成田の八幡神社に寄り添う様に行蔵院がある
一見して寺というより普通の民家だが
行蔵院をネット検索してみると興味深い事が分かる
以下 石塚農園様HP ふるさとの歴史より引用文
行蔵院(小松慎一)家
村鑑というのは江戸時代、その村の名前、戸数、住民の数、田や畑、牛や馬のことなどを書いた
帳簿のこと。そのなかに「日光御門主兼羽黒山寂光寺末八幡山若宮寺行蔵院と書いてあり、羽黒山
と深いつながりがあったと思われる。
昔から高いきれいな山は神の住むところと考えられていて、そこで修業した人が修験者として尊
敬されていた。米澤藩の修験では羽黒山派が主になっていて、行蔵院はその中でも六先達という格
式があった。六先達の一つとして3年ごとに羽黒山の牛王という災難よけのお札を村々に配り初穂
料を受け取る格式を持つ。
成田の取材記でご紹介した「先払い」の出で立ちは修験者風であり、六人の先払いは
「六先達」という格式も何か関わりがある様だ
更に福蔵院にある梵鐘についてもこうある
梵鐘は最初文政5年(1822年)に作られたものでつぎのようなことが書かれていました。
「行蔵院の源智は質実で、学問を開き教育に功績があったので褒賞がありました。これを記念して
大きな鐘を八幡山に掛け、その重さは万貫、鐘の首は海獣のようです。身は龍文、その響きは雷の
ようで、徳は神様のようです。朝晩悪いことを戒め、ひとの守るべきことを教え、五穀豊作で皆が
幸福であり長生きして国が栄えるように」というものです。明治の神仏分離ため八幡山行蔵院から
福蔵院へ移されました。
・・とあり
八幡神社付近にあった梵鐘を移動したのだ
十日町の白山神社についても興味深い資料があった
金剛會(会)の白山神社についての資料である
十日町の白山神社に近い、元 芳文社の芳文庫付近にあったとされる明王院の話だ
明王院は修験の寺院で総宮神社の獅子舞を総括していたという
明治に入り修験道が廃止され衰退し、消滅してしまったとある
また、文教の杜に残されている寛政時代の神社仏閣の平面図の記録が面白い
焼失前、神仏分離前の白山神社は不拾院白山寺と称し、敷地は東西に100m南北に90m
の敷地に写真の様な神社仏閣が存在していた
現在の白山神社は神殿だけだが、以前は神殿、弊殿、拝殿と現在一般的に見られている
神社様式だ
隣接した建物は民家風の寺院になっていて、僧侶や神主が住居や宿泊も出来る構造になって
存在していた
こうしてみると、この神社と寺院の神仏混合の名残は今もアチコチに見られるようだ
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