早いもので節分が近い
子供達と鬼の面を付けて落花生を投げ合って盛り上がってから幾久しい
最近はでん六豆も登場しなくなってしまった
天明二年、総宮神社に平吹市之丞が寄進した鬼面の話から邪鬼について調べてみた
四天王に踏まれ懇願しているような姿の邪鬼
仏法を犯す邪神として懲らしめられ苦悶の表情を見せている
実は今にも襲ってくる様な邪鬼を四天王は抑えている存在なのだそうである
こんな邪鬼もいる
屋根の重みを支えている様な邪鬼の像である
かつては悪鬼だった邪鬼が改心して縁の下の力持ちとして仏法のお役に立とうとしている
健気な姿だ
人に反発する反対の事を天邪鬼(あまのじゃく)を大工は、この性格を利用して屋根を支える
束(つか)の代わりにこの像を置いたのだという
仏教では鬼を排除するのではなく調伏させ、調伏させられた邪鬼は反省して仏様の為に働く・・
邪鬼は一旦見方になってくれたら、その強さ故に災厄を払い福を招く頼もしい存在であるという
二面性を持っているのだそうだ
なるほど、総宮神社の龍神伝説も野川の氾濫に基づいている
そのマイナスの力をプラスの力に転化している
仏法の力で龍神を調伏させ、福をもたらす神に作り上げているではないか
さてこちらの鎌倉時代に作られた興福寺木造龍燈鬼立像をご覧戴きたい
頭上の灯籠を気にしてか目線が上
眉がギザギザでどこか飄々とした親しみある表情だ
鼻なんかそっくり
成田の獅子頭に通づる表情にも見えてくる
総宮神社の鬼面のデザインは、彫り師の高橋小兵衛が考えた物だろうか?
仮説だが成田八幡神社の建設も手掛けた小兵衛が、平吹市之丞作といわれる獅子頭の
彫り師と考える
小兵衛は優れた仏師や宮大工で新海惣松や菅原鹿蔵などとの名匠から情報を得る事が
できたのではないか・・・
江戸時代にどうやって鬼面や獅子頭の様々なデザイン情報を得たのだろう?
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