部に住む石屋さんにそれらの『支援物資』を運んでいくと「ありがとう、助かる。」と言う言葉と共に「これ持って行け。」と言われてパンやオニギリを渡されるのです。
「いや、これは貰えないよ。」と断ると「毎日同じものばかり支給されて、食べきれないんだ。」と言うのです。その時期ではまだ、被災地全部に充分な物資が配分されている訳も無かったのですが、多過ぎる物資を持て余している地域も存在したのです。
 保険金や義援金に関しても、随分偏った配分があったようです。広範囲で起きた災害でしたので、早急な対応、誰もが納得するような判断はむつかしかったでしょう。
 就活で走り回っていた息子が、久し振りに学校に行くと、友人からこんな話を聞いたそうです。息子が通っている大学では、親元を離れアパート住いをしていて津波で被災した学生には、大家さんが掛けていた損害保険で「ええ!」と驚く金額の保険金が、学生自身に降りたそうです。その上バイト先から『休業保証』が出たとか、上半期分の学費が免除されるかも知れないと言うのです。
「アパート住まいの学生の親って、宮城県以外に住んで居るんだよな?」と息子に聞くと「そうだね、山形や秋田あたりかな?」と言います。「学費を出している『おおもと』は被災していないのでは?」と言う疑問が頭に浮かびました。「これからどうやって仕事をしていこうか?」と考えている我々から見ると、何とも違和感のある話でした。
 そんな時、母校の校友会から『義援金』が届いたのです。「そうか、まだ私たちと大学は繋がっていたんだ。」そう思うと本当に「ありがたい」と言う言葉が、素直に口から出たのです。
 今も大学校友会の支援隊は、被災地各地で活動しています。これからも「がんばれ!ありがとう」と心から応援したいと思います。
2012.04.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]