2008年が幕を開けました。山形は31日から1日にかけて雪降りで真っ白な朝を迎えました。今年はどんな1年にしましょうか?去年の目標であった“発信・表現”を実行しながら、“じっくり取り組もう!”を目標にしようと思います。なぜなら、おちよの不得意なところかもしれないと気づいたからです。毎日継続することはある意味できるようになりましたが、それのみで終わっている現状です。短いスパンのものはできるのですが、じっくり時間をかけて長期に渡り取り組まなければならないことがおざなりになっています。今手がけている“エッセイ”です。これをしっかりやっていこう。それから、読書があまりできていないので、じっくりしよう。月2冊は読むようにしたい。もう一つ、CNのブログに掲載ができていないのでがんばろう。もちろん、CNの活動にも積極的に参加し自分を磨いていきたい。
本屋さんに行ったら興味深い2冊を見つけた。1冊は、「松下幸之助1日1話」、もう1冊は、「マザーテレサ 愛の花束」である。「松下幸之助1日1話」から1月1日の項を記します。
心あらたまる正月
竹にフシがなければ、ズンベラボーで、とりとめがなくて、風雪に耐えるあの強さも生まれてこないであろう。竹にはやはりフシがいるのである。同様に、流れる歳月にもやはりフシがいる。ともすれば、とりとめもなく過ぎていきがちな日々である。せめて年に1回はフシをつくって身辺を整理し、長い人生に絶える力を養いたい。
そういう意味では、お正月は意義深くて、おめでたくて、心もあらたまる。常日頃考えられないことも考えたい。無沙汰のお詫びもしてみたい。そして、新たな勇気と希望も生み出したい。すがすがしくて、さわやかで、お正月はいいものである。
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2008年明けましておめでとうございます!
2008.01.02:t-ozeki:[キャリアアップ]
「見えぬもの」(渡辺和子著)から
青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ。
見えぬものでもあるんだよ。
これは、金子みすヾの「星とたんぽぽ」という童謡の一節です。この節に続けてみすヾは、たんぽぽの茎はすがれていてもその見えない根は瓦のすき間に生きていて、春がきたらたんぽぽの花を咲かせるのだ、と謳っています。
今から70年以上前に、26歳の若さで一人の娘を残して自死した童謡詩人、金子みすヾの存在は死後50年経って世に認められ、人の心を浄化する不思議な力をもった童謡詩の数々が多くの人を魅了しています。
「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ」と、昼間の星について断言し、瓦のすき間のたんぽぽの根について語るこの童謡は、見える物ばかりに心を奪われている私たち一人ひとりに、“忘れもの”を思い出させてくれます。
* 本当にそうですね!言葉一つ一つに尊い深い意味がある素敵な詩ですね。
時々この詩を思い出して、見えぬものをじっくりみたいと思います。
2007.07.22:t-ozeki:[キャリアアップ]
「恵みに気づく習慣」(渡辺和子著)から
「恵みに気づく習慣」の章に、偶然私もしようと思っていたことと同じようなことが書いてあったので、私も早速始めました。
イタリアで一生を終えた一人の修道僧の伝記であったが、彼は1日の終わりに 床につく前に、その日の出来事の中から3つの“感謝すべきこと”を手帳に書き 記す習慣を実行したということであった。かくてその日以来、私もこの「小さな 習慣」を実行する決心を立てたのだった。しかしながら、この小さな習慣は私を 前よりも幸せにしてくれている。なぜなら、今まで当たり前と思っていたような ことが当たり前ではなくて、“有り難い”つまり、有ることが難しい、したがっ て感謝すべきことだと思えるようになったからである。一方、私たちは何と多く のことに感謝しないままで生きているかということに気づかされるようにもなっ た。
幸せを他人任せにしないために、どんな状況の中においても自分を幸せにする ためには工夫が要る。努力しないといけない。そしてそのために、「恵みを数え る」小さな習慣は立派に一役買うことができるのだ。夜、床について翌朝目覚め る保証は誰にもない。そうだとすれば、1日の終わりを感謝で締めくくること は、決して悪いことではないのだ。
「毎日3つも感謝することはない」という人もいるだろう。だから探すのだ。 “当たり前”を見直してみないといけないのだ。一つひとつの事柄の奥深くに潜 んでいる“恵み”に気づいて、それらを数えるために。
イタリアで一生を終えた一人の修道僧の伝記であったが、彼は1日の終わりに 床につく前に、その日の出来事の中から3つの“感謝すべきこと”を手帳に書き 記す習慣を実行したということであった。かくてその日以来、私もこの「小さな 習慣」を実行する決心を立てたのだった。しかしながら、この小さな習慣は私を 前よりも幸せにしてくれている。なぜなら、今まで当たり前と思っていたような ことが当たり前ではなくて、“有り難い”つまり、有ることが難しい、したがっ て感謝すべきことだと思えるようになったからである。一方、私たちは何と多く のことに感謝しないままで生きているかということに気づかされるようにもなっ た。
幸せを他人任せにしないために、どんな状況の中においても自分を幸せにする ためには工夫が要る。努力しないといけない。そしてそのために、「恵みを数え る」小さな習慣は立派に一役買うことができるのだ。夜、床について翌朝目覚め る保証は誰にもない。そうだとすれば、1日の終わりを感謝で締めくくること は、決して悪いことではないのだ。
「毎日3つも感謝することはない」という人もいるだろう。だから探すのだ。 “当たり前”を見直してみないといけないのだ。一つひとつの事柄の奥深くに潜 んでいる“恵み”に気づいて、それらを数えるために。
2007.07.20:t-ozeki:[キャリアアップ]
「領収書の信仰」(渡辺和子著)から
「領収書の信仰」という章に面白いことが書いてありました。
昔、教えていただいた一つのこと、「請求書の祈りばかりしないで、領収書の 祈りも忘れずにしなさいよ。」
請求したとおりのものをいただいた時はもちろんのこと、お願いしたのと違った ものが与えられた時にも、私たちはきちんと「領収書」をお渡ししないといけい のです。「私がお願いしたのは、欲しいものでした。でも、神さま、あなたは私 が必要としているものをくださったのですね。ありがとうございました。」と言 いながら、ハート印の領収書をポンと押して、お渡しできる自分になれたらいい なと思っています。
昔、教えていただいた一つのこと、「請求書の祈りばかりしないで、領収書の 祈りも忘れずにしなさいよ。」
請求したとおりのものをいただいた時はもちろんのこと、お願いしたのと違った ものが与えられた時にも、私たちはきちんと「領収書」をお渡ししないといけい のです。「私がお願いしたのは、欲しいものでした。でも、神さま、あなたは私 が必要としているものをくださったのですね。ありがとうございました。」と言 いながら、ハート印の領収書をポンと押して、お渡しできる自分になれたらいい なと思っています。
2007.07.19:t-ozeki:[キャリアアップ]
「運命は冷たいけれど摂理はあたたかい」(渡辺和子著)から
「忘れかけていた大切なこと」の本の中に、「運命は冷たいけれど摂理はあたたかい」という章があります。
一部抜粋してみますので、よかったら読んでみてください。
「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。私たちが祈ると神は聞 いてくださる、まるで私たちの意のままになる神のように思いがちです が、私がどう願おうと神はご自分の御心をお行いになるのです。私は「欲 しいもの」を願うけれど神は「要るもの」をくださるのです。
私は26年前、うつ病になりました。50歳で脂が乗っているとき、仕 事が面白くて仕方がないときに欲しくもない病気をいただきました。その 時、一人のカトリックのお医者様が、「シスター、運命は冷たいけれど、 摂理はあたたかいですよ」と慰めてくださったのです。その当時はその言 葉の意味がわかりませんでしたが、その後運命と摂理の違いが少しずつわ かってきました。この世の中に起こることをしょうがないこと、降って湧 いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け 取るのなら摂理として、神のはからいとして受け取る、だから「大丈夫」 ということなのです。
私の欲しかったことはそのときには実現しないかもしれない。でも、い つか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることがすべ てを摂理として受け止めるということなのです。旧約聖書のコヘレトの言 葉という章に、「何事にも時があり、天の下の出来事には全て定められた 時がある。神のなさることは全て時宜にかなって美しい。神のなさる業を 始めから終わりまで見極めることは、人には許されていない」と書かれて います。
本当にそうだと思います。神の摂理として病気をいただいたというこ と、その時はとても辛かったけれども、今となってはあの時あの病気をし てよかったと思います。病気をしたおかげで人に対して優しくなりまし た。それまで人に対して厳しくて、あの人はだらしがない、なぜもうちょ っとがんばらないんだ、などと思っていたのがそれを思わないで済むよう になりました。自分の弱さを知ったからです。
私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。 そして、そう思うことができるようになったことをありがたいと思いま す。
一部抜粋してみますので、よかったら読んでみてください。
「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。私たちが祈ると神は聞 いてくださる、まるで私たちの意のままになる神のように思いがちです が、私がどう願おうと神はご自分の御心をお行いになるのです。私は「欲 しいもの」を願うけれど神は「要るもの」をくださるのです。
私は26年前、うつ病になりました。50歳で脂が乗っているとき、仕 事が面白くて仕方がないときに欲しくもない病気をいただきました。その 時、一人のカトリックのお医者様が、「シスター、運命は冷たいけれど、 摂理はあたたかいですよ」と慰めてくださったのです。その当時はその言 葉の意味がわかりませんでしたが、その後運命と摂理の違いが少しずつわ かってきました。この世の中に起こることをしょうがないこと、降って湧 いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け 取るのなら摂理として、神のはからいとして受け取る、だから「大丈夫」 ということなのです。
私の欲しかったことはそのときには実現しないかもしれない。でも、い つか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることがすべ てを摂理として受け止めるということなのです。旧約聖書のコヘレトの言 葉という章に、「何事にも時があり、天の下の出来事には全て定められた 時がある。神のなさることは全て時宜にかなって美しい。神のなさる業を 始めから終わりまで見極めることは、人には許されていない」と書かれて います。
本当にそうだと思います。神の摂理として病気をいただいたというこ と、その時はとても辛かったけれども、今となってはあの時あの病気をし てよかったと思います。病気をしたおかげで人に対して優しくなりまし た。それまで人に対して厳しくて、あの人はだらしがない、なぜもうちょ っとがんばらないんだ、などと思っていたのがそれを思わないで済むよう になりました。自分の弱さを知ったからです。
私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。 そして、そう思うことができるようになったことをありがたいと思いま す。
2007.07.19:t-ozeki:[キャリアアップ]