ネットで調べてみると・・
天地眼 てんちがん
(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、
牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、
左右非対称の姿の像が増えるようになる。
これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた
「不動十九観」に基づくものである。・・・・とウィキペディア引用にある
![](http://samidare.jp/shishi5/box/myooin_r05.jpg)
![](http://samidare.jp/shishi5/box/eyes of fudo.jpg)
![](http://samidare.jp/shishi5/box/fudououzazou_p.jpg)
この不動明王の天地眼を総宮神社の獅子頭の眼に当てはめてみた。
![](http://samidare.jp/shishi5/box/DSC_1392 3.jpg)
ただ不動明王は左目が天を睨んでいるので獅子とは逆になる
おそらく右利きの場合、獅子頭を右手で持つと天を見る目が来てしまい睨みが利かなくなる
と考え逆にした・・とも考えられる
さて歴代の獅子頭の左目が右目に比べ、飛び出ている龍神伝説がある
昔・・日照りの年の総宮の例大祭の時
祭りが終わって龍神が干上がった野川の川原を三淵の奥の院へ帰る際
お神酒で酔っていた為、イバラのとげで大怪我をした
それで左目の視力を失い、鼻が曲がってしまった
その怪我の様相を彫り込んであり、右目を前にして進むのだ
それに懲りた龍神は毎年、総宮の例大祭に来る時は雨を降らせ野川を干上がる事無い様にしたのだ
獅子幕には波や渦巻きが染められ野川を下ってくる恐ろしい龍神の様子を現したものである・・
まぁ 諸説あるのだが、大体このような感じのニュアンスである
この伝説の元になった飛び出た左目は獅子頭の木地が変形したのではないかと
考えていたのだが
どういう意図で獅子頭を作ることになったか探ってみた
総宮神社の獅子頭の舌の横に 寛文十一年(1662年)九月十九日改・・と記されている。
よって新調したり修理したと仮定すると時期はそれから仮に百年ほど遡ると1562年・・永禄
5年だ・・・戦国時代 川中島合戦の頃である
はたして、この「改」は新調の意味か修復の意味なのか?
そこが肝心な点なのだが不明である
総宮神社略誌を紐解いてみた・・・・・
![](http://samidare.jp/shishi5/box/soumiya-shishi.jpg)
この資料の様に獅子頭が八頭あるとある
平静に入り当工房作の獅子頭が加わり、この資料に依れば九頭目なのだが
無名運慶作の獅子頭が無いのだ
その件はさておいて・・・
総宮神社略誌の獅子舞の創始を記述した文があり解りやすい様に書き直してみた
![](http://samidare.jp/shishi5/box/soumiya.jpg)
これを読むと様々な想像が駆け巡る
最初の獅子舞は現在の獅子舞とは違うものであったようだ
楽・・とあり雅楽や伎楽の舞いだったのだろうか
獅子頭が古くなると石棺に納め埋葬したとあり、境内の何処かに埋まってあるのだろうか?
再び獅子頭を作ったとあり、寛文11年以前の運慶作とある幻の獅子頭が存在しているのだろ
うか?
以前総宮の獅子頭が何処かに譲り渡ったという伝えを聞き、トアル神社の獅子頭を見分に
行った事もあるが確認出来なかった
安永年間に宮村の小兵衛に獅子頭を作らせたとあるが、平山熊野神社の獅子頭を制作している
高橋小平と同一人物なのだろうか?
また、天明二年に総宮神社の木製鬼面を高橋小平に制作させた飯澤市之丞は成田村の
平吹市之丞ではないのか? しかも塗師とある
成田の最古の獅子頭は平吹市之丞の作とあるが、高橋小平の彫刻ではないだろうか?
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