総宮略史の42ページに歴代の獅子頭の記録がある
この資料を分析してみると、二つの推測が見えてきた
以前掲載した牛の涎に記された、総宮の獅子頭についての記述の中に
安永年間 宮村に小兵衛と云う大工あり 此(この)小兵衛に命じて 又似せ造らせたり
とあったが小兵衛の作という獅子頭は存在せずブログは謎で閉めた
ところが元治の獅子頭の記述の下に「奉再興」とある所に注目した
作り直しか、塗り直しのことであろう
牛の涎の話が本当であれば元治年間の獅子頭を赤外線カメラで調査すれば小兵衛の記名が出て
くるかもしれない
元治元年は1864年・・
平山の熊野神社にある小兵衛作の獅子頭は安永9年1780年に作られた
また総宮神社略史の鬼面寄進の大工小兵衛は天明二年1782年とあり、この頃小兵衛が総宮神社の
獅子頭を制作し80年程経過した後、元治元年に修復され奉納されたのではないか?
鬼面を奉納した理由も飯沢市之丞(平吹市之丞)が獅子頭の塗りを担い、小兵衛が彫刻したことが
推測される
またその後の嘉永五年の獅子頭も作者不明である
以前から歴代の獅子頭を比較してみると、この獅子頭の左眼が異様に飛び出した天地眼に造形されて
いる・・・寛文の獅子頭をよほど観察し復元しようとしている感が有り余る作である
モデルの獅子頭の形を忠実に彫り上げ、更に飛び出した眼の伝説の強調しているかのようだ
そこで、その時代の彫刻家である長谷部吉之助が現れてくる
これはあくまでも推測
長谷部吉之助は文化13年1816年生まれ、明治31年1899年に83歳で亡くなっている
嘉永五年は長谷部吉之助が36歳で少し若い気もするが可能性はある
明治25年1892年頃に白鷹町西高玉、長井市勧進代、白兎の三兄弟獅子を制作し
1868年以降45~49歳に白鷹町十王龍澤寺の彫刻を残しているので、かなりの腕前なのだ
まぁ~まだまだ謎は晴れないのだが、今後の研究にご期待願いたい
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