900坪の敷地には蔵、庭に京都から譲り受けた大きな石の灯篭、家庭菜園、水芭蕉の池等旧家たる要素が
全て揃っていた。
資料によると竹田家は天保9年中、小出村(長井市)の竹田清五郎家より縁類続きを以って苗字免許を譲受
け、寺子屋師匠、塗師をやった事から多数の資料が所蔵されているという。
十代目の竹田昭平氏より四代か五代前の当主たちが塗師を継承していた。
五代ー駒次(明治14年亡) 六代ー九兵衛(大正12年亡) 七代ー頼太郎(昭和9年亡)
八代ー義一(大正元年亡)九代ー義平(昭和41年亡)
昭平氏は塗師は継がなかったが、子供の頃に長井の塗師屋や獅子彫り師の話など語ってくれた。
昭平氏が子供の頃長井の塗師に、よくお使いに行かされた。その当時、時庭や泉にワルがいて
他所者の昭平氏をあざとく見つけ、殴られたりカツアゲされたりと散々な目にあわされたという。
しかし、虐められても親に報告する事もせず自ら耐えていた昭平氏だった。
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竹田家には南陽市法師柳の佐藤耕雲氏の作の根付が所蔵されていた。蛙の木彫の裏に昭和二十九年耕雲
と刻銘があるので、おそらく義一氏が法師柳の獅子彫り師耕雲氏に獅子頭の塗りの依頼に来た際作らせ
愛用したものだという。
その後、耕雲が亡くなると飯豊町中津川小屋の渡部 亨氏や同所太田康雄氏の獅子頭の塗りを受け継いだ
という。
渡部 亨氏について、どんな方だったかを記する記録は無く、興味深いが、何しろ幼少の昭平氏の記憶には
無口で生真面目で木訥な職人タイプという印象だったという。
私の様な商人タイプの獅子彫り師は稀有なのかもしれない・・と話を聞きながら頭に浮かんできた。
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八代目の義一氏が自宅の新築記念に作った獅子頭と漆塗りの道具があると聞いて、蔵を案内してもらった。
仕事は蔵の一階と二階の一角で行っていて各種道具類が残されていた。
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漆掻きも行い、樹液を収集し生漆を練ったりする道具もある。筆や檜のヘラ、金粉を保管する箱、
炭や顔料を粉末に粉砕する道具など興味深いものばかりである。獅子頭の入ったガラスケースを見つけた。
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ケースから出し検分していると獅子頭の意外な場所に記名を見つけた。昭平氏も初めて見るという。
普通は脳天裏の比較的広い場所に書く事が多いが、鼻筋の裏である。
昭和五十三年十二月 1978年 新築記念 四代塗師 竹田義一 調刻 中津川 渡部 亨・・・とある。
獅子頭の第一印象は太田氏の作に感じたのだが、間違いなく意外にも渡部氏である。
渡部氏の作風の印象を間違って捉えていた様だ。視線が真正面を向いて鼻が長く面長の表情である。
長井市伊佐沢神社や川西町小松の新山神社の梅津弥兵衛の後に渡部氏が獅子頭を制作しているので、弥兵衛の
獅子をモデルにしているはずなので、その影響があると思われる。
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その獅子頭の側に寄り添うように小さな赤い獅子を見つけた。
また小さな記名札の表には 喜寿記念 獅子頭 平成三年竹田よし・・とあり
裏には義一作八十才とあった。義一氏が彫りと塗りを手がけたものだ。
「竹田よし」とは義一氏の妻て゛平成18年103才で亡くなっている。
獅子頭の形は総宮系の特徴だが赤い獅子(雌獅子?)に仕上げているのが面白い。
義一氏は山形の塗り屋(鈴木某)で7年間修行して塗師の技術を習得した。その当時は置賜の各地に塗師が
いて膳椀や家具や仏壇の塗りの仕事で忙しかったという。
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蔵の板の間には朱や黒の漆がこぼれて模様になっている・・いにしえの塗師達の仕事の様子が浮かんでくる。
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