12日開催された成田の獅子舞いの取材記の続きpart2である
前もってお願いするのだが、かなり加筆修正しているのでご注意いただきたい
獅子連中は午後4時に公民館に集合する
水垢離し身を清めて行衣に着替え、獅子舞いに臨む気持ちを高める
公民館は若宮八幡神社の参道の半ばにあり
側に善明院と福蔵院が燐している
明治はじめに修験道禁止令の大改革があり、神仏混合の名残も失われてしまった
おそらく公民館の前身は二つの院の宿坊や行屋だったのではないか?
講堂の両中央に正式な出入り口とは別の伝統的な特別の出入り口のようなものが有る
獅子連中の出入り口に用いられ、竹と提灯で飾られている
祭りの際、この公民館は「獅子宿」と呼ばれる
この呼び方について調べてみた
世界大百科【民俗芸能】より引用
昔の村落では,子供組,若者組と年齢に応じたグループを組織して身心の鍛練に努めたが,
そのとき教科に当てられたのが獅子舞,神楽,太鼓踊などの芸能で,祭りを迎えるまでの
一定期間,宿に籠って先輩から厳しい稽古(けいこ)を受ける。その訓練を通じて一人前
の人間としての精神と肉体をつくり上げるのであるが,その期間の先輩・後輩の交流を通
じて,後輩は村と芸能の歴史を知り,また村落の構成員としての連帯感を強くもつ。…
・・・とある 昔の社会の構造の名残が隠れていた
成田地区には野川から水路が整備され、二つの院の門前を経て公民館側を通る
公民館の講堂から板を敷き水路まで臨時の通路を配していた
さすが獅子連中の頭はフンドシ着用(黒獅子褌 本町 梅村呉服店にて販売)
水垢離とは?
垢離 こり
垢離(こり)とは、神仏に祈願する時に、冷水を浴びる行為のこと。水垢離(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言う。垢離は漢語には見当たらず、純粋な和語と考えられている。
神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小さまざまな罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることである。神道でいう禊と同じであるが、仏教では主に修験道を中心に、禊ではなく水垢離などと呼ばれ行われることが多い。
特に修験道は、神仏習合の山岳信仰による影響から、この水垢離を行うことが多い。これらの垢離の行を「垢離を取る」、「垢離を掻く」などという。
このことからも成田の獅子舞は修験道の天台宗善明院との関わりが深いのではないか
と推測出来る
角力も水垢離する
獅子連の掟なるものには稽古の二週間、あらゆる性的交渉も禁じられているという厳格
な習わしとして継承されている
さて獅子連中は獅子宿に到着するやいなや、いの一番に講堂の中央に置かれた道具類に向かう一つの鉢には塩が盛られ、持参した賽銭の硬貨を差し入れて清める
その他 梅干し スルメと昆布 10cm角の和紙
清酒の一升瓶 大きめの徳利 20cm角の切られた和紙 和紙で作ったコヨリ
そして服を脱ぎ、下着一つで水路に向かい沐浴を行う
以前は頭から水垢離したという話も聞く
行衣の背中には出羽三山参りの際の神社印が押されている
次はサラシを巻き「白衣」(しろもく 成田では「しょもぐ」と呼ぶ)修験道では行衣
(ぎょい)修行衣を意味している白装束を着る
帯は再びサラシを用いる
サラシは折ったり細くしたりせずね腹巻きの様に幅広く結ぶのは成田だけである
一説には、サラシを巻く事は邪気から魂を奪われるのを防ぐ為という・・
二重にサラシを巻き防御する意味だろうか?
獅子幕持ち役(幕たがぎ)の、小学生の男の子も数名着替えをしていた
講堂は独特な緊張感が漂っているが、子供達の無邪気さで和らいでいる
若い衆が清酒を徳利に注ぎ、飾りを取り付ける
和紙を折ってコヨリで徳利の口に取り付けていた
調べてみると「神酒口(ミキノクチ)」正月や例祭の際、神棚に備えるお神酒徳利の紙飾り
である
獅子や角力をガードしたり、先の観客を警護する役割の先払い(サキバライ)の
長半纏の背中には八幡太郎義家に関わる笹に竜胆(リンドウ)の紋がある
この長半纏の様式は白鷹でも見られる
襟に綿の入った白い布で作った紐がオシャレで独特だ・・・これにも注目している
さて獅子連達の準備が整うと、大勢で協力して角力に化粧廻しを締める
まず一旦、長い布地を締めて、その上に化粧廻しを着付けする
かなりキツク締めるので長時間はさぞ大変だろうと察する
小用の場合はどう工面するのか機会あらば角力に聞いてみたいものである
行衣の股引の場合でも、出し入れが困難なのだから・・・
角力の化粧廻しの着付けが完成すると円陣に座する
頭 小頭 角力が一言挨拶し、お神酒で乾杯
災難除けの梅干しを食し、その種を和紙に包む
供物のスルメと昆布も配られる
塩で清められた硬貨も和紙に包まれている
これは一人一人神社の賽銭箱に持参し奉納するのだという
徹底した清めの攻勢だ
俗に染まった私等はそこまでやるか! と感心しきりである
最後に頭と共に獅子連一同が気勢を上げ出陣である
すでに総代長と笛吹きが高張提灯を従え、迎え(獅子迎え)に来て待機している
獅子宿の入り口では角力が塩を振り一人一人を清める
獅子連中は草鞋を履き、笛の音を背中で聞きながら神社参道を進む
角力や獅子連達の顔つきが変わっている
引き締まって実に凛々しい
少し傾いた秋晴れの日差しが、まぶしく快い
境内に着くと境内の側の手水舎で手を清め、先ほどの梅干しの入った和紙の包みを
川に流すのである・・
この様子を見て思い出した
神社で行う身代わりとする紙の人形(ひとがた)に記名し、身体の悪い部分を撫で
手水舎に流すという習わしである
自分の場合は頭を念入りに撫でた事は言うまでもない
これを調べてみると人形(ヒトガタ)は「形代」(かたしろ)の一種である
かた‐しろ【形代】
1 祭りのとき、神霊の代わりとして置くもの。人形 (ひとがた) 。
2 陰陽師 (おんようじ) ・神主などが祓 (はら) えや祈祷 (きとう) のとき、人間の身代わりとした人形。多く紙製で、これに罪・けがれ・災いなどを移して祓えをし、川や海に流す。ひな人形も、もとはこの一種。《季 夏》
3 身代わり。
梅干しも形代になるという記述もある
形代 かたしろ
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
形代
かたしろ
人の身についた穢れや厄を託して,海や川に流すもの。神霊の依代 (よりしろ) の一種と考えられている。多くは紙の小さな人形 (ひとがた) であるが,ところによってはわら人形や,食物に託すこともある。
さ~て、また長くなって来たので次回に続くのである
たった今国会で安保法案が可決されてしまった・・・
国民の代表足る者が、再び過ちの戦争に加担してしまう選択をしてしまったのか憂うのである
いかなる理由があるとしても人殺しに加担実行してはならないと思うのだが・・
戦争と殺人は公と個人との違いはあるものの同じ行為だと考えるのだが
自己防衛と称してすりかえてはならないと思う
注
角力からのご指導で獅子舞いに関する文章を繰り返し訂正ていますのでご了承下さい!!!!!
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