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今日の制作

  • 今日の制作
とある獅子頭新調の制作の為の試作だ

昨日から開始して、昨年仕込んだ柳の木地を使用した

形態のイメージは浅立諏訪と小山沢七星の獅子頭で




成田・五十川の獅子の軽量化と操作性能を取り入れた獅子頭だ


今迄の獅子頭は、顎の左手の握り棒の支点と右手の握り棒との距離がほとんど無く

獅子頭の重量を分散出来ず、身体的に負担をかけ、著しく操作性を損なっていた

どんな獅子頭なるか楽しみだ

2015.12.13:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

太々神楽

  • 太々神楽
現在置賜各地で見られる獅子舞いとは別に、大神楽の獅子舞があったらしい

以前、総宮神社の神主である安部家に伝わる赤い獅子頭を拝見した事がある

骨董のコレクションの一つと考えていたのだが、総宮神社略誌にも太神楽の元締め

を行っていたという記録があったのでご紹介したい

(トップの写真は長野の太々神楽)






安部家では亨保(1716~1735年)、寛保時代(1741~1743年)より西宮社家(俗に夷太夫)
として頒布に従事し、羽州(出羽の国の別名)米沢を担当して来た。
その取り扱い村は数十カ所村に及んでいる。また「偽像停止」の訴状も寺社奉行所に数回上提した書状などあり
又「太々神楽」の元締りとして勢子数十人居ったことあり 当時の神楽獅子 鼓 付物等現存している・・・・
摂州とは大阪の西北から兵庫にかけての地域で西宮神社はえびす神社の総本山のことである

これは自宅にあったお札である

総宮神社のお札が何故えびす様なのか、西宮大神宮とあるのか判明

安部家では1716年から1743年頃にかけて西宮社家(神職を世襲して来た家のこと)として
お札(福の神の画像)を置賜の村々を担当し配っていた 偽物が出回り寺社奉行に数回直訴した記録もある
太々神楽の元締めとして数十人のスタッフもいた事もある
当時の神楽獅子 鼓(つづみ) その他道具類があるという・・・・

まぁ略すと、こんな感じだろうか

この神楽獅子が拝見した獅子頭なのだろうか?
唐獅子   萬延元年(1860年)六月 塗寄付 城下免許町(米沢か?)
山崎与右エ門と総宮神社略誌にあるがこの獅子頭の事かは不明である




この赤く鼻の黒い獅子頭と似ているものが置賜に結構あるようである

米沢市田沢の大荒沢の虚空蔵尊の獅子頭


川西にもこの獅子頭と似たものを発見している


丁度同じく川西の詳しいオジサンでお馴染みの渡邊敏和氏から興味深い資料を戴いた

山形県民俗研究協議会
山形民俗  第29号の「置賜の獅子神楽」とその絵馬について  渡邊敏和著 である

引用させて戴く

置賜には各地の神社に獅子舞を描いた絵馬が奉納されているという
獅子神楽とは東北には山伏修験がたずさわった山伏神楽、権現舞、番楽、獅子舞など神楽が広く行われ村々を巡り笛、太鼓などの囃子に合わせ権現としての獅子を回しながら悪魔払いや火伏せや無病息災の祈祷をする

また伊勢や尾張に発したとされる太神楽は獅子を回して各地を巡回し、現在行われている二人立ちの獅子舞いの多くは、この太々神楽である・・・とある。

置賜にはその江戸時代の獅子舞の様子を描いた絵馬が米沢市梓山の大社梓神社に一枚
川西町玉庭御伊勢町の両皇太神宮に四枚、同町西大塚の皇太神宮に四枚の合わせて九枚が
伝えられている



写真の公開が無いのでこんなイメージである
機会があれば見学したいものだ

書籍に残っている獅子舞神楽について書かれている・・・しかし良く調べた物である

1米沢市上郷上新田・・・ここの神楽は尾張(愛知県の一部)名古屋にある熱田神宮
の系統(熱田系)の獅子神楽とされ、二人立ちの「獅子舞」「あほう舞」「ひょっとこ」
「やたて万歳」「和唐内」などの曲目があった
上新田に皇太神社がある「山形県の民俗資料」によれば
「村の若者組が戸毎にまわって厄を祓い、金を頂戴する。二人で獅子をかぶり、家中を
歩き回り笛、太鼓、歌を歌いながら病気、不幸などすべての厄を祓う。
大正年間(1912~26年)、一戸一銭、五銭、十銭位駄賃をもらったという」とある
 江戸時代中期から村に来る太神楽の芸を習い覚えた村の若者達が、神社の祭礼やお盆に獅子舞を奉納して来た。
 だが、部落の神楽も昭和になると廃れ、代わりに職業として神楽を演じる者が村々を回るようになった。
 米沢地方では、これらの者を「神楽ぶち」と言った。
 上新田には昭和初期、一人の「神楽ぶち」が住みつき西光寺の境内で年一回、市外から
「神楽ぶち」たちが来て神楽や曲芸の公演を行っていた。しかし戦後になって数年を経ずして廃れたという。・・・・とある

   長井でも近辺の獅子舞を見て回る事を「お祭りぶちする」などと言ったりするので
   その辺からの言葉だろうか?

その他、川西町洲島、白鷹町浅立、白鷹町黒鴨、白鷹町鮎貝にも神楽があった記録がある
また、庄内の酒田市の旧松山町にも獅子舞の神楽があり川西町玉庭の御伊勢町両皇太神宮
の絵馬の獅子舞と似ている事などから、置賜と旧松山町の獅子神楽との共通性など記され
ている。
  
   伊勢や尾張の獅子舞神楽の流れを伝える、失われた置賜の獅子舞い神楽を彷彿させる神   楽が、今も旧松山町で行われているという事になる・・・

   現在、置賜で行われている獅子舞の他に、太々神楽の獅子舞があった事も驚くが
   県内で、失われた獅子舞神楽同様の獅子舞を見る事ができるとは素晴らしい発見だ
   渡邊氏の地道な研究活動の成果でもある

ネットで旧松山町の獅子舞神楽を調べてみた
こちらでは獅子舞、獅子踊り、天狗舞等等、渾然一体として多彩であった
昔々、この写真のような獅子舞が身近で行われていたのだろうか・・

旧松山町 中北目伝統神楽

荒町神楽

山寺獅子神楽

新・肴町神楽
                        
2015.12.07:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

神仏分離

  • 神仏分離
引き続き「総宮神社略誌」より

これは明治元年に発令された総宮神社の神仏分離を抜萃した文である

正確にはその中の一部を切り抜いている

ガリ版の印刷のため劣化し解読に詳しいオジサン渡部敏和氏の協力を頂戴した

十数カ所を前後の文脈から推測するのだが、蛇の道は蛇・・渡部氏によって

見えない文字が99%解明しつつある




明治以前の神仏混合で総宮神社にあった仏像や道具類を、明治元年の神仏分離令により

遍照寺、明王院、白山寺などに移したという記録である

前回の記述にあったが、獅子頭について

「蛇面也此神の御面相を写し彫たる面」とあるが、この「神」は何の神様だろうかと

疑問が湧いてくる

神仏分離で総宮神社から遍照寺へ愛染明王曼荼羅が移っている

明王院は同じく明治に入り修験道が禁止されたが、それ以前は総宮神社の獅子舞の元締めを行

っているので「明王院」の明王は愛染明王の明王と繋がっていはいないだろうか?

愛染明王の像を調べてみた



高野山金剛三昧院の運慶作

頭上に獅子を冠っている

なんと美しい仏像だろう・・・獅子の脳天には五鈷杵(ごこしょ)がある


総宮神社の獅子舞を奉納は、現在は獅子舞い保存会だが平成10年までは獅子連中組織で獅子

舞を行い、それ以前は獅子冠りと称していた


素晴らしい愛染明王の仏像が数多くある様だ








2015.12.02:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

天地眼

  • 天地眼
唐突だが天地眼をご存知ですか?

ネットで調べてみると・・

天地眼 てんちがん
(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、
牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、
左右非対称の姿の像が増えるようになる。
これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた
「不動十九観」に基づくものである。・・・・とウィキペディア引用にある









この不動明王の天地眼を総宮神社の獅子頭の眼に当てはめてみた。




ただ不動明王は左目が天を睨んでいるので獅子とは逆になる

おそらく右利きの場合、獅子頭を右手で持つと天を見る目が来てしまい睨みが利かなくなる

と考え逆にした・・とも考えられる


さて歴代の獅子頭の左目が右目に比べ、飛び出ている龍神伝説がある

昔・・日照りの年の総宮の例大祭の時
祭りが終わって龍神が干上がった野川の川原を三淵の奥の院へ帰る際
お神酒で酔っていた為、イバラのとげで大怪我をした
それで左目の視力を失い、鼻が曲がってしまった
その怪我の様相を彫り込んであり、右目を前にして進むのだ
それに懲りた龍神は毎年、総宮の例大祭に来る時は雨を降らせ野川を干上がる事無い様にしたのだ
獅子幕には波や渦巻きが染められ野川を下ってくる恐ろしい龍神の様子を現したものである・・

まぁ 諸説あるのだが、大体このような感じのニュアンスである

この伝説の元になった飛び出た左目は獅子頭の木地が変形したのではないかと
考えていたのだが

どういう意図で獅子頭を作ることになったか探ってみた




総宮神社の獅子頭の舌の横に 寛文十一年(1662年)九月十九日改・・と記されている。

よって新調したり修理したと仮定すると時期はそれから仮に百年ほど遡ると1562年・・永禄

5年だ・・・戦国時代 川中島合戦の頃である

はたして、この「改」は新調の意味か修復の意味なのか?

そこが肝心な点なのだが不明である


総宮神社略誌を紐解いてみた・・・・・         



この資料の様に獅子頭が八頭あるとある

平静に入り当工房作の獅子頭が加わり、この資料に依れば九頭目なのだが

無名運慶作の獅子頭が無いのだ

その件はさておいて・・・

総宮神社略誌の獅子舞の創始を記述した文があり解りやすい様に書き直してみた



これを読むと様々な想像が駆け巡る

最初の獅子舞は現在の獅子舞とは違うものであったようだ

楽・・とあり雅楽や伎楽の舞いだったのだろうか

獅子頭が古くなると石棺に納め埋葬したとあり、境内の何処かに埋まってあるのだろうか?

再び獅子頭を作ったとあり、寛文11年以前の運慶作とある幻の獅子頭が存在しているのだろ

うか?

以前総宮の獅子頭が何処かに譲り渡ったという伝えを聞き、トアル神社の獅子頭を見分に

行った事もあるが確認出来なかった


安永年間に宮村の小兵衛に獅子頭を作らせたとあるが、平山熊野神社の獅子頭を制作している

高橋小平と同一人物なのだろうか?

また、天明二年に総宮神社の木製鬼面を高橋小平に制作させた飯澤市之丞は成田村の

平吹市之丞ではないのか?  しかも塗師とある 

成田の最古の獅子頭は平吹市之丞の作とあるが、高橋小平の彫刻ではないだろうか?




2015.11.26:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]

獅子談義

  • 獅子談義
白鷹町小山沢地区七星神社の獅子連の方々と獅子談義を行った

以前獅子頭の修理をした際、獅子頭のレプリカを造らせて戴きお店で展示している

その見分も兼ねながら七星神社の獅子頭についての講釈など聞いてみよう、という趣向である




床の間に七星神社の獅子頭と、浅立の諏訪神社、広野観音堂の三獅子を展示

というのも三獅子とも形が似ていて兄弟従兄弟の様な顔つきなのだ


諏訪神社が古く慶長17年(1613年)今から402年前に祭りが始まったという・・

広野は文政12年(1830年)浅立の林蔵の作とある

七星神社の獅子頭には制作年月日や作者の記名は無いので謎の獅子頭であるが、私的には

長谷部吉之助の作ではないかと推測している






獅子頭のデザインについて発見した事を伝えた

まさに備前焼の獅子や狛犬の伝統的な形であるということである

今やネットで検索すると続々と出てくる











三獅子の大きい違いは七星神社にある

諏訪と観音にくらべ七星の表情がより強調されている

さらに脳天にタマネギ型の宝珠がある



この宝珠は如意宝珠といい、思い通りに宝を出す珠の事

いかなる願望も成就し意のままに宝や衣服飲料を出し、病気や苦悩を癒してくれる

また悪を除去し濁った水を清らかにし、災を防ぐ功徳があるという・・如意観音、地蔵菩薩や

虚空蔵菩薩の持ちものとされる

その中で大阪の観心寺の七星(しちしょう)如意輪観音菩薩という仏像も検索出来た

また七星神社の七星は北斗七星の信仰である弘法大師の妙見信仰からのものとある








このように如意宝珠を持っている

明治時代の神仏分離令以前では神と仏が混合され祀られていて、写真のような仏像があったのかもし

れない

その仏像は今はどちらに移されてしまったのだろうか?

獅子舞いとは、その仏や菩薩が人々を救済するために、この世に仮の姿である獅子になり現れる

その仮の姿を権現という

こう考えると今迄すっきりしなかった事が納得出来るのではないか・・・・


こんな話をしながら七星の獅子連の方々と獅子を肴に盛り上がったのだった







2015.11.24:shishi5:コメント(0):[獅子彫り日誌]
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