第二十二話「今時の葬儀を思う時③」

 長く暑かった夏が、静かに秋へと移り変りつつあります。今年は例年にない酷暑でした。十数年前、お米が収穫出来なかった冷夏の次の年が、とても暑い夏だったように記憶していますが、今年はその年よりも厳しい夏になったようです。(今月は先月の続きで、K子さんのご主人の葬儀のお話を書きます。)
 その様な暑い日が来る事も知らない、初夏の日曜日、私の携帯電話に『悲しい一報』が入ってきました。
「K子さまのご主人、本日十二時病院を出発、利府の自宅に戻られます。皆さん準備願います。」メールの文章は事務的に始まりました。私は仕事帰りに宿泊していた弘前市内のホテルでその報せを受信し、急いで利府へ帰る為、弘前の駅へと向かいました。
 しかし、何時始まるか分からないこの日の事は、実は二週間ほど前からすでに、準備されていたのです。
 始めのうちK子さんは、二年前に亡くなられた息子の時と同様に葬祭会館で、ご主人も送ろうと決めていました。しかしある朝、ゴミを出しに行ったゴミ集積場で偶然出会ったお隣のSさんのご主人に「何か有ったときはお願いします」といまの状況を話した所「最後なのだから、お父さんを家から出してやれ。」と言われたのでした。
「え、そんな事できるの?」
「出来るさ。昔はみんなそうしていた。」
 地域の差は在るかも知れませんが、私の父母の時もそうでした。家で通夜をし、葬儀もしました。それも、自分の家族だけで送り出すのではなく、ご近所がみんな力を貸し合ったのです。
 江戸時代には「村八分」と言う、村民全体が申し合わせて絶交するという制裁行為がありました。そうした制裁を課している時でも「葬儀・火災」の二部だけは、制裁中にもかかわらず協力したのです。それが地域の秩序の維持に必要だったからです。そのくらい、『弔い』と言う行為は重要だったし、日本人と言う人達は『思いやりの心』に溢れていたのです。
 今思えば、母が死んだ時も、父の時も、知らぬ間に近所の人が集まって、習い事の様に葬儀の準備が進んでいきました。「お願い○○をして。」「これは、こうだったかしら。」と静かに会話しながらも、その場は何か活気のある『凛』とした空気感で満ちていました。
 そうやって地域の人たちが、為すべき事をしたのです。「そう、それをやってみよう。」
 話が決まるとK子さんは、まずかねてからの知り合いの花屋さんの所に相談に行きました。寝台車・霊柩車の手配と共に火葬場の予約の仕方、納棺師に電話をし、仏具屋に必要な物を準備出来るかを聞き、お茶屋さんにもお願いをしました。それを束ねる『葬祭ディレクター』と『お寺』、そして近所の人たち。
 誰に何を頼めば、スムーズに事が運ぶか!
 ご主人の病気が分った時、悩むだけ悩み、泣くだけ泣いたK子さんは、こうした方向に自分自身の気持ちを切り替えて行ったのです。
 そしてその日はやって来ました。来て欲しくないと幾ら願っても、いつかは来るのです。
 寝台車の到着、納棺、通夜に必要な物・・・
 出棺・火葬場への移動。お寺本堂での葬儀・告別式、お寺の会館にての法要。
 一人きりになったK子さんを、近所のみんなで支え、教えあい、これからも繋がっていく事を願いながら、すべては終わりました。
 今まであまりお話もした事も無かった、お隣のお嫁さんは「色々な事を習いました。次は私たちが中心になって動かなくてはいけないのですね。」と言い。その隣の奥さんは、びっくりする位気さくで、何でもお話できる人と判明しました。いろんな人達の知らない面が、一気に表れた数日でした。
 来ては欲しくない日に私たちは色々学ぶのです。そして誰もが皆「おくりびと」になった日でした。
 後日、K子さんはお世話になった近所の人達を呼んで、「内々だけの四十九日」をしました。皆さんにお手伝いして頂いた分、予算が当初考えていた金額より、かなり低く抑える事が出来たのです。彼女は感謝の心から皆に色々なかたちの御礼をしたようです。
「こんなに気を使わなくてもいいのに!」と私の妻。
「いいの、ありがたかったから。」
 やはりK子さんが、一番の「おくりびと」だったようです。
2010.09.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]