精のノート

精のノート
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「文句言う前にカバーしろよ!!!!」
「お前のミスなんだよ!!!」

ある選手に怒鳴り続けた言葉だ。

彼の名はムウィレ。15歳。

ザンビアでサッカークラブを立ち上げた時からいる子で、U−17しかなかったときにはあまり試合に出してあげられなかった子だ。
それでもサッカーが好きで僕によくなついていて、いろんな話をしてくれた子だ。
練習には毎日来て、僕が技術的なアドバイスを送ると嬉しそうににっこりを笑っていたことを思い出す。

負けず嫌いで向上心があったため、技術的にはよく伸びた。だからU−15のカテゴリーができたときには彼をチームリーダーとして考えていたし、たまにU−17の試合にも出していた。

ところが、いつから彼の笑顔を見なくなっただろう。

確かに技術的にはうまく、ドリブルも上手でなかなかボールを奪われない選手だった。体を張ってディフェンスもするので、まさにチームの核になれる子だ。
でも僕はそれ以上のことを彼に求めた。

それはチームのリーダーであること。

彼は上手だが、人によく文句を言うのがとても気になった。
ディフェンスやキーパーのミスで点を取られた時も必ず彼は文句を言ってチームの雰囲気を悪くする。

だから

だから僕はリーダーとはどういうものか彼に理解してもらいたかった。
当然、彼に対する要求は厳しくなる。

人がミスしたときも、「それをカバーしろ」
人のミスを責めるのではなく、「サポートしろ」
「自分に厳しく、チームの責任を考えろ」と言い続け、試合中、練習中と怒鳴り続けてきた。
当然練習以外にも彼とは話をして、自分の気持ちも伝えてきた。

彼が試合中、文句を言ってチームメイトと喧嘩になったとき、僕はタイトルがかかっていたにも関わらず、迷わず彼を交代させた。
それよりも大切なものがあると信じて。

リーダーとして率先してチームを引っ張り、謙虚に自分のプレーを反省し、仲間を大切にする。そんな姿勢を彼に持ってもらいたかった。

でもそんな厳しい僕の要求についていけなくなったのだろうか。
いつしか彼が練習に顔を出さなくなってきた。

気付いた時には彼はバーでビールを飲むようになっていた。

あんなにサッカーが好きで、プレーするのが好きだったはずなのに。

おそらくできない自分にストレスを感じたのだろう。

彼の気持ちを理解できなかったこと、支えてあげられなかったことにとても悔しい思いと、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

何時か彼が
「セイ、これをもらってくれ!おれの気持ちだ。」
と自分のお気に入りのネックレスを渡してくれた時があった。

そんな彼を台無しにしてしまったことに後悔と、力の無さを感じている。

いつか彼に会って「ペパーニ(ごめん)」
と謝りたい。
そして一緒にボールを蹴りたいものだ。

赤いシャツがムウィレ


週末久しぶりに雪が降った。
よくもまあこれだけ降るなというほど。

すると?ザンビアからメールが届き、向こうでは毎日雨だとか・・・。

確かに今(12月から3月)は雨季で僕がザンビアにいたころも雨季には毎日雨が降っていた。
特に最初の年は記録的な大雨の年で、その影響もあって停電もひどかった。

朝から降り続く雨、どんよりと重たい雲に気分が滅入り、活動も雨の影響を受けてうまくいかないことも多く、精神的に相当落ち込む日が多かった。

でも

でも楽しかった雨の思い出がある。

雨季のサッカーの練習は大変で、昼前から降っていると傘を持たない子供たちがほとんどなので人がなかなか集まらないし、集まってもグランド?(空き地)の水たまりがひどく(ほとんど川)、どうしようか頭を悩ませた。

多くはコミュニティセンターの中で筋トレや基礎練習、あるいはサッカーの基本戦術についての勉強会を行っていた。

でもその日、朝降りだした雨は昼前にやんだ。
だから、そう多くはないが、子供たちは集まってきた。
グランドを見に行かせると
「コーチ、いけるぜ!!!」
とのこと。
多少、水たまりはあってもまあいいかと練習を始めようとすると・・・・

突然のスコールが襲ってきた。
あれ?降ってきたか?と思う間もないほどに急に降りだした大雨。

子供たちもこれには大騒ぎ。
もう濡れたどころの話ではなく、みんなが開き直った。
もういい、みんなでこの中ゲームをやろうと。

当然サッカーシューズなどはかないので裸足でのプレー。
僕も彼らと一緒に裸足になってプレー。

滑る滑る。僕も子供たちも滑りまくって転びまくって泥だらけ。
僕もドリブルをしようにもボールを蹴ろうにもいちいち転ぶ。
するとみんなが大笑い。
こうなるともう何が何だか。
ゴール前の水たまりにダイビング、スライディング。
真剣にシュートしようとして転ぶ仲間に笑い、止まろうとしてるだけなのにスライディングになる仲間にまた笑い。

とても楽しかった。
最後には雨も上がり、みんなで裸になって大きな声でザンビアの勝利の歌を歌った。

雨の日になると必ず思い出す。あの子供たちと一つになった泥まみれの日を。


今ハイチでは大地震が起き、死傷者が多数出て、政府が非常事態宣言をだすなど大変なことになっている。
未だ救助されていない人も多く、救援が遅れ、また、混乱した住民の不安やストレス、やり場のない怒りが治安の悪化を招き、それがさらに救援活動を遅らせてしまっている。
WFPの職員やNGO職員は住民の暴動を恐れ、物資を届けられなくなっており、フランス人医師はインフラの破壊、物資の不足で医療活動ができないことへいらだちを覚えていた。

そんな状況でもなんとかしたいと多くの国、団体が頑張っている。
日本もその国の一つであり、先日日本の国際緊急援助隊医療チームがハイチに到着した。多くの医師や看護士が現地で救助にあたっている。

そしてそういった救援チームを後方支援するのがジャイカの国際緊急援助隊事務局だ。
今朝NHK「おはよう日本」という番組でハイチでの救助活動が取り上げられ、何気なく見ていると、日本の救助隊の後方支援が特集されていた。
そして後方支援の本部であるジャイカ国際緊急援助隊事務局から生中継されているのを見ているとそこによく知った顔があった。

その顔は疲れ切った表情で目も開けているのがつらそうな顔つきではあったが見た瞬間、すぐにそれとわかる顔であった。

そうそこで後方支援を仕事として働いていたのはザンビアで僕をアニキと慕ってくれていた若者だった。

彼は新人研修としてザンビアに半年間派遣され、そこで僕と出会い、会ったその日からお互いのサッカー好きが奏効して仲良くなった。
時間があれば一緒に飯を食い、酒を飲み、そしてサッカーをしてきた。
今時の若者という表現ができるかどうか、またしていいのかどうかわからないが、男気があり情に厚く、謙虚でさわやかないい青年である。

自分に弟がいないこともあり、また、彼がアニキのように慕ってくれたこともあり、ザンビア滞在中は僕も本当の弟ができたようでとても嬉しかったのを覚えている。

その彼が今、国際協力の一線で活躍している。
聞くところによると毎日夜中の2時3時まで仕事に追われることは当たり前、徹夜も覚悟で日々を送っているという。
当然現地時間に合わせなくてはならないこともあり、そうしなければ迅速な対応ができないこともあるだろう。眠いなどとは言っていられない。
それでも直接支援できないとはいえ、後方支援が現地の人々のためになると信じ、この状況から逃げずに仕事に向かう彼の姿勢には大いに学ぶところがある。

私たちも今やっていること、できることはきっと誰かが後方支援してくれているからだと感謝の気持ちを持ちたいものである。

今朝彼からもらったメールに、
「精さん、僕の顔そんなにひどかったですか?へろへろな僕をまだまだ甘いなと笑ってください」
とあった。

僕にお前を笑う資格はないよ。
むしろお前ほど頑張っていない自分を笑いたいくらいだ。
今度ゆっくりいろんな苦労話を聞かせてほしい。
きっとお前の仕事を喜んでくれている人が遠い異国にいるはずだ。
もう少しの辛抱だ。頑張れと声をかけたい。


写真は「弟?」

最近、とても冷え込む。
昨日の朝は今期最低気温をマークした。

そんな朝は顔を洗うのも辛い・・・・

はずが

日本では蛇口をひねるとお湯が出る。
温かいどころか熱いお湯が出てとてもありがたい。

ふと寒い乾季に朝水で寒い思いをして顔を洗い、息が白くなるほど寒い夜に水で体を洗い、髪を洗ってひもじい思いをしたことを思い出し、
「あれはきつかったなあ」
などと自然と笑みがこぼれてきた。

今では笑えるが、当時は本当に辛くて、寒い夜は水浴びの前に筋トレをやり、
体を温めるとともに、気合いを入れてから体を洗ったものだ。

それでも

それでも我が家は蛇口から水が出るだけましだった。
村に住む友人の所に泊まりに行くと、水浴びの前にまずは水くみをしなければならなかった。
その水もその辺を掘って雨水などをためて利用している簡易井戸。
中では蛙が泳ぎ、水面ではアメンボがスイスイと動いている。

その水を汲み、何度も運び、やっとの思いで桶に水をためて水浴びをする。
しかし、水が水だけに洗えば洗うほど体が汚くなるような気が・・・・。

でも、

でもこの水は貴重な水なのだ。
彼らにとっては飲み水であり、体を洗う水であり、生活に必要な水なのだ。

大変な思いをしてやっとの事で利用できる水。
そんなことを経験して初めて「安全できれいな水」がいかに大切か知った。

そして蛇口をひねると当たり前のように水やお湯が出てくる日本での生活。
当たり前っていったい何なのか、
その当たり前の影で謙虚に幸せを感じ、感謝する心をどこかに置いてきてしまったようでちょっと怖くなったりもした。

写真は井戸から水をくむ友人

協力隊の活動を一言で表すと
「現地の人とともに」
という言葉に集約される。

つまり、現地の人と同じものを食べ、同じ言葉を話し、同じ所に住み、同じ仕事をする。

だから、僕はそのことを「ま・じ・め」に守ろうとして?何でも現地食にトライした。(ただいやしいだけなのであるが)

その一つが「お酒」

ザンビアにももちろんお酒があり、ビールもワインもウォッカもジンも何でもあった。ビールは国産のものもあったが、他のアルコール類は全て輸入物だ。

だが、

だがザンビアにも日本で言う「どぶろぐ」のようなお酒があった。
チブクと呼ばれるお酒がその一つだ。
メイズという白いトウモロコシの一種から作られたお酒。
見た目は少し茶色がかった白で味はちょっと酸っぱい。
これが牛乳パックのようなパックに詰められて安く売られている。
その商品名は「シェキシェキ」
このシェキシェキを僕はあまり好きではなかった。というより飲めなかった。

でも僕はおそらく日本人はだれも飲んだことがないであろうどぶろくを飲んだ。
電気・水道のない典型的な村に泊まった時、友人が
「セイ、これを飲んだことがあるか?」
と紹介してくれたのだ。

その友人に連れられてあるおばあさんの家に着くと、
なにやら家からポリタンクが運ばれてきた。
そして僕の前に一つのコップが。

ポリタンクから注がれたものはなんと

なんとサトウキビから作られたお酒である。
ちょうど甘酒のような見た目のちょっととろっとしたお酒。
サトウキビから作ったと聞き、相当甘いんだろうなとおっかなびっくり口にしてみると

どうしてどうしてこれがなかなかいける。
意外にさっぱりとしていて癖のない味に驚いた。

アルコール度数はわからないが、相当強いお酒ですぐに酔いがまわってきた。
朝7時。
コーヒーがほしい時間に変わりにおいしいお酒で一日がスタートした。



2010年、初めてアフリカ大陸でサッカーワールドカップが行われる。
それも僕の任地、ザンビアからほど近い、南アフリカでだ。

もう今から楽しみで仕方がない。
許されるならば行って現地で現地の人たちとあの熱狂の渦の中で楽しみたい。

サッカーは世界共通語だ。

僕もサッカーをしていたからこそできたことがザンビアではたくさんある。
好きなサッカーを指導できたし、そのことで多くの子ども達と出会った。

その中の数名は本当によく成長し、プロにまでなった子もいた。
そして彼らから教わること、彼らに思い知らされたことも多かった。

サッカーができたことで学校の子ども達ともすんなり溶け込むことができた。
休み時間は彼らと一緒にサッカーで遊び、仲良くなった。
すると彼らは僕に現地語を教えてくれるようになったし、困ったことがあると助けてくれた。

何よりサッカーを通じてたくさんの人に出会い、友人になった。
ガンバ大阪のジュニアユース・ユースであの稲本達と全国で活躍したサッカー隊員。
アルゼンチンでサッカーのコーチのライセンスを取得したサッカー隊員。
マンチェスターユナイテッドU−14のコーチだったイギリス人。
ザンビア代表監督とコーチのフランス人。
ザンビアフットサル代表監督のイタリア人。

なかでも仲良くなったのがフーマンというイラン人だ。
彼はまだ幼い頃、政情不安定だったイランからお父さんに連れられてザンビアに逃げてきたイラン人だ。
サッカーが好きで毎週水曜日に一緒にフットサルをしていたし、サッカーの試合も見に行った。
マンチェスターユナイテッドの熱狂的なファンで、試合の時にアイリッシュパブで絶叫する彼の姿をよく見かけたものだ。

かれはとても優しく、懐の大きな人だった。
英語の苦手な僕でもなぜか一緒にいると安心感を持ったことを覚えている。
ある日僕がザンビア人に
「お前みたいな肌の色のヤツなんか相手にしてないんだ」
と人種差別発言をされた時、一緒にいた彼は僕以上に憤慨し、
「肌の色にどんな意味があるって言うんだ!お前もフットボールが好きで俺も好きだ、こいつもフットボーラーだ!それだけだ。仲間なんだよ!!」

と説教してくれた。
本当に嬉しかったし、なにより彼が大切な仲間として僕を受け入れてくれていたということがとても嬉しかった。

僕のフットサルを見に来た時も、スタンドから
「俺たちはもっとこのサムライのプレーが見たい!!」
とほかの観客にたきつけるように叫び、応援してくれた。

帰国間近、彼は僕に送別フットサル試合を企画してくれ、
試合後に
「あのフットボールライフが懐かしいな。
グッドパーソンにグッドフットボール。最高だったよな!」
と言ってくれた。

もう一度彼とプレーを楽しみたい。
そしてあの時、興奮していて言えなかったお礼を言いたい。

「フーマン、ありがとう。
きっとお前も人種のことではいろいろあったんだろう。
だから人を大切にし、優しくなれるんだな!
いつか日本に遊びに来いよ!そん時はフットサルだぞ
You are really good guy!!」

写真の右端がフーマン。
その隣はフットサル代表監督のイタリア人。

皆様明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

昨年はザンビアでの生活半分、もっとザンビアにいたいと後ろ髪をひかれつつ帰国し、その後日本での生活半分ということでその大きなギャップに苦しんだり楽しんだりの日々でした。

そして大晦日に
「ああ、去年の今日は
 『年越しをナショナルパークで過ごそう!』
と友人達とロッジに泊まりに行ったんだよなあ。一年経つのは早いなあ」
と感慨深いものがありました。

昨年はロッジに泊まりながらザンベジ川でサンセットクルーズをしてゾウやカバを見たり、夕日を見ながらお酒を飲んだり、または釣りをしたりカヌーをしたりと遊びながら夜に他の宿泊客とカウントダウンをしてちょっとした年越しパーティを楽しんだりとそれなりに楽しかったのを覚えています。

そして2年ぶりの日本での年越しとお正月。
やっぱり日本はいいものですね。
おとそにおせち、おもちお雑煮。
そして刺身にお寿司。かにまでごちそうになってしまいました。
思う存分堪能しました。

そしておもちの種類の多さに日本人はすごいなあと感じました。
磯辺巻きや納豆もちなどしょっぱいものからあんこやきな粉もちなどの甘いものまで。人それぞれ好みはあると思いますが、おもちは何にでも合うすぐれものですね。

さて、ご飯というとそういうわけにはいきませんよね。
甘いご飯って想像できます?

でも

でもそれが好きな人もいたんです。
実はザンビア人、ライスに砂糖をかけて食べるんです。
それもコーヒーなどに入れるような茶色のあの砂糖。
あの口にした時の妙な甘ったるさ、のどを通らない変な感覚。
なんでそんな変な食べ方をするのか不思議でした。
でもそれがザンビアでは正当な、主流のご飯の食べ方なのです。

かけるなら僕は塩のほうがいいなあと言うと
何を馬鹿なことを言ってるんだというような反応が返ってきます。

何回かトライはしてみたのですが、どうしても砂糖かけご飯にはなじめませんでした。
何度もご飯を出す時には砂糖をかけないようにしてほしいとお願いをして、こっそりと日本から送ってもらったごま塩をかけて食べていたことを思い出しました。

日本であんこもちを食べながらふと別のあま〜い話を思い出しました。

写真は年越しをしたロッジ

先日米沢文化センターで
「ザンビアからの風」
と題して講演を行った。

19時からという遅い時間にもかかわらず、講演を聞きに来て下さる人がいるということに感謝している。
同僚や協力隊仲間も来てくれて驚いたが、とても嬉しかった。

当日は90分、ザンビアの文化や活動内容について、またそこから見えてくる問題点やザンビアの素晴らしいところを話し、最後に現地食である「シマ」を作って皆で試食した。
僕はいつも僕の講演を通して少しでもザンビアについて感じて欲しいとの願いから「ザンビアからの風」と題して講演をしている。

僕がこういった講演活動をするのには大きく2つ理由がある。

一つは社会還元活動
自分の途上国での、特に日本人にはなじみのないアフリカの国での経験を話すことによって、社会に自分の経験を還元していきたいというもの。
講演に来てくれた人が少しでも世界に目を向け、国際理解、国際協力というものに関心を持ってもらえたら幸せである。
これは行ったものの責任でもあると思う。

二つ目はあるメッセージを日本人に伝えたいということ。
僕は活動中とてもザンビア人に仲間として、大切な友人として、そして家族として受け入れてもらい、そしてザンビア人に助けられた。
ユースクラブのメンバーは日本人、特に僕とザンビア人、さらには世界の人たちとの交流と、仲間意識の大切さを訴えるために、劇と詩を作ってくれた。

そのなかのメッセージが
「Different colour but one people live in the same world!」
(肌の色は違うけど同じ一つの人間、そして同じ世界に住んでいる)
というもの。

ユースのメンバーたちはこのメッセージを他のザンビア人たちに向けて発信し、僕や日本人を仲間として尊重し、理解しあうことの大切さを訴えてくれた。
何より、僕らの友情を大切にしてくれた。

だから

だから今、今度は日本人にザンビア人は同じ地球という世界に住む仲間なんだということを伝えていきたいと思っている。

国境や肌の色なんか関係ない、同じ地球に住む地球市民として、友人として協力し合って生きていきたいと思っている。

Different colour but one people live in the same world!!


最近、講演などを通してザンビアの学校を思い出し、現地での先生としての仕事と今の仕事との違いを面白く感じている。

今現在、高校の国語の教師として、授業や放課後の小論文指導や古典の補講などを行っている。

でも

現地では小学校4年生と5年生の複合クラスのの先生で、英語・算数・理科・社会・体育・図画工作などを教えていた。歌もよく歌った。
もちろん小学校なのでレクレーションや遊びの要素を多く取り入れた授業や、課外活動なども行い、子供たちと大いに笑い、楽しんだものである。

それでも・・・・それでもやはり教師の仕事の本質は変わらない。
国が違っても教師の仕事の本質は変わらない。

ザンビアとの違いはただ一つ。

先生の日がないことだ。

ザンビアには先生の日というものがある。

ザンビアでは先生の数が足りず、問題になっている。また、そのことで先生たちが80人を超えるクラスを持っていたり、1日3部制で学校をやりくりしたり、大変な思いをしていることもある。また、しばしば先生たちの給料が未払いになることもあり、生活に困ることもある。
それは教育よりも他のことを優先されてしまうからだ。

また、多くの子供たちが学校に通っておらず、その保護者達も教育の重要性を理解しておらず、子供を単なる労働力ととらえ、学校に行かせないといったこともある。

でも先生たちは教育がこの国のカギを握っており、そしてその教育を与える教師という仕事に誇りを持っている。

そこで先生の日には各地域から、各学校から先生たちが集まり、パレードをして、その後集会を持つ。
みんなで集まり、パレードを行うことで、多くの人に教育の重要性をアピールし、自分たちもお互いにがんばって困難に打ち勝とう、教育を子供たちに与えていこうと励ましあうのだ。
表彰式などもあり、先生たちは互いの仕事を称え合い、次の日からの活力にしている。

僕もコミュニティスクールの先生として参加した。会場では一緒に勉強会を行った多くの仲間の先生に会った。
「おれたちと一緒に歩こう!」
と声をかけてもらい、お互いの学校の話をしながらパレードをした。

その瞬間、僕は日本から来た「だれか」ではなく、「同志」となることができた。
僕もこの日、たくさんの仲間と歩いたことを誇りに思う。


ザンビアにも外資系のショッピングセンターがあり、スーパーはもちろん、おしゃれなレストランや旅行代理店、服屋、家電店、本屋などが入っている。
しかし、庶民には高いため、裕福なザンビア人と白人ばかりが利用している。

じゃあ庶民はどうしているか。

庶民はカムワラマーケットに行く。
このマーケットには何でも売っている。家電から家具、食器、古本から自転車や衣服、ベルト、アクセサリーの類まで本当にいろんなものを売っている。

特にチテンゲと呼ばれるザンビア特有の布の卸売り店が並ぶマーケットとして有名で、ザンビア人のみならず、僕ら日本人もそのチテンゲの店が並ぶ通りをチテンゲロードと呼び、親しんでいた。

多くの店のオーナーは中国人やインド人、戦火を逃れてきたイスラエル人なのだが、中には友人になった人もいて、家で必要なものがあるとよく泣きついて安い品をさらに安くしてもらっていた。
家のカーペットや家具の多くはここで購入したものだ。

また、チテンゲを買いによく訪れ、そこで色とりどりのチテンゲを買い、ズボンやシャツを作ったものだ。
配属先の裁縫学校で使用するチテンゲもここで安く購入するため、よく配属先のおばちゃんたちと買出しに出かけた思い出の場所でもある。

ただ、安いことは安いのだが、品質は悪く、初めての使用で壊れてしまうこともあり、当時は憤慨したが、いまでは笑える思い出だ。

ザンビア人なら誰でも知っていて、地方から出てきた人も帰る前には足を運んで買い物をするこのカムワラマーケット。

いろんな人種が集まり、毎日にぎわっていた。
きっと20年後もこのまま変わらずに存在しているのだろうと思う。

写真は線路の上にまで露天商が並ぶカムワラマーケットの様子。


ザンビアで活動している隊員でザンビアロックソーラン隊と称して日本文化紹介のイベントを行ってきた。

ロックソーランや和太鼓の披露や宗教、年中行事、武道などについての展示、剣玉や折り紙、書道などの体験及び浴衣の試着、DVD上映などを行った。

教科書がなく、インターネットにもアクセスできない子供たちに日本、そして日本人について知ってもらいたい。
そして娯楽のない子供たちに楽しんでもらいたいとの思いからこのイベントを始めた。

でも何より、このイベントを通してザンビア人が日本人に触れ、多くの子供たちが日本人との忘れられない楽しい思い出を作ってもらいたいと思っていた。

そう、そのことがザンビアと日本をつなぐ、新しい架け橋となることを願って。

ザンビア各地を寝袋かついで駆け回り、全16回開催したのだが、そのどれもが特色があって、忘れられない思い出になっている。

特にあのポケットの中身は・・・・。

2008年6月、ソーラン隊の活動が始まったばかりの頃、ザンビア西部州のモングという町でイベントを行った。
400人ほどの子供たちが集まり、大成功だったのを覚えている。

それから一年後、そのモングで開催されるザンビア最大の祭りを見学しに再びモングの町を訪れた。
祭りの前日、町はずれを歩いているとき、ある子供が叫んできた。

「ミスター、スズキ!!」

驚いてその子供を見ると真っ白な歯を見せながら笑顔で走りよってくる。
誰だか全く見当がつかない。

しかし、その子は「ミスタースズキ!!」と僕の名前を連呼する。

そして僕の目の前に来るなりニコニコしながらポケットに手を突っ込んだ。
そしてそのポケットから出てきたものは・・・・・・

一枚の紙

一瞬にしてそれが何だか僕は理解した。

そうそれは僕が彼に書いてあげた書道の紙だった。そこには彼の名前が書いてあった。
それをかれは大切に大切にたたんでポケットに入れて毎日持ち歩いていたんだそうだ。それはあの日の楽しかった思い出を象徴するものだったのだろう。
そしてたまたま歩いている僕を見つけて嬉しくて声を掛けてくれたとか。

もう感激して僕は彼を抱きしめ、「サンキュー、サンキュー」と叫んでいた。

ホテルに行くとカウンターにいる従業員がやっぱり「ミスタースズキね」と言って鍵を渡してくれた。僕の表情が変わるのを見て
「私たちはあなたのことを今でも覚えているよ。あなたがいつ戻ってくるか楽しみにしてたのよ」
と教えてくれた。

うそのような話に驚いた。でも嬉しかった。

つながっている。確実につながっている。
そしてこの橋は想像していた以上に堅かった。
そのことを強く実感した。

あの少年のポケットから出てきた宝物は僕にとっても忘れられない宝物となり、そして2国間をつなぐ宝物となることを願っている。

今学校では定期テストが行われ、先生方は採点に忙しくしている。
いわゆる丸つけを行っているのである。

ザンビアでももちろんターム毎にテストが行われ、同じように採点をする。
日本と同じように丸つけを・・・・

が・・・・・

なんとザンビアでは丸をつけない。
丸をつけずにはねるのである。日本でバツを意味するあのハネを記すのである。

普段の授業でも練習問題なんかを与えるとバシバシとハネていく。
そして間違ったところには何も書かない。

最初は本当にこれにとまどった。
採点をしていても「あれ?あれオレ何してんだ?今の当たってるよ!いやいや当たりだからこれでいいんだ!」
などと混乱した。

子供たちはこの丸つならぬチェッキングの時間が待ち遠しいらしく、授業でも問題を解き終わると嬉しそうに「ティーチャー!!!」と言ってノートを持ってくる。

そして線を引かれた(はねられた)数を数えて喜んでいる。
何もついていない間違った部分を無視して・・・・

最初、間違ったところに何も書かないのは後でそこをもう一度やりなさいという意味なのかと思って、なんかとてもいい心配りだなあと思っていた。
しかし間違ったところをやり直すなんてことはまるでなかった。

そこでその思いを子供たちに伝え、何度でもやり直してできるようになろうと言った。
最初はほとんどの子が一度やったら終わりだった。
そこで、やり直してみて正解だった子に花丸をつけてあげて
「日本では素晴らしい答えにはこうやってるんだよ!これはVery Goodの意味だよ!」
というとみんなその花丸ほしさに取り組み始めた。
それを見てはしゃいでいる。笑みがこぼれる。

理由はどうであれあきらめないでトライし、出来なかったところが出来るようになる。それで十分だ。
だんだんと最初から花丸をつけてと要求する子供もでてきた。

今も思い出す。
あの得意げな顔でもらった花丸を手でなぞってみたりして喜んでいる子供たちの笑顔を。



協力隊活動の目的は知識の伝播である

というわけではないが、せっかく行ったのだからマンパワーとして働くだけではなく、自分たちが持っている知識や経験を伝え、自分たちが帰国してからも任国の人々が今度は自分たちでやっていけるようになって欲しいと願うのは当たり前のこと。

そういったことを持続可能な援助という。
だから僕も授業つくりやHIVについてのワークショップを数回行った。
そういったワークショップの中でライスについて教えた。

と言っても別に日本人だから米作りについて教えたわけではない。
ここで言うライスとはRICE処置のことであり、怪我をしたときの応急処置について講義をしたのだ。

ザンビアの体育の授業の実施率は非常に低く、体育が時間割に組み込まれているにもかかわらず、5%ほどの学校でしか実施されていない。
さらに最近になって体育が正式な科目としてシラバスに載ったため、ほとんどの先生は体育というものを経験したことがなく、よって、体育の重要性や良さを知らないし、体育をやれと言われても出来ないのが現状だった。

だから、体育隊員とチームを組んで体育普及活動を行った。
その活動の一つとして体育についてのワークショップをやってきた。
その中で必ずRICEについて触れるのだが、毎回面白い経験をした。

Q「足首を怪我をしたら真っ先にどうしますか?」
A「動かしてみてちゃんと動くかどうか確かめる。動くようなら」

Q「捻挫をしたときどうしますか」
A「お湯で温める」

Q「RICEについて知っていますか」
A「米。あまり好きじゃない。シマのほうがエネルギーになっていいよ!」
 「そうだそうだ!シマはいい!怪我したらシマを食べろ!」

なんていうやり取りがしょっちゅうだった。
そのたびに苦笑いをしながらも怪我をしたらすぐにお湯で温めたほうがいいと全く反対なことを信じているザンビア人を微笑ましく思った。

いったい今までどうやって怪我を治してきたのやら。
それでもRICEについて話をし、おまけに簡単な腕のつり方や添え木をあてて固定することなど教えると喜んでくれた。
喜びすぎて自分で布切れで腕をつって、そのまま帰る先生もいた。

そのザンビア人の小さな喜びに、我々日本人は大きな喜びを感じていた。

写真はRICEについて説明する体育隊員
彼女とチームを組んで市内でこういったワークショップを行ったり、地方へ出かけていって体育のデモンストレーションを行ったりしてきた。



先日ザンビアで出会った友人の結婚式に出席した。
彼は同じ歳なのだが尊敬できる友人であり、友だちづきあいさせてもらっていることを幸せに感じる。

彼は東京の大学で国際政策を学んだあと、インドの大学院に進学し、そこで開発に関する博士号を取得した。
その後ジャイカの専門家としてザンビアへ派遣され、地域住民を組織して安全な水の確保・管理・維持を目指し、自分たちでできるように指導するプロジェクトの指揮を執っていた。

彼は中学高校とサッカーをやっていたことから大のサッカー好きで、ザンビアで日本人のフットサルチームを作り、フットサルリーグに参加したり、レクレーションを企画したりして在ザンビア日本人コミュニティの活性化に貢献していた。

また、女子のJICA職員や協力隊員のための女子サッカーチームを作り、その監督としても指導していた。

頭脳明晰で英語もペラペラなため、現地職員のみならずジャイカ職員からの信頼も厚く、欧米から来ている人たちにも顔が広かった。

優しく面倒見がよく、いつも金欠状態の隊員を食事に連れて行ってくれた。

そんな人柄からか隊員達から「アニキ」と慕われ、人気者であった。

彼とはやはりお互いサッカー好きということで、僕がザンビアに到着してすぐに仲良くなった。
彼の白人の友人達の練習にも呼んでもらったり、飲みに行ったり、サッカーの試合を観たり。
本当に一緒に多くの時間を過ごした。彼のおかげで2年目はイタリア人チームに参加することができた。
同じ歳ということもあり、どこか同じ価値観を持っている部分や共感できる部分があり、サッカー以外のことも多く語り合った。

当然彼の帰国の時は涙が出るほど寂しかった。

でもここ日本でまた会うことができたし、彼の晴れの舞台に立ち会うことができた。僕が帰国した翌日には彼はザンビア関係者の飲み会を企画してくれ、さらにはフットサル大会も企画してくれた。

彼は今ジャイカの地球環境部というこころで水の案件を持って活躍している。
エチオピアや南アフリカなど世界狭しと飛び回っている。
そんな多忙な中、彼のすごいところは向上心に溢れ、なんと通信で大学院に通い、勉強しているというところだ。

彼の結婚式。とても暖かく、和やかな雰囲気でとても素敵だった。
どこの国からも引っ張りだこだという彼。
次にどこの国に行くかわからないが、彼の成功は間違いない。

彼の新しい家族、これからに幸多いことを祈っている。

アフリカだから携帯電話なんてないだろうとみんなは考えることだろう。
でもアフリカだから携帯電話が普及する。
つまり、インフラが整っていないため、電話線を整備するより携帯を使ったほうがはやいのだ。。
ケニヤでは携帯を使って狩りをするマサイもいるそうだ。

ザンビアでも例にもれず町中に携帯があふれている。
電気水道のない村に住む人でも携帯を持っている。
(そこにはほとんど電波が入らず意味があるのかと思うが)
スラムに住む僕の同僚や友人たちも携帯を持っており、日本人と同じように新型の携帯電話などに関心が高い。
ただ彼らはやっぱりお金がないから通話とちょっとしたSMS機能が付いただけの携帯を持っている。(それすら買えない人ももちろんいるが)

ザンビアの携帯はプリペイド式で通話カードを買い、そのユニットを携帯に入れるとその金額分使用することができる。

でもやっぱり彼らはお金がないからカードを買えない。だからほとんど自分から電話することができないでいる。
そこで彼らがよくやるのはページング。日本でいうワンギリってやつだ。

最初僕はそのページングが嫌いだった。
なんなんだよっていっつも文句を言っていた。

でも彼らの習慣を知ると気持ちが楽になった。

ザンビア人は用もないのに電話する。僕が電話しないでいると「お前はどうして電話してこないんだ」と言われる。
「特に用事がないからだ」と答えても納得してもらえない。
これには少し面食らった。

でも彼らは電話する。
ただ「ハロー」と言うためだけに。
電話をする。
「ハロー、元気?」
「元気だよ」
それを確かめるためだけに電話をする。
お金がない時はただページングをする。
だからこっちもそれにこたえるときにはちょっとページングをすればよい。
ただそれだけ。それで十分。

でもそれだけで相手の気持ちが伝わってくる。
自分を思いやってくれている気持ち。

「I just call to say hello!」
「I know, you always give me a call just like that.」
「How are you doing? OK?」
「Yup, am OK,thanks. How about you?」
「I'm fine. I miss you」
「I miss you,too. See you.」
「OK,bye.」

そんな会話が懐かしい。
ふと誰かにページングしてみよう。
元気か、お前に会いたいよ、という気持ちを乗せて。


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