第二十六話 「あんしんを考えます」

 今年もよろしくお願い致します。
 昨年末、雪が降り出すちょっと前にNPO法人ワンファミリー仙台のお墓が完成し、以前からお寺に預けてあったお骨も、お墓に収める事が出来ました。建墓工事の最終日には河北新報社の記者の方が取材に来られ、納骨・開眼法要の日には朝日新聞の記者の方も取材に来ました。NPO法人ワンファミリー仙台の関係者の方は当然でしょうが、取材に来た新聞社の記者も、お墓を建てさせて頂いた私もですが、みなさん何かの想いを、このお墓に込めているように見えます。
 明けてこの正月、早々の一月三日の日にワンファミリー仙台の代表からのメールで、NPOの活動の状況報告がありました。内容は「家族から虐待を受けている老人が路上生活状態になっているので、シェルター(反貧困みやぎネットワークと連携して運営している、一時避難所)にて保護する予定・・・」その後もメールはかなりショッキングな文章が続きます。我々の眼に見えないところで、日本が病んで来ている事を、実感せざるを得ないメールでした。
 NPO法人ワンファミリー仙台の活動としても、ただ保護するだけでは意味が無く、どの様にすれば『自立し生活できるか』までを、支援して行かなくてはなりません。その事に合い応ずるようにして、開眼法要の取材にも来ていた朝日新聞の朝刊に『孤族の国』と言う連載記事が、昨年末から始まりました。最近話題になっている『孤独死』や『独居老人』を題材にした連載です。毎日読み進みながら「なぜ、年末年始にこの話題?」と思いたくなる様な内容でした。しかしそれは、こうした世相だからこそ、真摯に考えるべき事に向かおうと言う意味なのでしょう。
『生きている事自体が苦しい』と感じるようでは、まともな生活とは云えないと思います。貧しくとも心豊かな生活が、かつての日本には有った様に思います。金銭的には貧しくとも「楽しく生きていける事が出来る世になって欲しい」とみんな思っているのです。先日の大阪豊中市であった「姉妹餓死?」の記事に触れて私は、心が痛んでたまりませんでした。「裕福な家庭にあっても、地域に溶け込む事が出来なければ、最後はこうなってしまうのか!」と言う思いです。仙台に来る前に住んでいた街、豊中市の出来事だけに、他人事ではない様な気がしました。
 「世の中はお金で動いている。」と言う一面が有るのは、確かな事かもしれません。しかし「お金さえ儲かれば、他人より多く稼げれば何をしてもかまわない。」ではないと思います。日本人が昔から持ち合わせていた常識を、きちんと働かせる事が出来ればこうした事は少なくなって行くのではないのでしょうか?新しい生活習慣も必要ですが、昔からの「お隣さんとのお付き合い」や「地域に貢献できる活動をする」といった事が大切なのではないのでしょうか?
 いつか自分が行くべき場所、それは皆さん決まっているのです。今回、ワンファミリー仙台はそれを組織として、生活困窮者のために用意しました。
 この所ツイッターなど観ていますと、若い人で「死んでしまえば何も判らないのだから、葬儀も墓も要らない」等と言われる方も、有る様ですが「悲しみ涙して、見送ってくれる人々がいて、供養してもらえる場所がある」と言うことは、取りも直さず、自分を支えてくれる人々が居る。そう言った人達が、何かのかたちで自分を守ってくれている事に通じるのだと思います。それが我々みんなの心の中の「あんしん」なのではないのでしょうか?
2011.01.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]