精のノート

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僕の活動の一つにユースクラブでのHIV予防啓発活動というのがあった。
地域の有志若者がセンターのユースクラブに籍を置き、彼らが中心となってHIV/AIDSの予防を地域に住む青少年に呼びかけるための活動を行うというものだ。

レクチャーをやったり、ドラマ(寸劇)やポエム、歌を作って発表したり、グループディスカッションをしたりしていた。
毎回ユースメンバーが集まり、レクチャーのレッスンプランを考えたり、ドラマのシナリオを考えたり練習したり、どうやって人を集めるか作戦を考えたり。
それは楽しい時間を過ごすことができた。

ユースの連中は皆真面目で優しく、謙虚だった。そしてとても優秀だった。ザンビアにこんなに優秀な若者がいるんだなあと感心させられた。

特にリーダーのサムは21歳にもかかわらず非常に大人でしっかりしており、学校の成績も(学費の問題で彼は途中で学校をやめており、当時グレード11、日本でいう高校2年生だった)毎回学校でトップであるほど頭も良かった。

彼は非常に優秀でリーダーとしての資質も大変なものがあり、いろんなアイディアをユースクラブに持ち込み、持ち前のリーダーシップを発揮して周りのユースを動かし、多くの活動を行ってきた。彼の作った歌などを聴いても豊かな才能を感じた。

サッカー好きでチェルシーファンの彼はすぐに僕と仲良くなり、サッカークラブのアシスタントとしても活動をバックアップしてくれた。
毎日のように昼にシマを一緒に食べ、夢や希望を語り、サッカーの話をし、そのたびに彼がどれほどこの国を憂い、人々に貢献したいか、その思いが伝わってきた。

ある日僕が活動に向かう途中、他のスラムの中で人種差別的な侮蔑の言葉を浴びせられ、石をぶつけられた時があった。
僕はもう涙が溢れそうになり、非常に落胆し、憤り、悲しみで胸がいっぱいになった。
その時彼は僕の手を握りしめ、
「セイ、ソーリー。そんなことがあったなんて僕もとても悲しいよ。でも忘れないでくれ、僕たちは君を歓迎してるし君の存在がどれだけ僕らにとって大切なことか。できることならずっとここにいてほしいと思ってるんだ。だって僕にとっては兄弟みたいなものだから。」
と優しく伝えてくれた。

その時の彼の真剣なまなざし、口調、手のぬくもりを僕は忘れることができない。
どれだけ嬉しかったことか、どれだけ勇気づけられたことか。

そんな彼とHIVに関する広域研修というものに一週間参加し、同じ部屋で寝泊まりできたことはいい思い出として心に残っている。

彼は残念ながら僕の任期中に学校が変わり、遠くの村に行ってしまった。
それでも何かあると彼と連絡をとり、アイディアをもらったり与えたりした。
今ふと思う。あの時彼がいなかったら僕は途中で任期を終えてしまったかもしれない。活動を充実したものにできたのは彼のおかげだと感謝している。

兄弟だからきっとまた会えるだろう。
僕の配属先の学校はスラムの中に孤児や社会的に弱い立場にある子供たちに教育を提供することを目的に作られた。
だから多くの子供たち(8割)が孤児であった。
その家は小さく、バラック小屋だったり、ビニール袋や段ボールで覆った家だったり、決して衛生的にも良いとは言えないような環境に住んでいる。
そのほとんどはおばあさんや遠い親戚にあずけられて育てられている。それはそれで肩身の狭い思いや大変な思いをしているのだが・・・が・・・・。

それでも彼らはいい方だと思わされることがある。
それは、家を、家すら持つことができない子供を見る瞬間だ。

そうストリートチルドレンがお金をせびってきたとき、何か変なものを売ろうとしてきたとき、正直なところ不快感を感じつつも、彼らに一銭たりともあげようとしない自分への罪悪感と彼らの生活の暗さを思う憐憫の情で胸がふさがり、思わず目をそらしてしまいたくなる、その瞬間、僕の生徒たちはまだ幸せな方なのかと思ってしまうのだった。

そんなある日、かなり衝撃的な出来事に遭遇した。
ある日の夕方、もう日が暮れるころ、帰宅途中、おおきなバスターミナルのあるシティマーケットでバスを待っていた。その時、僕の方に寄ってきた集団があった。
とっさに、ああストリートチルドレンがまた来たなと思い当った。(シティマーケットはアーケードがついているため雨風をしのげるので彼らが住みつくことで有名だった)。
その直後、僕は自分の目を疑った。

その一団の中に僕の見知った顔、明らかに僕の記憶にある顔があったのだ。
そう、まぎれもなく僕の生徒だった。
捕まえて話を聞くとその子は家を追い出され、行くところがなくここに流れてきたそうだ。彼は幾度か家を追い出され、そのたびにストリートチルドレンとなっているところを同僚が発見し、また別の家に引き取ってもらったりして家を転々としていたのだが、ついに行くところがなくなったのだ。
とりあえず彼と彼の仲間のためにポケットに入っていたわずかな現金を渡し、翌日同僚たちと今後どうするかを相談することを約束し、そのため、翌日に学校へ来るように指示した。

が・・・・

結局彼とはそれ以来会っていない。

他になにか方法があったのではないのか、なぜあの時彼を放してしまったのか、なぜ彼が学校に来てくれなかったのか、いろんな後悔と思いがあって、つらい思い出として僕の記憶に残っている。
彼のようなストリートチルドレンを見るたびに彼の顔と状況を思い、やるせない思いをしてきた。二年間の活動中、最もつらい思い出である。

今、ザンビアにはたくさんの家を持たない子供がおり、社会問題になっている。彼らはシンナーを手放すことができず、マリファナを吸って空腹感を満たしている(ごまかしている)ものもいる。
まだ未熟で判断力に乏しく、生きる力も育っていない子供が道端に放り出される。
彼らが安心して暮らせる社会をどうやって作り上げることができるのだろうか。

写真はストリートチルドレンへの対応を呼びかける看板

ザンビアには娯楽が少ないし日本のような遊園地やテーマパークなど遊びに行くようなところもない。
でもザンビアでの生活は楽しかった。
それはいろんなものがないから生活がシンプルになり、のんびりとスローライフを楽しめるからという理由がある。

しかし、それ以上に日本では味わえないような面白さを楽しめる場所、アフリカ文化を楽しめる場所があるからだ。

その一つがローカルマーケットで僕のお気に入りの場所である。
部落ごとにローカルマーケットがあり、ルサカしないでもいたるところに無数のマーケットが存在している。

そこにはシマ・レストランがあったり、おばちゃんが野菜や肉を売っていたり、バーがあって昼間から酔っぱらいが地元産のビールを飲んでいたり・・・・・。

そう言うところでは日本にはない面白いものを発見したり、ごみごみとした空間であるが故にそこに生きる人間の生活を直に感じられたり、なによりそこに生きる人々と会話を楽しむことができる。

野菜を売っているおばちゃんから値切って値切って安く野菜を買ったり、その辺で作って売っているフリッター(揚げパンみたいなもの)を買って食べたり気分がいい時はバーでビールをザンビア人と共に楽しんだり。
そんなことをしながらそこで働く人々達とちょっとした会話を楽しむ。
まさに自分が今、ザンビアの中に溶け込んでいるなあと感じる瞬間でもある。
だからそんなローカルマーケットを見つけるとだいたい立ち寄り、暇をつぶしていたものだ。

そんなローカルマーケットの中でも特にお気に入りなのがルコンバにあるマーケット。ルアプラ州や北部州につながる幹線道路沿いにある小さな小さなマーケットなのだがその明るく温かい雰囲気と山羊の肉と地鶏を食べることができることがお気に入りの理由。
ルサカからバスで4時間ほどかかるのでそんなに言ったことはないが、それでも瑠アプラ州に行く時は必ず立ち寄ったし、同期の任地でもあったので彼の家に遊びに行った時はそこで山羊の肉をつまみながらビールを飲んだものだった。

山羊は近くで裁かれ、その場で小さく切られ炭で焼いてくれる。
レバーもソーセージも売っており、それらに塩をぶっかけてほおばるのがザンビア流だ。
まあ衛生面を考えると暑い日中にただ肉が屋外の掘っ建て小屋の前につるされているだけなので心配と言えば心配なのだが(新隊員はやはりこの状況に相当驚く)まあザンビア人だって食ってるんだからと割り切れば何てことはない。

ここでビールの瓶を手にやぎの肉をつまみながらザンビア人と談笑し、夕日が地平線に消えていくのを見るのはなんとも言葉にできない贅沢な時間だった。

写真はルコンバマーケットでのもの。
本物のやぎの頭です。
昔よくおはじきやビー玉をはじいて遊んだものだ。
最近は見かけなくなったなあ・・・・・・



思ったらこんな日本と反対側のザンビアで同じような遊びを見つけた。

なんと道端で子ども達が拾ってきたビー玉を指ではじきながら遊んでいるではないか。興味をそそられて近寄っていくと

「ヘイ、セイ!コートに入るな!」とさわぐ子ども達の声。

見れば地面には炭で引いたラインがあり、ビールやジュースの王冠が置いてある。
さらに離れてよく見てみるとなんとそのラインはサッカーのグランドを作っていたのだ。

つまり子ども達は地面に小さいサッカーのコートを作りボトルキャップや王冠を選手に見立ててコート内に配置し、ビー玉をボールにして指ではじきながら彼らなりのルール、遊び方を考えて遊んでいたのだ。

「お前らよく考えたなあ」っと感心すると「まあな!」と言いいながら照れ笑いを返してくれる子ども達。彼らは僕がサッカーのコーチをしているのを知っているため、にやにやと自信たっぷりの顔をしながら「コーチ、俺と勝負しようぜ!」と言ってきた。
もちろん引き下がるわけには行かず、「お前らなんか簡単にビートしてやる」と意気込んで勝負をした。

結果は・・・・負け。

彼らの器用さには勝てず、昔の感覚を取り戻せず完敗だった。
でも彼らと笑いあいながらゲームを楽しむことができ、幸せだった。

ただ一つ掛け金を取られたこと以外は・・・・・。

ザンビアには娯楽が少ない。テレビすらない家庭も多い。ましてやテレビゲームなど。だから子ども達は常に創意工夫して遊ぶ。

ちょっとした懐かしさと子ども達のたくましさと創造力の豊かさを感じた日だった。
ザンビアは僕にとっては非常に過ごしやすく治安もいい。
ただ、治安が良いというのは他のアフリカの国と比べて相対的に良いということであり、治安そのものが良いと言うことではない。

日本大使館に勤める友人によると、外務省では国の住みやすさ、治安の良さなどを考慮し、国ごとにレベル分けしているそうだ。
それによるとザンビアはレベル4。一番ひどいのがレベル5でそれらは現在紛争などの影響があるシエラレオネやスーダン、コンゴなどがそれにあたるらしい。

ということはザンビアは僕らが考えていた以上に危険な国だったのだ。

実際僕が派遣される前、隊員の家に武装強盗が侵入し、足を打たれるという惨劇があった。このことは大事件として今もザンビアにいる在ザ邦人の間で話題にのぼり、忘れてはいけないこととして我々の安全意識を高めていた。

そのため、我々が住む家のドアにはグリルドアが、窓にはグリルバーなどというものが取り付けられている。
これらは鉄製のバーで、窓やドアからの侵入に備えて格子状に取り付けたものだ。
これがあると例え窓ガラスを割っても、ドアを蹴破っても、鍵を開けても侵入できないと言うわけだ。
もちろん我が家にも取り付けられており、僕が入居してすぐ安全管理を担当する人がチェックし、不備な部分を補強した。

最初はこれにとても抵抗があった。
鉄格子そのものはいいのだが、それが取り付けられているということに気の重さとこれから住もうとする社会の暗い部分のようなものを感じたからだ。

しかし、そうはいってられない事件も起きた。

なんと任期中、後輩隊員の家に強盗が侵入し、持ち物全て取られるという悲しい事件が起きたのだ。
その強盗はなんと道具を使ってグリルドアを壊して侵入したらしい。

そこでさらにグリルドアについての規定が厳しくなり、全隊員の住居がさらに堅固な鉄格子で補強されることになった。

一見するとここは牢屋かはたまた刑務所かと思われるような外観になってしまったがせめてものということで、僕は白く塗ってもらった。

これが僕の安全を守ってくれるのだと言い聞かせ、日々グリルドアに頑丈な二つの鍵を掛けるのであった。

写真は補強前のグリルドア。
事件後これにさらにバーが付け足されていった。
今全国ではインフルエンザが猛威をふるい、学級閉鎖をせざるをえない学校が増えている。わが九里学園もその渦中にあり、今日明日と不安な日々を過ごしている。
こういう状況の中、よく「ザンビアでも新型インフルエンザが流行っているの?」と聞かれる。

ザンビアでは新型インフルエンザは全く騒がれていなかった。
だから学校閉鎖なんてありえない・・・・・

はずだった。

が・・・・・・

なんと、なんと僕の配属先の学校が学校閉鎖になってしまった。

理由は・・・・「コレラ」

今年(というより毎年なのだが)の雨季にコレラが大発生し、多くの人々が苦しんだ。コレラは感染性の病気であるため、政府と教育省はコレラが発生している地区にある学校すべてを閉鎖することを決定し、1月に一ヶ月間も閉鎖されられた。

コレラは糞尿など含まれるコレラ菌が水や食物に付着し、それを口にすることで感染する。
僕の配属先はいわゆるスラムにあり、当然インフラが整っていない。雨季には雨水で道路は川のようになり、部落に設置されている簡易トイレ(のようなもの)が壊れ、汚水があふれだす。また、共同井戸などにそういった汚い水が入り込んでしまうという恐ろしいことも・・・・・。

さらに路上で売っている果物や野菜なども洗わずに口にしてしまうことも感染の原因になっている。

伝達方法が確立されていない社会の中で、生徒たちは学校が閉鎖されたことなど知らないため、朝登校してしまう生徒もいた。
そういった生徒にせめて宿題を与えて帰そうと同僚たちと話し、黒板に宿題を写していると警察がやってきて怒られる始末。

僕も大雨で川となった道を靴を脱いで歩いて渡ったことが数知れず・・・・
よく病気にならないで帰ってこれたなあと今更になって我ながら感心する。

結局2月にはいりコレラがおさまり始めたころ、ラジオで学校再開がアナウンスされ、久しぶりに子供たちの顔を見ることができた。
彼らは学校が始まることが待ち切れなかったらしく、満面の笑みで
「ハロー先生!また勉強しようね!」と声をかけてくれた。
僕はザンビアで学校の先生として活動をしていた。
その学校は地域住民によって設立されたもので、地域に住む孤児を集めて基礎教育を行っているのです。
といっても貧乏な組織のため、満足な校舎を持てるはずもなく、結局荒れ果てたバーを改修して学校として使用していた。
そのため、満足な教室もなく、大きなホールの中で、複数クラスが分散して授業を行うといったスタイルでの授業だった。

そんな中、僕が赴任当初持ったクラスはグレード4(小学校4年生)のクラスで、ホールの脇にある小さな小さな倉庫のような所を使用した。
最初そこで授業をやれと言われた時は小さくはない衝撃があった。
なにしろそこは授業をやれるような環境ではなく、もちろん大きさも20人弱の生徒が入れるほど大きくはなく・・・・・。

さらに

そこには壊れかけた机が数個置いてあるだけで、あとはただの壁、壁、壁。
もちろん教室にあるはずの黒板なんて・・・・・

いや、あった、あった。

壁の一部が黒く塗られていて、よく見ると『Science』などという板書の形跡があるではないか!!!!

確かに授業をした跡が見られ、その脇にはチョークを消したような跡が付いている葉っぱが捨てられていた。

そうか、そうなのだ。

この壁を塗りつぶした部分が黒板であり、この葉っぱの束が黒板消しなのだ。

それからはその8人も入れば窮屈な部屋に20人近くが詰め込まれ、書きづらい小さな黒板に板書内容を吟味して書き込み、近くで葉っぱをむしっては黒板消しにするといった学校生活が始まった。
それでも生徒達は僕の授業を楽しみにしてくれて、前向きな態度で授業を受けてくれ、毎回笑いの絶えない楽しい授業を行うことができた。

今思うとあの小さな黒板があの学校の、いや教育の原点だったのかもしれない。
そして僕の活動の原点でもあったのだと思う。

他の隊員より恵まれない環境、まさしく協力隊を絵に描いたような何もない学校、そんなないないづくしの中で
「何を、どうやって教えるか」
を考えた日々は僕に教育というものを考えさせ、充実した日々を与えてくれた。

今、在ザンビア大使館の行っている(外務省が行っているとも言えるが)草の根無償資金援助により、僕の配属先では新校舎の建設が進んでいる。
これが完成すると、5つの教室と1つの図書館ができることになる。

完成を見ずして帰国したことは残念でならないが、草の根資金援助を得ることができたことで配属先にお世話になった恩返しができたのではないかと思っている。

新しい校舎ができた時の喜ぶ子ども達の様子が目に浮かぶ。

新校舎で希望を持って学ぶ子ども達がそれぞれの夢を掴むことができることをここ遠い日本から祈るばかりである。
今日ザンビアでの活動中の友人からメールが届いた。
それによるとなんと彼はアフリカ大陸最高峰キリマンジャロにアタックし、登頂に成功したということだ。

標高5980M,山頂付近には氷河がはりつくキリマンジャロ。
今まで多くの登山家・冒険家を魅了してきた世界でも有数の山だ。

それに彼は2名の友人とアタックし、4日間かけて登頂に成功した。

途中疲れによる睡魔と高山病に悩まされながらもあきらめず最後まで登りきった彼の力強さに拍手を送りたいと思う。
同行した女の子は(こちらも僕の友達)途中パーティから離れ、4回ほどおう吐しつつも大きく息を吸っては一歩進み、大きく息を吐いては一歩進むということを繰り返し、最後は気力を振り絞って登ったという。
誰もが断念するだろう状況で最後まであきらめない彼女の意志の強さは大したもんだと思う。
彼らは彼らをガイドした現地人ガイドたちの優秀さと深い洞察力、動植物と天候に関する広い知識に感動し、尊敬の念を抱き、何より感謝の言葉を送っていた。
ガイドたちはパーティ全員の体調と性格を常に把握し、あえて休憩を取らなかったりペースを変えたり歌を歌って励ましたりなど非常に機転がきいていたということです。

さて、このキリマン登頂、実は僕がアフリカでやってみたいことの一つでした。
アフリカの最高峰に登りたい、そこから見える朝日を見たいとずっと思っていて、目標にすら思っていたのです。
しかし、旅行を計画し、いざタンザニアへという段階になってジャイカタンザニア事務所が他国からの日本人ボランティアの旅行を閉鎖するという暴挙(僕にとっては暴挙以外になにものでもない)に出たのです。
ジャイカザンビア事務所に行かせてくれと訴えても再度問い合わせてもらっても許可が下りるわけもなく、断念した経緯がありました。
今でもキリマンに登れなかったことは悔しいこととして記憶に残っています。

その後タンザニアは日本人ボランティアに開かれたのですが、時すでに遅し。帰国間近で行くことはできずじまいでした。

そのキリマンに登った友人。
はっきり言って羨ましい。悔しい。
でもその思いを知っているだけに心から「おめでとう!最高だね!!」といいたい。

ああ、憧れのキリマンジャロ。
いつかその頂に立ってやる!!!!!!!

とキリマンジャロのコーヒーを飲みながら思うのでした。
みなさんはザンビアと日本をつなぐ小さい小さいものを知ってるだろうか?
日本人なら誰でも持っている小さいもの。そしてそれはザンビアから来たもの。
ほら、今もあなたのポケットに入っているかもしれない。

そう・・・・・

それは10円硬貨。

実は日本の10円硬貨は銅で作られている。そしてその銅の多くはザンビアから輸入されたものが使われている。
つまり、この小さな小さな10円がザンビアと日本をつないでいると言える。

ザンビアにはいくつかの州ががあるが、その中にコッパーベルト州と呼ばれる州がある。もちろん銅の産地であり、コッパーベルト州に行くと多くの銅会社を見ることができる。(その多くは中国人やインド人に経営されているのだが)

そのうちの一つ、ザンビア最大の「コンコーラコッパーマイン」を見学する機会に恵まれた。どの銅山でも無料見学はやっているのだが、許可が下りるのがなかなか難しく、多くの日本人のみならず白人の方々も断念している。
しかし、人脈とはいかにいいものか・・・・。

コッパーベルトのある町のスラムで学校つくりをしたのだが、そこのダイレクターが実はこのコンコーラコッパーマインで働く労働者だったのだ。さらに学校運営のメンバーの一人がそういった外部からの視察や見学を受け付ける仕事に就いていたため、他の日本人仲間と共に招待してくれたのだ。

作業服に着替え、安全靴を履き、ヘルメットをかぶると地中深く潜っていく。
レベル2450というところにまで到達した。
その労働環境のすさまじさに驚きつつ、このような安全面に不安があるような環境で働きながらザンビアの経済を支える(ザンビアは銅のモノカルチャー経済である)人々に敬意を抱いた。(実際に事故が多発し、多くの人が亡くなり、怪我をして働けなくなる人も多数いる。したがって、この町には多くの銅山孤児がいる)
実際にドリルを持って地中にある銅を掘るなんて事もさせてもらった。

この周辺の人々が銅山に頼らざるをえない生活を強いられていること、事故が多いこと、それでもこの銅がザンビアの経済を支えていること、そしてこの銅が日本とザンビアをつないでいることなどを考えると、何とも感慨深いコッパーマイン見学だった。
ザンビアには電気・水道がない村が無数にある。
首都ルサカからバスで2時間、さらにバスを降りて歩くこと30分。
そこにレンジェ族の住む村、カスクエウェ村がある。
マッシュルームハウスが点々とする典型的なザンビアの村だ。

その村の教会の牧師、ミスター・イノセントがある日僕の所に
「村に学校を作りたい」
と言ってきた。

彼とは配属先の会のプログラムで顔見知りとなり、その後数回会っていた。

早速現地へ飛んで調査をしてみると実際500人ほど子ども達がいるのにもかかわらず、学校が一つもなく、一番近くの学校までは僕の足で歩いて3時間半ほどだった。

それから僕のその村での学校建設にむけての活動が始まった。
日々の活動の合間を縫っては現地に足を何度も運び、調査や打合せを行ってきた。
もちろんその電気・水道のない村に泊まることも多く、いつもイノセントの家に泊めてもらっていた。

すると・・・・・・・

この村が大好きになった。もちろんイノセントとも仲良くなった。
仕事じゃなくても遊びに行くようになった。

この村には何にもない。でもこの村に足を運ばせたのはここには最高の「人」がいるから。そして満天の星空があるから。
ある夜、この村のブッシュの中を歩いていて、こんなにも月が明るいのか、空にはこんなにも多くの星があったのかと驚かされた。
道を照らす星明かりだけで十分にブッシュの中を歩くことができ、月明かりで影までできている。

人々も自分たちには何もないことを知っている。それでも僕という客を心からもてなそうとするホスピタリティを持っている。僕を満足させよう、楽しませようと一生懸命だった。誰と会っても笑顔で挨拶してくれ、明るく陽気に笑う人々がいた。

イノセントはちょっとお調子者でいつも明るく冗談を言っていたもんだ。
村中を案内し、この村がどういう状況にあり、この村をどうしたいか熱く語ってくれた。
いつか日本人の隊員仲間にこの村を見せたいと思い、数人で泊まりに行ったことがあった。
その時、イノセントは牧師であるにも関わらず、村から一番近いバーに僕らを連れて行き、その周辺にあるバーを2・3軒連れまわし、ダンスを踊ったりして一番はしゃいでいた。後でそれがばれ、他の牧師に怒られるということがあった。(もちろん彼は飲まなかったが)

それでも彼の気持ちはとても嬉しかった。
そんな彼は罪なやつだろうか?イノセント(無罪)だろうか?

彼と枕を並べ、星を見ながらお互いの夢を語ったことを今でもよく覚えている。

イノセント、お前の成功を信じている。
いつかザンビア国中の孤児全員を集めて最高の学校を作ろうな!!


写真はイノセントにバーに連れて行ってもらった時のもの。
赤い帽子をかぶっているのがイノセント


アフリカで生活しているというとよく
「食べ物とか大丈夫だった?」と聞かれる。

僕は現地の主食であるシマは大好物だったから問題がなかった。
日本食が恋しくなることを除くと・・・・

でも・・・

でもたまにはおいしいものが食べたくなる。
いいものが食べたくなる。
ちょっと頑張った自分へのご褒美としてリッチに食事をしたくなる。

そして・・・・・・イタリアンに食べに行ったものだ。

そう、ザンビアにもおしゃれなイタリアンレストランがあるのです。

その中の一つ、リストランテ・ポルティコはフットサルのイタリア人チームメイトのお父さんがやっているちょっと高級なイタリアンレストラン。
ここに足を踏み入れると、まるでヨーロッパのレストランにでも来たかのような錯覚を覚えるほどである。

フットサルのチームの監督?兼チームメイトがイタリア人ということもあり、試合後このレストランでみんなで食事ということもあった。
もちろん、日本人の友人達で食事を楽しむこともあった。

ヨーロッパチャンピオンズリーグの決勝なんてここの特別室で多くの友人達とビールとピザを手にゆっくりと観戦したものだ。

味もおいしく、普段のストレスや苦悩から解放してくれるのだった。
ここで覚えた料理もあり、ここで友人達と会話をしながら食事をしているといわゆる白人の食事に対する感覚やマナーもわかったような気がした。

そう言う意味では思い出深いレストランだった。

写真は日本人の仲間が僕の送別会を開いてくれた時のもの。
もちろんリストランテ・ポルティコで。
協力隊の活動の基本は「現地の人と共に」という言葉に集約される。
つまり、草の根レベルで現地の中に入り込み、現地の人々と同じものを食べ、同じ言葉を話し、生活を共にする。
そうすることで異文化を吸収し、現地の人との相互理解が可能となり、活動がスムーズになる。

だから・・・・

僕もザンビア人になろうと努力をした。

結果・・・・・・頭もザンビア人化した。

ザンビア人は髪を編み込む。特に女性は身だしなみの一つとして髪を編み込むのだが、その種類、編み方は実に豊富でどれもが個性的。そして最高に似合っている。
町には髪を編むためのエクステがたくさん見られる。サロンも多い。

男の人も編み込む人もいて、実にかっこいい。
ドレッドにドレッドロック、ムクレまでそれぞれのスタイルに合わせて編み込んでいる。
髪を編んでいる男は「ラスタ」と呼ばれ、挨拶の仕方も他の人とは違っている。


僕も何回か髪を編み込んだ。
本当はドレッドロックにしたかったのだがドレッドロックは僕のような日本人はすぐにとれてしまうためオススメできないとのことでムクレに編んだ。

サロンへ行きムクレにしてほしいと告げる。

サロンのおばちゃん、もしくはお姉さんは僕の髪を触り、何かを確認するとコットンを準備し、コットンと一緒に髪を編み込む。

1時間が過ぎ、2時間が過ぎ・・・・
寝たい、しかし寝れない。
痛いのである。髪を引っ張りギッチリと編み込んでいくのでとっても痛いのである。まず寝られるもんじゃあない。

でもそこはおしゃべり好きのザンビア人。
ずっとしゃべりっぱなしで時間が過ぎていく。

3時間後、僕はすっかりザンビア人となってサロンを出た。
料金はサロンにもよるが僕が行っていたローカルサロンは25000クワチャ、日本円で500円ほど。
(ちなみにドレッドにした時は6時間、150000クワチャかかった)
町を歩くと人々から「Wow!Look nice!!!」と声を掛けられ、ラスタからは彼ら独特の挨拶をされる。

まんざらでもない自己満足にひたっているも次はかゆみとの戦いが始まる。
そうこの髪にすると容易に髪を洗えないのだ。

多くの日本人はせっかく編んでも早い人で3日、長くても2週間ほどでこの痛みとかゆみに耐えられずしてほどいてしまう。
ザンビア人は3ヶ月ほど編んでいるというのに。

僕はチャレンジしてみた。限界を超えてみようと。
するとどうだろう。
1週間を過ぎると痛みが消え、2週間も経つとにおいにも慣れ、3週間で何も感じなくなった。
しかし、体は正直。皮膚がただれてきたため、これ以上は無理とのドクターストップがかかり(そんなわけはないが)3週間でほどいた。

しかし、髪を編むと本当に多くの女性に声を掛けられるようになり、町で人種差別的な言葉を受けなくなり、知らない人から「ロナウジーニョ」と言われるようになった。

髪の毛一つでずいぶん変わるもんである。

こう忙しく校務に励んでいると癒されたくなる。
心身共にのんびりとリフレッシュしたくなる。

ザンビアで活動していた時もそうだった。
だからたまに旅に出る。

ザンビアは内陸国だ。だから当たり前だがザンビアには海がない。

それがザンビア赴任1ヶ月もするとかなりボディブローのように効いてくる。
じわりじわりと僕の舌を刺激してくる。
体が海の幸・シーフードを欲してくるのだ。

本当に海のもの・特に刺身が恋しくて恋しくて。
隊員同士集まると刺身のあれが食べたい、すしのこれを食べたいと言い合っていた。居酒屋メニュー山手線ゲームなどというものまでやりだし時には末期症状かと思うほどだった。そして大抵は手に入らない現実を目の前にしてうなだれてしまうのだった。

だから・・・

僕らザンビア隊員の多くは海を求めて、いや、海の幸を求めて旅に出る。

そうそして僕も海を求めて・シーフードを求めて旅に出た。
同じ思いを共有する友と共に・・・・

目指すはインディアンオーシャンのあるモザンビーク。

初日は首都のマプトで一泊。
早速ホテルに荷物をおろすと町に繰り出した。
目的は・・・・もちろん噂に聞いていたすしが食えるレストラン。

見つけた。年を忘れてはしゃいでしまった。
同行していたHさんも(僕より年上の中学校の先生)はしゃいでいた。

生ビールを飲みながら待つこと10分、僕らの目の前に「それ」は登場した。
感激した。初めて「それ」を見たかのようにはしゃいでいた。
そして「それ」は期待を裏切らなかった。やはりすしはうまい。


翌日インド洋のすばらしい白浜が続く町に移動した。
さらには現地のツアーに参加して世界遺産に登録されている無人島へボートで行った。途中イルカが現れるなんていう演出もあり(偶然なだけだが)最高の気分。

そして島に到着すると・・・・

美しい。本当に美しい。

一面に広がるブルーラグーン、光り輝く白い砂。
最高だった。
そこでシュノーケリングなどを楽しみ、昼食もやはりシーフードのバーベキューを満喫し、背中にひりひりとした充実した一日の感触を残してホテルに戻った。

こんな楽園があったのだ。

冷えたビールにワイン。そして最高のシーフード。さらに抜群のロケーション。
ちなみに泊まったホテルもテラス付きの窓からオーシャンビューが広がる最高におしゃれなホテルだった。

ザンビアに帰る時も南ア航空のミスでビジネスクラスに乗ることができるなど最後まで素晴らしい旅だった。


ザンビアではミニバス同様多くのタクシーが走っている。

きちんと登録された正式のタクシーの通称青タク(ボディが青に塗られている)
勝手に商売をしている非公式の白タク(別に白に塗られているわけではなく、普通の乗用車をタクシーとしている)

ご存じの通りザンビアは決して治安が良いとは言えない。
「夜日が暮れたら絶対に外出するな、外出するなら必ずタクシーを使え、間違っても夜道を歩くようなことはするな」
と言われる。

だから夜レストランに行く時は必ずタクシーを使っていた。そうでなくとも重い荷物を持っている時やちょっと歩くのやミニバスに乗ることが面倒くさい時はタクシーを使う。

でもザンビアのタクシーにはメーターがない!
全て交渉によって料金が決まる。だからもちろん高いドライバーには絶対に乗らない。
さらに・・・・

タクシーが強盗になる場合だってある。

だから信頼できるドライバーに頼まなければならない。

そこで・・・・

日本人の隊員はかならずお抱えの(なじみの)ドライバーを持っている。
一度乗ってみて親切だったり人が良かった人の携帯番号を聞いて、自分のお抱えのドライバーにする。
そうすると安いし安心だしすぐ来てくれるし・・・・。

僕も信頼できるとっても親切で人の良いドライバーの友だちがいる。

その名はポンゴ。

家の近くで働いており、一度声を掛けて乗ったらとっても親切で気さくで陽気な人柄にすっかり惚れ込み、たびたびお願いするようになった。
するとやはり仲良くなる。一緒にサッカーを見に行ったりビールを飲みに行ったり。もはや僕らは「マイブラザー」
いつも彼が客待ちをしている道端で顔を合わせては「ヘイマイブラザー、調子はどうだい?」と会話が始まる。

いつでもどんなときでも彼はすぐに駆けつけてくれた。自分が行けない時は彼の友人をよこしてくれた。なによりいつも僕を気遣ってくれた。
マラリアにかかって死にそうになった時も格安で病院まで往復してくれ、さらにスーパーで買い物までしてくれた。
両親が遊びに来た時、僕が仕事で相手ができない日があったが、そんなときも英語の全くできない両親を乗せ、博物館に連れて行き、さらに一生懸命説明をしてくれたそうだ。両親が土産物を買いたかった時もそんな様子を感じたポンゴは値段交渉をして安く買ってくれるなど、両親を喜ばそうと気を配ってくれた。
おかげで両親は大満足の一日を過ごせたらしい。
タウンで探していた店が見つからない時もわざわざタウンまで来てくれ、見つけてくれた。

日本からアサヒビールを送ってもらった時も彼にあげようとタクシーを頼んだ時に渡すと、もう待ちきれずにその場で開けて飲み始めてしまった。そんなおちゃめな一面も持っているポンゴ。

帰国前も荷物を送ったり配属先に残すものを運んだりと大変だったが彼がいつも運んでくれた。

だから僕は彼にとても感謝していて帰国前に彼に感謝の言葉を述べると
「セイ、お前は俺とおれの友人達にビジネスをたくさんくれた。だから俺たちはお前に感謝している。なによりお前は俺たちの良き友人だった。お前と過ごした時間は最高にハッピーだったよ。俺と俺の友人達の最高の友だちでいてくれたことに感謝している」と彼が言ってくれた。

もう、涙が止まらなかった。

ポンゴ、まだ俺たちはブラザーだよな!!!
いつの日かまたあのバーでマンUの試合を観ながらたっぷりビールを飲もうじゃないか!!!

写真中、真ん中がポンゴ。
イベントで遠出した時にかなり安く往復してくれた。





ザンビアの庶民の足はミニバスである。
水色と白に塗られたボディを持つ、ワゴン車やマイクロバスがそれだ。

ほとんどが日本で廃車になったような古い車でよく「○○幼稚園」とか「××旅館」などと書かれてある車を見かける。

首都ルサカ市内には非常に多くのミニバスが走っている。一応いろんな路線があり、街の中心部であるタウンと各地区を結んでいる。地区同士を結ぶ路線が無いため、どこへ行くにも必ずタウンにある大きなバスターミナルへ一度行き、そこでバスを乗り換えなければならないため多少の不便は感じるものの貴重な移動手段である。

料金は例えばタウンから僕が住んでいたオリンピアまでは2500クワチャ、その先のローマ地区までは3000クワチャというように決められてはいるが、タウンから配属先のマテロを結ぶマテロラインはどこまで乗っても1000クワチャと格安だった。また、タウンから各地区は料金が決められていることが多いが、地区からタウンに行く時にはコンダクターとの交渉によってはかなり安くなるし、時間帯によってもかなり料金は変わってくる。つまりいい加減なのだ。
だから乗る時には必ずコンダクターに料金を聞く。高い時には乗らないし、乗らないと言うと安くしてくれることがある。時刻表がないから次々とバスがやってくるが路線によっては出発までに1時間も待たされることもある。さらにあるドライバーと仲良くなったらその次には料金を取られなかったこともある。
一応(ザンビアでは本当に一応ということが多い)停留所があるがバスが走りながらコンダクターがバスから身を乗り出し、乗客を呼び込んでいる。だからたいがいどこでもバスに乗れる。

しかし、このミニバスがザンビアへ着いた頃は苦痛だった。それは狭い社内にぎゅうぎゅう詰めで座らせられるからだ。普通のワゴン車だから日本では横に3人掛けが当たり前だがむこうでは4人も座らせられるため、かなり窮屈な思いをする。特に暑い日にはジトーっと汗が・・・・・。
古い車だから途中で止まってしまうこともあるし乱暴な運転だから事故も多い。よくあんなバスに乗ってて死ななかったなと思うくらいだ。
(日本大使館ではミニバスに乗らないように注意を呼びかけてたっけ???)
ある時なんか途中で車内から煙がもんもんと立ちこめたかと思うと火を吹き始めたこともあり本気で焦った。

でも・・・・

でも何度も言うが慣れってすごい。
少し経つとミニバスも平気になり料金交渉も楽しくなるし道の真ん中でバスが止まっても笑って他のザンビアンとバスを押したりした。
車内に大音量で流れるザンビアンヒップホップやゴスペルも耳に心地よくなった。
コンダクターと喧嘩したこともあったが乗車中隣のザンビア人と会話に花を咲かせ、楽しく過ごしたことはいい思い出だ。バスの中で覚えた(教えてもらった)現地語もかなり多い。

ミニバスは一つのザンビアンカルチャーと言えよう。

写真はタウンのバスターミナル
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