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獅子燻亭9に移行します
いつもご愛読ありがとうございます。獅子宿燻亭8から獅子宿燻亭9 http://samidare.jp/shishi9/に移行いたします。2020.10.08 -
白鷹に垂れ耳の黒獅子発見
白鷹町の獅子頭といえば十中八九が赤い獅子頭である。 ひょんな事から小山沢七星(しじょう)神社の黒の垂れ耳の獅子頭について情報を聞きつけた。 知人の神社総代の方に連絡を取ってみると確かに、そのお宅に垂れ耳の黒獅子が所蔵されていたのだ。 現在例祭で獅子舞に用いられている獅子頭は、以前修理に来てた。その獅子頭の見事な造形に惚れて 直ぐにレプリカの獅子頭を作らせてもらったが、まさかその他にも獅子頭が存在していたとは・・。 写真を送ってもらうと驚いた。米沢市芳泉町文殊尊に伝わる獅子頭と瓜二つだった。 文殊尊の獅子頭には塗りの際の記名が残されていて 明治七年 東町の嶋屋新兵衛とあったが彫り師の 記名は無かった。塗り替えされた時の記名の可能性がある。 米沢市芳泉町文殊尊の獅子頭 文殊尊の獅子頭は特徴的な顎の造りで、一枚板の厚みの部分に穴を開けて栓を突っ込んで口の開閉をし ている。その作り方は白鷹町萩野の獅子頭と同じであった。 米沢市簗沢の八雲神社の大獅子に記名が有り 笹野の源右衛門の作とあり萩野の獅子の作者では無いだろ うかと推測している。垂れ耳の黒獅子も同じ顎の構造なので同じ作者の可能性がある。簗沢八雲神社の 獅子頭には安永六年(1777)と記名が残され243年前に作られた獅子頭である。 小山沢七星は同所に立岩神社があり、合祀して立岩七星神社と呼ばれていて、地図を見ると七星神社から 南の山に位置している。立岩神社は「金山比古命(かねやまひこのみこと)金山姫命 倉稲魂命」を祀って いることから近くに鉱山があったのだろう。柳沢の八雲神社も同じ様に鉱物資源で繁栄した時代もあり、 垂れ耳の黒獅子は上杉藩時代に米沢の彫り師に作らせ奉納されたのだろうか? 総代宅には古文書などは一 切残されていない様で残念だが謂れは分からない。後日、立岩神社に訪れてみようと考えている。2020.09.24 -
飯豊町小白川才頭神社の獅子頭
2018年11月に取材した飯豊町小白川の五十嵐家に伝わる才頭神社の獅子頭を取材した。 前回取材した時は獅子頭は行方不明との事だったが、蔵で発見されたという連絡を地域支援の方から戴いた。 小白川地区には昭和35年に一ノ宮神社と猿田彦神社が合祀され小白川神社となり現在、獅子舞が執り行われ ている。合祀前は一ノ宮と猿田彦神社でも獅子舞を行なっていて、その獅子頭を取材し、いずれも明治期の 伊藤彦右衛門の作だった事が判明した。 9月15日、ワクワクする気持ちを隠しながら五十嵐家にお邪魔して獅子頭と対面すると・・作者や年号が残 された記名は見つからなかったが、やはり伊藤彦右衛門の作と思われる。小振りの獅子頭で久しぶり、半世 紀?ひょっとして100年ぶりに蔵から出され眩しそうな顔付の表情を見せている。 寸法は高さ22.5cm幅23.5cm奥行き26cmと話に聞いたように子供の獅子舞用のサイズである。太鼓の張替 えの際、内部に江戸期の記名があったと聞いたので彦右衛門より古い彫師の発見を期待したのだが明治期の 獅子頭になる。今まで調査して飯豊町や長井市、白鷹町や県外で彦右衛門の獅子頭を14頭発見している。 その中で以外にも総宮型の獅子が8頭で独特な扁平天眼の飯豊型と造り分けをしている。五十嵐家の小獅子は 総宮型だが扁平天眼の飯豊型に創作されていた。 長井今泉の金比羅神社、飯豊の猿田彦神社や萩生中の目神社、中の泥八幡 田林家の彦右衛門獅子と比較する と類似している。 長井市今泉の金比羅神社の獅子 飯豊町小白川の猿田彦神社の獅子 中の泥八幡田林家の獅子 昨年92歳でお亡くなられた当主の父親が、一ノ宮と猿田彦神社の大人の獅子舞と別に、子供達用に獅子頭や 太鼓を買い求め獅子舞を始めたと聞いている。獅子頭は荒い彫りで、目と目の間の階段状の彫痕や耳や唇の シワ、鼻、軸棒の形状などに彦右衛門の特徴を残している。耳は破損し針金で留めて、ようやくくっ付いて いるという状態で痛々しい。長い間の誇りが付着し困惑した様子で私に訴えかけているようだ・・後日了解 を得て洗浄修理を提案したいと感じた。 小白川地区には合祀前の二社や才頭神社の様に、屋敷神が多数あって、まだ獅子頭が眠っている可能性があ る。五十嵐家の取材を終え地域支援の方に南田の八幡神社や小白川の奥を案内してもらった。まだまだ、姿 が見えない奥深い歴史の気配を感じる地域だった。2020.09.16 -
岩手の鹿頭
岩手県大船渡市の笹崎鹿踊の鹿頭を入手した。 鹿頭を被り、背中に長い二本のササラを担いで太鼓を鳴らし勇壮に踊る、あの鹿踊りの頭である。 岩手の鹿踊の鹿かしらのコレクションは四頭目であるが、微妙に型が違う。これらの違いの判別が出来る ようになるには、まだまだ時間と授業料が掛かるだろう。 鹿頭には年代はないが作者名が有り、大船渡市猪川町 今野喜一の作と残されていた。実際に踊りに用い られたのではなく、台座も作られ角も半割りされず展示用として作られたものである。前回入手した鹿頭 は踊りに使われたもので、鹿頭本体以外のタテガミや幕や飾りは無かったが、展示用という事もありフル セットだったのが大変貴重である。さらに衣装も付随すれば完璧な資料だっただろう。 これからコレクション計画に置賜の獅子踊りの資料を作ろうと考えているので参考になる。 笹崎の鹿踊りは震災で鹿頭や衣装一切合切を流されたが、様々な助成を受け復活している。これからこの 鹿頭に秘めた歴史と想いを調べてみようと思う。2020.09.06 -
川西町西大塚 渡部十左衛門作の獅子
縁あって明治期川西町西大塚中沖住の渡部十(重)左衛門の作の獅子頭が訪れた。 十左衛門家の親戚筋の某家に伝わるもので、小振りの獅子頭である。 記名が残され「 塗直シ 永井屋二代 渡部十左衛門作 」とある。 永井屋は明治期長井市の塗師と思われ、同所西大塚の十二神将の十左衛門作の獅子頭に 明治25年獅子刻ホリ人 渡辺重左衛門「永井屋?之助」と記名が残されているので。同じ 時代に制作された小品の獅子頭なのだろう。 十二神将の獅子と記名 某家の方から十左衛門の孫が日本画家だった事を耳にした。明治30年から大正14年75才 までの生涯に雅号を風外と称して活躍したという。当時日本画の名士、狩野文心や菅原白 龍の長女 玉龍に師事し修行を始めた。祖父の彫刻師の才能を受け継いで多くの日本画を残 したとあり、昭和62年、大塚の高徳寺で「故人 渡部源太郎翁(雅号風外)画伯遺作品展 示会の際のパンフレットコピーを戴いた。 十左衛門作の獅子頭は一見して十左衛門の特徴を表して、このスタイルを一途に彫り続けた 実直さは、宮内の菊池熊吉と重なる。改めて見てみると耳の形が新潟の村上の獅子頭の特徴 で鼻髭が植えられていることから、長井の総宮系の獅子頭の特徴が見られる。脳天には鉄板 で作られた二重の円盤に鋲で留められ、この辺では珍しい手法である。高畠亀岡で見た長野 方面の様式にも似ている。目と目の間の六重の山型が十左衛門の獅子の十八番で、南陽市梨 郷神社や川西町大宮神社、米沢市六郷桐原 八幡神社で十左衛門の獅子頭を発見している。 中沖の十左衛門家から少し離れた八幡神社の南、八幡地区に飛騨高山で腕を磨いた宮大工金 子熊太郎の生家がある。風外と熊太郎は年代が近く同時期に没している。風外の祖父十左衛 門とも交流があったかも知れない。十左衛門の獅子の越後系の特徴がその関係性を物語って いる。2020.09.02 - ...続きを見る