第三話「宗教の時代!」

 ここ一年くらい、毎月第四土曜日に「寺子屋」と称するお寺の講話会に行っています。寺子屋と言えばその昔、地域の子供たちを集めて勉強を教え、一緒に遊びながら礼儀や作法といった事も教える場所だったと思いますが、私が通っている寺子屋は、大人達(かなりいい大人)が集まって、宗教のお話を聞く場所になっています。宗教のお話と言っても、そんなに難しいお話ではありません。「般若心経」は何を語っているのかとか、仏壇の飾り方とか、密教と顕教について等を、そのお寺のご住職から、判り易く解説していただいています。参加している人たちは、そのお寺の檀家さんばかりではなく、カルチャースクール感覚で来られるご婦人達もいらっしゃいます。宗教とのかかわりが少なくなった今は、このようなやり方で宗教と付き合うのも良いのではないかと、私は思います。
「いいや、宗教とは、もっと真剣にするものだ。」といわれる方もいるとは思いますが、どのような宗教であっても「まず肌で触れてみること」が大切なのではないでしょうか。
「あら、何言っているのよ、私の家は○○寺の檀家で、○○住職とは子供の頃からの・・云々。」という方もいらっしゃいますが、そういう方に限って、「この何年間、一度もお寺様に顔を出して無い。」というのが真実ではないでしょうか。
 宗教との関りと言えば、もう三十数年前の昔話になりますが、私は高校を卒業した年に、インドのバンガロールという町で、数ヶ月間生活をしました。今でこそ、インド第三の都市、インドのシリコンバレーと呼ばれている都市ですが、その当時は住宅の屋根の上に野生の猿が日向ぼっこをする、私の住んでいた家の庭のアーモンドの木には、リスが棲んでいるような、のんびりとした田舎町でした。
 ですから、当時のインド人にしてみれば、近所に住んでいる極東の若者は珍しいようで、毎日の様に近隣の家から、遊びに来るよう招待されました。そうして、遠慮の無い若者の私が遊びに行くと、どこの家に行っても、その家のお父さんから、最初に出る質問は「ところで、君の宗教は何かね」と言うものでした。それは、インドでは生活の中に宗教が根付いていると言う事でも有り、私に対して失礼にならないようにする為の質問なのです。日本では感じることのなかった宗教観を、その時私は始めて感じました。そして、その答えとして、大抵「私は、仏教徒です。」内心「そうかな?」と思いながらも、私はそう答えていました。そうでしょ、私たちはもう千数百年以上も仏教徒をしている民族に属しているのですから。でも、仏教発祥の地であるインドの人たちのほとんどは、ヒンズー教徒であり、あとは回教徒とキリスト教徒ですけどね。
 私たち日本の仏教は、その昔インドでお釈迦様の説いた思想と、インド古来の宗教の合体した物が、中国に伝えられ、中国から朝鮮半島を通って日本に渡ってきたものです。日本に来るまでに通過してきた国の神々と融合しながら、日本に到着した仏教は、我が国古来の神様達とまた合体して、現在の形が出来上がって来たのです。そういう意味では、日本仏教とは、アジアの神々の集合体が、我々の風土・気候・習慣によって日本風にアレンジされた物と言えるでしょう。
 私は、仏教の宗派ごとの難しい教義も判りませんし、「経」も読めませんが、先祖代々、私達の心の中に受け継がれた思想が、日本仏教の中に在ると思います。
 妄信的に宗教にのめりこむ必要は無いと思いますが、これからは、宗教が何かと必要になる時が来ると、私は考えています。
 私がインドに行った頃とは違い、世界は狭くなっていますが、あの時、私が感じた宗教観は、広い(狭い?)世界の中で生きて行く為の世界観の様な物だったのかもしれません。
 インドがそうで在るように、世界中の国々のほとんどの国民の心に、何かの宗教が存在するのです。しっかりとした宗教観を持つ人々は、強い心を持っています。その心が、時として戦いに結びつくこともありますが、ただ葬儀の対象としてしか宗教を感じない国民よりは、しっかりとした世界観が有ると思います。
 仏教をはじめ、宗教は死んだ人の為に在るのではありません。今生きている人の為に在るのです。
2009.02.15:米田 公男:[仙台発・大人の情報誌「りらく」]