おさむ茶マイルーム

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 何年ぶりだろう花火大会は…、昨夜短い夏を惜しむようにお隣の町の花火大会へ行ってまいりました(正確には、ムリヤリ家族に連れていってもらった)。画像は手ぶれで見る陰もありませんが、実際はとてもファンスタスチックでした。

 小学生の頃、この花火大会が終わると憂鬱感に襲われたものです、そう宿題です。麦藁帽子にランニングシャツ(今ならタンクトップか…)を着て、手には虫採り網、虫かごを肩からぶら下げてせみやカブトムシを追っかける毎日。ふ気がついたときは、2学期の始業式が目前に迫っていました。それからが大変、両親や兄弟を巻き込んでの突貫工事、それは年中行事でした。

 今は面影もありませんが、そんな淡い少年時代がワタクシにもあったのです。井上陽水の「少年時代」よくカラオケで歌う曲です。秋の足音が、すぐ近くまで聞こえてくる今日この頃、歌いたくなりました。

「夏が過ぎ 風あざみ
  だれの憧れにさまよう
  青空に残された 私の心は夏もよう
  夢が覚め夜の中 長い冬が
  窓を閉じて 呼びかけたままで
  夢はつまり 想い出の後先
  夏祭り 宵かがり 胸の高鳴りに合わせて
  八月は 夢花火 私の心は夏もよう」



 ブリティッシュロックといえばザ・ビートルズ、ローリングストーンズが双璧ですが、でもこのグループも忘れてはなりませぬ。「恋はワイルド・シング」のヒットで日本でもなじみのトロッグスというグループ、60年代後半の一時期小ブレークしました(笑)。その度肝を抜くような音楽スタイルとフレーズなど、忘れないグループでした。大仁田のプロレスラー時代登場テーマとして採用していたし、映画「メジャーリーグ」の挿入歌という「ハハーンあれか」と耳的にはお馴染みかと思います。
 「ワイルドシング」は、発売当時放送禁止になった記憶があり、かなり内容のヘビーな?歌詞であったとか…英語ができないのでわかりませんが。ジミーヘンドリックスもこの曲を演奏していたし、映画、メジャーリーグでチャーリーシーンのテーマ曲になっていたので、この曲が一躍有名になりましたね。 ワタクシ的には「恋はワイルド・シング」よりB面の「ウィズ・ア・ガール・ライク・ユー」が好きでしたね。
 特に「ババンバンバーン ババンバンバーン …」とバックコーラスが心地よく、ノリのいいいテンポの曲で、当時のGSがよくコピーして歌っていました。あのころ流行っていた曲は、ほかにモンキーズの「恋の終列車」ホリーズ「バス・ストップ」ウォーカー・ブラザーズの「ダンス天国」ETC…ああ〜みんな懐かしい。

 TVのCMでたまに流れる小田和正の「言葉にできない」という曲をご存知だろうか。毎回胸が締め付けられるような思いに駆られながら聴いている。明治生命のテレビ・コマーシャルに使われていた曲である。テレビでは二月に一度くらいしかオン・エアされていない“たったひとつのたからもの編”だ。 その数少ないオン・エアに対して、全国から感動の投書が1000件以上も寄せられていると聞く。 登場しているのは、埼玉県に住むご夫妻とその息子さん。息子さんは、生後一ヶ月でダウン症と判明し、約一年の余命と医者から告げられても、健気に前向きに生きていく姿に目頭がいつも熱くなる。

♪人間は一人では生きていけない
また、誰かを愛している 心、悲しくて
言葉にできない
lalala…lalala…
言葉にできない

切ない嘘をついては言い訳を飲み込んで
果たせぬ、あの頃の夢はもう消えた
誰のせいでもない
自分が小さすぎるから
それが悔しくて 言葉にできない
lalala…lalala…

言葉にできない
あなたに逢えて本当によかった
うれしくて、うれしくて 言葉にできない
lalala…lalala…


 年末年始に入ると、様々な企画TV番組も楽しみの一つですが、昨日80年代の音楽特集番組で久々に「大橋純子」の勇姿に遭遇しました。当時、日本人離れした歌唱力(特に高音部分)と音楽センスにビックラこいた記憶が残っています。今でも実力派シンガーという言葉は、彼女のような人のためにあるのではと、頑なに信じているワタクシです。
 なつかしいついでにインターネットで調べたら「元々ボサノヴァが好きだった彼女は、地元北海道の短大時代、先輩のバンドのリードヴォーカルに抜擢されR&Bに目覚め、上京後にレコード会社のオーディションに合格し'74年ソロデビューを果たした」とか…。その後、"大橋純子&美乃屋セントラルステイション"を名乗った時代もありましたね。「たそがれマイ・ラブ」が代表ヒット曲ですが、ワタクシ的には、結婚式で今もよく歌われる「シルエット・ロマンス」が大好きです。

寺内タケシ、日本を代表するインスツルメンタルプレーヤーというよりエレキの神様と表現した方が正しいだろう。60年代のポップス創生期からから現在も第一線で活躍中というからスゴイ!
5歳の時からギターを手にし、9歳でエレキギターを製作。中学時代にバンド活動を開始したというから、エレキの申し子と言っても過言ではない。寺内タケシを生で初めて聴いたのは高校3年のころ、第1期ブルージーンズの時代だ。当時は、ベンチャーズが日本の若者をとりこにし、ネコも杓子エレキにシビレていた時代で、コンサートはもちろんご法度、エレキは不良のやるものといわれた時代だから…。監視の目をかいくぐって山形県民会館に行った記憶が残っている。
初めて目の当たりにするギターテクニックはパワフルでダイナミック、腰を抜かしそうになったものである。ベンチャーズ全盛時代にあって、逸早く「津軽じょんがら節」などの民謡や「運命」などのクラッシックの新しいジャンルに取り組む先進性は寺内たる所以である。
加山雄三主演「エレキの若大将」にも出ていましたが、始まった瞬間のタイトルバックから、エレキの音とそのカッコ良さに一遍でシビれてしまい、2回も見たことも鮮明に覚えています。
 2回目が1966年、当時はGSブームでブルージーンズを解散して、ボーカル主体のバニーズに衣替えした時代です。ボーカルが入ると演奏と相殺されて、魅力が半減したような思い出が残っています。
そして3回目が、10年前でなんと寒河江のビアパーティコンサートでした。30年前と変わらぬパワフルさに頭が真っ白になり感動したものです。「人に歴史在り」といいますが、まさにそのとおりだと思います。神様は不滅、4回目のコンサートを楽しみにしているところです。

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「昭和は遠くなりにけり」そんな思いを強くする昨今ですが、先日上京の折オールディズ専門のライブハウスに行ってまいりました。70年代の音楽を聞きながら、昭和のよき若きあのころにタイムスリップしてきました、そしてツイスト&ジルバなんか踊っちゃったりして…長生きはするもんです。

 「卒業」、小学校、中学校、高校、そして大学と、人それぞれに節目の卒業が思い出されると思いますが…ワタクシもあと数年で、職場人生を卒業する年代となりました(涙)。
 尾崎豊が昭和60年、20歳になる年に歌った「卒業」は、ワタクシが37歳、ちょうど子供が多感な時期の曲でしたが、よくCDを拝借して聞いたものです。世代は違えども、なぜか尾崎の感性がフィットし、気分が昂じると年甲斐もなくカラオケで歌ったものです。彼の曲は、当時の若者の心を代弁しているかのようで、年代を超えてワタクシもこの「卒業」が大好きでした。
 同時期、斉藤由貴も「卒業」をリリースしていますが、尾崎の「卒業」は単なる卒業ではなく、大人への卒業を歌っているというか、これまでの自分自身を卒業しようとして、サビの部分で「この支配からの卒業 たたかいからの卒業…」と唄っていましたが、尾崎は本当の卒業しきれずに人生まで途中で辞めてしまいました、高校を中退したように・・・。見かけは大人のようでしたが、そんな自分に戸惑っていたのでしょう。そして、卒業しきれずに、尾崎はどうしたら卒業出来るのか悩んでいたと思います。
 私も自分自身、考え直すことがあります、いつもこれでいいのだろうかと…。
でも、最近の若者はそんなことを考えることすらない人が増えています。子供のままだということに気付いてもいない人もいます。私も偉そうなことは言えませんが、若い人にはもっと悩んで欲しい、考えて欲しい、自分自身を見つめなおして欲しいと思う今日この頃です。

「♪あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるだろう…この支配からの卒業 たたかいからの卒業」今でも、この年になっても、本当の自分にはたどりついてないんだろうなあ。お酒が入ってカラオケするときは、年甲斐もなく、今でも歌います。シャウトします、声が出なくてでも(笑)


If you’re going to San Francisco 
Be sure to wear some flowers in your hair
If you’re going to San Francisco

なつかしいですな〜60年代の音楽ですよ。スコット・マッケンジーの『花のサンフランシスコ』当時流行ったハッピーじゃない、ヒッピーの象徴的な曲でしたね。若者はみんなロングヘアーにベルボトムのジーンズで固め、泥沼化するベトナム戦争への平和運動や既存の社会への抵抗として,平和と愛を求めて定職に付かず自由放漫な暮らしをするのを良しとしたヒッピーの賛歌がこの曲でした。 
 他にママス・アンド・パパスの『夢のカリフォルニア』なんていうのもありました。たまにラジオから流れ出すと、オヤジにはたまらなくなるのです。当時ロン毛だった元ヒッピーも、今はすっかり後頭部まで天然そりこみ入ってるかと思うと、時代の流れを感じます。

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 まったくのガキオヤジである。天真爛漫でありながら繊細な、永遠のガキ大将である。30年以上昔になるが、オールナイト・ニッポンでアルバム“たくろう・オン・ステージ”「ともだち」を聞いた。当時の時代の息吹をよく表しています。そして伝説の、中津川フォーク・ジャンボリーでの「人間なんて」で岡林信康に替わりフォーク界の頂点に立つのだが、フォークからは次第に離れ、「結婚しようよ」のヒットからはメジャーになってしまい、岡林と共に裏切り者呼ばわりをされました。
私はといえば、フォークのたくろうの凄さを知っているだけに、その後の彼を評価する気になれませんでした。

 売れてからの彼は、以前のプロテストソング的なものは消えてしまい、気楽で陽気でいい加減なあんちゃんそのものですが、それが憎めないのは天性だからでしょうか?団塊の世代が老い込んでいく中で、相変わらずとっちゃん坊やのままです。今は若いミュージシャンの兄貴分におさまっているようです。長嶋茂雄が昭和一ケタの希望の星だったとするなら、たくろうは団塊の世代のヒーローです。
 いつまでも輝いていて欲しいものです。


 年月を経ても心に残るシンガーって、だれしも2〜3人はいませんか?そんな1人が盲目のシンガー、ホセ・フェリシアーノ。日本では、さしずめ因幡晃か長谷川きよしといったところかな?声は山崎まさよしも少し似てるかな?伸びやかな歌声が印象的で「ハートに火をつけて」は珠玉の名曲でした。そう思ってるのはオレだけかw。
 ホセ・フェリシアーノを初めて聞いたのは24歳のとき、友達から借りた8トラックのテープをカーステレオで毎日のように聴いたものです。(そうなんです、当時はカセットでもCDでもない8トラックのテープですよ)。ラテン風にアレンジされたBeatlesのナンバーやママ&パパの「夢のカリフォルニア」など、収録曲のほとんどがカバー曲だったけど、どれもがとっても心地よく、飽きることなく聴いたものです。原曲とは全く印象が異なるが、ヒスパニック系のやるせなさが心を包んで、なぜだかメランコリック気持ちになったものでした。

 ホセは、プエルトリコ生まれ、盲目のアーティストといえば、レイ・チャールズや、スティービー・ワンダーを思い浮かびますが、盲目特有の鋭い音感を小さい頃から持っていたに違いないし、なによりラテンの血が彼の音楽性を決定づけたに違いない。ナンバーで一番好きな曲は「ハートに火をつけて」。あのDoorsの大ヒット曲だが、生ギター中心のホセは、原曲をぶったぎるほどにソフトにまるで別曲のように仕上げた。それから、Beatlesの「アンド・アイラブ・ハー」のインストゥルメンタルも、なんかしみじみしてしまうナンバーになっていました。
ほとんどの曲にギターソロが入っており、どのソロも「これでもか!」っちゅうくらい弾きまくっており、それも魅力でした。
 もう一度聴きたいと思うのですが、8トラックのテープもカーステレオもなくなったしな…青春の思い出として胸にしまっておくかー。




 2001(H.13)年、歌手の森山良子さんが、若くして他界した兄を思って書いた詩に、BEGINが曲を付けたものだそうですが、夏川りみが歌ってヒット曲となりました。TV番組で語っていたのですが、森山良子さんが母から「いつまでも、愛だの恋だのばっかり歌ってる場合でもないじゃないの」と言われ作った曲だそうで、30分で書き上げたそうです。BEGINも歌っていますが、三人三様別の曲のように聞こえるから不思議です。
“涙(なだ)そうそう”とは、沖縄の方言で「涙がとめどなく流れる、涙ポロポロ」の意味だそうです。その名のとおり、心に染みわたり聞くたびにウルウルきます。

 古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
  いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ
  晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
  想い出遠くあせても
  おもかげ探して よみがえる日は 涙(ナダ)そうそう

  一番星に祈る それが私のくせになり
  夕暮れに見上げる空 心いっぱいあなた探す
  悲しみにも 喜びにも 想うあの笑顔
  あなたの場所から私が
  見えたら きっといつか 会えると信じ 生きてゆく


 テレビの思い出の青春の一曲とかいうリクエスト特別番組があると、必ず登場するのがイルカの「なごり雪」だ。5年前くらいだろうかコンサートに行ったのは…イルカが「私おばあちゃんよ、かわいいおばあちゃんでしょう」にビックリしたものでした。たいていのフォークファンの人はこの歌を結構、評価しているようですね。マイナー系の人でも、「なごり雪だけは許せるわ」と言い、万人が認める名曲の部類に入り、フォークをメジャーにした一人として大きく評価したい。
しかし、フォークの歴史の中では、あまり大きくクローズアップされていないし、評価もされていない。確かに、メジャーっぽいような音楽活動ではあったし、「海岸通り」「雨の物語」など自作の曲でないヒット曲が多く、フォークっぽくないようなイメージがイルカさんにはあったように思う。しかし、イルカさんは立派なフォークブームの立役者だったはずだ。
 その摩訶不思議さが、イルカさんの底知れぬ魅力であり、実力であったと思う。
歌声の魅力が大きいのかな?「あの頃の僕は若すぎ〜て〜、君の気まぐれを許せ〜なかった・・・」ズキーンと心に入ってくる。うまい歌の人っていくらでもいる。でも、魂を揺らす歌声の持ち主って、そういない。現にプロの人の中でも、少ないように思う。イルカさんは、数少ない、その内の一人であることは間違いない。「いつか冷たい雨が」なんて、全身が震えた記憶がある。「私が土になったら、お花たちよ、そこから咲いてください!」っていうフレーズはまさしくフォークの歴史に残る一節だと思う。


「♪とお〜い世界に、旅に出ようか〜それとも赤い風船に乗って、雲の上を 歩いてみようか」この曲が世に出たのは1969年だそうですが、自分が聴いたのはチェリッシュのカバーで大分後からでした。ですから、てっきり暫らくはチェリッシュの曲とばかり思ってましたが五つの赤い風船だったんですね、西岡たかしさんごめんなさい。
 
 自分も、うたごえサークルみたいなところでよく歌ったものです。ちょっと落ち込みかげんな時は、「明日もがんばろう」と勇気もらったものです。今でも元気をもらえる合唱曲といえば、やっぱり「遠い世界に」しかない!!!「明日の〜世界を〜〜〜探しに行こう〜〜」って、みたいな。
西岡たかしといえば、最近までNHK・BSの「フォーク番組」の準レギュラーでしたが、亡くなったそうですね…合掌!それでは、偉大なる西岡たかしさんのギターとともに合掌ちゃうちゃう合唱しましょうか?じゃ〜3番までお願いしま〜す。

(1)遠い世界に 旅に出ようか
  それとも赤い風船に乗って
  雲の上を 歩いてみようか
  太陽の光で 虹を作った
  お空の風を もらって帰って
  暗い霧を 吹き飛ばしたい

(2) 僕等の住んでる この街にも
  明るい太陽 顔を見せても
  心の中は いつも悲しい
  力を合わせて 生きることさえ
  今ではみんな 忘れてしまった
  だけど僕達 若者が居る

(3) 雲に隠れた 小さな星は
  これが日本だ 私の国だ
  若い力を 身体(カラダ)で感じて
  みんなで歩こう 長い道だが
  一つの道を 力の限り
  明日の世界を 探しに行こう



 夏といえば、やっぱTUBEかサザンですね。サザンといえば3年前、桑田ケースケの6大ドームファイナルコンサートの福岡ドームへ行ったとです。たまたま福岡に小旅行の日、桑田コンサートあるのを知って、ネットオークションでチやっとケットをゲット!して行ったとです。
 それは興奮の3時間、立ちっ放し(あっちじゃなくって席をです、何を言わすねんw)、手拍子打ちっぱなし、エキサイティングな空間、いい思い出なったとです。ただ、サザンのコンサートではなかったためか、イマイチ知ってる曲が少ないのが残念でした。
 そのときのチケットがこれ、まだ記念に持ってるとです。